元興寺丈六仏光背銘私考 2011/ 6/ 2

 <はじめに>

 

「元興寺丈六仏」は、推古天皇の時代に造られた銅造釈迦如来坐像で、元興寺(別名飛鳥寺、法興寺など)の本尊。大半は失われ、現在、飛鳥大仏の通称で知られる安居院にある仏像は、大部分が後の修復と言う。この仏像の光背部分の裏に刻まれた造蔵銘が「元興寺丈六仏銘」であるが、これは全く現存しないと言う。しかし「元興寺」の縁起を記した『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にその光背銘の全文が記載される。今回、この銘の読解を試みたい。

 

 

 

銘文の文字数

 

「縁起」に載る銘文は、全部で369文字であるが、これを仮に一行19文字で揃えてみると、次のようになる。

 注)銘文の活字テキストには、諸本に文字の異同が多少あるが、ここでは、田中卓氏の『元興寺伽藍縁起并流記資財帳の校訂と和訓』(田中卓著作集10・国書刊行会)の校訂テキストを参考とした。

 

天皇名廣庭在斯歸斯麻宮時百濟明王上啓臣

聞所謂佛法既是世間無上法天皇亦應修行

擎奉佛像經教法師天皇詔巷哥名伊奈米大臣

修行茲法故佛法始建大倭廣庭天皇子多知

波奈土與比天皇在夷波禮辺宮任性廣慈信

重三寶棄魔眼紹興佛法而妹公主名止與

擧哥斯岐移比天皇在櫻井等由羅宮追盛

辺天皇志亦重三寶理指命辺天皇

名等與刀々大王及巷哥伊奈米大臣子名

有間子大臣聞道諸王子教緇素而百濟惠聰法

師高麗惠慈法師巷哥有間子大臣長子名善德

爲領以建元興寺十三年歳次乙丑四月八日戊

辰以銅二萬三千斤金七百五十九兩敬造尺迦

丈六像銅繍二躯并挾侍高麗大興王方睦大倭

尊重三寳遙以隨喜黄金三百廿兩助成大福同

心結縁願以茲福力登遐諸皇遍及含識有信心

不絶面奉諸佛共登菩提岸速成正覺歳次戊

辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清使副尚書祠

部主事遍光高等來奉明年己巳四月八日甲

辰畢竟坐於元興寺
 

 最後に、一行8文字の中途半端な行ができる。しかし、銘文の中に「」字が8文字(赤字)あり、これを書写時の衍字として除けば、(「」字は補読用の文字が本文に紛れ込んだか。)
 
 

 天皇名廣庭在斯歸斯麻宮時百濟明王上啓臣
 聞所謂佛法既是世間無上法天皇亦應修行擎
 奉佛像經教法師天皇詔巷哥名伊奈米大臣修
 行茲法故佛法始建大倭廣庭天皇子多知波奈
 土與比天皇在夷波禮辺宮任性廣慈信重三
 寶棄魔眼紹興佛法而妹公主名止與擧哥
 斯岐移比天皇在櫻井等由羅宮追盛辺天
 皇志亦重三寶理指命辺天皇子名等與刀
 々大王及巷哥伊奈米大臣子名有間子大臣聞
 道諸王子教緇素而百濟惠聰法師高麗惠慈法
 師巷哥有間子大臣長子名善德爲領以建元興
 寺十三年歳次乙丑四月八日戊辰以銅二萬三
 千斤金七百五十九兩敬造尺迦丈六像銅繍二
 躯并挾侍高麗大興王方睦大倭尊重三寳遙以
 隨喜黄金三百廿兩助成大福同心結縁願以茲
 福力登遐諸皇遍及含識有信心不絶面奉諸佛
 共登菩提岸速成正覺歳次戊辰大隨國使主鴻

 艫寺掌客裴世清使副尚書祠部主事遍光高等
 來奉明年己巳四月八日甲辰畢竟坐於元興寺

と、19行19段(361文字)となり、法隆寺釈迦像(国宝)光背銘の14行14段(196文字)と同じく正方形となる。
 

 

銘文の段落分けと読み

 

次に銘文をその内容によって、個人的に段落に分け、その読みを<私見>に試みる。

1<仏教流伝>
天皇名廣庭在斯歸斯麻宮時

百濟明王上啓

臣聞所謂佛法既是世間無上法

天皇亦應修行擎奉佛像經教法師

皇詔巷哥名伊奈米大臣修行茲法

故佛法始建大倭

 

<私見>
天皇の名は廣庭(欽明)、斯歸斯麻の宮にいます時、
百濟(聖)明王が上啓して、
臣は、所謂佛法は、既に、是、世間で無上の法と聞きます。
天皇もまた修行され、佛像、經教、法師を擎奉(ケイホウ)すべし」と。
天皇、詔して、巷哥(蘇我)の名は伊奈米(稲目)の大臣に、この法を修行さす。
故に、佛法が始めてヤマトにたつ。
  注)今回の読みは、学校漢文読みや歴史的仮名遣いにそわない。以下同じ。

 

 2)<天皇の功績>
廣庭天皇子多知波奈土與比天皇

在夷波禮辺宮

任性廣慈信重三寶

棄魔眼紹興佛法

而妹公主名止與擧哥斯岐移比天皇

在櫻井等由羅宮追盛辺天皇志亦重三寶理

指命辺天皇子名等與刀々大王

及巷哥伊奈米大臣子名有間子大臣

聞道諸王子教緇素

 

<私見>

廣庭天皇の子の多知波奈土與比の天皇(用明天皇)、夷波禮(磐余)の辺(いけべ)の宮にましまして、性の廣慈なるにまかせて、三寶を信重し、魔眼を棄(エンキ)して、佛法を紹興す。
そして、妹の公主の名は止與擧哥斯岐移比天皇(推古天皇)櫻井等由羅の宮にましまして、の天皇(用明天皇)の志を追盛して、また三寶の理をおもんずる。
の天皇の子の名は等與刀々大王(聖徳太子)及び巷哥(蘇我)の伊奈米(稲目)の大臣の子の名は有間子(馬子)の大臣を指命して、道(仏道)を諸王子に聞かしめ、緇素(シソ)を教えしむ。
  注)【棄】「すてさる」。【緇素】「僧と、仏門にはいっていない世俗の人」。(藤堂漢和辞典)
 

3)<元興寺建立>
而百濟惠聰法師高麗惠慈法師

巷哥有間子大臣長子名善德

爲領以建元興寺

 

私見>
そして、百濟の惠聰法師、高麗の惠慈法師と巷哥の有間子の大臣の長子、名は善德(蝦夷?)を、
かしらとし、もって元興寺を建てる。

4<造丈六仏の着手>
十三年歳次乙丑四月八日戊辰

以銅二萬三千斤金七百五十九

兩敬造尺迦丈六像

銅繍二躯并挾侍

 

<私見>
(推古)十三年、歳(ほし)乙丑にやどる四月八日戊辰(釈迦生誕日)に、銅二萬三千斤、金七百五十九兩をもって、ふたつの釈迦丈六像を敬い造ること、銅と繍(画像)の二躯。ならびに挾侍。
注)元興寺の金堂は、発掘の結果、一院三棟とのことですので、の時の像銅と画像の二体と本来の本尊と合わせて三体に合致するか。またこの本来の本尊は、元興寺創建当時朝鮮半島から派遣された職人に「画工」はいるが、「仏師」がいないことから、画像の丈六仏と思える。さらに、「四月八日」は、中国暦に於ける釈迦の生誕日である。釈迦生誕日をこの事業の開始と完成とすることから作業工程の計画性がうかがえる。

 

5)<仏縁①>
高麗大興王方睦大倭尊重三寳

遙以隨喜黄金三百廿兩

助成大福同心結縁

 

<私見>
高句麗の大興王、まさにヤマトの三寳を尊重することに睦(ボク)し、
遙にあっても、隨喜して、黄金三百廿兩をもって、
大福を助成し、同心にて縁(仏縁)を結ぶ。

 

6)<願文>
願以茲福力

登遐諸皇遍及含識

有信心不絶面奉諸佛
共登菩提岸速成正覺

 

<私見>
願いは、この福力をもって、
登遐された諸皇から含識(衆生)にまで遍く及び、
(我ら)信心をたもち、たえず諸佛を面奉し、
菩提の岸(彼岸)に登れば、すみやかに正覺をなす事を共にせむこと。

7<仏縁②>
歳次戊辰

大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清

使副尚書祠部主事遍光高等來奉

 

<私見>
歳、戊辰(推古十六年)に、やどるとき、
大隨國の使の主の鴻艫寺掌客の裴世清と
使の副の尚書祠部主事の遍光高らが來奉した。

注)「奉」を倭訓ならば「まつらふ」の「帰順」だが、ここは、外国(隋)からもこの仏縁によって使者が来朝し、朝廷に帰順を示したと言うことであり、恐らく外国に対する当時の驕り(外交音痴?)が反映されたものであろう。
 

8)<結語>
明年己巳四月八日甲辰

畢竟坐於元興寺

 

<私見>
明年己巳(推古十七年)の四月八日甲辰(釈迦生誕日)に、ことごとく終わらせ、元興寺にませしむ。

 

『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』について

 「元興寺丈六仏銘」を収録するこの縁起は、その奥書に「牒、以去天平十八年十月十四日、被僧綱所牒・・・謹以牒上 天平十九年二月十一日」とあり、同時期の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』と並ぶ貴重な史料文献である。色々と疑義もあるが、「法隆寺」のものと違い、推古朝当時の雰囲気を伝える文体でもある。

 活字化されたものには、田中卓氏の校訂本の他に岩波書店の日本思想大系本『寺社縁起』や竹内理三編修の『寧楽遺文・中巻』、『大日本佛教全書(寺誌叢書第二)』などがある。これらの底本は、醍醐寺本「寺社縁起集」に収録されているものと言う。

 

 

 

『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の「生年一百」について 

 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の冒頭に

「等與彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百、歳(ほし)次(やどる)癸酉、正月九日」

とあり、等與彌氣賀斯岐夜比賣命(推古天皇)が「生年一百」と記されるが、他の史料では、「癸酉年」は推古天皇の60歳に当たるという。また「生年」とは、『史記』「屈原賈生列傳・賈誼本傳」に「時、賈、生年二十餘、最為少。」とあるように、その時の年齢でもあり、亡くなったときの年齢ではない。ではこの時、彼女は100歳なの60歳なのか。

 当時の紀年法は、干支年で、この干支年は60年を一巡として一に変える一種の60進数である。だから一巡で桁が一つ上がり、「100位」となったと考えれば、60歳を「100」又は「100位」と言っても、100歳と言わなければ特に問題は無いと思う。本文中にも次のような文言がある。

「今我等天朝生年之數算、達於當百位」

ここには「百位」と記される。

 ちなみに、岩波書店「日本思想大系」本では、この文を「今我等が天朝(みかど)の生年の数算、まさに百の位に達り・・」と読み下していますが、これでは少し意味が通じない。一番の問題は、「生年の数算」としているところで、「数算」を連語として扱っていますが、これは、恐らく「算を数えれば」と言う意味であり、「算」とは、「算木」であろう。「算木」は今の「そろばん」にあたる古代の計算の道具である。(竹で作った棒を「算木」として使い、その本数を数える。古代中国官僚の必携品。)「算木」による「加減算」は、二進数でも六進数でも十進数でも六十進数でも計算は容易にできる。よって私見の読みは、「今我らが天朝の生年の算(木)を数えれば、(算木が)當たること百の位に達す。」となる。

 

 

 

『日本書紀』との関係

  『日本書紀』と内容的に異なる点もあるが、『日本書紀』が世に流布し始める前の弘仁年間(9世紀)以前につくられた史料文献は、「書紀」と異なる点が多い。特に記事紀年の暦日に関しては、『日本書紀』は長暦による後付であり(詳細については、内田正男著『日本書紀暦日原典』を参照されたし。)、当時の有力史料や金石文等のそこに記される暦日が優先されると言う。

 また内容的にも「史書」は、多くの情報源から取捨選択して編纂されるので、ここから漏れた情報や、「書紀」自体も異説を併載しているように、当時も他に異なる伝聞、伝記が多くあったであろう。文字使用は、『隋書』で「無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。」と言うように、主に仏教移入から始まり、一般化するのは律令体制以降であろう。それ以前は口伝が主流であると言える。情報とは文字化されて固定化される。口伝の場合では、伝える人々や各時代の価値観に影響され変質する可能性が予想される。さらに、記述する立場によっても事実認識が異なる。同じ事実なら立場の異なった史料があってはじめて対象を立体的に把握することが可能となる。

 

<余談>

 そもそも古代には現存する史料自体が少ない。このため一面的になりやすく、知り得る範囲も限度がある。これは時代の性質上致し方ないことであると思う。この資料不足を各人の安易な空想で補えば、それは事実から遠く離れ、人それぞれの主観的仮想古代でしかない。まさに十人十色となり収拾がつかなくなる。事実認定とは証言や物証などの証拠にもとづくものである。証言とは史料であり、物証とは遺物である。しかし「物」は多くを語らず、生き証人のいない遠い過去を語るのは主に「史料」となる。

 歴史探求の基本は、残された史料を読むことから始まる。特定の人に任せるのではなく、先学の助けを得ながらも、自分の目で直に読む必要がある。絵を見ずに他人の解説でその絵を見たつもりになってはいけないと言うようなことである。事実に対して、どう思い、どう感じるかは、人それぞれであるが、事実は一つである。