所謂「史書」の性格は、近世以前と近代以降とは異なる。前者は基本的に関係者以外非公開の書であり、古代中国を中心とした「実録」を主とした「帝王学の書」であるが、後者は国民に民族主義を煽るプロパガンダ的要素を含み、公教育の場で利用された。

  *『日本後紀』延暦十六年(七九七)二月:「撰續日本紀、至是而成。上表曰;臣聞、三墳五典      

 上代之風存焉。左言右事、中葉之迹著焉。自茲厥後、世有史官、善雖小而必書、惡縱微而无隱、

 咸能徽烈絢、垂百王之龜鏡。」

 

日本の歴史書は主に『古事記』、『日本書紀』が嚆矢をなすが、この讀者対象は主に天皇で、関係者以外には非公開が前提で編纂され、そのため、人々に知られたくない様な個人情報も多く含まれる。官学(令制大学)」でも「史学」といえば「中国史」など「外国史」を言い、「記紀」などの「国内史」は教科に上らなかった。ただ『日本書紀』だけは、編纂から約100年近く後に、嵯峨天皇の弘仁年間から一部特定者を招いた数十年に一度の講書会が始まる。(この経緯の詳細は「弘仁私記序」に載る。)

   *『続日本紀』天平宝字元年(757)十一月:

   「勅曰・・・其須講、經生者三經。“傳生者三史”。」

   *「三史:史記、漢書、後漢書<一云、史記、漢書、東観漢記。>」(『二中歴』)

 

江戸時代の藩学の教科書でも「記紀」が使われることは、ほとんど無かったと言われる。近世以前の歴史書の集大成は、水戸光圀編纂の『大日本史』であろう。彼の自筆の「梅里先生碑陰并銘」に「尊神需而駁神需、崇仏老而排仏老」(*碑文は光圀が自ら書いた自伝の文)とあるように、彼の編纂方針は中立公正を旨とし、本文に記述の出典を明記するなど、史資料を根拠にした実証制を重視した。(現在の主観(憶測)に傾きがちな「歴史書」とは一線を画すか)。本場中国でも各王朝の「正史」が官学の教科になったのは唐の時代からと言う。

   *『唐会要』「巻七十六<三傳三史附>」:

  「長慶二年(822)二月。諫議大夫殷侑奏(中略)又奏。歴代史書、皆記當時善惡、係以褒

   貶、垂裕勸戒。其司馬遷史記、班固范煜兩漢書、音義詳明、懲惡勸善、亞於六經、堪為世

   教・・・敕旨。宜依。仍付所司。」

   *『通典』「巻十七選挙五雜議論中/大唐舉人條例」:

  「其史書、史記為一史、漢書為一史、後漢書并劉昭所注志為一史、三國志為一史、晉書為一

  史、李延壽南史為一史、北史為一史。習南史者、兼通宋、斉志。習北史者、通後魏、隋書志。

 (中略)國朝、自高祖以下及睿宗實録、并貞觀政要、共為一史。」

  

<補足>

 1)『古事記』と『日本書紀』は、どちらも天武天皇の発意によるが、そこには大きな違いがある。『古事記』は天武天皇自らによる親撰であり(「古事記序文」)、そのスタッフに、漢語・漢文の素養では無く、記憶力の良さだけで、無位無冠の稗田阿礼一人が選ばれたことから、この修史事業は倭語による口伝形式で進められたことがうかがえる。その記録媒体は稗田阿礼の内部記憶(人の記憶)である。これは倭語の文字の無い時代からの古来の伝承形式である。しかし、この試みは編纂途中で放棄された。これは恐らく天武十年に、漢語漢文による文字形式の修史に変更したためと思われる。

   *『古事記・序』に「即勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。<すなわち、阿礼に天皇自ら

  の言葉で語り(勅語)、皇家の系譜(帝皇日継)と、代々の天皇の事跡(先代旧辞)を暗唱

  (誦習)させた。>」と記録される。

   *『日本書紀』天武天皇十年(六八一)三月:

   天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛

  野君三千・小錦中忌部連子首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平

  群臣子首・令記定帝妃及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以録焉。

 

ただし、この天武十年の修史事業も彼の存命中には完成することが無く、後の世の元明、元正帝親子の養老四年(720年)に『日本紀』として完成した。

   *「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」(『続日本紀』養老四年

  五月)

 

天武十年には、三月の「修史」に先立つ二月に「律令」の改定も命じているので、こちらが優先されたのであろう。こちらは、持統天皇三年に「令」が完成、施行されたと言う(所謂「浄御原令」)。

  一方、途中で頓挫した天武天皇の口伝形式の修史は、放棄されたものの記録媒体が紙とは異なり、その記録は稗田阿礼の“人ベース”の記憶として残り、阿礼が語るその記録は元明天皇により再発見され、阿礼とともに消滅する記録を太安万侶に命じて、文字による“紙ベース”で長く後生に残そうとしたのが『古事記』である(太安万侶が行った主な作業は稗田阿礼が語る倭語を漢語漢文にする翻訳作業)。しかし、翻訳作業は完成したものの、これはそもそもが途中で天皇(天武)自身によって放棄された記録のためか、『日本書紀』をはじめとする「六国史」の様な「正史」の扱いは受けず、長く図書寮の官庫に秘蔵された。

  *「以和銅四年九月十八日、詔、臣安万侶、撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞以献上者。」(『古

  事記・序』)

   *「然上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心。全以音連者、事趣

  更長。是以今或一句之中、交用音訓、或一事之内、全以訓録。即辞理叵見、以注明、意況易

  解、更非注。亦於姓日下、謂玖沙訶。於名帯字、謂多羅斯。如此之類、随本不改。(『古事

  記・序』)

 

2)遠い過去の所謂“歴史事象”は、当然ながら今の我々が直接観察することも実験で再現もできず、歴史事象に関係した当事者たちの証言(史料)や遺物によるしか知り得ない。だから所謂歴史書(史書)は、一次情報源の史料を集めて編纂される。この編纂された「史書」は二次、三次の情報源の史料となる。一次史料は、出土する木簡や金石文を除いて、多くは失われ、情報源としては多次の「史書」のみが残された。よって、史料として「史書」を読むときには、次の三つの点に注意が必要である。

 一つは、「史書」は多くの史料を編纂者が取捨選択して作られるので、記述に各史料の視点が内包する。全体的に文体を整えて書かれていても、記述の中にこの視点の違いがあることに注意が必要であろう。

 二つ目は、「今」という言葉が史書に散見されるが、この「今」とは、編纂者の時制か、編纂者が利用した史料が作られた時の時制かを判別する必要もあろう(「今」と言う時制は過去と未来の境をなす時間的幅のない時制)。

 三つ目は、人の“主観(認識)”の問題である。人の証言は、人の主観的認識を通して語られる。そこには、誤認などのミスや時代や人による価値観の違いが内包する。極端の場合は偽証もあろう。より客観的事実を求めるなら証言に合う物的証拠や立場の違う複数以上の史料(証言)を併せて見る配慮が必要であろう。