「古事記序文」疑義十項目について 2012/10/29 17:01

  

『弘仁私記序』は、いろいろな所に引用される重要な史料ですが、全文を読むことは少ないと思います。

 「訳文」はネットでも幾つか掲載されていますが、個人的に満足がいかず、自分で「訳注」を作ってみようと思い立ち、いろいろ文献を集めている間に、はや数ヶ月が過ぎてしまいました。

 『弘仁私記序』の文章は同時代の「新撰姓氏録」の「上表文」や「序文」と関連性があり、そちらの文献集めもあって、やり出したら、途方に暮れる時もあり、いっそやめようかとも思いましたが、ねが嫌いじゃないので、なんとか続いています。

   さて、この過程で、大和岩雄氏の『古事記成立考』で、『古事記』成立に関する「疑義」を読みましたが、彼は「古事記偽書説」を取っているようで、この延長線上で、「弘仁私記序偽書説」も取られているようです。

 そこで、まずは、彼の元々の「疑義」に対する愚見をまとめ、ここに載せて見たいと思います。

 後学のために、ミスや不備を指摘していただければ幸いです。

  

疑義十項目と私見

 大和岩雄氏は、その著『古事記成立考』(1975年)の中の

 「『古事記』序文が和銅五年に書かれたことは疑わしい」で、中沢見明氏、西田長男氏、筏勳氏、川副武胤氏などの論説から、「古事記序文」に対する疑義十項目をまとめています。(『古事記』序文を偽作とみる十の理由―p2022

 これを転写し、これらに対する<私見>を項目ごとに記します。

  

一、『古事記』成立より後で完成した『日本書紀』が『古事記』を参考にしていないこと。また『続日本紀』の和銅年間の条に、『古事記』撰録のことが、まったく記されていないこと。

 

<私見>

 □「『日本書紀』が『古事記』を参考にしていない」と言われるが、欠史八代などを含めて皇統次第は『古事記』の配列と同じである。また『日本書紀』のような正調漢文史書の編纂動機は、現行『古事記』が雄略記以降未完の中途半端で終わっていることから推測すると、『古事記』の反省の上に計画されたものとも考えられる。天武天皇の当初の編纂は、稗田阿禮に覚えさせた様に、口語(勅語)による「口伝形態」であったろう。これを漢語漢文で、文書化したのが、元明天皇の命令による太安万侶である。

 □「『続日本紀』の和銅年間の条に、『古事記』撰録のことが、まったく記されていない」については、『日本書紀』に関する『続日本紀』の記述も実にあっさりしたものであり、慰労、褒賞記事もない。

 しかも現存する『続日本紀』は、桓武天皇の再三の勅命により、当時の史官が編纂した既存の30巻本(「所有曹案三十巻」(延暦十六年上表文))を20巻本に刪削再編したもので、これだけで云々することは危うい。

 
 二、序では天武天皇が稗田阿礼の聡明を激賞したと書いているが、『日本書紀』の天武天皇の条にはそのことが記されていないし、稗田阿礼や稗田姓は天武紀以外にも『書記』には見あたらず、『続日本紀』にも記されていない。このように実在性の薄い人物である稗田阿礼に、重要な役割を果たさせていること自体が、『古事記』序文を疑わせる要因になること。

 

<私見>

 稗田阿礼は無位無官である。このような者がいくら優秀であってもそもそも史料に載ることは稀であろう。

また、無位無官で天皇に近習出来るのは、恐らく伝統を持つ采女であり『弘仁私記序』が言う「天鈿女命之後」が、これに最も相応しいと言える。つまり稗田阿礼は女性であり、和銅年間当時は、元明天皇に近習する初老のおばばであろう。

 
 三、稗田阿礼はまったく文献に現れてこないが、太安万侶は『続日本紀』には記されている。しかし、安万侶が元明天皇の勅命で撰録したという重要な勅撰書編纂の事実が、安万侶のことを数カ所も記している『続日本紀』はまったく書き落としており、不可解であること。

 

<私見>

「一、二」の私見参照。

 

 四、他の多くの序文上奏文では、学識才能について謙辞を用いている。謙辞らしい書き方より、稗田阿礼の聡明ぶりを強調したり、自己の表現技術の苦心を吹聴したりする、宣伝臭の濃い異例な書き方は、もし『古事記』が正史に記載されない私本的性格のものとしたら、矛盾すること。

 

<私見>

 序文に「謙辞」が少ないのは当然である。なぜなら『古事記』の元は、天武天皇の「口述編纂物」である。その口述の勅語を伝え語るのが稗田阿礼である。

 

 五、序では天武天皇即位以来修史のことなしと書いているが、天武十年には川嶋皇子等に勅して帝紀を記させているのだから、『古事記』序文はおかしいこと。

 

<私見>

「天武天皇即位以来修史のことなし」という記述は序文にない。これは序文の「・・・然運移世異、未行其事矣。」を差して言っていると思うが、この文は、稗田阿礼に記憶させた「口述先代旧辞」が未完のまま放置されていると言うことである。

 
 六、序文の太安万侶の署名には「官」が落ちており、稗田阿礼の「姓」の書き方は「氏」と混同しており、このような不完全、不明瞭な記載は、安万侶が書いたものとは思えないこと。

 

<私見>

 □太安万侶の署名の書き方は、基本的に彼の墓碑の書き方と同じである。特に問題は無い。

 □また「稗田阿礼の「姓」の書き方は「氏」と混同」と言うが、「姓稗田、名阿禮」と言う書き方は「漢文」の書き方である。また『令義集』「戸令」に「古記云、水海大津宮(天智天皇)庚午年籍・・・以此定姓、造籍。」とある。

 そもそも「氏」と「姓」は、中国でも漢の時代より「混同」されている。


 七、勅撰書の性格からして、正五位下程度の位階の者の単独署名は異例であり、『古事記』のみが特異な任命、単独編纂というのみ、あまりに異例すぎておかしいこと。

 

<私見>

 太安万侶への勅命は、「勅撰史書」の編纂ではない。基本的には、阿禮が天武天皇に覚えさせられた倭語の言葉を漢語漢文に「翻訳」することだけである。

 つまり、『古事記』制作作業は、天武天皇が未完成で放棄した「口述編纂物」の文字化と言う事務的作業である。


 八、序文が、上奏文の形式をとっているが、このような書き方は、主に平安朝以降からであるから、和銅年間成立は疑わしいこと。

 

<私見>

 「序文」と「上奏文」の基本的な違いは、読み手の対象の違いにある。

「序文」とは、字の如く書の初めの文であり、主に読者を対象にする。「上表文」とは、天子に上奏する文である。

 つまり、読み手が不特多数ではなく、天皇(皇家)のみが読者対象なら「序文」も「上奏文」の様な形式となるであろう。

 
 九、和銅五年の日付の序文が和銅六年以降に書かれた文章を参考にしていることからみて、『古事記』の序は、和銅六年以降に書かれたと考えられること。

 

<私見>

 「和銅六年以降に書かれた文章を参考」と言うが、そう言い切れる根拠はない。恐らく序文の「壬申の乱」の記述部分を差すのであろうが、「壬申の乱」は当時の近年の大事件であり、これを記録、記憶するものは多くあったと推測でき、情報源を特定することは出来ない。

 
 一〇、本文で厳密に使い分けている用語が、序文では精密さを欠くなど、本文と序文に統一性がないこと。

 

<私見>

 太安万侶に対する勅命は、「撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭。」である。本文は、天武天皇御製の勅語舊辭の口述筆記が主体である。この本文と太安万侶の序文との間には、制作者の違いや天武の時代と和銅五年という時代の違いもあり、統一性がないのは当然と言える。

  

結語

以上見てきた所では、彼の「「古事記序文」に対する疑義十項目は、全て見当外れと言える。
その原因を考えると、彼らには、「記紀」など「勅撰史書」は、「世間に流布させるため(公開目的)」と言う先入観があるのであろう。

しかし、古代の「史書」とは、延暦十六年の『続日本紀』に関する上表文に「垂百王之亀鏡」と言うように、主に「主権者」が読むためのもので、必ずしも臣下、臣民を読者対象としていない。所謂「非公開文書」である。

 「歴史書」が、臣民に対するプロパガンダ的色彩が強くなるのは、明治以降の近代からと言える。