太神宮諸雑事記訳注試案 20181229

  

はじめに

 『太神宮諸雑事記』(だいじんぐうしょぞうじき)は、伊勢神宮側の基本史料の一つです。

 「神道大系」の解題を引用すれば、

 「この本は二巻に分かれ、第一巻は垂仁天皇の二十五年より後一条天皇の長元八年<乙亥(1035年)>九月までの五十八代に亙る一千四十年の記事を収め、第二巻は後朱雀天皇の長暦元年<丁丑(1037年)>より後三条天皇の延久元年(1069年)十一月十二日<辰甲>までの三代に亙る三十三年間の記事を収める。」と言い、作者は同解題に、

 「皇大神宮禰宜荒木田徳雄神主<貞観十七年(875)禰宜拝任、延喜五年(905)辞任。>の家々に代々相伝されて来た古記文があって、その後、その孫の興忠神主<応和元年(961)禰宜拝任、天元元年(978)辞任。>・その子の氏長神主<天元元年(978)禰宜拝任、長保三年(1001)辞任。>・その子の延利神主<長徳元年(995)禰宜拝任、長元三年(1030)辞任。>・その子<系図に拠れば孫に当たる。>延基神主<長元二年(1029)禰宜拝任、承暦二年(1078)卒去。>等が代々これを相伝し、且つ各自が日記を書き継いで来たものである」と言われる。

 神宮史料として有名な『皇太神宮儀式帳』、「延喜の大神宮式」、『倭姫命世記』等は、既に詳細な注釈などがありますが、『太神宮諸雑事記』に関しては、管見ですが目にしません。

 実見できない遠い過去の出来事は、残された史資料を見る事しか知り得ません。

 そこで、今回無謀とは思いますが、この掲示板をおかりして『太神宮諸雑事記』(以下「神宮雑事」と表記)の訳注を試みたいと思います。無学で文才もない私一人では、独りよがりに陥り、間違いを犯し、拙い訳文となりますので、ご批判、ご助言等、皆様のご協力をいただければ幸いです。(2014.2.17日)

  

凡例

 一、原文のテキスト底本は、多くの公立中央図書館に蔵書される群書類従本(神祇部三 巻第三)を使用。

 二、他に神道大系の校訂本(神宮編一)を参照。

 三、原文を適時切り、「原文」、「訳文」、「語注」の順に掲載。

 四、原文の改行やパソコンで表示出来ない旧字、変体字の新字への変換は適時行う。

 五、訳文(現代語的訳文)は、原文を尊重しながら意味を取ることに重点を置く。

 六、原文は基本的には漢文(倭習漢文)であり、その漢字の読み等は、神道大系本に付される諸本の傍訓などを参照。

 七、原文で本文に対する小書き文字(文中注釈文や仮名漢字)等は< >でくくる。

  

「原文」(1

 「垂仁天皇<寿百四十>(傍注に<三十イ>)

 天皇即位二十五年<丙辰>、

 天照坐皇太神、天降坐於大和国宇陀郡。

 于時国造進神戸等<今号宇陀神戸是也>。

 是已皇太神宮始天降坐本所也。

其後奉令鎮坐伊勢国度会郡宇治郷五十鈴川上下都磐根御宮所也。

  

「訳文」

 垂仁天皇(標題)<寿命は百四十歳>

 (垂仁)天皇が即位して二十五年<丙辰>目に、

 天照坐皇太神は大和国宇陀郡に天より(地上に)お降りになる。

 時に、(大和の)国造は、(天照大神に?)神戸等をたてまつる<現在、宇陀の神戸と言うのは是である>。

 是をもって、(宇陀は)皇太神宮がはじめて天より降りられし本所なり。

 その後、(朝廷は)伊勢国度会郡宇治郷五十鈴川のほとりの下都磐根の御宮所に鎮めまさしめ奉る。

  

「語注」

 【垂仁天皇】:古事記に「伊久米伊理毘古伊佐知命(153歳)」。日本書紀に「活目入彦五十狭茅天皇(140歳)」。

 【丙辰(ヘイシン)】:中国暦の六十進数の干支年号。内田正男氏の『日本書紀暦日原典』によれば紀元前の四年(-4年)にあたる。

 【天照坐皇太神(あまてらしますすめおおかみ)】:古事記に「天照大御神」。日本書紀に「天照大神」等。

 【天降坐】:「降・坐」で「坐(ます)」は尊敬の補助動詞で、ここは動詞としての意味はないか。古事記の猿田毘古神の段に「聞天神御子天降坐」とある「坐」も同様。

 【大和国宇陀郡】: 垂仁紀(日本書紀)二十五年三月十日条に、「託干倭姫命。爰倭姫命求鎮坐大神之處。而詣莵田篠幡。」。岩波書店の日本書紀補注に、「莵田は大和国宇陀郡で今、同郡榛原町に篠幡神社がある。」と言う。「太神宮」の「伊勢」に至までの諸国遍歴の始まりを言うが、遍歴経路は『日本書紀』の他に『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世記』に諸説がある。

 【国造(くにのみやつこ)】:『皇太神宮儀式帳』(以下「内宮儀式帳」と表記)には、「大倭國造」。神武天皇紀二年二月条に「以珍彦為倭國造。」。『倭名抄』に「畿内国大和、国府在高市郡」。

 【神戸(かんべ)等】:「神戸」とは、「神祇令」に「凡神戸調庸及田祖者。並充造神宮。及供神調度。其税者。一準義倉。」とあり、特定の神社に奉仕する事を定められた民。「儀式帳」には「神御田并神戸進」とあり、「神戸等」の「等」は「神田」をさすか。

 【是已・・・始天降坐】:神道大系本は「是已」を「これ、すでに」と読ませるが、これでは意味が通らない。「已」は「すでに」の他に「已字與以通」(助字辨略)と「以」と通用し、「是以」の意と解した方が通じるか。後文で「すでに」の意味には「既」の文字を使用している。また、ここで「始天降」と言うが、日本書紀と異なる(下の語注を参照)。

 【皇太神宮】:天照大神。

 【五十鈴川上】:ここの読みは「いすずのかはかみ」ではなく、「いすずのかはのほとり」が良いか。岩波本日本書紀の「其祠立於伊勢國。因興斎宮干五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神、始自天降之處也。」(垂仁紀二十五年三月条)で「上」に「ほとり」の傍訓を付ける。倭玉篇(日本古典全集板)の「上」にも「ほとり」の訓あり。但しこの時代には既に「かはかみ」と読まれていたかもしれない。

 【下都磐根(したついはね)】:神武元年紀に「太立宮柱於底磐之根」。祈年祭等の祝詞に「下都磐根<爾>宮柱太知立」とあり、掘っ立て柱を立てる地中の基礎石か。

  

「原文」(2

 抑皇太神宮勅。

 託宣園、

 我天宮御宇之時、天下四方国摂録、可天下宮所、放光明、見定置先畢。

 仍彼所可行幸御之由宣。

 

「訳文」

 (この諸国遍歴の)ことの起こりは、皇太神宮(天照大神)の勅なり。

 (天照大神の)託宣に、

 「我、天宮の治世の時に、

 天下四方の国をおさめ、天の下に宮とすべき所を、

 光明を放ち、見定め置くことは先に終えた。」と言う。

 よって(天照大神自らが)彼の所(伊勢)に行幸(みゆき)し、(そこに)おわしますべき由を言われる。

  

「語注」

 【抑】:そもそも。ことのおこり。

 【勅(チョク)】:天子の命令(言葉)。「漢制度曰:帝之下書有四。一曰策書,二曰制書,三曰詔書,四曰誡敕。」(後漢·光武紀註)。この勅は、「儀式帳」に「願給国求奉」とある文言をさすか。日本書紀にも「故隨大神教、其祠立於伊勢國・・・」(垂仁紀二十五年三月)とある。

 【託宣】:神託。群書類従本(以下類従本という)は小書きだが、大系本に従い本文とした。また類従本や大系本では、「勅託宣園、」で句を区切り、「・・・之由宣。」までを一文としているが、「宣」の文の末尾を「宣」で結べば、重複し不自然である。愚見では、「抑皇太神宮勅。」でくぎり、ここで一文とした。

 【園(称)】:云(いう。いわく。)。(引用の文や言葉を示す。)。古文書では、おもに「園(いはく)・・・者(てへり)」の形式をとり、この間に入る文が引用文となる。当該の引用言葉は、末尾に「者(てへり)」はないが、「先畢。」までとした。 *「てへり(者)は、といへりといふことなり。」(玉勝間・上巻)。

 【御宇(ギョウ)】:宇(天下、一家)を御すで、治世。和訓では「あめのしたしろしめす」。日本書紀に「於纒向玉城宮御宇天皇之世」(仁徳天皇即位前紀)など使われる。「公式令」も同様。しかし古事記などは「坐畝火之白檮原宮、治天下也。」(神武記)とあり、古い史料は「治天下」が使用される。

 【摂録】:「摂」は「兼也。録也。」(廣韻)とあり、「録」と互訓の関係。「録」は「取也。」(公羊傳·成九年・註)。「總(すべおさめる)也。」(增韻)。「摂録」は同義語の関係と見て、二字一語として「おさめる」とした。またここで「天下四方国摂録」と言うが、古代の天照大神祭祀は、延喜式に「凡王臣以下、不得輙供太神幣帛。」(神祇式)とあるように天皇だけによる祭祀であり、尊卑の別はあっても伊勢神宮自体に他の神社との主従関係など支配、被支配関係は確認出来ない。

 【放光明】:「法華経」などの影響を受けるか。「放眉間白毫相光。照東方。万八千世界。靡不周遍。」(妙法蓮華経・序品第一)。

 【行幸(ギョウコウ)】:天皇のお出まし。和訓で「みゆき(御行)。いでまし。」。古事記に「幸行」。「幸」一字でも同様。「幸、天子所至也。」(玉篇)。「天子車駕所至、見令長三老官属、親臨軒作楽、賜以食帛、民爵有級、或賜田租、故謂之幸。」(独断)。

 【御(ギョ)】:存在や移動を示す尊敬語の「おはす」、「おはします」。「凡天子所止曰御。」(韻會)。他に統治。「御、統也。」(正韻)。尊敬を示す接頭語や接尾語、補助動詞等の用例もある。

 【宣】:のる(言う)とその尊敬語としての「のたまふ」、「のらす」。大系本の傍訓に「サトシタマフ」とあるが、意訳しすぎて字義と離れるか。

  

「余談」<1>

 この『太神宮雑事記』(以後「神宮雑事」と表記)の冒頭{原文(1)と(2}では、天照大神が宮中から出て、諸国を遍歴し、伊勢に移った事は、天照大神の自発的命令によると明確に主張する。しかし、これは先行史料の日本書紀や内宮の儀式帳などと異なる。

 日本書紀では「先是、天照大神、倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢共住不安。故以天照大神、託豐鍬入姫命、祭於倭笠縫邑。」(崇神天皇六年)と記述し、内宮の儀式帳に「(崇神)天皇同殿御坐、而同天皇御世<爾>、以豊耜入姫命、為御杖代、出奉<支>。」と記される。日本書紀や内宮の儀式帳では、時の天皇の都合で、天照大神(宝鏡)を宮中から出したともとれる内容である。

 そもそも天照大神(宝鏡)祭祀は、古事記に「此之鏡者、専我御魂而、如拝吾前、伊都岐奉。」と言われ、日本書紀に「吾兒視此宝鏡當猶視吾、可與同床共殿以為斎鏡。」(神代下第九段一書第二)と記述される様に、基本的には天皇親祭の宮中内祭祀である。しかし、現実には「神授の宝鏡」は、畿内ではなく国外の伊勢に移されて祭られ、宮中ではわざわざ「*模造品の宝鏡」まで作り、天照大神の宮中内祭祀を継続させている。

  *『古語拾遺』に「至於磯城瑞垣(崇神)朝、漸畏神威、同殿不安・・・更鋳鏡、造剣、以為護身御璽。是今踐祚之日所獻神璽之鏡剣也。」。

 後世、この不自然な状況を説明するために、色々なこじつけが生まれ、「神宮雑事」の説もその一つであろう。現在も臆測の諸説が作られつづけている。

 しかし、オカルト部分を除いて見れば、背景に古代の政変があるか。先の日本書紀や内宮の儀式帳の記述によると、神授の宝鏡(天照大神)と共に宮中から最初に出されたのは、豊(とよ)姫である。この豊(とよ)姫は、中国史書の「魏志倭人伝」に、「復立卑弥呼宗女台與年十三為王。」とある「台与(とよ)」と重なる部分があるか。

 国外の伊勢神宮祭祀と記紀に記述されない卑弥呼に関する疑問は、日本古代史の二大疑問と言えるが、ひょっとするとこの二つは表裏をなすか。

 (尚、日本書紀の中国暦による暦日は、主に編纂時の後付であることが『日本書紀暦日原典』などで確認されている。)

  

「原文」(3

 倭姫内親王奉載<天>、

 先伊賀国伊賀郡一宿御坐、即国造奉其神戸。

 次伊勢国安濃郡藤方宮御坐三年之間、国造奉寄神戸六箇処也。

 所謂安濃・一志・鈴鹿・河曲・桑名・飯高神戸等也。

 次尾張国中嶋郡一宿御坐、国造進中嶋神戸。

 次三河国渥美郡一宿御坐、国造進渥美神戸。

 次遠江国浜名郡一宿御坐、国造進浜名神戸。

 

「訳文」

 倭姫内親王は(天照大神を)いただきたてまつりて、

 まず、伊賀の国の伊賀郡にひとよおわしますに、

 やがて(すぐに)、伊賀の国造が伊賀の神戸をたてまつる。

 次に、伊勢の国の安濃郡藤方宮におわしますこと三年の間に、

 伊勢の国造が神戸六カ所を寄せたてまつるなり。

 (これらは)所謂、安濃・一志・鈴鹿・河曲・桑名・飯高の神戸らなり。

 次に、尾張の国の中嶋郡にひとよおわしますに、(尾張の)国造が中嶋の神戸をたてまつる。

 次に、三河の国の渥美郡にひとよおわしますに、(三河の)国造が渥美の神戸をたてまつる。

 次に、遠江の国の浜名郡にひとよおわしますに、(遠江の)国造が浜名の神戸をたてまつる。

  

「語注」

 【倭姫内親王】:垂仁天皇の女子。日本書紀に「倭姫命」。古事記に「倭比賣尊」。「内親王」は、「継嗣令」等に規定はないが、「家令職員令」に「親王<内親王准此>」とあり、待遇は親王に準じる。親王の規定は「凡皇兄弟皇子、皆為親王。」(継嗣令)とあるが、これは男子。後に「詔曰・・・兄弟姉妹親王〈止〉爲〈与止〉」(天平宝字三年(759)六月)と男女一緒に規定される。六国史での初見は「賜親王、諸臣、内親王、女王、内命婦等位。」(持統紀・五年(691)正月)か。

 【伊賀国】:倭名抄に「伊賀(<以加(いか)>)国<国府在阿拝郡。行程上二日、下一日>管四(郡)。阿拝<安倍(あへ)>。山田<也末太(やまた)>。伊賀(<以加>)。名張<奈波利(なはり)>。」。

 【一宿】:大系本の傍訓に「ひとよ」。一泊。神宮雑事は、伊勢国以外は「一宿」とする。

 【其神戸】:伊賀の神戸。『神宮雑例集』(巻第一)に「神戸四百十三戸<七ヶ国在二十一ヶ處>;(その内)三百五十三戸<本神戸>御鎮座之昔国造貢進。・・・伊賀国伊賀神戸<二十戸>」。

 【伊勢国安濃郡】:倭名抄に「伊勢(<以世>)国<国府在鈴鹿郡。行程上四日。下二日。>管十三(郡)。桑名<久波奈(くはな)>。員辨<為奈倍(ゐなへ)>。朝明<阿佐介(あさけ)>。三重<美倍(みへ)>。河曲<加波和(かはわ)>。鈴鹿<須須加(すすか)>。奄藝<阿武義(あむき)>。安濃<安乃(あの)>。壹志<伊知之(いちし)>。飯高<伊比多加(いひたか)>。多気<竹(たけ)>。飯野<伊比乃(いひの)>。度会<和多良比(わたらひ)>。

 【藤方宮】:「安濃郡藤方宮」と言うが、内宮儀式帳には「壹志藤方片樋宮」と言う。

 【神戸六箇処】:『神宮雑例集』(巻第一)に「伊勢国百五十二戸六箇;飯高神戸<三十六戸>。壹志神戸<二十八戸>。安濃神戸<三十五戸>。鈴鹿神戸<十戸>。川曲神戸三十八戸>桑名神戸<五戸>。」。

【尾張国】:倭名抄に「尾張(<乎波里(をはり)>)国<国府在中島郡。行程上七日、下四日。>管八(郡)」。

【中嶋(奈加之萬)郡神戸】:『神宮雑例集』(巻第一)に「本神戸四十戸<号中嶋神戸>」。

 【進】:大系本の傍訓に「たてまつる」。

 【三河国】:倭名抄に「参河(<三加波(みかは)>)国<国府在寶飯(<穂>。「寶飯」二字で「ほ」)郡。行程、上十一日、下六日>管八(郡)」。

 【渥美神戸】:『神宮雑例集』(巻第一)に「本神戸二十戸<号渥美神戸>」。

 【遠江国】:倭名抄に「遠江(<止保太阿不三(とほたあふみ)>国<国府在豊田郡。行程上十五日、下八日>管十三(郡))。

 【浜名神戸】:『神宮雑例集』(巻第一)に「本神戸三十戸<号濱名神戸>」。

  

「各史料の遍歴経路比較」

 【垂仁紀(日本書紀)】

 笠縫邑(豊鍬入姫命)→菟田篠幡(倭姫命)→近江国→東美濃→伊勢国(五十鈴川上・磯宮)。

  

【垂仁紀一云(日本書紀)】

 磯城厳橿の本(倭姫命)→伊勢国渡遇宮。

  

【皇太神宮儀式帳】

 不明地(豊鍬入姫)→美和・御諸原(倭姫命)→菟田・阿貴宮→佐々波多宮→伊賀・空穂宮→阿閇・柘殖宮→淡海・坂田宮→美濃・伊久良賀波宮→伊勢・桑名野代宮→河曲→鈴鹿・小山宮→壹志・藤方片樋宮→飯野・高宮→多氣・佐々牟江宮→玉岐波流礒宮→度會国・宇治家田田上宮→伊須須乃河上。

  

【太神宮諸雑事記】

大和國宇陀郡→伊賀國伊賀郡(倭姫命)→伊勢國安濃郡藤方宮→尾張國中嶋郡→三河國渥美郡→遠江國濱名郡→伊勢國飯高郡→度會郡宇治郷五十鈴川頭。

  

 

「原文」(4

 従此等国更還<天>伊勢国飯高郡<ニ>御坐。

 三月之後、

差度会郡宇治郷五十鈴之川頭<仁>進、参来、

 称申云、此河上<爾>最勝地侍。

 其妙不可比他処。

早速可垂照鑑御也。

 即奉迎而<大田命神御共奉仕>、令照鑑早畢。

  

「訳文」

 これらの国よりあらためて(伊勢に)還って、伊勢の国の飯高郡におわします。

三ヶ月の後、

 使者が度会郡宇治郷五十鈴の川頭に進み、(宮に)参り来て、

 (使者が)「この河上にすぐれたる地があります。

 そのたえなること他と比べることが出来ません。

 すみやかに、照鑑(ショウカン)をたれておわすべきなり」と、ほめ申す(報告した)。

 即ち迎えたてまつって(大田命神がみともにつかえまつる。)、照鑑のことはやくにおえしむ。

  

「語注」

 【此等国】:尾張、三河、遠江の三国を指す。

 【飯高郡<ニ>御坐】:飯高郡のどこか不明。内宮の儀式帳が言う「飯野高宮」か。

 【差・・・進参来】:大系本の傍訓に「差(さし)」とあり、「・・・をめざし」と解釈し、「進参来(すすみまゐらせたまふ)」と、文字にない尊敬語の「たまふ」を補読して読んでいるが、そもそも「参来」は謙譲語であり、後文の「称申」の「申(もうす)」も謙譲語である。また「行く」「来る」の動作状況も乱れ不自然。ここは先遣隊としての使者の行動として読んだ方が自然か。倭語の「さす」は用言で「・・・をめざす」だが、漢語の「差(サ)」は、「差使也」(韻會)とあり、諸橋大漢和辞典で「差使」は「使者」と解する。愚見で、「差」を「使者」と仮定し、「用言」ではなく「体言」とし、この文の主語とした。

 【頭】:大系本の傍訓に「かみ・を」。直後の文には「川上」。大系本校勘に「益本、上。」。倭玉編(日本古典全集版)に「頭;かうへ。かふ。ほとり。」。

 【侍】:大系本傍訓に「はべり」。「はべり」は、「あり」「居()り」の丁寧語。

 【称】:大系本の傍訓に「たたへ」。ほめること。倭玉編に「称;いはく。いふ。な。かなふ。はかり。あくる。ほむ。」。

 【最勝地】:大系本の傍訓に「すぐれたるところ」。

 【妙】:大系本の傍訓に「たへなること」。倭玉編に「妙;めてたし。たへなり。」。

 【早速】:大系本の傍訓に二字で「すみやかに」。

 【奉迎】:迎えたの大田命か。内宮の儀式帳に「太田命<乎>。汝国名何問賜<支>。白<久>百船<乎>度会国。是川名<波>佐古久志留伊須須<乃>川<止>申<須>。」(大神宮儀式解校訂本)。ここの「五十鈴之川」は、度会の川で、今の宮川か。もともとの度会の主(あるじ)は太田命か。

 【照鑑(ショウカン)】:大系本の傍訓に「みそなはし」。意味不祥。『時代別国語大辞典』に「みそなはす;見ルの尊敬語。・・・しかし見ルの尊敬体はメスであって・・・疑問が残る。」。『古事記伝』「朝倉宮上巻」に「古語に見賜ふを、美蘇那波須(みそなはす)と云は、見し行はすすと約めたる言」。日本書紀(神代上・第七段(本文))の「窺」に「みそなはす」の傍訓あり。仏教関係では「仰冀三宝 俯垂照鑑」(曹洞宗の亡僧回向文)。漢籍では、漢語大詞典に「照鑒(鑑);明察。」とし、用例として「亮不忍坐視、特此告知、幸垂照鑒(鑑)。」(三国演義)をあげる。

 【大田命神】:大田命の説明は後文にあって、その前に突然出てくる事に不自然を感じる。よって愚見で、文中注釈文とした。またここでは「神」としているが、内宮の儀式帳では「人」。

 【御共】:大系本の傍訓に「みとも」。「とも」は、従者、随身。または「官吏」。「官曰多模(トモ)。」(魏志倭人伝)。倭語の「と」は、「上代特殊仮名遣」の中でも「比較的例外が多く」(橋本進吉「国語音韻の変遷」)と言われる。中国側史料の表記でも「邪馬台(やまと)」(魏志倭人伝)や「野馬多(やまと)」(武備志・日本考)など、日本語で「た」の音韻にあたる漢字を倭語の「と」にあてる例が見られる。古語の「と」は、今は失われた特殊音韻か。

 【奉仕(ホウシ)】:大系本の傍訓に「つかへまつる」。

  

 

「原文」(5

 于時、皇太神宮託宣称、此地者於天宮所見定之宮所是也者。

 奉鎮座既畢。

 即神代祝、大中臣遠祖天児屋根命神、禰宜荒木田遠祖天見通命神也。

 宇治土公遠祖大田命神、当土乃土神也。

 然而為玉串大内人。

 即與荒木田禰宜相並供奉於祭庭之例也。

 

「訳文」

 時に、皇太神宮が人にのりうつり言われるには、

 「この地は、天の宮にて、見定められた宮ところ、これなり」と。

 鎮座たてまつること既におえる。

 即ち、神代(かみよ)よりの祝(はふり)は、

 大中臣の遠祖天児屋根命神、禰宜の荒木田の遠祖天見通命神なり。

 宇治土公の遠祖大田命神は当土の国神なり。

 しかれども(大田命神は天神ではないけれども)玉串大内人となる。

即ち、(天神を遠祖とする)荒木田の禰宜と並んで、祭の庭に供奉(グブ)する例なり。

  

「語注」

 【祝(はふり)】:祭を担当する現業神職。「はふり」の語義不詳。しかし、「ねぎ」が「禰宜」と漢字仮名で表記されるのとは違い、「はふり」は漢語の「祝」で表記される。これは漢語の「祝」と「はふり」が似た概念だからか。『説文解字』に「祝、祭主賛詞者・・・易曰、兌為口、為巫。<徐曰、按易、兌、悅也、巫所以悦神也。>」とある。『令義解』「職員令」にも「神祇官、伯一人。掌。神祇祭祀。祝部<謂為祭、主賛辞者也>(<祭を為し、賛辞をつかさどる者を謂うなり>)神戸名籍」と記載される。尚、「職員令」にのる神職は「祝」だけで、「禰宜」、「神主」は載らない。「物記云、禰宜(ねぎ)、破付里(ほふり)、是神戸也。神主、是為監神・・・唯挙祝(はふり)一色、若約祝部之句哉。」(古本令集解・職員令)。しかし太政官符等には、「凡祭神之礼、以神主・禰宜・祝部為斎主。而不勤職掌、疎略神事。非唯神主等之怠、還又斎官不加糾勘之所致也。」(「類聚三代格」寛平五年三月二日太政官符)と載る。 後世の「祝」は地位が下がって、『古事類苑』「神職上」に「祝は亦神主禰宜をも併称する事あり・・・しかれども区別なきにあらず。・・・禰宜は祝の上に在り。神主は禰宜の上に在り。而して神主は宮司の命を受けて禰宜祝に令するものなり。」と言われる。

 【大中臣】:「中臣」は神事の時の役割名。「大中臣」は「中臣」に「大」を付けた美称。後にどちらも特定氏族の「姓」となる。『中臣氏系図』(群書類従巻第六十二)に「本末中良布留人、称之中臣。(もとすゑなからふる人、これを中臣という)」と言い、氏族の姓となるのが同書に「中臣<中臣姓始>常磐大連公;右大連、始賜中臣連姓。磯城嶋宮御宇天國押開廣庭天皇(欽明天皇)之代」とある。この姓に「大」がつくのが「本系大中臣朝臣姓、元中臣朝臣清麿、(神護)景雲三年(769)六月丁酉(1日)、特有優詔、加給大字。」(『大中臣氏系図』(続群書類従巻第百七十七))。『続日本紀』に「詔曰、神語有言大中臣。而中臣朝臣清麻呂、両度任神祇官、供奉无失。是以賜姓大中臣朝臣。」(神護景雲三年(769)六月乙卯(19日))。 中臣の本職は「天兒屋命・・・故俾以太占之卜事而奉仕焉。」(『日本書紀』「神代下第九段一書第二」)で「占卜」。 本姓は「本者、卜部也」(『藤原氏系図』「常磐大連」の傍注)と言う。「姓」ではなく、役割としての「中臣」の記述は、『政治要略』「巻二十四・九月九日装束」に「官曹事類云、右符案云、養老五年九月十一日・・・中臣正六位上菅生朝臣忍桙、忌部従七位上忌部宿祢公子、輿前従行」と見られる。

 【天児屋根命神】:『古事記』に「思金神令思・・・召天児屋命、布刀玉命、天香山之真男鹿之肩抜而、取天香山之天之波々迦而、令占合麻迦那波」、「其天児屋命<中臣連等之祖>」。

 【天見通命神】:古事記、日本書紀に記述なし。内宮の儀式帳に「爾時、太神宮禰宜氏、荒木田神主等遠祖、国摩大鹿嶋命孫天見通命<乎>禰宜定」とあり、「神」ではなく「人」とし、倭姫の御送りの大鹿嶋命の孫で、内宮禰宜雄の荒木田氏の遠祖とする。

 【禰宜(ねぎ)】:皇太神宮に供奉する現業神職の筆頭。神戸。「ねぎ」の語義は不詳。中臣が「なからふる人」なら、禰宜は「ねぎらふる(ねぎらう)人」か。『令集解』「職員令」に「「物記云、禰宜(ねぎ)、破付里(ほふり)、是神戸也。」。『延喜式』に「伊勢大神宮:大神宮三座。禰宜一人<従七位官>」。

 【土神】:大系本の傍訓に「くにつかみ」。

【然而】:大系本の傍訓に「しかれども」。逆接の接続詞。

【玉串】:神に捧げる榊の一種。内宮儀式帳の「山向物忌」条に「此太玉串并天八重佐加岐(さかき)乃元発由者、天照坐太神<乃>高天原御坐時<爾>素戔烏尊依種々荒悪行事、天磐戸閉給時<仁>、八十万神、会於天安川辺、計其可禱之方時<仁>、天香山<仁>立<留>掘真阪樹<弖>、上枝懸八咫鏡、中枝懸八坂○<乃>曲玉、下枝懸天真麻木綿<弖>、種々祈申<支>。此今賢木懸木綿、太玉串<止>号之。」とある。

 【大内人】:伊勢神宮での特色をなす神職。三人いる大内人の中でも特に宇治土公をその功績を称えてか、「宇治大内人」とも「玉串大内人」とも言う。この「内人」とは、ここの記述に依れば、外来の大和の人と区別しながらも、共に重要な職をこなす、選ばれた現地の人のことであろう。内宮の儀式帳には「職掌雑任四十三人<禰宜一人。大内人三人。物忌十三人。物忌父十三人。小内人十三人(八人か?)・・・宇治大内人;無位宇治土公磯部小紲。右人卜食定。・・・三節祭、並春秋神御衣祭及時々弊帛駅使時、太玉串并天八重榊(さかき)儲備供奉。」とある。 

 【供奉(グブ)】:神や貴人に対する供給、近習、お供。「つかへまつる」と「奉仕」と同じ訓が付けられることもあるが、意味する所は多少異なり、その意味も幾つかに分かれ、ここは「グブ」と漢語読みとした。

 1)供給;「秦為無道、厚賦税以自供奉、罷民力以極欲。(秦は無道を為し、税を厚く賦(フ)し、もって自の供奉(グブ)とし、民の力を疲れさせ、もって欲を極める。)」(漢書·王莽伝中)。

 2)侍奉、伺候;「初、明帝少失所生,為太后所摂養、撫愛甚篤。及即位、供奉礼儀、不異旧日。(初め、明帝は幼くして両親を失い、太后の摂養するところとなった。撫愛(ブアイ)すること甚だあつかた。(明帝が)即位に及んでも、供奉(グブ)礼儀は昔と異ならず。」(南史·后妃伝上·宋孝武昭路太后)。

3)お供;「公卿、殿上人、一人もぐぶせられず」(平家物語・法皇被流)。

  

 

「原文」(6

 景行天皇<寿百六十歳>

 即位三年<癸酉>、始令祀神祇。

 仍定置祭官職一人<今号祭主是也>。

 即位廿八年<戊戌><當唐章和十二年>、九月十三日、

 差遣五百野皇女、奉令載祭伊勢天照坐皇太神宮也。

 斎内親王供奉之始也。

 

「訳文」

 景行天皇<寿命は百六十歳>

 即位三年<癸酉>(73年)に、始めて天神地神をまつらす。

 よって、祭官職一人を定め置く<今、祭主というのはこれなり>。

 即位廿八年<戊戌>(98年)<中国の章和十二年にあたる。>九月十三日に、

 五百野皇女をえらびつかわし、伊勢の天照坐皇太神宮をいただき祭らしめたてまつる。

 斎(いつきの)内親王の供奉(グブ)のはじめなり。

  

「語注」

 【景行天皇】:日本書紀に「大足彦忍代別天皇」。古事記に「大帯日子淤斯呂和気天皇」。

 【寿百六十(160)歳】:古事記に「壹伯参拾漆(137)歳」。日本書紀に「六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩於高穴穂宮。時一百六(106)歳」。しかし、同書垂仁紀に「(垂仁)三十七年春正月戊寅朔、立大足彦尊(景行)為皇太子。」とあり、立太子から崩御年までの年数を計算すると「99年(垂仁治世年)-37年(立太子年)+60年(景行治世年)=122年」となり、日本書紀の年齢をすでに超えることになる。また同書の景行天皇即位前紀に「活目入彦五十狭茅(垂仁)天皇三十七年、立為皇太子<時年廿一>。」ともあり、これで歳を計算すると「122+21143歳」となる。どちらにしろ無理な後付の暦日では、矛盾や各史料に諸説が生まれるか。

 【即位三年<癸酉>】:西暦73年(日本書紀暦日原典)。

 【祀】:「祀;まつり。」(倭玉篇)。「祀;年也、又祭祀。」(廣韻)。

 【神祇(ジンギ)】:「神祇令第六<謂、天神曰神、地神曰祇>;凡天神地祇者、神祇官皆依常典祭之。」(令義解)。「馬融曰、天曰神、地曰祗。」(史記集解)。「跡云、自天而下坐曰神也。就地而顕曰祇也。祭祀謂載於神祇令諸祭。但班諸国社弊帛、亦在末。又祀就神、祭就祀而読。然広言時皆同耳。」(令集解・職員令神祇官)。

 【祭官職】:日本書紀や古事記に該当記事無し。景行天皇紀三年の条には「卜幸于紀伊國、將祭祀群神祇、不吉。仍車駕止之。遣屋主忍男武雄心命、令祭。」とあるのみ。『職源抄』には「垂仁天皇御宇、天照太神鎮座伊勢国度会郡五十鈴川上之時、命中臣祖大鹿嶋命為祭主。其後代々為祭主。朝廷被置官以後、神祇官伯<昔為祭主頭>、伊勢神宮祭主、又各別。」とあり、『大中臣系図』に「一男小徳冠前事奏官兼祭官中臣御食子大連公;神武天皇勅道臣命為斎主、迄推古元年癸丑(593年)、一千二百三十三年、国史不詳。小墾田朝廷以御食子為祭官。」とある。

 【祭主】:職員令には無い神職。「祭主;神宮棟梁ノ職ナリ。」(神道名目類聚抄)。「延喜式・伊勢太神宮」に「官五位以上中臣任祭主者。初年給稲一万束。除此之外。不得輙用。」。その始まりは、『二所太神宮例文』「祭主次第」に「意美麿;国足一男。始為祭主。改祭官字為主者也。天武天皇元(年)任。在任三十七年。」。

 【即位廿八年<戊戌>】:西暦98年。日本書紀には「廿年(90年庚寅)春二月辛巳朔甲申、遣五百野皇女。」とあり、年が異なる。

【當唐章和十二年】:この語句は文脈を乱すので文中注釈とし、< >でくくる。 「唐」は「唐王朝」ではなく、「中国」をさし、和訓で「もろこし」。  「章和」は後漢の章帝の年号。「秋七月壬戌,詔曰・・・今改元和四年為章和元年(丁亥)。」(後漢書・肅宗孝章帝紀)。しかし章和二年に章帝は没す。その後「章和二年(戊子)二月壬辰、即皇帝(和帝)位、年十歲。尊皇后曰皇太后、太后臨朝。」(後漢書・孝和孝殤帝紀)と和帝が即位し、翌年に年号は「永元」となり、実際には永元十年(戊戌)にあたる。ただ「後漢書」に、この改元に関する記事はない。 大系本の校勘記に「真本・益本・群本(群書類従本)に、廿八年<戊戌>當唐章和十二年、九月三日、とあるが、日本書紀に景行天皇、廿年春二月辛巳朔甲申、遣五百野皇女令祭天照大神、とあるに鑑み、中本(*)の正しいことが考えられる。」と言い、本文を「即位廿年<庚寅>、當唐永元二年」と校訂しているが、日本書紀の暦日は編纂時の後付であり、これを正誤の基準には出来ない。よって愚見では一応「群書類従本」の記述そのままとする。そもそもこの「神宮雑事」には日本書紀と異なる記述が少なくない。(*「中本」とは、大系本が底本とする、奥書がなく、由来不明の「中田氏収蔵本」のことを言う。)

 【差遣】:ここの「差」は用言とし「差;擇(えらぶ)也。簡(えらびだす)也。」(廣韻)。「差遣」の二字で「えらびつかわす」。または漢語で「サケン」と読むか。「差遣」の用例は「続日本紀」の「春秋二時、差遣官人、奠祭玉津嶋之神明光浦之靈。」(神亀元年(724)十月壬寅)からか。

 【五百野(いほのの)皇女】:景行天皇の女子。「妃三尾氏磐城別之妹水歯郎媛、生五百野皇女。」(景行天皇紀四年条)とあるが、古事記にはこの皇女の記載が無い。また日本書紀に「遣五百野皇女、令祭天照大神。」(景行紀二十年春二月)とあるが、この命令内容に「侍(はべる)」がなく、所謂「斎内親王」と言うよりも「祭の勅使」であり、前年までの九州平定の報告を天照大神に行ったものか。

 【斎(いつきの)内親王供奉之始】:この「神宮雑事」は五百野皇女が斎内親王のはじめと言うが、他の史料と異なり、倭姫命を斎内親王の例からはずしている。これは内宮儀式帳の倭姫命は天照大神を伊勢に鎮座させた後「朝庭<爾>参上坐<支>」と、伊勢に侍らず帰京したと言う主張にそったものであろう。 また『二所太神宮例文』「伊勢斎内親王」では「(1)豊鋤入姫命<崇神皇女>。(2)倭姫命<垂仁皇女>。(3)久須姫命<景行皇女>」と載せ、日本書紀が言う五百野皇女の記載が無い。

  

「余談」<2>斎王

 斎宮歴史博物館の歴代斎王表から推古天皇までの斎王を以下に抜き出します。

 豊鋤入姫   (とよすきいりひめ)崇神・垂仁

 倭姫    (やまとひめ)垂仁・景行

 五百野   (いおの)景行

 伊和志真   (いわしま)仲哀

稚足姫   (わかたらしひめ)雄略

 荳角    (ささげ)継体

 磐隈    (いわくま)欽明

 莵道    (うじ)敏達

 酢香手姫   (すかてひめ)用明~推古

 日本書紀には「斎王」の名称は無く、「~を拝す」か「~に侍る」でしょうか。

 また、これらの斎王には、それぞれにドラマがあります。

 五百野皇女から後の例を見ますと、仲哀天皇には皇女はいないと申しますので、「伊和志真」は誰の子なのか? 恐らく『仁所太神宮例文』から引用したと思いますが、ここから引用するなら欽明と敏達の間の宮子内親王を忘れてはいけないと思います。彼女は同書の注釈文に「太神主小事女。在任廿九年」とあり、つまり実際の内親王ではなく、豊受太神宮神職の神主小事の娘です。雄略天皇の皇女の稚足姫は、悲劇的な自死で、僅か数年でおわっています。磐隈と莵道の斎王は、それぞれに痴情のトラブルをおこし、酢香手姫も謎めいたところがあります。

 この中でも数奇なドラマは倭姫命でしょうか。彼女は最終的に、どこへ行ったのか? 内宮儀式帳では「倭姫内親王、朝庭<爾>参上坐<支>。」とあり、朝廷(庭)、つまり大和に帰ったと言いますが、大和側の史料(記紀)には記載がありません。その代わりか、倭建(やまとたける)と倭姫のエピソードを載せます。この日本男と日本女とも言える名を持つ二人には、なぜかオカルトチックで悲劇的な雰囲気が漂います。

  

「原文」(7

 雄略天皇<寿百四十歳>

 即位廿一年丁巳<当唐大和元年也>而、

 天照坐伊勢太神宮乃御託宣称、

 我御食津神<波>坐丹後国与謝郡真井原<須>。

早奉迎彼神、可奉令調備我朝夕饌物也、託宣賜既了。

 仍従真井原奉迎<天>、

 伊勢国度会郡沼木郷山田原宮<仁>奉鎮給<倍利>。

 <今号豊受太神宮是也>。

 

「訳文」

 雄略天皇<寿命百四十歳>

 即位廿一年丁巳(477)<中国の大和元年にあたるなり>にして、

 天照坐伊勢の太神宮の御託宣に、

 「わが御食(みけ)の神は、丹後の与謝郡の真井原にまします。

 早く彼の神を迎え奉り、わが朝夕の(飲食の)そなえ物をととのえ備えさせ奉るべきなり」と、

 託宣賜ること既におわる。

 よって真井原より迎え奉って、

伊勢の国度会郡沼木郷山田原の宮に鎮め奉りたまえり。

 <今、豊受太神宮というはこれなり。>

  

「語注」

 【雄略天皇】:日本書紀に「大泊瀬幼武天皇」。古事記に「大長谷若建命」。景行天皇から雄略天皇の間の八代は欠史。

 【寿百四十歳】:日本書紀に記載無し。古事記に「壹伯貳拾肆(124)歳」。帝王編年記に「年百四(104)。」。扶桑略記に「天皇年九十三崩<一云五十一(51)崩。一云一百四(104)歳>。」。

 【即位廿一年丁巳】:西暦477年(日本書紀暦日原典)。日本書紀、古事記に当該記事は無い。

【大和元年】:南北朝北魏の太和元年。「太和元年春正月乙酉朔、詔曰・・・改今號為太和元年。」(魏書・高祖孝文帝紀)。大系本では南朝宋の年号で昇明元年(477)と記す。ここも当該語句を< >でくくる。

 【御託宣称】:ここでは、誰に神懸かりし、なぜ御食津神を呼び寄せるのかが省略されている。『止由気宮儀式帳』(以後、外宮儀式帳と記す)には「爾時、大長谷天皇御夢<爾>、誨覺賜<天>、吾高天原坐<弖>見<志>真岐賜<志>處<爾>志都真利坐<奴>。然吾一所耳坐<波>甚苦。加以大御饌<毛>安不聞食坐。故<爾>丹波国(与謝郡?)比治<乃>真奈井<爾>坐、我御饌都神、等由気太神<乎>我許欲<止>、誨覺奉<支>。」と記される。要約すれば、雄略天皇に夢で託宣し、高天原にいるときより希望していた所に鎮座したが、一人では寂しいので、我が食事の神をそばに置きたいと言うことである。

 【御食津(みけつ)神】:食事や食料庫の神。 群本は「食津(けつ)神」とするが、大系本に従い尊敬文字の「御」を補い「御食津神」とする。 他に「御膳都神」や「御饌都神」とも記されるが読みはどれも「みけつ神」。また日本書紀に「倉稲魂。此云宇介能美○麿(うかのみたま)。」とあり、「稲倉の神」をも示す。

 【丹後国与謝郡真井原】:「丹後国」は倭名抄に「太邇波乃美知乃之利(たにはのみちしり)」。また「国府在加佐郡。行程上七日。下四日。和銅六年(713)、割丹波国五郡、置此国」とあり、和銅六年以前は「丹波国与謝郡」か。与謝は倭名抄に「與謝<與佐(よさ)>」、丹波は同書に「太邇波(たには)」と言う。 日本書紀には「丹波国餘社郡」(雄略紀二十二年条)、「丹波国余社郡」(顕宗即位前紀)と記される。「真井原」は、このまま読めば「まいはら」だが、外宮儀式帳には「丹波国(与謝郡?)比治<乃>真奈井(まない)<爾>坐」とある。 日本書紀に「天真名井」(神代上・第六段本文)、古事記に「天之真名井」(上巻天安河の誓約段)とでてくる。「真名井」の解釈に岩波書店の日本書紀注釈では「神代上・第六段一書第一」の「濯于天渟名井(亦名去來之眞名井)而食之。」を引用し、この中の「渟名井」をなぜか「真渟名井」として複雑な解釈を試みるが理解に苦しむ。原文は「真渟名井」でなく「渟名井」であり、「真名井」である。しかも先の文に「濯・・・食之。」と、「濯いで、食す」とあれば、「飲料や調理に適した井戸」と言う意味であろう。また「去來之眞名井」とは「往来にある(共用の)名水の井戸」と言う意味であろうか。 ちなみみ、「渟(テイ)」は康煕字典に「渟;水止也。」、「決渟水致之海。(史記·李斯傳)」とあり、日本書紀で「天渟中<渟中、此云農難(ぬな)>原」(天武天皇紀上)と、「渟(テイ)」を「ぬ」と読ませているのは、「字音」からでなく、「字訓」からであろう。この「ぬ」は沼か。沼は和名抄に「沼;唐韻云沼池也。<和名、奴(ぬ)>」とある。先の「天渟名井」は(「名(な)」は助詞「の」と同等とみなす。)「天の沼の井戸」で、天武天皇の御名の「天渟中原」は「天の沼の原」か。日本書紀の「神渟名川耳天皇」を古事記では「神沼河耳命」と表記する。

 【饌】:「そなへ」(倭玉篇)。「飯食也。」(玉篇)。「具食也。」(説文)。

 【沼木郷山田原】:外宮儀式帳に「等由気太神宮院事<今称度会宮。在度会郡沼木郷山田原村>。」とあり、倭名抄の度会郡に「沼木<奴木(ぬき)>」とある。 江戸時代の『参宮名所図絵』に「山田;外宮神前の町をいふ。(中略)人家九千軒計り。尤宮中は沼木郷にて、其外箕田郷、継橋抔(など)今の市店の内にもあり。」と言う。

 【豊受太神宮】:外宮儀式帳では「止由気宮」や「等由気太神宮」と記す。この「止由気」や「等由気」などの「とゆけ」は字音に依る表記で、「豊受(とようけ)」は字訓による表記。 倭名抄に「日本紀云保食神<和名、宇介毛知乃加美(うけもちのかみ)>。保、猶保持(たもちもつ)也。宇気(うけ)者食之義也。言是保持食物之神也。」とあり、「とゆけ」は「とよ・うけ」の約音的現象か。明魏箸『倭片假字反切義解』の作法で「とようけ」を約音すれば「よ・う 反」で「ゆ」に反り「とゆけ」。これが字訓づかいの文字の「豊受」により「とようけ」と元にもどったか。 「食;飲食。大載禮曰、食穀者智恵而巧。」(廣韻)。

  

「原文」(8

 其後皇太神宮重御託宣称、

我祭奉仕之時、先可奉祭豊受神宮也。

 然後我宮祭事可勤仕也云々。

 彼宮禰宜<仁八>、天村雲命孫神主氏<乎>別定置令供奉也。

 即依託宣、豊受神宮之艮角造立御饌殿、

 毎日朝夕御饌物調備、令捧齎、令参向太神宮。

 爾時、太神宮禰宜天見通命孫神主氏乃禰宜、請預供奉之例也。

 但皇太神宮天降御坐之後、経四百八十四年、

 然後彼天皇即位廿二年戊午七月七日、

 豊受神宮<於波>被奉迎也。

  

「訳文」

 その後、皇太神宮の重ねての御託宣に

 「わが祭りに奉仕するときは、先に豊受神宮を奉祭(ホウサイ)すべしなり。

 しかる後に、我が宮の祭事に勤仕(キンシ)すべきなり云々」と言う。

 彼の宮の禰宜には、天村雲命の子孫の神主氏(度会氏)を別に定めおきて、供奉させるなり。

 即ち、託宣によって、豊受神宮の北東に御饌殿を造立(ゾウリュウ)し、

 毎日、朝夕の御饌物(おそなえもの)は調備(チョウビ)し、ささげもたらせ、太神宮に参向(サンコウ)させる。

 時に、太神宮禰宜で天見通命の子孫の神主氏(荒木田氏)の禰宜も、供奉に、うけあずかる例なり。

 ただし、皇太神宮のあまくだりまします後より、四百八十四年を経て、

 然る後、彼の天皇(雄略天皇)即位二十二年戊午(478年)七月七日に、

 豊受神宮は(やっと)迎え奉られるなり。

 

「語注」

 【我祭奉仕之時・・・】:『皇字沙汰文』(文書14)に「忝依内宮神勅、奉先外宮祭禮、幽契之縁也。」とある「神勅」がここの部分。

 【天村雲命】:外宮禰宜の度会氏の祖神。天牟羅雲命とも書かれる。『二所太神宮例文』の豊受太神宮度会遠祖奉仕次第の条に「天牟羅雲命<天御中主尊十二世孫。天御雲命子>。」とあり、『神宮雑例集』の御井社ノ事の条に「本紀云、皇太神宮皇孫之命(ニニギの命)天降坐時<爾>天牟羅雲命御前立<天>天降仕奉。」とあるが、日本書紀や古事記に登場しない。

 【孫】:孫や子孫で、ここは子孫。「子之子曰孫。系、續也。」(説文)。「孫:和名、無萬古(むまこ)。一云、比古(ひこ)。」(倭名抄)。

 【神主氏】:ここの神主は職名ではなく、氏族の姓か。

 【艮】:方位の「うしとら(丑寅)」。北東(鬼門)。

 【御饌殿(みけでん)】:ここの御饌殿は「御饌物調備、令捧齎、参向太神宮」とあるように、太神宮への御饌物を準備するところで忌火屋殿にあたり、今の調理室を言うか。後文の聖武天皇の段に記載される事件からここが膳を提供する殿舎となり、今の食堂に変更される。この当初の構造、規模は不詳。 なお『神宮雑例集』の「大同二年(807)二月十日。太神宮司二宮禰宜等本記十四ケ條内、朝夕御饌條」に「度会神主等遠祖大佐々命ヲ召<天>・・・宮之内艮角御饌殿<乎>造立<天>、其殿ノ内<爾>天照坐太神御坐奉、東ノ方止由居(豊受)太神御坐奉。」とあるが、これは聖武天皇以降の食堂としての御饌殿であり、これによって、この「大同本記」の伝承は新しいもので、雄略天皇時代ではないことが判明する。 外宮の儀式帳に「大宮壹院;御饌殿壹宇<長一丈。廣一丈。高一丈。>」と記されるのも変更後の御饌殿であり、食堂を言う。『新任辨官抄』にも「御食殿<一宇也。如宝殿有千木堅魚木。毎日二度、御膳供之屋也。朝未明、夕秉燭(ヘイショク・ともしびを手に持つ)程、供之。内宮御膳同供于外宮此殿也。」と記される。 神宮側史料、特に神代、託宣に関わる伝承は、年代を経るごとに、神宮神職の都合で改変、新造されたものもあり、取り扱いに注意が必要と言える。

 【毎日朝夕】:原文は「毎日御朝夕」だが、「御」は衍字か。愚見で「御」をはずす。大系本は「毎日朝御饌夕饌物」と校訂する。

 【於波】:「於」は「お」であるが、「乎(を)」の誤字か。大系本は「真本」の「ヲハ」を取り、「乎波」と校訂する。

 【豊受神宮・・・被奉迎也】:雄略天皇の時代に伊勢に迎えられても、日本書紀に「豊受神宮」に関する記事はなく、朝廷から官弊を受けるのも『公事根源』の「九月・例弊・十一日」条に、「さて外宮は、内宮鎮座の後四百八十四年を経て、雄略天皇の御宇に跡を垂れさせたまふ。養老五年九月十一日に、始めて官弊を奉らる。」と言われる。

 

「余談」(3)御饌殿の変遷

 御饌殿の変遷は大別すれば三期に分かれると思います。

 □ 内食期:(~雄略天皇)

伊勢に鎮座当時で、内宮で調理して神前に供える。

 □ 仕出し期:(雄略天皇~聖武天皇)

 豊受大神が鎮座し、外宮で調理し、内宮に配食する。

 ここは更に、内宮の所在により、二期に分かれる。

 前期;雄略天皇~文武天皇

 (「文武天皇二年十二月乙卯。遷多気太神宮于度会郡(宇治)」)

 後期;文武天皇~聖武天皇

 □ 外食期:(聖武天皇~現在)

 天照大神が外宮の御饌殿に出かけて外食される。これが各史料にのこるスタイルで、現在に至る。

 外食期以前の詳細は不詳ですが、その痕跡が内宮儀式帳の「供奉朝大御饌・夕御饌行事<用物>事」の段に僅かに残っていると個人的には思います。

 ここには毎日の御饌ではなく、三節祭(二度の月次と神嘗祭)の大御饌供奉次第が記される。それを次に略記します。(原文は内宮の儀式帳を御覧下さい。)

 ○ まず、「伊鈴御河(五十鈴川)」の川中の「中嶋」に、「石畳」を造り、そこに「止由気太神」を迎える。そこへ「黒木」をもって造る橋を架ける。

 ※この場所は流されて不詳であるが、移された場所が、嘉永二年の「皇大神宮域内略図」に「豊受大神御坐石畳」として書かれる。この場所は現在の御贄調舎か? 「伊勢参宮名所絵図」には「外宮豊受宮拝所」として、「昔は正殿の南にあたる辺の五十鈴川の二股に流れし、其中の洲に石畳を作りて、黒木の橋を架て、三節の祭ことに御饌供進せり。洪水のために流された後、今の所に移し奉れり。故に此所を御橋の拝所と云は、黒木の橋によれる名なり。」とある。

○ 「御笥(みけ)作内人造御贄机」や「忌鍛冶内人造奉御贄小刀」を用意し、「志摩国神戸百姓供進鮮鮑螺(アワビ・サザエ)等御贄」をその机の上に置く。

これらを黒木の橋を渡って中嶋の「止由気太神」の許に持って行き、五十鈴川で清める。

 ○ この後、料理し、「天照皇太神<乃>大御饌供奉。」として神前に供する。

 

「原文」(9

 用明天皇

 即位二年<丁未>、聖徳太子與守屋大臣合戦。

 其故者、太子修行仏法、

 我朝欲弘法<爪>。

 大臣我朝偏依為神国、欲停止仏法<志天>、成欲誅殺太子之企。

 爾時年十六歳也。

 爰合戦之日、遂誅殺大臣畢、

 太子勝於彼戦畢。

 于時以大錦上小徳官前事奏官兼祭主中臣国子大連公差勅使、

 令祈申於天照坐伊勢皇太神宮給<倍利止>云々。

  

「訳文」

 用明天皇。

 即位二年<丁未>(587)に、聖徳太子と守屋大臣が合戦。

 その理由は、太子が仏法を修行し、

 我が朝廷に仏教を弘めようとしたからである。

 (守屋)大臣は、我が朝廷は、ひとえに神国たるによって、

 仏法を停止させようとし、太子を誅殺(チュウサツ)しようとする企てをなす。

 その時、(太子は)年十六歳なり。

 ここに、合戦の日、ついに、(守屋)大臣を(逆に)誅殺しおえて、

 太子が彼の戦いに勝っておわる。

 時に、錦上小徳官前事奏官兼祭主の中臣国子大連公(きみ)を勅使に選び(使わし)、

天照坐伊勢皇太神宮を祈り申させたまえりと云々。

 

「語注」

 【用明天皇】:日本書紀に「橘豊日天皇」。古事記に「橘豊日命」。これ以降、天皇の寿命の記載は無い。雄略天皇から用明天皇の間の八代は欠史。

【即位二年<丁未>】:西暦587年(日本書紀暦日原典)。天皇崩御は二年四月癸丑(九日)。合戦は同年七月。『帝王編年記』に「大連弓削守屋<天皇二年、為馬子宿祢・厩戸皇子等被殺。>」。

 【守屋大臣】:日本書紀は「物部守屋大連」。同書敏達天皇元年紀に「以物部弓削守屋大連爲大連、如故。以蘇我馬子宿禰爲大臣。」。

 【弘法(グホウ)】:(仏)法をひろめること。

 【企】:群本は「命」だが、大系本の校訂に従い「企(くわだて)」とした。

【誅殺(チュウサツ)】:「誅」とは「討也。」(説文)、「殺也。」(廣雅)、「詰誅暴慢。<暴慢を詰誅(キッチュウ)する。>」(禮·月令)とあり、「誅殺」とは「罪を問い、罰として殺すこと」で、この文言はここに不適切と思える。

 【爰】:「ここに」(倭玉篇)。「爰、於也。言祖乙已居於此<祖乙(13代殷王)が既に、ここに、いることを言う。>」(商書・盤庚・注)。

 【大錦上小徳官前事奏官兼祭主中臣国子大連】:『中臣系図』に「小徳冠前事奏官兼祭官国子大連公。右大連公供奉岡本朝廷(舒明天皇)とあり、「国子」は舒明天皇の時に奉仕した人であり、時代が合わない。日本書紀にもこの記事は無い。 「大錦上」は天智三年の冠位であり「大徳」に相当。 「小徳」は推古十一年の冠位で、どちらも時代に合わない。また「小徳官」の「官」は、中臣系図から見ても「冠」であろう。

 【前事奏官】:不詳。 『大中臣系図』に「小徳官前事奏官兼祭官御食(子)大連公;小墾田朝廷(推古)、以御食子為祭官、補中納言。」とあり、「前事奏官」とは令制の「中納言(令外官)」に相当するか。 中納言は『職原抄』に「持統天皇六年始置此官。其後罷之。大宝二年定官位令日、無此官。仍為令外官歟。」。 『続日本紀』「大宝元年(701)三月甲午」条に「是日罷中納言官。」と一時廃止するが、同書「慶雲二年(705)四月丙寅」条に「更置中納言三人。以補大納言不足。其職掌、敷奏・宣旨・待問・參議。」と復活させる。

 【差】:ここは体言でなく、用言として解釈。または「選択」の意か。

  

「原文」(10

 孝徳天皇

 大化元年<乙巳>、蘇我入鹿大臣已為謀反之企。

 仍公家為其御祈、被進於伊勢太神宮神宝物等。

 而間中大兄皇子、中臣鎌子公、誅殺件入鹿大臣、既畢。

 同二年、依右大臣宣奉勅、

 被進伊勢太神宮御神宝物等<不記色々。具式文也。>。

  

「訳文」

 孝徳天皇

 大化元年<乙巳>(645年)、

蘇我入鹿の大臣がすでに謀反の企てをなす。

 よって、公家はその御祈りをなし、伊勢太神宮に神宝物等をたてまつれる。

 しかるあいだ、中大兄皇子と中臣鎌子公が、件の入鹿の大臣を誅殺し、すでにおわる。

 同二年(646年)、右大臣宣(セン)の奉勅(ホウチョク)により、

 伊勢太神宮に御神宝物等をたてまつれる<色々と記さず。式文につぶさにあり。>。

  

「語注」

 【孝徳天皇】:日本書紀に「天萬豊日天皇」。 崇峻・推古・舒明・皇極の四代は欠史。

【大化元年<乙巳>】:西暦645年(日本書紀暦日原典)。群本に<乙巳>は無いが、大系本に従い補う。 「大化」より始めて中国式年号を採用し、中国文明を積極的に取り入れる。日本書紀に「尊佛法軽神道〈斬生國魂社樹之類是也。〉。為人柔仁好儒、不択貴賎、頻降恩勅。」(孝徳天皇即位前紀)。 但し社会的に年号の使用が義務化されるのは「大宝令」以降。「凡公文応記年者、皆用年号」(儀制令)。

 【蘇我入鹿大臣】:「大臣」とあるが、皇極天皇紀に「以蘇我臣蝦夷爲大臣如故。大臣兒入鹿〈更名鞍作。〉自執國政。威勝於父。」とあり、大臣は父の蝦夷。 日本書紀では、入鹿は、父に勝って、自ら国政をとると記載され、時の天皇(皇極)との私的な強いつながりを示す。

 【謀反】:「律」に定める「八虐(謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義)」の最初の項目に上げられる重罪。「一曰。謀反。謂。謀危国家(天皇)。<謂。臣下将図逆節。而有無君之心。不敢指斥尊号。故託云国家。>」(律・八虐)。 大系本は「謀叛」とするが、「謀叛」は、同じく八虐に「三曰。謀叛。謂。謀背国従偽。<謂。有人謀背本朝。将投蕃国。或欲翻城従偽。或欲以地外奔。>」とあり、また中大兄皇子が宮中で入鹿を襲撃したときの口上に「鞍作(入鹿)盡滅天宗、將傾日位。」(皇極紀四年六月)とあることなどから考えると、ここは大系本の「謀叛」より、群本の「謀反」が適切か。

【公家】:皇家(天皇。朝廷)。「天皇を申し奉る称。おおやけともいへり。転じては朝廷の別称とす(中略)徳川時代、武家に対して朝臣の事をすべて公家といへり。」(関根正直他箸「有識故実辞典」)。

 【進】:たてまつる。大系本の傍訓に「たてまつ」とある。

【御祈】:内容は不詳。

 【中大兄皇子】:後の天智天皇。舒明天皇の子で、母は皇極天皇。

 【中臣鎌子】:鎌足とも記される。藤原氏の氏祖。帝王編年記に「内臣中臣鎌子連<(中臣)御食子大連子息。(孝徳)天皇元年為内臣、年三十一。>」。

 【誅殺】:群本には「誅進」とあるが、大系本に「誅殺」とあり、これに従う。

 【右大臣】:蘇我倉山田石川麻呂。入鹿襲撃の功労者の一人。帝王編年記に「右大臣大錦冠蘇我山田石川麿<(孝徳)天皇元年為右大臣。五年、為皇太子(中大兄皇子)被殺。>」。

 【奉勅(ホウチョク)】:群本の原文は「依右大臣宣勅」とあるが、大系本や太政官符等の文書形式により「勅」の前に「奉」を補う。 ここの 「奉」は「承也」(説文)の「うけたまわる」の意。 公文の文書形式は、「宣」より後が、その宣の内容となり、「○○宣、奉勅・・・」となるが、文頭に「依」があるため、「依」より後の奉勅までの文を「依」にかかる体言句として漢語読みとした。

 【式文】:内宮儀式帳の「寶殿物十九種」をさすか。

  

 

「原文」(11

 

天武天皇

 

白鳳二年<壬申>。

 

太政大臣大伴皇子企謀反、擬奉誤天皇。

 

于時天皇之御内心<仁>伊勢太神宮令祈申給。

 

必合戦之間令勝御者、以皇子<天>、

 

皇太神宮御杖代可令斎進之由御祈祷有感応、

 

彼合戦之日、天皇勝御<世利>。

 

仍御即位二年<癸酉>九月十七日、

 

天皇参詣於伊勢皇太神宮<志天>、令申御祈給<倍利>。

 

或本云、神宮参着了者、

 

又或本云、従飯高郡遙拝皇太神宮、帰御之由具也。

 

件記文両端也

 

<記日本紀也。>。

 

 

 

「訳文」

 

天武天皇

 

白鳳二年<壬申>(672年)。

 

太政大臣大伴皇子が謀反を企て、天皇(天武)をあやめ奉ることを擬(ギ)す。

 

時に、天皇の御内心に、伊勢太神宮を祈りも申さしめ給う。

 

かならず合戦の時に勝たしめおわしまさば、皇女をもって、

 

皇太神宮の御杖代に斎(いつ)き奉らせるべきの由の御祈祷(キトウ)に感応あって、

 

彼の合戦の日に、天皇が勝ちおわしませり。

 

よって、御即位二年<癸酉>(673年)九月十七日に、

 

天皇が伊勢の皇太神宮に参詣(サンケイ)して、御祈を申さしめ給う。

 

或本には、神宮に参着(サンチャク)しおわると言い、

 

また或本には、飯高郡より皇太神宮を遙拝し、帰りおわしますの由つぶさにあると言う。

 

件の記文(キブン)は極端なり。

 

<(事実は?)日本書紀に記すなり。>

 

 

 

 

 

「語注」

 

【天武天皇】:日本書紀に「天渟中原瀛眞人天皇」。斉明天皇、天智天皇の二代は欠史。

 

【白鳳二年<壬申>】:壬申年は西暦672年(日本書紀暦日原典)であり、「壬申の乱」の年で、天武天皇元年に当たる。 後文にも「白鳳四年<甲戌>」とあり、「甲戌」は「壬申」から算えて三年目で、天武天皇三年に当たる。このため群本では、白鳳元年が天武即位前年の辛未年となり、天智天皇十年となる。これで「白鳳」が大友皇子の年号の可能性も出てくるが、 『帝王編年記』では、「白鳳元年壬申即位。」とあり、壬申年が白鳳元年とする。

 

この他、白鳳元年の時期には諸説がある。「白鳳」が記載される比較的古い史料には『三代類聚格(天平九年三月十日条)』、『続日本紀(神亀元年十月条)』、『古語拾遺』、『藤氏家伝』などが上げられているが、この中で干支年が並記され年代が換算できるのは『藤氏家伝』の「貞慧傅」だけであろう。そこには「白鳳五年歳次甲寅」と「白鳳十六年歳次乙丑」の二つの記述がある。これで見ると白鳳五年の甲寅年は西暦654年で、乙丑は甲寅から算えて12年目で、記述の白鳳十六年にあたる(5+12-116)。元年は、これを逆算すれば庚戌年(650年)となる。この白鳳元年、五年、十六年を日本書紀で見ると、それぞれ孝徳天皇の白雉元年(庚戌)、白雉五年(甲寅)と天智天皇四年(乙丑)に該当する。 日本書紀は「白鳳」の年号を収録していないが、これは日本書紀独自のものと言えよう。正史と言う六国史の中でも日本書紀の暦日だけは、おもに編纂時の後付であり、存在しないものや実施されていない暦法に依る長暦が使用され、史書としては特異な存在と言える。 また令制による「大宝」より前の年号で色々と諸説がうまれた原因には、当時の社会的実施暦が曖昧で、年号自体も法的に行政化されていなかったことや、日本書紀が一般に公開されず、それにかわる民間の「年代記」等が後世に多く作られ、それらが世間に流布したことなどがあげられるか。『帝王編年記』(新訂増補国史大系)、『扶桑略記』、『皇代記』(群書類従)、『東寺年代記』(続群書類従)など現存する類も多いと言う。

 

そもそも所謂「王代記(帝紀)」と言うものは、古事記序文に天武天皇のお言葉として「諸家が所持する帝紀及び本辞(諸家之所齎帝紀及本辞)」と記載するように、天皇に近習した各氏族がそれぞれに伝えてきたものであろう。これを公的に管理するようになるのが、職員令に「中務省;監修国史」とあるように「大宝令」以降であり、それ以前の史官の存在は管見であるが確認出来ない。古事記と日本書紀が欠史八代を含めた「王代」が同一というのも情報源を同じくするものか。弘仁年間(813年頃)の「日本書紀私記序文」にも選者、選時不詳本として、日本書紀とは異なる『神別紀』や『帝王系図』、『諸民雜姓記』等の民間流布本を載せる。

 

【太政大臣】:行政官(太政官)のトップ。「職員令」に「太政官:太政大臣一人。右師範一人、儀形四海、経邦、論道、燮理陰陽、無其人則闕。」。日本書紀に「是日。以大友皇子拜太政大臣。以蘇我赤兄臣爲左大臣。以中臣金連爲右大臣。」(天智天皇一〇年(六七一)正月)とあり、「太政大臣」の始め。

 

【大伴皇子】:大友皇子。天智天皇の男で、『帝王編年記』に「大友皇子;母宅子娘。浄御原御宇(天武天皇の治世)謀反。被誅。」。日本書紀に「又有伊賀采女(うねめ)宅子娘(やかこのいらつめ)、生伊賀皇子。後字(のちのな)曰大友皇子」とある。

 

【擬(ギ)】:はかる。「度也」(説文)。

 

【誤】:大系本の傍訓に「あやめ(る)」。 「誤;謬也。」(説文)。「謬;乱也、詐也。」(玉篇)。日本書紀に「今聞。近江朝庭之臣等、為朕謀害。」(天武天皇元年(672)六月壬午(22日))。

 

【合戦】:壬申の乱。日本書紀に依れば、始まりは壬申年(672年)622日。「(天武天皇)宣示機要、而先發當郡兵、仍經國司等差發諸軍、急塞不破道。朕今發路。」(天武天皇元年(672)六月壬午(22日))と天武天皇が挙兵の命令をだす。終結は同年723日に「大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。」(同年(672)七月壬子(23日))と大友皇子が自死。同月26日に「將軍等向於不破宮。因以捧大友皇子頭而獻于營前。」(同年七月乙卯(26日))と大友皇子の首を天武天皇に献上した記事を載せる。合戦は約一ヶ月 。尚、この時には天武天皇は天皇ではなく、大海人皇子として吉野の離宮で俗世を捨てた出家(戒を受けない自称)の身。よって厳密には、大伴皇子の行為は謀反にあたらない。

 

【者】:群本は「前」だが、意味不詳となるため、大系本に従い「者」とし、同本の傍訓「ば」に従う。

 

【皇子】:後文から考えるに、「皇女」であろう。

 

【御杖代(みつゑしろ)】:斎宮(斎王)。天照大神の御杖代として諸国を巡幸した倭姫になずらえて呼ぶか。『類聚国史』にも「天長五年(828)二月・・・氏子親王<乎><淳和皇女>大神御杖代<止之弖>奉入<多留>親王<邇>在」とある。

 

【即位二年<癸酉>】:西暦673年(日本書紀暦日原典)。日本書紀の天武天皇二年十二月の条に「是年也、太歳癸酉。」

 

【両端】:極端と解した。

 

【記日本紀也】:日本書紀には合戦の途上で「於朝明郡迹太川邊、望拜天照太神。」(天武天皇元年(672)六月丙戌(26日))とあり、本陣となる不破郡野上(関ヶ原)に近い朝明郡での「望拜」とある。天皇の伊勢参拝記事は六国史にはない。神宮側史料でもおもにここの記事だけであろう。 天皇みずからの伊勢参拝は、阪本廣太郎著『神宮祭祀概要』に「天皇の御参拝は古来嘗てなく、初めて明治天皇がその御例を開かせ玉ふた。」と言う。

 

 

 

 

 

「原文」(12

 

白鳳四年<甲戌>秋九月十三日<仁>、

 

多基子内親王参入於太神宮給<倍利>。

 

朱雀三年九月廿日。

 

依左大臣宣奉勅、伊勢二所太神宮御神宝物等<於>、

 

差勅使被奉送畢<色目不記>。

 

宣旨状称、二所太神宮之御遷宮事、廿年一度応奉令遷御。宜為長例也云々。

 

抑朱雀三年以往之例、

 

二所太神宮殿舎御門御垣等<波>宮司相待破損之時奉修補之例也。

 

而依件宣旨定遷宮之年限、

 

又外院殿舎倉四面重々御垣等所被造加也。

 

 

 

「訳文」

 

白鳳四年<甲戌>(674年)秋九月十三日に、

 

多基子内親王が太神宮に参入したまえり。

 

朱雀三年九月廿日。

 

左大臣宣の奉勅により、伊勢二所太神宮の御神宝物等を、

 

勅使を選び、送り奉ることおわる。<(その)品目は記さず>。

 

宣旨の状に「二所太神宮の御遷宮の事、廿年に一度、遷御させ奉るべし。長例と為すべし也云々」と言う。

 

そもそも朱雀三年以往の例は、

 

二所太神宮の殿舎、御門、御垣等は、宮司が破損の時を相まって、修理奉る例なり。

 

しかして、件の宣旨によって、遷宮の年限を定め、

 

又、外院の殿舎、倉、四面の重々(おもおも)しい御垣等を作り加え奉る所なり。

 

 

 

「語注」

 

【白鳳四年<甲戌>】:西暦674年。天武天皇三年(即位二年)。

 

【多基子(たきこ?)内親王】:不詳。天武天皇の皇女で該当するのは「託基(たき)皇女」か。彼女は、『続日本紀』で「多紀(たき)皇女」や「當耆(たき)皇女」と表記される。但し、日本書紀で天武天皇三年に伊勢に派遣されたのは「大来皇女自泊瀬齋宮、向伊勢神宮。」(十月九日条)とあり、大来皇女。

 

『二所太神宮例文』の「第二十伊勢斎内親王」に載せる天武天皇以降の斎宮は、「大来内親王・多基子内親王・阿閇内親王・當耆内親王・泉内親王・田形内親王・多紀内親王・・・」と順に列記するが、この内、阿閇内親王(後の元明天皇)と泉内親王は天智天皇の皇女で、他が天武天皇の皇女。 多基子、當耆、多紀の3名は恐らく同一人物。ここに列記された皇女の中で斎宮として滞在したのは天武天皇時代の大来皇女と、文武天皇の時に派遣される當耆(多紀)、泉、田形(多形)の三皇女。他は勅使としての臨時派遣か。 滞在型は「遣當耆(多紀)皇女、侍于伊勢齋宮。」(続紀文武二年)と「侍(はべる)」があり、臨時派遣の場合は「丙申(27日)、遣多紀皇女。山背姫王。石川夫人於伊勢神宮」(天武紀朱鳥元年四月)と「侍」が無く、同書同年五月の記事に「五月庚子朔戊申(九日)、多紀皇女等至自伊勢。」とあり約二週間弱で帰京している。

 

【朱雀三年】:不詳。「朱雀」が日本書紀の言う「朱鳥」ならば、その三年は持統二年(持統元年は即日称制の翌年正月)にあたり、ここの勅は持統天皇のものとなる。 日本書紀の朱鳥元年は天武十五年(即位十四年)で、同年七月二十日に改元し、同年九月九日崩御。即日、持統天皇が臨朝称制で天皇の代役に臨む(即位は持統四年正月)。 『二所太神宮例文』 「第九大宮司次第」には、「<第二(二代目大宮司)>大朽連馬養<朱雀二年。持統天皇御代任。在任十七年、或十五年。>」と持統天皇に朱雀二年の記事がある。  尚、大系本はこの文の前に「白鳳十四年・・・宜長例者也」の文を挿入するが、これは『群書解題』によれば、後世の書き加えと言う。

 

【左大臣】:日本書紀等によれば、天武天皇の時代は、左右大臣は空席。次の持統天皇の時は、太政大臣(高市皇子・四年七月五日任)と右大臣(多治比嶋真人四年七月五日任)のみで、左大臣は空席。

 

【<色目不記>】:ここに品目を記さないと言うのは、前文にあった「具式文也」を受けたものであろう。前文の「式文」とは、恐らく内宮儀式帳の「寶殿物十九種」をさすか。

 

【宣旨(センジ)】:命令下達の公文書。「宣奉勅」は勅命を伝える。天子の命令書には「公式令」に「詔書(詔旨)式」や「勅旨式」があるが、「宣旨」はこれらの作成手続きを簡素化した文書。後世その種類は多岐にわたる。 六国史での初出は「東宮宣旨<止>爲<弖>」(弘仁元年九月の宣命)と「職名」として記載される。 『中家実録』(続々群書類従)に「凡宣旨者、蔵人頭奉口勅、書其趣而、遣上卿(大臣等)、謂之口宣。以其口宣留書之、在蔵人、謂口宣案。上卿以其口宣、留我家、別写一通、下知外記或史。然外記史更写一通。年月之下記自官位姓名遣仕人。是曰宣旨。」と言う。*(『中家実録』;中原家の有職故実に関する秘伝書。)

 

【宜為】:群本は「立為」だが、大系本に従い「宜為」とした。

 

【殿舎御門御垣】:ここに言う殿舎、御門、御垣は内宮儀式帳に言う「大宮、壹院」のことであろう。そこには、正殿壹区、寶殿二宇、御門十一間、玉垣三重、斎内親王侍殿一間、女孺侍殿一間とある。 『新任弁官抄』では、御垣を瑞籬(みづがき)、内玉垣、外玉垣、荒垣の四重と言い、「件荒垣有鳥居、此中号内院。内院殿皆萱葺。千木堅魚木有之。門又同。」と言う。

 

【宮司】:神宮の政所(まんどころ)でその役職も言う。内宮儀式帳の「初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事」に「従纏向殊城朝廷(垂仁天皇)以来、至于難波長柄豐前宮御宇天萬豐日天皇(孝徳天皇)御世有爾鳥墓村造神庤(シンチ)<弖>、為雑神政行仕奉<支>。(中略)同朝廷御時<仁>・・・度會山田原造御厨<弖>改神庤<止>云名<弖>、号御厨、即号大神宮司<支>。」と場所や名称の変遷を記す。*(《玉篇》庤;儲也,具也。)。  『二所太神宮例文』 「第九大宮司次第」に<第一><中臣>香積連須気<河内國錦織郡人也。孝徳天皇御代任。在任四十年>」と代々の大宮司の補任を孝徳天皇の世から記す。中間は他姓も補任されたが、同書に「<第十七此宮司以後不任他姓>中臣比登<祭主廣見七男。寶亀元年十二月任。>」とあり、これ以降は中臣氏の専任となる。 『類聚三代格』の太政官符に「加置伊勢大神宮司員事。元一人。今、加一人」(貞観十二年八月十六日)。

 

【外院】:内宮儀式帳に載る「大宮、壹院」以外の「幣殿一院」から「諸物忌小内人常宿斎館屋」までを言うか。

 

 

 

「原文」(13

 

持統女帝皇

 

即位四年<庚寅>。太神宮御遷宮。

 

同六年<壬辰>。豊受太神宮遷宮。

 

 

 

「訳文」

 

(省略)

 

 

 

「語注」

 

【持統女帝皇】:持統天皇。日本書紀に「高天原廣野姫天皇」。名前に「高天原」とついているが、自称「高天原」出自の臣下も石を投げればあたるほど多い。その中であえて「高天原」と付けたのは、俗世の垢に染まらず、高天原から降りたてのように清く美しいと言う事か。

 

【即位四年<庚寅>】:この「庚寅」年は、西暦690年(日本書紀暦日原典)。持統天皇四年にあたり、即位元年。この「神宮雑事」で「即位四年」と書くが「持統天皇四年」のつもりであろう。

 

【太神宮御遷宮】:前文の朱雀三年九月廿日の宣旨による初めての遷宮。但し先の朱雀三年の宣旨は「依左大臣宣奉勅」と言うが、日本書紀や民間の年代記等によれば、天武及び持統天皇期の左大臣は、空席のままである。 『二所太神宮例文』「第二十六二所太神宮正遷宮臨時并仮殿遷宮」(正遷宮とは臨時や仮殿に対する名称)に、「白鳳十三年<庚寅>九月太神宮御遷宮。<持統天皇四年也。自此御宇、造替遷宮被定置廿年。但、大伴皇子謀反時、依天武天皇之御宿願也。>」と言う。干支年は「神宮雑事」と同じだが年号が異なる。同じ神宮史料の中でも白鳳等の年号はまちまちである。これは、これら法制化以前の年号に行政的統一がなされていない事を示す。また式年遷宮は、「天皇之御宿願」と記述するが、実際に勅命を出したのは持統天皇である事を示唆する。

 

【豊受太神宮遷宮】:『二所太神宮例文』を見ると、正遷宮は、先ず内宮の遷宮が行われ、次に年をずらして外宮の遷宮が行われている。現今のように二宮同年遷宮は、『神宮年代記抄』に「天正十三年乙酉(1585年)十月十三日内宮御遷宮、同十五日外宮御遷宮。」とあり、これより始まると言う(古事類苑)。

 

 

 

「原文」(14

 

元明女天皇

 

和銅二年<己酉>。

 

於太神宮外院之乾方、始立宮司神館。

 

五間二面、萱葺屋二宇。定置永例料也。

 

同二年太神宮御遷宮。

 

同四年豊受宮御遷宮。

 

 

 

「訳文」

 

元明女天皇

 

和銅二年<己酉>(709年)。

 

太神宮外院の西北に宮司神館をはじめてたてる。

 

五間二面で萱葺屋根の二棟。

 

(これを)永例の料(リョウ)と定め置くなり。

 

同二年(709年)太神宮御遷宮。

 

同四年(711年)豊受宮御遷宮。

 

 

 

「語注」

 

【元明天皇】:『続日本紀』に「日本根子天津御代豊国成姫天皇」。文武天皇の世は欠史。元明天皇以降は欠史がなく、一代毎の記載となる。

 

【和銅二年<己酉>】:西暦709年(歴史読本編「万有こよみ百科」)。群本は「和同」だが、大系本に従い「和銅」とした。

 

【太神宮外院】:『神宮典略』「殿舎考三」に「大宮内院の外は皆外院なり。」という。『参宮名所図絵』に「一鳥居<神宮の入り口なり。>」とあり、一の鳥居から外院に入るか。『西宮記』「伊勢使」に「至御裳濯河、行祓、於第一鳥居外、脱剣。」とある。

 

【乾】:いぬゐ(ケン)。西北。「一の鳥居」の辺りか。

 

【宮司神館】:不詳。宮司の内宮での宿館(斎館)か。延暦廿三年の「内宮儀式帳」に、宮司の政所としての御厨(みくりや)は、孝徳天皇の時代から「山田原」にあると言うが、「宮司神館」の記載はない。この後の記事に、この神館の度重なる出火の事があり、これにより撤去されたか。

 

【五間(ま)】:五部屋。各部屋の寸法は不明。六尺を一間とする寸法の単位と異なる。

 

【二面(メン)】:二ヶ所。平面上の地割を言うか。

 

【二宇(ウ)】:二棟。ここの「宇」は、家屋の数をかぞえる単位。「宇、謂屋之覆也」(漢書・師古注)。「宇、屋也」(楚辞・離騒注)。

 

【料(リョウ)】:ここの「料」は基準値か。「料;量也。量者,稱輕重也。稱其輕重曰量。稱其多少曰料。」(説文解字注)

 

【同二年・・・】:和銅二年(709)の内宮遷宮。『二所太神宮例文』に「和銅二年<己酉>内宮遷宮<元明天皇御宇>。自白鳳十三年(持統天皇の四年)及廿二年。」。

 

【同四年・・・】:和銅四年(711)の外宮遷宮。『二所太神宮例文』に「和銅四年<辛亥>外宮遷宮。自内宮遷宮隔中一年。」。

 

 

 

 

 

「原文」(15

 

元正女天皇

 

霊亀三年八月十六日、大風洪水。

 

仍豊受神宮之瑞垣并御門一宇流散。

 

但、件水御正殿之許一丈際、専不流寄〈志天〉、

 

土下涌入也。甚神妙也云々。

 

養老六年〈癸亥〉三月三日。

 

大和国宇陀神戸司進於神祇官申文云、

 

年中四ヶ度御祭、臨時奉幣

 

[執幣丁朔日奉稲富目上古時](執幣丁、期日、奉稲富。自上古時)

 

為譜第之者、専無他役。

 

而以去二月廿七日、為散位縣造宿祢吉宗被打損者。

 

仍上奏已畢、

 

随則以同年五月七日、

 

件吉宗被配流隠岐国又畢。

 

 

 

「訳文」

 

元正女天皇

 

霊亀三年(717年)八月十六日、大風洪水。

 

よって、豊受神宮の瑞垣ならびに御門一棟が流れ散る。

 

但し、件の水、御正殿のもと一丈(約3m)際までは、もっぱら流れ寄らずして、

 

土の下に吸い込まれるなり。(これは)甚だ神妙なり云々。

 

養老六年三月三日。

 

大和国宇陀の神戸司が神祇官に申し文をたてまつり、

 

「年中四度の御祭や臨時奉幣の幣を守る役夫には、(各々の)期日に稲富を差し上げる。

 

(この役は)上古の時より、譜第の者をなし、もっぱら他(他姓)を役(エキ)することなし。

 

しかるに、去る二月廿七日に、(稲富は)縣造宿祢吉宗のために打ちそこなわれる。」

 

と言う。

 

よって、上奏すでにおわり、

 

したがって、(勅裁が下り)すなわち同年五月七日をもって、

 

件の吉宗は、隠岐の国(隠岐の島)に流されまたおわる。

 

 

 

「語注」

 

元正女天皇】:群本にないが、大系本に従い補う。『続日本紀』に「日本根子高瑞浄足姫天皇」。

 

【霊亀三年】:養老元年(11月改元)。丁巳年で西暦717年(万有こよみ百科)。

 

【瑞垣(みづがき)】:正殿の一番内側の垣。

 

【涌入(ヨウニュウ)】:「わきいる」か。涌出(ヨウシュツ)の逆か。

 

【養老六年〈癸亥〉】:「癸亥年」は養老七年(723)にあたり、養老六年(722)は「壬戌年」。年号年か干支年か、どちらかに記述の誤りがある。

 

【神戸司】:不詳。神戸の地元責任者の一人か。『公文筆海抄』「任料事・神領」の条に「神戸司」が散見出来るが、「宇陀郡の神戸司」はない。「職員令・神祇官」に「掌・・・神戸名籍」。

 

【年中四ヶ度御祭】:伊勢神宮に勅使を派遣する四度の祭り(春の祈年祭・夏冬の月次祭・秋の神嘗祭)。「伊勢神宮式」に「凡神嘗祭弊帛使・・・其年中四度使、・・・其祈年、月次使」。

 

[執幣・・・上古時]】:愚見で[  ]内にくくる部分の文は、群本や大系本でも意味不明となる。よって、「朔→期」に、「目→自」に変え、「稲富」を人名か役名とした愚見を( )内に提示した。「訳文」もこの文で行った。

 

】:まもる。「執;守也、持也。」(正韻)。

 

【丁(よほろ)】:令制の役夫。

 

【譜第(フダイ)】:世襲的に公職(臣下)に就くこと。

 

【役(エキ)】:公用ために人民を使役すること。「役;使役也。」(玉篇)。

 

【散位】:位階があって官職のない者。ここの位階は不明。「職員令・式部省・散位寮」に「謂、文武官人解官之後、皆同此司耳。」。

 

【縣造宿祢吉宗】:不詳。

 

【打損(うちそこなふ)】:理由は不明だが、傷害や殺害に及ぶか。

 

【配流】:流罪。

 

 

 

「原文」(16

 

聖武天皇

 

神亀六年正月十日。

 

御饌物依例於豊受神宮調備、従彼齎参於太神宮之間、

 

字浦田山之迫道、

 

死男為鳥犬被喰、

 

肉骨分散途中。

 

而忽依無遁去之道、

 

件御饌物〈乎〉齎撤〈天〉、

 

合期供進已了。

 

爰同年二月十三日、天皇俄御薬。

 

仍令卜食。

 

神祇官、陰陽寮勘申、

 

巽方太神依死触不浄之咎所祟給也者。

 

即下賜宣旨於国司、太神宮司、被捜糺之処。

 

件浦田坂死人之条、依実注申。

 

随則同三月十三日、

 

依右大臣宣奉勅、下勅使、

 

且被謝遣件不浄之由、

 

且彼日御饌齎参豊受宮大物忌父<止>補神主川麻呂、

 

御炊内人神主弘美、及物忌子等、

 

進怠状、科大祓、解却見任了。

 

 

 

「訳文」

 

聖武天皇

 

神亀六年(729年)正月十日。

 

御饌の物は例によって豊受神宮で調備(チョウビ)し、

 

彼(豊受神宮)より太神宮に持ち参る時、

 

字(あざ)浦田の山の迫道(ハクドウ)に、

 

死んだ男が鳥や犬のために喰われ、

 

(男の)肉や骨が途中に分散していた。

 

しかし、たちまちに遁去(トンキョ)する道なしにより、

 

件の御饌の物を持ち通って、

 

予定時刻どおり供えたてまつることすでにおわる。

 

ここに、同年二月十三日、天皇にわかにご病気。

 

よって卜食(ボクショク)を命じる。

 

神祇官と陰陽寮が、(占いの結果を)かんがえ申すに、

 

「南東の方位の太神が、死触不浄の咎により、祟りたまうところなり」と言う。

 

即ち宣旨を国司と太神宮司に下賜され、捜糺(ソウキュウ)されるところとなる。

 

件の浦田坂の死人のことは、事実によって、(朝廷に)報告された。

 

したがってすなわち、同年三月十三日に、

 

右大臣宣の奉勅により、勅使を下し、

 

かつは、件の不浄の由を謝りに遣わされ、

 

かつは、彼の日に御饌(みけ)持ち参る豊受宮の大物忌の父として補す神主川麻呂、

 

御炊(みかしき)の内人の神主弘美、及び物忌の子らに、

 

始末書をたてまつらせ、(彼らに)大祓を科し、現職を解任しておわる。

 

 

 

「語注」

 

【聖武天皇】:『続日本紀』に「天璽国押開豊桜彦天皇<勝宝感神聖武皇帝>」。

 

【神亀六年】:己巳年。西暦729年(万有こよみ百科)。天平元年(8月改元)。

 

【字(あざ・あざな)】:通称(人に限らない)。「名曰弥勒寺、字曰能応寺也」(霊異記下巻第三十話)。

 

【齎】:「齎;持也。」(廣韻)。

 

【浦田】:山田と宇治との境。『伊勢参宮名所図絵』に「牛谷の坂よりさし入の町なり。これより人みな宇治といふ。」(お伊勢参りの盛んな江戸時代は賑わいを見せるか)。また山田と宇治の兵乱を記す『内宮子良館記』に「浦田口をば、山田三方(外宮側の神戸)の衆、入替わり入替わり攻め戦ふといえども、かまへ吉により、ちとも働かせず。(内宮側の神戸)矢ぶすまをつくりて、散々に射かかる」とある。

 

【山之迫道】:山道の切り通しの様な道か。「迫;逼(せまる)也、近也、急也。」(廣韻)。

 

【遁去(トンキョ)】:のがれさる。

 

【齎撤】:大系本に「もちとほり」の傍訓あり。

 

【合期(ガッキ)】:決められた時間に合わせる。「期;時也、契約也。」(玉篇)。

 

【同年二月十三日】:前日の十二日は「癸酉(12日)令王(長屋王)自尽。」(続日本紀)とあるが、ご病気の記事はない。

 

【御薬】:薬を御すで、病気。「御者、進也。凡衣服加於身、飮食適於口、妃妾接於寢、皆曰御。」(蔡邕・獨斷)

 

【卜食(ボクショク)】:「卜食」は「亀卜」の占いだが、広義の「占い」を言うか。『令義解』(国史大系本)の「卜食」の傍訓に「うらはめる」「うらにあへらむ」。また宮内省図書寮蔵本に「古記云、卜食、卜合也。」とあると言う。「神祇令」に「凡卜者、必先墨画亀、然後灼之、兆順食墨。是為卜食。」。但し「亀卜」は「神祇官」で行い、「陰陽寮」では筮竹による「占筮(センゼイ)」を行う。

 

【巽(たつみ)】:南東の方角。

 

【死触(シショク)】:死の穢れに触れること。

 

【下賜宣旨於国司太神宮】:群本は「下賜宣旨於国司太神宮」とあるが、大系本に従い「大神宮」の後に「司」を補う。

 

【捜糺(ソウキュウ)】:捜し正す。

 

【注申(チュウシン)】:上への報告。

 

【随則同】:群本、大系本、共に「随則同」だが、愚見で「年」を補い「随則同年」とした。

 

【右大臣】:神亀六年(天平元年)当時の右大臣は空席。その前任は、同年二月十二日に誅殺された長屋王だが、当時は左大臣に遷っている。長屋王の前任の右大臣は養老四年に亡くなった藤原不比等。

 

【謝遣】:あやまりに遣わすか。

 

【大物忌(おほものいみ)】:「大物忌」は、各種「物忌」の筆頭。「物忌」は、神職の童男童女(童男は宮守物忌と山向物忌だけ)から卜占で選ばれ、この童男童女達が、清浄を尊ぶ祭礼行事での中心的役割を担う。「大物忌父」や「物忌父」とは、その童女童男を補佐する父親(実父または義父)。

 

外宮(豊受宮)の「大物忌」は、「外宮儀式帳」に「他人火物不食、宮大垣内、立忌庤造、不帰後家(実家)、宮侍(中略)二所大神<乃>朝<乃>大御饌、夕<乃>大御饌<乎>日毎斎敬供奉。」と俗世を離れ、清浄な生活を保ち、役割としては、「御炊物忌」「御塩物忌」「土師物忌(内宮)」等と共に毎日の神饌をそなえる。その任期は、天明八年(1788)の『続郷談』(大日本地誌大系本)に「外宮大物忌子は、月事(初潮)なるを期として解任せしを寛延中(17481750)智彦卿(松木智彦)執印(外宮長官)の時に、十二歳を限りと定め玉ふ。十三歳は婚嫁の年なり。戸令曰、凡男十五、女年十三以上聴婚嫁。内宮の例は不聞。・・・別式あるべきか。」。

 

内宮の「大物忌」は、斎内親王の代役的存在。その由来は、「内宮儀式帳」に「此初太神<乎>頂奉斎倭姫内親王、朝廷還参上時<仁>、今禰宜神主公成等先祖天見通命<乃>孫川姫命、倭姫<乃>御代<仁>大物忌為<弖>、以川姫命、大神<乎>令傅奉。」と述べ、役割は「今、従斎内親王、大物忌者、於太神近傅奉。昼夜不避、迄今世最重。」と斎内親王に従って大神に近習すると言う。また同書に「以上三人物忌等<波>(大物忌・宮守物忌・地祭物忌)、宮後川(五十鈴川か)不度。若誤度時<波>、更不任用、即却。」と日常的に厳格さが求められた。 

 

「物忌」は『神宮雑例集』「供奉始事」に「神主<乃>女子等未夫婚<乎>物忌<爾>定。」とある。 『延喜式』には「大神宮三座;物忌九人<童男一人、童女八人、父九人>」(伊勢神宮式)とあり、他に別宮や外宮の物忌の人数もここに記される。 

 

【<止>補】:群本や大系本に「止補」とあるが、これでは意味不詳。鈴鹿文庫の写本には「止」が小書きされる。愚見でこれに従い「<止(と)>補」とし、「補」は「補任」の意と解し、訳文した。

 

御炊(みかしき)内人】:「外宮儀式帳」(延暦二十三年)に記載なし。記載される「御炊物忌父」のことか。

 

【子等(こら)】:大系本は「子良」。どちらも読みは「こら」であろう。

 

【怠状(タイジョウ)】:始末書。

 

【大祓(おほはらへ)】:これは例祭の「大祓」でなく、罰金刑的な「大祓」。『古事類苑』「祓禊」の条に「上古、祓を以て人に科するは、ほとんど贖罪の如きものにて、普通の罪を罰せしが、後には神事の罪穢にのみ之を用い、桓武天皇の朝には、特にその制を立て、大上中下の四等に分ちて、物を出さしめたり。」と言う。この制は、『類聚三代格』の延暦廿年五月十四日の太政官符「定准犯科祓例事」に詳細が載る。

 

【解却(ゲキャク)】:解任。

 

【見任(ケンニン)】:現職。「見;俗作現」(集韻)。

 

 

 

 

 

「原文」(17

 

其後依宣旨卜定、

 

豊受神宮、新建立御饌殿、

 

可令供奉太神宮朝夕御饌之由、

 

神祇官陰陽寮共卜申既了。

 

仍宮司千上蒙別宣旨、致不日功、

 

豊受宮外院、建立御饌殿一宇、瑞垣一重。

 

自爾以降、於件殿、供進朝夕御饌物、

 

<今号御饌殿是也。>永停止齎参之勤。

 

于時宮司千上有鑑。

 

可被勧賞之由、公卿僉議。

 

而蒙宮司重任宣旨已了。

 

天平元年九月。

 

二所太神宮御神寶等具不記使右中弁、

 

同年九月十三日参宮。

 

同年九月太神宮御遷宮。

 

同三年任宮司従七位下村山連豊家。

 

件宮司前司千上同母異父之弟也。

 

而前司千上蒙重任宣旨之程、煩病。

 

因之以件宣旨、譲與於弟豊家已了。

 

依彼譲状、所被賞任也。

 

 

 

「訳文」

 

その後、宣旨によって卜い定めるに、

 

豊受神宮に新たに御饌殿を建立し、

 

太神宮の朝夕の御饌をそなえたてまつられるべし由、

 

神祇官と陰陽寮ともに卜い申すことすでにおわる。

 

よって宮司の千上は、別の宣旨を蒙り、不日の功をいたし、

 

(すぐに)豊受宮の外院に御饌殿一宇と瑞垣一重を建立する。

 

それより以降、件の殿に於いて、朝夕の御饌の物を供え奉り、

 

<今、御饌殿と言うのはこれなり。>

 

永く齎参(セイサン)の勤(つとめ)を停止する。

 

時に宮司の千上(の行為)に、鏡とすることあり。

 

勧賞せられるべき由、公卿が衆議す。

 

そして、宮司重任の宣旨を(千上が)蒙ることすでにおわる。

 

二所太神宮の御神寶等<具に記さず>の使いの右中弁が、

 

同年(天平元年)九月十三日に参宮。

 

同年九月、太神宮御遷宮。

 

同三(二か)年、宮司に従七位下村山連豊家を任ず。

 

件の宮司は、前司千上の同母異父の弟なり。

 

前司千上は、重任の宣旨を蒙るころ、病を煩う。

 

これにより、件の宣旨(の褒賞)をもって、

 

弟の豊家に譲りあたえることすでにおわる。

 

彼の譲状により、(千上への褒賞として豊家に)賞任せられるところなり。

 

 

 

「語釈」

 

【宮司千上】:『二所太神宮例文』「大宮司次第」に「<第六>高良比連千上<神亀三年三月一日任。在任五年。雖重任官旨、依所帯。>。『新撰姓氏録』「河内国神別・天神」に「中臣高良比連;津速魂命十三世孫臣狭山命之後也」。

 

【不日功(フジツのコウ)】:「不日」は、幾日と日をおかずに、すぐに。「経始霊臺,経之営之,庶民攻之,不日成之。」(詩・大雅・靈台)。ここでの「功」は、すぐに御饌殿を建立した功績。

 

【豊受宮外院・・・】:「外院」と言い、「瑞垣一重」とも言い、現在の位置とは異なるか。

 

【今号御饌殿是也】:群本は、この文言を本文としているが、文のつながりから大系本に従い「文中注釈文」とした。

 

】:「鏡也。」(廣韻)。

 

勧賞(カンショウ)】:褒賞。恩賞。

 

僉議(センギ)】:衆議。評議。「皆也。」(正韻)。

 

【宮司重任(グウジ・ジュウニン)】:ここは宮司職の再任。当時の任期は不定期か。 『類聚国史』には、「勅・・・今聞。神宮司等、一任終身、侮黷不敬、崇咎屡臻。宜天下諸国神宮司、神主、神長等、擇氏中清慎者、補之、六年相替。」(延暦十七年正月)とある。

 

天平元年九月】:この語句は、文のつながりとして不自然であり、原文はのこすも、訳文では愚見で除く。

 

右中弁】:太政官の大中少ある左右弁官の右中弁。右の弁官は「掌管兵部、刑部、大蔵、宮内。余同左大辨」(職員令)と言う。

 

同年九月太神宮御遷宮。】:群本にこの一文はないが、大系本や『二所太神宮例文』により補う。当時の遷宮(遷御)は、常には九月の神嘗祭(16日)に行うと言う(内宮儀式帳)。

 

村山連豊家】:『二所太神宮例文』「大宮司次第」に「<第七>村山連豊家<天平二年八月廿四日任。在六年。兄千上譲。>」。『新撰姓氏録』「河内国神別・天神」に「村山連;中臣連同祖。」。 群本、大系本ともに「同三年(天平三年)任」とあるが、「天平三年」の段は次の後文にあり、「大宮司次第」に依れば「同二年(天平二年)任」が正しいか。

 

和(わ)】:助詞の「は」が「わ」に音韻変化した跡を示すか。古今の「仮名遣い」では、「わ」と発音するも「は(波)」と書く。

 

【而】:この「而」は、読まない方が訳文のつながりが良いか。

 

【程(ほど)】:ころ(頃)。

 

【賞任(ショウニン)】:褒賞としての任命か。「賞;賜有功也。」(説文)。

 

 

 

「原文」18

 

天平三年六月十六日。

 

御祭<仁>二見郷長石部嶋足参入神宮、而煩霍乱。

 

退出之間、於神宮近辺倒死亡了。

 

而間天皇御所物怪(恠)頻也。

 

即神祇官并陰陽寮等勘申云、

 

巽方太神之御、當有死穢事歟。

 

仍所祟給也者。

 

即皇太子俄不豫大坐<須>。

 

仍勅使令祈申於二宮給。

 

且下賜宣旨太神宮。

 

被尋糺死穢之事。

 

爰嶋足頓滅事<乎>禰宜等注申、

 

仍宮司上奏之。

 

因之度会郡大領神主乙丸、少領新家連公人丸等<和>科大祓。

 

太神宮禰宜神主野守、豊受神宮禰宜神主安丸等<和>科中祓<天>、

 

差勅使、令祈申於太神宮已了。

 

 

 

「訳文」

 

天平三年六月十六日。

 

御祭に二見の郷長石部嶋足が神宮に参入して、霍乱を煩う。

 

退出の間、神宮近辺で倒れ、死亡しおわる。

 

しかる間、天皇御所の異変、頻りなり。

 

即ち、神祇官ならびに陰陽寮等が、かんがえ申すに、

 

「東南の(伊勢の)太神の御(ギョ)に、まさに死穢の事あるか。

 

よって、祟りたまうところなり。」という。

 

即ち、皇太子、俄に不豫(フヨ)にますます。

 

よって、勅使に二宮を祈り申さすめたまう。

 

かつは、宣旨を太神宮(司)に下し賜り、

 

死穢の事を尋ね糺された。

 

ここに、嶋足の急死の事を禰宜等が(宮司に)報告し、

 

よって宮司がこれを上奏した。

 

これにより、度会郡大領神主乙丸と少領新家連公人丸等は大祓に科せられ、

 

太神宮禰宜神主野守と豊受神宮禰宜神主安丸等は中祓に科せられて、

 

勅使を使わされ、太神宮に祈り申さしめ、すでにおわる。

 

 

 

「語注」

 

【二見郷長】:「二見郷」は『倭名抄』に「度会郡;二見<布多美>」。「郷長」は、令制の「里長」。『令義解』に「凡戸以五十戸為里。毎里置長一人<掌検校戸口、課殖農蚕、禁察非違、駆賦役。>」とあるが、『出雲風土記』に「郷字者、依霊亀元年(715年)式、改里為郷」とあり、後に「里」から「郷」への名称変更がなされたと言う。

 

【石部嶋足】:「石部」は「磯部」とも書かれる。「石」の読みには「以之(いし)」(倭名抄)、「伊波(いは)」(古事記)、「伊曾(いそ)」(倭名抄)などが見られる。 「嶋足」は不詳。 『延喜式』に「凡斎王到国之日、取度会郡二見郷礒部氏童男、卜為戸座(へざ)。」(斎宮式)と言う記事がある。

 

この「戸座」は、天皇や中宮、斎宮等の神事に随行する童男。「凡行幸陪従御巫、戸座給乗馬。」(践祚大嘗祭式)、「応卜貢中宮職戸座事」(類聚符宣抄)などの記録があるが詳細は不詳。採用の規定は『延喜式』に「凡戸座取七歳已上童男卜食者充之。若及婚時、申弁官充替。」(臨時祭式)とある。

 

【霍乱(カクラン)】:今の日射病(熱中症?)という。天平三年六月十六日は今の七月二十八日前後か(万有こよみ百科)。

 

【皇太子】:不詳。生後間もない男子の皇太子は、『続日本紀』に依れば、神亀五年九月十三日に没しており、娘の阿倍内親王の立太子は、天平十年正月十三日。ここはこの阿倍内親王のことを言うか。

 

不豫(フヨ)】:天子、尊者の病気。「維王不豫。于五日、召周公旦 朱右曾 校釈;天子有疾称不豫。」(逸周書・五権)。

 

【大坐<須>】:「おおいにまします」か。ここに誤字、脱字、衍字などの可能性があるか。訳文では「大」を読まないが検討を要する。

 

【度会郡大領神主乙丸】:「選叙令」に「凡郡司、取性識清廉、堪時務者為大領、少領。強幹聡敏、工書計者、為主政、主帳。其大領外従八位上。少領外従八位下叙之。<其大領少領、才用同者、先取国造。>」とあり、「大領」は郡司の長。「職員令」に「大領一人<掌撫養所部、検察郡事。>」とある。任限は、「和銅六年五月己巳(7日)制。夫郡司大少領以終身為限。」(続日本紀)と言う。 「神主乙丸」は、姓が「神主」、名は「乙丸」。この人は、『二所太神宮例文』に依れば、荒木田神主首麿の子で、下記の神主野守の父親か。

 

【少領新家連公人丸】:「少領」は郡司の副。「職員令」に「少領一人<掌同大領>。」とある。「新家連公人丸」は、姓が「新家連」、名は「公人丸」か。「内宮儀式帳」の「初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事」に「度会<乃>山田原立屯倉<弖>、新家連阿久多督領・・・」と新家連のことがのるが、「公人丸」は不詳。

 

【神主野守】:内宮禰宜職で、姓が(荒木田)神主、名は野守。『二所太神宮例文』「(皇太神宮)一員禰宜補任次第」に「禰宜荒木田野守<首麿子、乙麿子也。持統天皇御代奉仕。>」とあり、野守は首麿の子の乙麿の子と言う。この「乙麿」は、上で述べた大領の「乙丸」か。「首麿」は、同書に「<黒人子。賜神主姓。斉明天皇御代奉仕>」とあるが「乙麿」は、禰宜職では名が記載されていない。『伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳』には「大初位下野守<黒人二男乙麿二男>。藤原朝廷<持統・文武・元明天皇>禰宜」ともあり、どれも時代に合わない。聖武天皇の時代の禰宜職は『二所太神宮例文』に「首名<乙麿六男。聖武天皇天平年中奉仕>」とある「首名」か。しかし、どちらも父親は乙麿であろう。

 

【神主安丸】:外宮禰宜職で、姓が(度会)神主、名は安丸。『二所太神宮例文』「(豊受太神宮)一員禰宜補任次第」に「安麿<龍一男。聖武天皇神亀五年任。在任(空欄)。」とあり、この「安麿」が「安丸」であろう。こちらは時代も合う。

 

 

 

 

 

「原文」19

 

而太神宮禰宜野守陳状云、

 

當宮禰宜等不可科祓也。

 

何者、禰宜職是連日長番之上、

 

守六色之禁忌、

 

縦件死人雖有御前、非宮中祭庭之外、

 

可輙口入穢気之事乎。

 

加之、嶋足死去之所<和>外宮近辺字山里川原云々。

 

須郡司、嶋足之所由、令取棄(弃)死屍、

 

且令祓清也。

 

而郡司早不申行者。

 

彼宮禰宜并郡司等可勤仕件祓事也。

 

即国宮共注此由、上奏畢。

 

 

 

「訳文」

 

しかし、太神宮禰宜野守の陳状に、

 

「当宮(内宮)禰宜等は祓に科すべからざるなり。

 

なぜならば、禰宜職は、これ連日宿直(神宮内隔離)のうえ、

 

六種の禁忌を完全に守り、

 

たとえ、件の死人が(神宮の)御前にあるといえども

 

宮中(外院)や祭庭(内院)でないほかは、

 

たやすく穢気の事を(常勤の禰宜が)口に入られるや。

 

(反語で、口に入れられない事を言う)

 

しかのみならず、嶋足死去の所は、

 

外宮近辺の字(あざ)山里川原云々。

 

すべからく郡司が、嶋足のよるところは、

 

(嶋足の)死屍(しかばね)を取り棄てさせ、

 

かつ、(そこの所を)祓い清めさせるべきなり。

 

それなのに、郡司はすみやかに申し行わなかった。」という。

 

彼の宮(外宮)の禰宜ならびに郡司等が、件の祓いを勤仕すべき事なり。

 

すなわち国司と宮司が共に、この由を報告し、(天皇に)上奏されおわる。

 

 

 

「語注」

 

【何者】:大系本傍訓に「いかんとなれば」。

 

【長番】:宿直常駐。「神宮式」に「凡二所太神宮者、禰宜<長番>。大内人毎旬率物忌父并小内人戸人等分番宿直。」。この時は、禰宜の人数が内宮外宮共に一人であるが故の長番。

 

】:群本は「企」だが、大系本に従い「全」とした。

 

【六色之禁忌】:六種のタブー(禁じられた行為)。「神祇令」に「不得弔喪、問病、食宍。亦不判刑殺、不決罰罪人、不作音楽。」とあり、延暦廿年の太政官符に「犯弔喪、問病等六色之禁忌者、宜科上祓。」とある。

 

【縦】:大系本傍訓に「たとひ」。

 

【輙】:たやすく。大系本に、小字で「く」と送り仮名が付けられ、『倭玉編』の読みに「たやすし」とある。

 

【加之】:大系本傍訓に「しかのみならず」。

 

【山里川原】:不詳。

 

【国宮】:国司と宮司か。

 

 

 

 

 

「原文」20

 

天平十一年十二月廿三日。

 

太神宮政印一面被始置已畢<方二寸>。

 

依神祇官解、所被鋳下也。

 

自爾以来、太神宮司印伝来也。

 

而大神宮印者、

 

彼宮禰宜従五位下神主石門執行之時、

 

依本宮解状、賜宣旨、所被鋳下也。

 

抑宮司家之以前、

 

代々宮司以神宮印公文雑務之時、

 

禰宜共執捺之例也。

 

 

 

「訳文」

 

天平十一年(739年)十二月廿三日。

 

太神宮政印一面、始めておかれることすでにおわる<印面の寸法は方二寸>。

 

神祇官の解状により、鋳下せられる所なり。

 

それより以来、太神宮司印が伝来するなり。

 

しかして、大神宮印は、

 

彼の宮(内宮)の禰宜従五位下神主石門執行の時(天智天皇の時)、

 

本宮(内宮)の解状により、宣旨を賜い、鋳下せられる所なり。

 

そもそも宮司家がこれを(宮司印)つかさどる以前は、

 

代々の宮司が、神宮印(内宮印)を公文、雑務にもちいる時、

 

禰宜が共に(一緒に)執り捺す例(慣例)であった。

 

 

 

「語注」

 

【太神宮政印】:宮司の印。

 

【方二寸】:印面の寸法。「公式令」に依れば、天子の内印は方三寸。太政官の外印は方二寸半。諸国の印は方二寸。

 

【依神祇官解】:神祇官の「解」は恐らく間違い。神祇官の上は天皇であり、この場合は上奏か。「解(ゲ)」とは解状で、「公式令」の「解式」に「八省以下内外諸司、上太政官及所管並為解。」とあり、太政官や所管の役所に上げる文書を言う。

 

【太神宮印】:上文の太神宮政印。

 

【大神宮印】:内宮の印。 下文に依れば、天智天皇の時代に下賜されたか。

 

『神宮雑例集』に載せる「内宮政印;天平十一年十二月二十三日被始置也<但方二寸>。」の記事は「宮司政印」の間違いであろう。また同書に「宮司政印事」の項目が別にあって、斉衡二年の太政官符の記事を載せているが、これは宝亀三年正月の宮司宿館の火事で焼失した「宮司政印」の再鋳下記事であろう。(原文39参照)

 

【従五位下神主石門】:神主石門は『二所太神宮例文』に「天智天皇御代奉仕」とある。

 

【執行(シュギョウ)】:事務、行事を統括する責任者。

 

【宮司家之以前】:群本は「宮司家之以前」だが、大系本により「出」を「主」に修正する。

 

【以】:もちいる。「用也。」(説文)。

 

 

 

 

 

「原文」21

 

天平十四年<辛巳>十一月三日。

 

右大臣橘朝臣諸兄卿参入於伊勢太神宮。

 

其故<波>、天皇御願寺可被建立之由、

 

依宣旨所被祈申也。

 

而勅使帰参之後、

 

以同十一月十一日夜中、令示現給<布>。

 

天皇之御前<仁>玉女坐。

 

即放金色光<天>宣、

 

本朝<和>神国也。

 

可奉欽仰神明給也、

 

而日輪者大日如来也。

 

本地者盧舎那仏也。

 

衆生者悟之、當帰依仏法。

 

御夢覺之後、道心彌発給<天>、

 

件御願寺事<於>始企給<倍利>。

 

 

 

「訳文」

 

天平十四年<辛巳>(742)十一月三日。

 

右大臣橘朝臣諸兄卿、伊勢太神宮に参入。

 

その故は、天皇の御願寺、建立せられるべき由を、

 

宣旨により、祈り申されるところなり。

 

そして、勅使帰参の後、

 

同十一月十一日の夜中に、示現(ジゲン)せしめたまう。

 

天皇の御前に玉女ましまします。

 

すなわち、金色の光を放って、

 

「本朝は神国なり。

 

神明をうやまい仰ぎ奉りたまうべきなりが、

 

日輪(ニチリン)は大日如来なり。

 

本地(ホンジ)は盧舎那仏(ルシャナブツ)なり。

 

衆生(シュジョウ)はこれを悟り、まさに仏法に帰依すべし。」

 

と、のたまう。

 

御夢にこれを覚った後、道心、いよいよ起こりたまいて、

 

件の御願寺の事を始めて企てたまえり。

 

 

 

「語注」

 

【天平十四年<辛巳>】:西暦742年。

 

【右大臣橘朝臣諸兄】:葛城王。光明皇后の兄(異父)。『公卿補任』に「天平八年;参議従三位橘宿祢諸兄<改葛城王為橘諸兄。>」とあり、『続日本紀』の天平八年十一月条に、臣籍降下を願い出た長文の上表文がのる。右大臣に就任するのは天平十年で、同十五年に左大臣に遷る。天平十四年当時はまだ「宿祢」で、「朝臣」となるのは天平勝宝二年(750年)。「(天平勝宝二年)正月乙巳(16日)・・・左大臣正一位橘宿祢諸兄賜朝臣姓。」(続日本紀)。

 

【御願寺】:ここの「御願寺」は東大寺をさすか。『東大寺要録』は、「神宮禰宜延平日記云」と、「神宮雑事」のこの天平十四年の記述部分を抄出して、「(御願寺は)謂東大寺是也<已上証記文>」と主張する。

 

聖武天皇治世の天平年間の前半には、社会的災害の頻発や幼い皇太子の病死、藤原広嗣の乱などがある。そのためか、聖武天皇は、仏教に傾注し、そこに社会の安定とご自身の安心を求め、最終的に仏弟子となる。『続日本紀』の天平勝宝元年(749)四月甲午の記事に「天皇幸東大寺・・・白佛。三寳〈乃〉奴〈止〉仕奉〈流〉天皇〈羅我〉命盧舍那佛像〈能〉大前〈仁〉奏賜〈部止〉奏〈久〉。」と、ご自身(聖武)を三宝(仏・法・僧)に仕える奴(やつこ)と言い、同年五月癸丑(20)の詔に「因發御願曰・・・所冀*太上天皇沙弥勝滿、諸佛擁護・・・」と、「沙弥勝滿(法名)」とも名のる(*「太上天皇」は見解の相違もあるが聖武天皇のことであろう。)。

 

【玉女】:天照大神に擬すか。「恵公即位二年、淫色暴慢、身好玉女。」(呂氏春秋·貴直)、「玉女、美女也。」(高誘 注)。

 

【日輪】:太陽。「日初出、大如車輪。」(列子)。

 

【大日如来】:盧舎那仏の漢語訳。真言密教の教主仏。『類従名物考』に「大乗揄迦十鉢文殊大教王経」を引き「毘盧遮那・・・旧訳云光明遍照、新翻為大日如来」と言う。「大日如来」と「盧舎那仏」は、同じ梵語の漢語翻訳と漢字音写の違いであると言う。ここの文は検討を要する。

 

【本地】:姿を変えて俗世に出現した仏の本来の地、本来の姿。「本地垂迹説」による考え方。

 

【盧舎那仏】:毘盧舎那仏とも言う。『華厳経』や『大日経』などでの教主仏。梵語の漢字による音写という。

 

【御夢】:聖武天皇の夢。夢の玉女の言葉に、衆生や帰依など仏教用語が出てきており、天皇の日頃の願望が夢に出たのであろう。

 

【<於>】:「於」は「お」と読むが、ここは対象を指し示す格助詞の「乎(を)」であろう。「を」と「お」が同音化したことを示すが、仮名遣いが乱れているか。 鎌倉時代以降の五十音図のア行は「あいうえを」と乱れ、江戸時代に、本居宣長が『字音仮字用格』で「あいうえお」と正した。これは「オ・ヲの所属を始めて(鎌倉時代以降で)、明らかにしたる点に於いては画期的な大研究である。」(小島好治著『国語学史』)という。

 

【発】:大系本に「おこり」の傍訓あり。

 

 

 

 

 

「原文」22

 

天平十九年九月。

 

太神宮御遷宮。

 

即下野国金上分令進給<倍利>。

 

同十二月諸別宮同奉遷<天>、

 

廿年一度御遷宮長例宣旨了。

 

 

 

「訳文」

 

天平十九年九月。

 

太神宮御遷宮。

 

即ち下野国の金の上分(ジョウブン)をさしだされたまえり。

 

同年十二月、諸別宮も同じく遷したてまつって、

 

二十年に一度、(別宮の)御遷宮の長例の宣旨のことおわる。

 

 

 

「語注」

 

【太神宮御遷宮】:『二所太神宮例文』に「天平十九年<丁亥(747)>。内宮遷宮。自(天平)元年及十九年。」とある。外宮の遷宮は同じく同書に「天平勝宝元年<*庚寅>」とある(*庚寅年は天平勝宝二年(750)にあたり、どこかに誤りがあるか。)。

 

【下野国】:鎌倉時代初期の神領を記した『神宮雑令集』に、「上野国」はのせるが「下野国」は無い(南北朝時代の『神鳳抄』には記載あり)。 『倭名抄』に「下野<之毛豆介乃(しもつけの)>」。『先代旧事』の「国造本紀」に「下毛野国造;難波高津朝(仁徳天皇)御世、元毛野国分為上下、豊城命四世孫奈良別、初定賜国造。」。後世に、上野国を上州と言い、下野国を野州とも言う。

 

【金】:金の初めての国内産出例は、後文の天平廿一年の条にあり、ここの金の記事は不可解。 『東大寺要録』にも、この「神宮雑事」の異本と言う(群書解題)「神宮禰宜延平日記」のこの「下野国の金」を引用しているが、その内容は、ここと大きく異なり、石山寺の縁起に関連させる記事となっている。

 

【上分(ジョウブン)】:不詳。諸辞書には「神仏への上納分」、後に神仏を離れ「うわまえ」などと解説する。南北朝時代の神領を記した『神鳳抄』に「下野国;梁田御厨<内宮上分絹五疋、*口入九十三疋・・・>」などと散見する(*口入は口入(仲介)神主(後の御師など)の取り分か)。『神鳳抄』の時代の神領は著しく増大するが、「その実収は、多くは土地の豪族や口入神主の手に帰していたのである。」(群書解題)と言う。

 

【別宮】:別宮は「別宮とは本宮に対する称号にして、大神宮に次で、最も尊重崇敬せらるる所」(古事類苑)と言われ、「内宮儀式帳」に「荒祭宮」、「月読宮」、「伊雑宮」、「滝原宮・並宮」が記載される。後世に「伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮」(貞観九年)、「風日祈宮」(鎌倉時代元寇時の功績により「社」号から「宮」号となる)、「月読荒御魂宮」(明治六年)、「倭姫宮」(大正十一年)と暫時増加する。

 

 

 

 

 

 

 

「原文」23

 

天平廿年。

 

任宮司従五位下津嶋朝臣小松。

 

件小松以去十五年正月廿三日、

 

度会郡城田郷字石鴨村新築固池一處既畢。

 

依件成功、叙従五位下之後、拝任宮司也。

 

 

 

「訳文」

 

天平二十年。

 

宮司に従五位下津嶋朝臣小松を任じる。

 

件の小松は、去(天平)十五年正月廿三日をもって、

 

度会郡城田郷字(あざ)石鴨村に、

 

新たに池一所を築き固めること既におえる。

 

件の成功により、従五位下に叙されたのち、

 

宮司を拝任するなり。

 

 

 

「語注」

 

【津嶋朝臣小松】:『二所太神宮例文』の「大宮司次第」に「<第十一>津嶋朝臣子松<天平廿年五月九日任。在任九年。>」とある。「津嶋朝臣」は『新撰姓氏録』「摂津国神別:天神」に「津島朝臣;大中臣朝臣同祖。津速魂命三世孫天児屋根命之後也」とある。

 

【城田】:現在の玉城町や度会町などを含む広い地域。倭名抄に「度会郡;宇治、田部<多乃倍>、城田<木多(きた)、(後略)>」とある。後の『神鳳抄』には、「外城田郷、内城田郷」とあるも、「田部郷」の名がなく、城田郷に併合されたか。

 

【石鴨村】:不詳。 「内宮儀式帳」の「管度会郡神社行事」に「鴨社一處<来田(城田)郷山神村在>。称大水上児、石己呂和居(いしころわけ)命。形石坐。同(倭)内親王定祝。」とあり、現在も玉城町山神に「鴨神社」がある。「石鴨村」とはこのあたりの地域を言ったか。

 

【池】:人工の沼(貯水池)。倭名抄に「蓄水也<和名以介>。」

 

 

 

 

 

「原文」24

 

天平廿一年四月日。

 

従陸奥国金進官。

 

是奉為公家重宝也。

 

仍以同年七月二日、改天平勝宝元年<己丑>。

 

當唐天宝八年。

 

件出来之由、二所太神宮<仁>、令申給<倍利>。

 

即太神宮禰宜外八位上神主首名叙外従五位下。

 

 

 

「訳文」

 

天平二十一年四月(空白)日。

 

陸奥の国より金を官にたてまつる。

 

これは朝廷の御為に重要な宝なり。

 

よって同年七月二日をもって、天平勝宝元年(749年)と改める。

 

まさに唐の天宝八年にあたる。

 

件の産金のことを、二所太神宮に、申させたまえり。

 

即ち太神宮禰宜外八位上神主首名は外従五位下に叙される。

 

 

 

「語注」

 

【陸奥国】:主に太平洋側の東北地方。倭名抄に「陸奥;三知乃於久(みちのおく)」、「陸奥国;国府在宮城郡。鎮守府在胆沢郡(岩手県南部)。」。 産金の記事は、『続日本紀』の「天平勝宝元年749二月丁巳(22)」の条に「陸奧國始貢黄金。於是、奉幣以告畿内七道諸社。」とのり、同年四月甲午朔の詔に「此大倭國者天地開闢以來〈尓〉黄金〈波〉人國〈用理〉獻言〈波〉有〈登毛〉。斯地者無物〈止〉念〈部流仁〉。聞看食國中〈能〉東方陸奧國守從五位上百濟王敬福〈伊〉部内少田郡〈仁〉黄金出在奏〈弖〉獻。」と国内初めての産出と言い、場所は陸奥国少田郡と言う。具体的な場所は「神名式」に「東山道;陸奥国;小田(をだ)郡黄金(こかね)神社」とのるこの神社周辺(宮城県)か、と言われる。

 

進官】:「進」は『倭玉篇』に「たてまつる」の訓あり。「官」は太政官であろう。

 

【奉為】:大系本傍訓に、二字で「おほんため」。

 

【天平勝宝】:同年四月十四日に産金によて「天平感応」と既に改元しているが、孝謙天皇の即位をうけての更なる改元。これは一年に二回の改元となる。

 

【<己丑>】:西暦749年(万有こよみ百科)。

 

【天宝】:中国唐朝玄宗帝の年号。「天寶元年春正月丁未朔、大赦天下、改元。」(旧唐書玄宗皇帝紀)。

 

【件出来之由】:産金の報告。 この産金は『続日本紀』に「盧舍那佛〈乃〉慈賜〈比〉福〈波陪〉賜物〈尓〉有〈止〉念〈閇〉受賜〈里〉。」(天平勝宝元年四月甲午朔)と、盧舍那佛の賜物とあり、同書天平勝宝元年(749)四月戊戌(5)条の記事に「詔授從五位下中臣朝臣益人從五位上、正六位上忌部宿祢鳥麻呂從五位下、伊勢大神宮禰宜從七位下神主首名外從五位下。因遣民部卿正四位上紀朝臣麻路、神祇大副從五位上中臣朝臣益人、少副從五位下忌部宿祢鳥麻呂等、奉幣帛於伊勢大神宮。」と神主首名への叙位や勅使派遣の記事がある。

 

【神主首名】:荒木田氏の内宮禰宜。『二所太神宮例文』「一員禰宜補任次第」に「首名<乙麿六男。聖武天皇天平年中奉仕>。」。

 

 

 

「原文」25

 

高野女帝皇

 

天平勝宝元年<己丑>八月十一日。

 

豊受宮物忌父神主世真<加>神館一宇焼亡。

 

仍宮司小松朝臣申上本官、随亦上奏。

 

世真科中祓。

 

清供奉之間、彼子等死去。

 

因之又世真解任了。

 

 

 

「訳文」

 

高野女帝皇(標題)。

 

天平勝宝元年<749年>八月十一日。

 

豊受宮(外宮)の物忌父の神主世真の神館一棟焼亡。

 

よって、宮司の小松朝臣が本官(神祇官)に報告し、

 

したがって(神祇官が)上奏。

 

世真は中祓に科される。

 

(その後)清めて供奉する間、彼の子等(物忌)が死去。

 

これにより、また世真、解任されおわる。

 

 

 

「語注」

 

【高野女帝皇】:聖武天皇の女。『続日本紀』に「宝字称徳孝謙皇帝<出家帰仏。更不奉諡。因取宝字二年、百官所上尊号、称之。>」。『帝王編年紀』に「孝謙天皇<諱阿閉、或高野>。聖武天皇大女(あねむすめ)也。母光明皇后[淡海公第二女]也。」。 「退位後の孝謙上皇および重祚後の称徳天皇について「高野天皇」と記す。」(新日本古典文学大系「続日本紀」の脚注)。「高野」は山陵(墓所)のある地名からとも言われる。「葬高野天皇於大和國添下郡佐貴郷高野山陵。」(続日本紀宝亀元年八月)。

 

【物忌父神主世真】:「物忌父」は役職、「神主」は姓、「世真」は名。

 

【神館】:外宮斎館院内の物忌父小内人等の宿館屋か。「外宮儀式帳」に「斎館一院;御饌炊殿一間、大内人三人宿館屋三間、物忌五人宿館屋五間、斎火炊屋五間、物忌父小内人等宿館屋五間・・・」とある。

 

【小松朝臣】:津嶋朝臣小松。原文23の「語注」参照。

 

【子等(こら)】:大物忌(童女)か。「外宮儀式帳」の「職掌禰宜内人物忌事」に「大物忌、御炊物忌、御塩焼物忌、菅裁物忌、根倉物忌」の五人(童女)の物忌を載せる。

 

【解任】:「物忌父死者、其子(物忌)解任。子死者、亦父解任。」(延喜式・伊勢太神宮)。

 

 

 

 

 

「原文」26

 

天平勝宝六年六月廿六日夜、

 

豊受宮御稲御倉之放棟<天>、

 

盗取御稲十八束畢。

 

仍番直内人等付跡尋求之處、

 

彼御炊内人神主元継之私宅捜出<多利>。

 

件元継者継橋郷美乃々村住人也。

 

即元継夫婦相共搦進於司庁。

 

仍宮司略問之處、

 

無同類、被迫飢渇、

 

元継一人盗取之由弁申<世利>。

 

仍且令進過状、且申上本官、随即上奏。

 

被下宣旨、元継科大祓、解任職。

 

番直内人五人<波>科中祓。

 

至于貢御稲<波>、宮司以他稲祓清、令進替既畢。

 

 

 

「訳文」

 

天平勝宝六年(754)六月二十六日の夜に、

 

豊受宮御稲の御倉の屋根をこわして、

 

御稲十八束を盗み取られる。

 

よって、宿直当番の内人等が跡をつけて、尋ね求めたところ、

 

彼の御炊内人神主元継の私宅を捜しだしたり。

 

件の元継は継橋郷、美の々村の住人なり。

 

すなわち、元継夫婦を相共に搦めて役所(神宮司)に連行した。

 

よって、宮司が略問すると、

 

(頼る)仲間もなく、貧窮に迫られ、

 

元継一人が盗み取った由(よし)を弁明せり。

 

よって、且は罪を認める書状を奉らせ、

 

且は本官(神祇官)に申し上げ、

 

随って即ち(天皇に)上奏される。

 

宣旨を下され、元継は大祓に科され、職を解任される。

 

宿直当番の内人五人は中祓に科される。

 

貢の御稲(盗まれた稲)にいたっては、

 

宮司が他の稲をもって祓い清め、

 

替えを(御倉に)奉らせること既におわる。

 

 

 

「語注」

 

【放棟】:『倭玉篇』に「放;はなつ」とあり、「日本書記」神代上第七段(本文)には「毀、此云波那豆(はなつ)」とある。「古事記」の「須佐之男命の勝さび」段には「穿其服屋之頂(むね)」とここと同じ様な状況を記す。ここの「放棟」は、屋根の頂上部分を毀したと言うことか。

 

【御稲御倉】:稲を納める倉。「外宮儀式帳」に「御倉一院;倉三宇。一宇、納正殿賓殿御鎰(かぎ)。一宇、納懸税并御田刈稲。一宇、納鋪設。」と三棟の倉が記される。

 

【稲十八束】:重さにすると「18束×【約6kg/束】=約108kg」か。米の量にすると「18束×【5/束(令制枡)】×【0.405升(現在枡比)】=36.45升(約55kg)」か。*計算に使用した換算値(【】内)は「束稲舂得米五升」(田令)、その他は「日本史資料総覧の度量衡表」による。

 

【畢】:おわる。事が終了したことを示すが、それとわかれば、以後訳文では読まない。

 

【番直内人】:宿直の当番にあたっていた内人。内外宮の禰宜や大内人、物忌父、各内人には専門の業務の他に「毎月十箇日為一番、宮守護宿直仕奉。」(儀式帳)と、毎月、十日間の守衛のための宿直当番業務がある。

 

【御炊内人神主元継】:「御炊内人」は職名。「神主」は姓。「元継」は名。

 

【継橋郷】:「倭名抄」に「度会郡;継橋<都木波之>(つぎはし)」。『伊勢参宮名所図絵』に「継橋;【和名抄】に継橋郷とありて古き名なり(中略)外宮の一の鳥居より、岡本町の入り口迄を中道といふ。その中途に此の継橋有。」とのる。

 

【美乃々村】:不詳。

 

【司庁(シチョウ)】:神宮司の役所。

 

【飢渇(キカツ)】:うえとかわき。貧窮。

 

【弁】:わきまえ。『倭玉篇』に「わ(は)きまふ」。訳文では「弁申」を「弁明」とした。

 

【過状(カジョウ)】:罪を認める書状

 

 

 

 

 

「原文」27

 

大炊天皇

 

天平宝字二年九月。

 

御祭使祭主清麻呂卿参宮之間、

 

度会川之浮橋船乱解<天>、

 

忌部随身之上馬一疋、自船放流斃亡已畢。

 

爰上下向之間者、路次国司差祗承、

 

迎送調備供給、進馬、

 

令修造道橋之例也。

 

 

 

「訳文」

 

大炊天皇(標題)

 

天平宝字二年(758年)九月、

 

御祭使と祭主の清麻呂卿が参宮のおり、

 

度会川の浮橋の船が乱れ解けて。

 

(供の)忌部の随身の乗用馬一頭が船よりながされてうしなう。

 

爰に上下向の間は、路次の国司が祗承(シゾウ)を使わし、

 

迎送、調備、供給し、役夫や馬をたてまつり、

 

道や橋を修造せしめることが恒例なり。

 

 

 

「語注」

 

【大炊天皇】:天平宝字二年(758年)八月一日即位。『続日本紀』は「廃帝」と記載する。『帝王編年記』には「淡路廃帝<諱大炊>。天武天皇孫。一品舎人親王<諡号崇道尽敬天皇>第七子也」とある。 「古事類苑」所収の『憲法類編』に「庚午(明治三年)七月廿四日、御布告。廃帝。淳仁天皇。右之通(中略)御諡被為奉候ニ付、此旨相達候事。」とあり、明治になって「廃帝」に「淳仁天皇」の諡号が送られた。

 

【祭使】:祭の勅使。 『続日本紀』「天平宝字二年(758年)八月戊午(19日)」の条に「遣攝津大夫從三位池田王、告齋王事于伊勢太神宮。又遣左大舍人頭從五位下河内王、散位從八位下中臣朝臣池守、大初位上忌部宿祢人成等、奉幣帛於同太神宮。及天下諸國神社等、遣使奉幣。以皇太子即位故也。」とある。前者の池田王は、齋王が決定したことを告げる使で、後者の河内王は、即位の奉幣使か。 祭使について「神祇令」に「凡常祀之外、須向諸社供幣帛者、皆取五位以上卜食者、充。唯伊勢神宮常祀亦同。」とあり、『続日本紀』に「制。奉幣伊勢太神宮者、卜食五位已上充使、不須六位以下。」とある。「延喜伊勢太神宮式」には、「凡神嘗祭幣帛使、取王五位已上卜食者、充之。其年中四度祭、祭主供之。若有故者、取官并諸司官人及散位中臣氏五位已上卜食、充之。五位以上有故障、六位亦得<斎王初参之時、必用五位已上>。」とあり、年中四度祭には祭主が勅使の供に加わる。また伊勢神宮の勅使には、「王氏(皇族)、中臣、斎部、卜部ノ四氏、これに随ひ」(古事類苑「大神宮臨時奉幣」)と、四氏の者も供に加わると言う。

 

【祭主】:伊勢神宮神官の長。「延喜伊勢神宮式」に「以神祇官五位以上中臣任祭主」とある。『官職秘抄』に「神祇官;副<大少。有権。>。以大中臣、卜部等氏、任之。中臣依可補祭主者也。卜部歴宮主。神祇官重職者無過宮主。」と言う。『新任弁官抄』で伊勢神宮神官を「祭主。宮司。正禰宜。権禰宜。大内人。玉串。宮掌。番検。内人。祝。已上神官如此。」と記載する。ここの祭主だけが在京職である。 「祭主」には祭祀の責任者としての意味と、伊勢神宮祭祀責任者の二つの意味があり、前者は神祇官長官の伯にあたるが、神宮神官職に「祭主」がもうけられてから後者の意味が主流になったようである。『祭主補任』の裏書きに「抑祭主者、総官。宮司、次官也。禰宜者随宮司之下知、奉行神宮之雑務。」と言い、『職原抄』には「朝廷被置官以後、神祇官伯<昔為祭主頭>、伊勢神宮祭主又各別。」と言う。

 

【清麻呂】:大中臣朝臣清麻呂。 『二所太神宮例文』の「祭主次第」に「(9代目)清麿<天平十二年任>。(10代目)益人<十代大副><天平十九年正月任。在任一年。遷任相模守>。(11代目)清麿<右大臣正二位伯><意美麿七男。祭官国子五代孫。中臣朝臣大字ヲ別テ給。天平勝宝元年三月任。延暦七年七月廿八日薨。八十七。」とあり、二度祭主に就任したことを記載する。 『続日本紀』の延暦七年七月二十八日条の薨伝には「前右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂薨。曾祖國子小治田朝小徳冠。父意美麻呂中納言正四位上。清麻呂天平末授從五位下、補神祇大副。歴左中弁文部大輔尾張守。寳字中、至從四位上參議左大弁兼神祇伯。歴居顯要。見稱勤恪。神護元年、仲滿平後、加勳四等。其年十一月、高野天皇更行大甞之事、清麻呂時爲神祇伯、供奉其事。天皇嘉其累任神祇官。清愼自守、特授從三位。景雲二年拜中納言、優詔賜姓大中臣。天宗高紹天皇踐祚、授正三位、轉大納言兼東宮傅。寳龜二年拜右大臣、授從二位、尋加正二位。清麻呂歴事數朝、爲國舊老、朝儀國典多所諳練、在位視事。雖年老而精勤匪怠。年及七十上表致仕、優詔弗許。今上即位、重乞骸骨、詔許之。薨時年八十七。」とある。

 

【卿】:令制八省の長官や大納言以下参議以上の朝臣(位は四位以上)。『職原抄』に「太政大臣一人・左大臣一人・右大臣一人;已上謂之三公。(中略)大納言・中納言・中納言・参議八人;以上号見任公卿」。 歴代の公卿補任記録である『公卿補任』に、「清麻呂」が初めて記載されるのは、天平宝字六年の参議。そこには「天平十五年五月癸卯日授従五位下。六月丁酉任神祇大副。十九年五月丙子日任尾張守。天平勝宝三年(751)正月戊戌従五位上。六年四月庚午復神祇大副。七月丙午為左中弁。歴文部大輔。九年五月丁卯正五位下。天平宝字三年六月庚戌正五位上。六年正月日従四位下。十二月一日任三木(参議)、兼左大弁、神祇伯。」とある。ここの「天平宝字二年」当時はまだ「卿」ではないであろう。

 

【度会川】:宮川。『伊勢参宮名所図会』に「宮川;一名度会川、豊宮川、斎宮川、禁川と云。」

 

【浮橋】:川幅に固定した船を並べ、その上に板を渡した簡便な橋。

 

【上馬】:乗用の馬。大系本の傍訓に「のりむま」とある。

 

【疋(ひき)】:数助詞。匹や頭と同じ。

 

【斃(ヘイ)】:たおれる、やぶれる。「斃亡」二字で、「うしなう」と解した。

 

【祗承(シゾウ・シジョウ)】:貴人に近習し世話をする役(人)。 「検案内、奉伊勢大神宮九月十一日神嘗祭、并二月四日祈年、六月十二月月次祭、及臨時幣帛使等出宮城之日・・・近江、伊賀、伊勢等国毎至彼堺、目(さかん)以上一人率郡司健児等、相迎祗承。而今件等国、頃年之間、不労祗承。(中略)望請、毎遣件等祭使、依例令三国司一人祗承、并掃清穢悪。若有致怠、准闕祭事科上祓者。 右大臣宣。依請。」(「類聚三代格」貞観四年十二月五日付の太政官符)。

 

馬】:役夫と馬。群本は「夫々馬」とあり、大系本は「人夫」と解するが、「伊勢太神宮式」に「夫馬者三箇郡司儲備<度別、夫五十人、馬八十疋。>」と言う文があり、これにならい「々」を衍字と考え「夫馬」とした。

 

 

 

 

 

「原文」28

 

於神郡者偏宮司之勤也。

 

而件浮橋之勤、依不有如在、

 

勅使随身之馬者所斃損也。

 

此尤宮司忍人不忠之所致也者、

 

宮司為方遁陳、

 

且進怠状、且弁返替馬已畢。

 

自爾以後、勅使参宮之間、

 

時宮司以騎用馬以四疋奉[イ貳]

 

即立為恒例。

 

 

 

「訳文」

 

神郡においては、ひとえに宮司の勤めなり。

 

しかるに、件の浮き橋の勤め、ある如くにあらざるにより、

 

勅使随身の馬はうしなわれるなり。

 

これ、もっとも宮司忍人の不忠の致す所なれば、

 

宮司、遁陳(トンチン)にせんかたなく、

 

且は怠状をたてまつり、且は替え馬を弁償し、すでにおわる。

 

それより以後、勅使参宮のおりは、

 

時の宮司、乗用の馬をもちいるに、四頭(馬)をもってそえ奉る。

 

即ち、(これを)立てて恒例と為す。

 

 

 

「語注」

 

【神郡】:この当時は多気、度会の二群。後に飯野郡を加え神三郡と言う。『神宮雑例集』に「度会郡、多気郡、飯野郡。已上謂之神三郡。」とあり、『類聚三代格』の太政官符に「応以伊勢国飯野郡寄大神宮事」(寬平九年(897)九月十一日)とある。これ以前の神郡の成り立ちについては、内宮儀式帳「初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事」の条に詳細が記録されている。

 

【忍人】:第十二代宮司、菅原朝臣忍人。『二所太神宮例文』の「大宮司次第」に「<第十二>菅原朝臣忍人<天平宝元年六月十日任。在任三年>。」とある。「菅原氏」は『新撰姓氏録』「右京神別下」に「菅原朝臣;土師宿禰同祖。乾飯根命七世孫大保度連之後也。」とのる。

 

【無為方(せんかたなし)】:なすべき方法がない。群本に「無」がないが、大系本に随い「無」を補う。

 

【遁陳(トンチン)】:言い逃れ。

 

【偏】:ひとえに。

 

【斃損(ヘイソン)】:「うしなう」と解した。

 

【以騎用馬以四疋】:大系本は後者の「以」を衍字と解している。検討要。

 

[イ貳]】:大系本の傍訓の右側に「そへ」、左側に「まし」とある。『倭玉篇』に「モノフカス」とある。

 

 

 

 

 

「原文」29

 

天平宝字四年正月。

 

皇太后宮急御薬御坐。

 

仍令祈申於伊勢皇太神宮給之後、

 

早令平癒給<倍利>。

 

勅使祭主也。

 

同年十二月十三日、太神宮禰宜被叙外従五位下已了。

 

是已彼御薬之祈祷。

 

 

 

「訳文」

 

天平宝字四年(760年)正月。

 

皇太后の宮は、急に薬をめされおわします。

 

よって、伊勢皇太神宮に祈りもうせしめたまうの後、

 

早くに平癒させたまえり。

 

(この時の)勅使は祭主なり。

 

同年十二月十三日に、

 

太神宮禰宜は外従五位下に叙された。

 

是は、かのご病気の祈祷をもってなり。

 

 

 

「語注」

 

【皇太后】:光明皇太后(聖武天皇の后)。同年六月七日に崩御。 『続日本紀』に「詔曰、比來、皇太后御體不豫。宜祭天神地祇、諸祝部等各祈其社、欲令聖體安穩平復。是以、自太神宮禰宜内人物忌、至諸社祝部、賜爵一級、普告令知之。授外從五位上神主首名外正五位下、外正六位上神主枚人外從五位下。」(四年三月十三日条)とある。

 

その崩伝に「六月乙丑、天平應眞仁正皇太后崩。姓藤原氏。近江朝大織冠内大臣鎌足之孫、平城朝贈正一位太政大臣不比等之女也。母曰贈正一位縣犬養橘宿祢三千代。皇太后幼而聡惠、早播聲譽。勝寳感神聖武皇帝儲貳之日、納以爲妃。時年十六。接引衆御、皆盡其歡、雅閑禮訓、敦崇佛道。神龜元年、聖武皇帝即位、授正一位、爲大夫人。生高野天皇及皇太子。其皇太子者、誕而三月立爲皇太子。神龜五年、天而薨焉。時年二。天平元年、尊大夫人爲皇后。湯沐之外、更加別封一千戸、及高野天皇東宮封一千戸。太后仁慈、志在救物。創建東大寺及天下國分寺者、本太后之所勸也。又設悲田・施藥兩院、以療養夭下飢病之徒也。勝寳元年高野天皇受禪、改皇后宮職曰紫微中臺。妙選勲賢、並列臺司。寳字二年、上尊号曰天平應眞仁正皇太后。改中臺曰坤宮官。崩時春秋六十。」(六月七日条)とある。

 

早令平癒】:ここで「早くに平癒」と言うが、光明皇太后は同年六月七日に崩御。

 

【太神宮禰宜】:内宮禰宜と外宮禰宜。実際の叙位は、上記『続日本紀』三月十三日条の記事の通りであろう。ただし外宮禰宜と思われる「神主枚人」は不詳。神宮側史料では、この当時の外宮禰宜は「忍人」(二所太神宮例文、豊受太神宮補任次第)とある。

 

外従五位下】:この位階は外宮禰宜であろう。内宮禰宜は「外正五位下」。

 

【是已】:是以。「已」と「以」は通用し合う。

 

 

 

「原文」30

 

天平宝字六年九月十九。

 

洪水五十鈴川洗岸流<爪>。

 

而間度会郡司依例<天>、

 

太神宮御前<乃>御川、

 

黒木御橋一道奉造、渡之程、

 

郡司俄落入於御川<天>、

 

鹿海之前字砥鹿淵<乃>木根<仁>流懸<天>、

 

僅存身命<世利>。

 

流下之程五十余町許<仁>、

 

不溺死事尤奇怪事也。

 

而人々問之處、

 

郡司云以去八月晦、食用宍之故也者。

 

故知、自今以後神郡司不可食用宍也。

 

 

 

「訳文」

 

天平宝字六年(762年)九月十九。

 

洪水が五十鈴川の岸を洗い流しつ。

 

しかる間、度会の郡司が恒例によって、

 

太神宮御前の御川に、

 

黒木の御橋一道を造り奉り、これを渡るほどに、

 

郡司、俄に御川に落ちて、

 

鹿海(かのみ)の前の字(アザ)砥鹿淵(とかのふち)の木の根に流れかかって、

 

わずかに身命を存せり。

 

流れ下るほどは五十余町ばかりに、

 

(しかも)溺死しないことは、もっとも奇怪(不思議)の事なり。

 

そして、人々が問うところ、

 

郡司は「さる八月の晦日に、宍肉を食用とした故なり」と言う。

 

殊更に、自今以後、神郡の郡司は宍肉を食用とすべからずなりと知る。

 

(肉を食ったから助かったという話しではないであろう。)

 

 

 

「語注」

 

【御川】:五十鈴川。「内宮儀式帳」の「供奉朝大御饌朝大御饌行事用物事」に「御贄清供奉。御橋一處<長十丈。弘二尺。高八尺>。石疊一處<方四尺>。太神宮正南御門在伊鈴御河。」とある。

 

【黒木御橋】:上記の「御贄清供奉 御橋」にあたる。「黒木」は皮をつけたままの材木で、それで三節の祭り毎に造る仮の橋。「内宮儀式帳」の同所に「御橋者、度会郡司以黒木造奉。三節祭別。禁封其橋、人度不往還。」とある。

 

【鹿海(かのみ)】:現在の鹿海町にあたるか。『伊勢参宮名所図会』に「鹿海(かのみの)社<西鹿海村田中に有>。所祭稲依比女命<大歳神の児>一座。内宮の摂社十五所の内なり。」とある。

 

【砥鹿淵(とかのふち)】:大系本の傍訓に「とかのふち」とある。

 

【五十余町】:「町」は令制では田の面積の単位語であるが、ここでは距離の単位語として使われている。「1町=60歩」とすると、<50町×60/町>で約3000余歩となり、<3000歩×6/歩×約0.3m/尺>で約5400m以上となるか(換算値は『日本史資料総覧』による)。これを地図で内宮から五十鈴川の流れに沿ってざっと測れば、現在の鹿海町あたりにあたるか。

 

【許】:大系本の傍訓に「ばかり」とある。「ばかり」は「時期・時刻・場所・数量・大きさなどのおおよその範囲を示す。」(学研古語辞典)と言う。

 

【宍(しし)】:けものの肉。

 

【故】:大系本の傍訓に「ことさらに」とある。

 

 

 

 

 

「余談」<4>「距離単位の町について」

 

成文化された日本の度量衡制度は、唐の制度を受容した律令制から始まる。しかし必ずしも同じではなく、時代を経る毎にその違いは大きくなる。里程と言われる距離の単位である「里」も、近世に到って中国、朝鮮の「里」と約9倍近く異なる。また度量衡制度の基準単位である「尺」の導入にあたっては日本側に誤解も見られる。秦漢時代の尺はほぼ24cm25cm程度の長さを保っていたが、隋唐の時代には、大尺と少尺の二種類に分かれた。大尺は日常社会の通用尺であり、小尺は、古典に記述される秦漢時代の伝統尺といえる。ここの大尺の長さは約小尺の1.2倍と言う。日本が「尺」を社会制度として取り入れたのは恐らく隋唐時代に入ってからであろう。このため、これ以前の尺の経緯が日本側で充分理解されず、それが誤解を生む原因となったか。

 

 

 

さて、ここで、「原文」30で距離の単位として使われている「町」について整理したいと思う。

 

先ず、基準となる「度」は「謂、度者、分・寸・尺・丈・引也」(令義解)と言う。

 

「雑令第三十」に、【長さ】は「凡度、十分為寸。十寸為尺<一尺二寸為大尺一寸>。十尺為丈。」とし、【距離】は「凡度地、五尺為歩、三百歩為里」とある。これら項目は唐令に倣ったものだが、和銅六年に、【距離】に関しての「五尺為歩」は、「六尺為歩」に早くも変更される。

 

『令集解』に「和銅六年二月十九日格、其度地、以六尺為歩」(田令)とあり、「延喜雑式」に「凡度量権衡、官私悉用大。但測景(キケイ;日のかげ)、合湯薬則用小尺。其度以六尺為歩。以外如令。」とある。どちらも「六尺為歩」とすると言うが、「里」に関しては言及していない。しかし「以外如令」とあるように、この時も「里」は「三百歩為里」で変更はなかったと思われる。

 

 

 

次に「面積」は、その基本概念は正方形であり、その一辺の長さの自乗数で表される。これは今も同じである。例えば36㎡とは、<(1m×1m)×36>のことであり、一辺1mの正方形が36個あることである。また面積は広さだけを言い、対象の個別形状は含まない。

 

古代中国では、面積を言う場合、「方○○里(歩)」と表記するが、これは「一方(辺)○○里」の正方形の概念である。面積はその<○○里>の自乗数となる。面積が正方形で表記された原因は、一辺の長さだけで表記出来、具体的広さもイメージしやすいためか。 しかし、これには数学的「開方」の知識が必要であり、それも普及していた事を裏付けるか。この「開方」の技術は、漢の時代の数学書と言われる『九章算術』に次のように載る。

 

<開方術曰、置積為實。借一算歩之、超一等。議所得、以一乘所借一算為法、而以除。>