「国号」について 2019.01.25

 

現在の我が国の国号は、現憲法に「日本国憲法」とあるように「日本国」である。その前は明治の憲法に「大日本帝國憲法」とあるように「大日本帝国」である。どちらも「日本」という漢語表記であるが、その「日本」の読み方は、漢語音で「ニ(ッ)ホン」、「ニッポン」、和訓で「やまと」、「ひのもと」、外国語音で「Japan(ジャパン)」など様々であり、今に到るまで定まらない。これは世界でも珍しい例であろう。明治時代に「日本」の読み方を一元化しようとした議論があったようであるが、結局意見の集約ができず、今に到る。

 

 「日本」の読み方(和訓)を「やまと」と明確に提示したのは、養老四年(720年)編纂の『日本書紀』である。そこには「日本、此云耶麻騰(ヤマト)、下皆效此。」(神代紀上)と示す。

 

現存する“成文法(律令制度)による国号表記では、『令義解・公式令』に、外国向けは「明神御宇“日本”天皇」、国内向けは「明神御“大八洲”天皇」と記される。この『令義解』とは律令制度の「令文」に対して朝廷としての統一解釈を述べたものである。律令制度は「(弘仁)格式序」に、

 「推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇條。国家制法自茲始焉。降至天智天皇元年制令二十二巻。世人所謂近江朝廷之令也。爰逮文武天皇大宝元年(701年)、贈太政大臣正一位藤原朝臣不比等奉勅撰律六巻・令十一巻。養老二年718年)、復同大臣不比等奉勅更撰律令各為十巻。今行於世律令是也。故去天平勝宝九歳(757、八月に天平宝字元年に改元)五月二十日勅書称(中略)去養老年中、朕外祖故太政大臣刊修奉勅刊修律令。宜仰所司早令施行。」

 とあるように、聖徳太子の「憲法十七箇條」が我が国の“成文法”の嚆矢となり、隋唐令を取入れた「律令」は、天智天皇の近江朝廷令から始まりる。そして、藤原不比等が勅命を受けて、「近江朝廷令(天智天皇)」や「浄御原朝廷令(天武天皇)」を受け継ぎ完成させたのが大宝元年(701年)の「律令」である。更にこれは、養老二年(718年)に、同不比等によってその補訂がなされ、これが最終的「律令」となって、天平宝字元年(757年)に施行された。これが現存する所謂「養老律令」である。この前までは補訂以前の「律令」が施行されていた。これが所謂「大宝律令」であり、現存しないが、この内容は『令集解』の「古注」等である程度うかがい知ることができると言う。

 

 「史書」の中では、『続日本紀・文武天皇元年(697年)』の即位の宣命に「現御神<止>大八国所知天皇」と「大八嶋国」が使われるが、「近江朝廷令」から「大宝律令」までの一般的「国号」の表記は、恐らく「日本」ではなく「倭」であろう。文武天皇の天皇位の称号は「天之真宗豊祖父天皇」だが、慶雲四年(707年)の死後の称号の諡(おくりな)は「大倭根子豊祖父天皇」(『続日本紀』)とつけられる。「和銅五年(712年)完成の勅撰『古事記』は、「倭」が使われ、「日本」の使用は無い。これらの事から「倭」であることが推測できる。

 *「神倭伊波禮毘古命」(古事記)

  *「神日本磐余彦天皇」(日本書紀)

 

 「倭國」とは、三国魏の朝廷が女王の卑弥呼を「倭王」とした事により、その「女王国」に対して付けられた呼称である。また所謂「邪馬臺國」とは、「女王」が都を置いた国と言うことで、「女王国」の中の一国を示すだけである。隋唐までの漢人が呼称する「倭國」の範囲とは、孝徳天皇紀大化二年に言う「畿内国」がそれに相当するであろう。「倭國」が日本列島全体を指すようになるのは、律令制による中央集権体制以降(天智天皇朝以降)であり、それ以前は、九州など畿外国は倭の附庸国であって「倭國」ではない。

 *「南至邪馬壹國、“女王”之所都」(「魏志倭人伝」)

 *「自郡至“女王國”萬二千餘里」(同書) 

*「制詔、親魏“倭王”“卑彌呼”」(同書)

 *「上遣文林郎裴清使於倭國(中略)自竹斯(筑紫)國以東、皆“附庸於倭”」

(「隋書・倭國傳」)

* 附庸:「天子に直属せず、大国の勢力下にある弱小国」(学研「藤堂漢和大辞典」)

「不能五十里(弱小国)、不達於天子、附於諸侯、曰附庸」(『孟子・万章章句下』)

 

 では、「日本」という呼称はどこからでたのか。漢語の「日本」を翻訳すれば「ひのもと」であり、日の出の方向、つまり「東」を意味する。(西は「くれ(呉)」や「くさか(日下)」であろう。)この視点は日本列島ではなく、朝鮮半島である。「日本」という呼称は、朝鮮半島側から日本列島を見て、「東」と言う意味で付けたものと考えられる。『日本書紀』に朝鮮半島人側の言い方として「日本府」と言う言葉が出てくるが、倭人側の言い方はもっぱら「任那」である。

 *「新羅王(中略)乃使人於任那王曰、伏請救於“日本府”行軍元帥等。」

   (雄略天皇紀八年)

  *「日本餘噍拠扶桑以逋誅」(祢軍墓誌)

   <ひのもと(東)の餘噍は、扶桑(倭)によって誅をのがれた>