「乙巳の変」のその時 2013/ 1/31 12:36

 

 

 

「大化の改新」の発端となる事件であり、『日本書紀』に記述される「乙巳の変(645年)」(皇極四年六月八日)のその時の文には、緊迫感が漂いますが、はたして、正確に理解されているのだろうかと言う疑問があります。「漢文の読み下し」まではよいとしても、その解釈には、おかしいと思えるものもあり、現代語訳に至って、それが鮮明となります。以下に誤訳の一例と原文を載せます。
(番号は私が付けました)

 *上段が訳文(「宇治谷孟訳『日本書紀(下)』(1988年・講談社学術文庫))
①入鹿は御座の下に転落し、頭をふって、「日嗣の位においでになるは天子である。私にいったい何の罪があるのか、そのわけを言え」といった。
(原文):入鹿轉就御座、叩頭曰、「當居嗣位、天之子也。臣不知罪。乞垂審察。」


②天皇は大いに驚き中大兄に、「これはいったい何事が起こったのか」といわれた。

 (原文):天皇大驚詔中大兄曰、「不知所作。有何事耶。」

③中大兄は平伏して奏上し、「鞍作(入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」といった。

 (原文):中大兄伏地奏曰、「鞍作盡滅天宗。將傾日位。豈以天孫代鞍作耶。」

一見して宇治谷氏の現代語訳は、原文にそっていない部分が多く、訳者の思いこみに流されている。あらためて、愚案でありますが、ここに、『家伝』等を援用して、原文にそった訳注を試みたいと思います。
 

*「乙巳の変」の援用史料 

 「乙巳の変」の当該記事については、『日本書紀』と『家伝』は、ほぼ同文がのります。これはどちらかがどちらかを参照したと言うより、両書とも情報源を同じくすると思えます。『家伝』の記事には、『日本書紀』より詳細な情報があり、また『日本書紀』にない「白鳳」の年号を使用している事からもこれは明らかでしょう。
 現存する『家伝』は、その上巻の巻首に「大師」(太政大臣の唐名)と署名があり、これは藤原仲麻呂と推定され、これにより成立年は、天平宝字四年(760)以降とされる。しかし、彼も「乙巳の変」の生き証人でありませんので、あの緊迫した文の情報源は他にあると思えます。
『本朝書籍目録』「伝記」の条に、「藤氏伝記 一結」とあり、別に「大職(織)冠 一巻」など単行書としてあります。さらに『家伝上』の巻末に、「今在別巻。有二子貞恵史。倶別有伝」と、あることからもそれがうかがえます。
 大宝令の職員令式部省の職務に「功臣家伝」とあり、その義解に「謂、有功之家、進其家伝」とあります。鎌足は当時の朝廷で第一の功労者であり、恐らくこの当時に初期の「家伝」が編纂されたであろうと推測いたします。
 以上により、『日本書紀』の当該文を解釈する上で、『家伝』は重要な援用史料と言えましょう。

 

「乙巳の変」のその時①

 <原文>

入鹿轉就御座、叩頭曰、「當居嗣位、天之子也。臣不知罪。乞垂審察」。

  

<愚見訳文>

 入鹿、転びながら天皇の座のもとにつき、(中大兄に対して)頭を下げ、「まさに、あとつぎの位にまします(古人大兄)のは、天皇の子(みこ)なり。

 臣は罪を犯さず。

 (天皇に向かって)「なにごとも明らかにされますことを」といった。

 

<語釈>

 【轉就御座】:宇治谷氏は「入鹿は御座の下に転落し」と訳すが、原文に「転落」の意味はない。この前に「傷其一脚」とあり、入鹿は片足を切られているので、転がるようにして天皇の座のもとについたのであろう。 「就御座」とは、「天皇の御座につく」と言うことですが、これを井上光貞氏の訳文『日本書紀』(昭和六十二年・中央公論社)で、「天皇の御座にすがりつき」と訳していますが、「就」とは「就、因也」(爾雅)、「就、従也」(玉編)であり、井上氏の「すがりつく」より、「天皇の御座に身を寄せて、安全を確保しながら・・・」と解釈した方が原文の文意に近い。

【叩頭】:「叩頭」とは「叩、叩頭」(廣韻)、「叩、以手至首」(集韻)で、立礼でなく座礼であり、倭語で「のむ」、「ぬかづく」。俗に「土下座」。

 宇治谷氏や井上氏の訳文「頭をふって」では、頭を縦に振ったのか、横に振ったのかその状態が不十分である。また入鹿が乱入者に土下座したと言うことは、乱入者が「中大兄」であり、その理由も認識したうえでの行為と言える。

 「中大兄」の皇太子位は、皇極が即位した時点で消滅しており、恐らくこの時点での「中大兄」に対する世の評価はたいした事はなかった。むしろ上宮王等の山背大兄王をないがしろにした批判の方が、強かったと思える。また上宮王等を襲撃し、一族を自死に追い込み、その後、「古人大兄」を皇太子位に付けたことにより、ひとり入鹿に対する世の批判は、より強くなっていたと言える。これは、本人も自覚していたことが、周辺の警部を強めた記述からもうかがえる。

 『日本書紀』でも事件後に、

 「此即上宮王等性順、都無有罪、而爲入鹿見害。雖不自報。天使人誅之兆也。」と言い、

 『家伝』には、「人々喜躍、皆称萬歳・・・大臣曰、是依聖徳、非臣之功。」と言う。

 これは入鹿に天罰が下ったことを世人が喜ぶ記述であるが、上宮王等(聖徳太子一族)を襲撃し、自死に追い込んだ入鹿に対する反感が、いかに強かったかの表れであろう。

 【居嗣位】:「嗣位」だけなら「(王)位を嗣ぐ」だが、この直前に「居」があり、これが述語となると意味が異なる。「嗣位」は体言句となり、意味は「あとつぎの位」か。「嗣」は、諸橋大漢和辞典に「あとつぎ」、「主人将為後者」(儀礼_注)。「位」は「位、朝位也」(禮記・燕義_注)で、公式の場の位置を示す。その時の当日「天皇御大極殿、古人大兄侍焉。」とあり、これが古人大兄の太子としての記録上の公式デビューにあたるか。

【天之子】:これを「天神の子」と広義の意味に取れば、臣下の多くも天神の子孫であり、文をなさない。「天」とは「天、君也」(爾雅_釋詁)、「天、謂王者。」(孟子_注)。これによって「天子、天皇の子」と狭義の意味にとる。具体的には、皇極天皇は「天皇の子」でないので、「古人大兄」を指す。

 『家伝』には「當居嗣位、天之子也。」の語句は無い。岩波版の『日本書紀』の当該頭注に「この方が自然。」と言うが、この文言が無ければ「臣不知罪」の「罪」が何に対してなのか不明となる。この「罪」は、皇極二年十月条の「廃上宮王等、而立古人大兄」に対応するものであろう。

 最後に、入鹿の発言が「誰に」向かって発せられたかでありますが、「當居嗣位、天之子也。臣不知罪。」までは、乱入した「中大兄」に対してであり、あとの「乞垂審察」は、「乞垂・・・」の用語使いから天皇に対してではないかと推測します。

 

<余談>

古代ヨーロッパの共通語はラテン語と聞きますが、東アジアでは「漢語、漢文」です。古代史を探究するには、原文の読解が必要であり、当時の「漢語、漢文」の理解が重要となります。最近の一般向けの史論は、原文を載せず、他人の「読み下し文」だけですますものを散見しますが、これは子供むけであり、一般人を馬鹿にした所作と言えましょう。

  

「乙巳の変」のその時② 

 <原文>
天皇大驚詔中大兄曰、「不知所作。有何事耶」。

<愚見訳文>
天皇、大いに驚き、中大兄に、みことのりして、「何をする! 何事か!」と言った。
 
ここに、「語注」の必要性は感じませんが、岩波版の読み下し文を参考に載せます。
「天皇大きに驚きて、中大兄にみことのりしてのたまわく、知らず、するところ、何事ありつるや。」

  

「乙巳の変」のその時③

 <原文>

中大兄伏地奏曰、「鞍作盡滅天宗、將傾日位。豈以天孫代鞍作耶」。

  

<愚見訳文>

 中大兄(殿下に降り)地に伏して、天皇に意見を申し上げ、「鞍作は、上宮太子(聖徳太子)の王等をことごとく滅ぼし、まさに国家を危うくしようとしています。

なぜ(天皇は)入鹿に山背大兄王達への殺害を許されたのか!」といった。

  

<語注>

 【伏地】「地に伏す」で、中大兄は殿中に乱入したが、天皇の一喝で、殿下にいったん降りた。

 【天宗】ここの「天」は<語釈-①>と同様に狭義の意味で天子、天皇。「宗」は「同祖為宗也。」(左伝_昭公三年・注)で「一族」。よって天皇を祖とする一族。具体的には入鹿が滅ぼした上宮太子(聖徳太子)の一族を指す。井上光貞氏の訳文は「皇族を滅ぼしつくし、皇位を絶とうとしています」とするが、こうなると誤訳に近い。入鹿が滅ぼしたのは上宮太子の一族(山背大兄王等)だけである。

 【日位】天皇。即ち国家。「律」に「一日、謀反。謂、謀危国家。・・・不敢指斥尊号。故託云国家。」(八虐)

 【天孫】これも狭義の意味で、天子、天皇の孫。具体的には、用明天皇の孫に当たる山背大兄王等を指す。宇治谷氏の訳では「鞍作をもって天子に代えられましょうか」と「天子」と言うが、当該文の時制は現在であり、これは明らかな誤訳である。また入鹿の目的は、「皇極二年十月条」に「蘇我臣入鹿獨謀、将廃上宮王等、而立古人大兄、為天皇。」とあるによれば、山背大兄王を滅ぼして、古人大兄を皇太子にし、彼を次の皇位につけることである。

 【豈以天孫代鞍作耶】読み下し的には「あに、天孫(山背大兄王達)をもって入鹿にかえんや」。

 構文的には「以【A】代(易)【B】」で、「A」と「B」の交換を表す。主に【A】が「大」、「貴」などで、【B】が「小」、「賤」などに対応する。例文としては、「秦王使人謂安陵君曰、寡人欲以五百里之地易安陵(五十里)・・・安陵君曰、大王加惠、以大易小、甚善。雖然・・・」(戦国策・魏策)。今回の当該文は「豈」がついて反問となり、交換を非難する文となる。反問の文例は、「鄭人・・・納賂于宋・・・豈其以千乗之相易淫楽之矇」(左伝・襄公十五年)。この場合は、「諸侯の国相」と「一介の楽官」との交換を指し、その愚かさを非難する文となる。交換する主体は、『戦国策』では「秦王」で、『左伝』では「宋侯」。

 そして当該文の主体は皇極天皇。文意は、「山背大兄王等を滅ぼしたその入鹿を重用している」皇極天皇を諫めることである。

 鎌倉時代の『多武峯縁起』(群書類従本)[別名:『大織冠伝』<柳原家資料>]にも「・・・豈以天孫代鞍作乎。意指山背大兄王達也」と記し、同様の指摘を注釈する。
『家伝』には、「皇后臨朝、心不安・・・遂誅山背大兄於斑鳩之寺」とあり、皇極天皇が主犯もしくは共犯であることを示す。

  

<余談>

「皇極天皇の退位理由」について

 不可解であった皇極天皇の退位もこれで明確になります。

 彼女は、聖徳太子一族襲撃の主犯、もしくは共犯と言うことでしょう。

  

「天智天皇の称制」について

 これについても色々な説がありますが、『日本書紀』本文には、称制の理由が明記されています。そこには「素服称制」(天智天皇即位前紀)とあります。

 「喪」について『荀子』「禮論編」に、「喪禮者、以生者飾死者也・・・故如死如生。如存如亡。」とありますように、彼の素服称制は、母帝が亡くなっても「生きているが如く」扱った喪礼によるものと言えます(称制とは、皇帝の代理)。母帝への恋慕の情で、喪に服するのは親孝行と言えますが、それが六年に及べば尋常ではありません。つまり俗語のマザコンの誹りを受けても詮方ないか。
天智の亡き母帝を偲ぶ歌に、
「君が目の 恋しきからに はててゐて かくや恋ひなも 君が目を欲り」

 (歌の主旨は、母から注目されることを強く求めたものと思えます。)
とありますが、三十過ぎの男のこの「母の目」を歌う母恋歌も今ならマザコン歌と言えましょうか。

 

以上