弘仁私記序愚考(訳注)12012.12.07

 

 

 

はじめに

 

ここに「弘仁私記序文」の訳注を試みます。

 

「弘仁私記序文」とは、『本朝書籍目録』(13世紀末頃成立)に、「弘仁四年私記」とあるその序文です。「弘仁四年(813年)私記」とは、臣下に対する初めての「日本書紀講書」に関する時の講師サイドの私記です。この序文は、『古事記』、『日本書紀』、『新撰姓氏録』等の成立や当時の受容状況を伝える数少ない史料の一つで、重要な史料と言えます。

 

底本は「新訂増補国史大系第八巻」(昭和七年・吉川弘文館)の「甲本」です。今回の「愚考(訳注)」では、パソコンで標示できない文字の変更や、校勘による文字の修正(共に赤字表記)をしています。(紙テキストを必ず参照されたし。) 底本の二行割小書きの注は<緑字>内に記します。私見の訳文は、訓詁学的手法により文意を明らかにすることを重点に置き、学習漢文読みは必ずしも取りません。尚、先の同書凡例で、諸本が「残欠零本を伝ふるに過ぎず」という状態で、「果たして旧本そのものなるかは猶ほ研究の余地あり」と言います。善本がない以上、次の点に注意が必要かと思います。

 □ 「弘仁私記」は基本的に私家の「私記」であり、その目的は師弟間伝授用と考えられ、著作以後の新訂や増補箇所もあり得ます。

□ 各書写伝授の間に、本文と二行割小書注の間の移動が予想されます。

□ 二行割小書注は、著者自らか、後人に依るものかの判別は課題です。

□ 写本はどれも一点もので、細部は百本百様です。以上のようにテキストに正誤などの問題がつきまといますが、これは「偽書」云々と別な問題です。所謂「偽書」とは、おもに「著者」や「制作年代」を偽る事を言い、その内容の正誤とは異なります。

 

弘仁私記序愚考(訳注)2

 「原文」1(首題)

日本書紀私記巻上 并序

 

「語注」

 【日本書紀私記】「甲本」の写本原本(水戸彰講館本)表紙の題は「日本紀私記全」。 【巻上】「弘仁私記」は上、中、下の三巻表記。

  

「原文」2

夫日本書紀者<日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑。故云日本。古者謂之倭國。伹倭意未詳。或曰、取稱我之音、漢人所名之字也。通云山跡。山謂之邪麻。跡謂之止、音登戸反、下同。夫天地剖判、泥湿、是以栖山徃來固多蹤跡。故曰邪麻止。又古語謂居住為止言。住於山也。音同上。武玄之曰、東海女國也。>

 

「訳文」

それ日本書紀は、<日本国(ニッポンコク)、大唐より東に去ること一万余里なり。日、東方より出るに、扶桑を昇る。故に日本(ひのもと)と云う。古くはこれを倭国(ワコク)という。ただ「倭(ワ)」の意味は未詳。あるひと曰く、我(わ)という音を取り、漢人が名づけたる字なりと。かよいて、山跡(やまと)という。山、これを耶麻(やま)という。跡、これを止(と)という。(止の)音は登-戸の反し。下も同じ。それ天地二つにわかれたるとき、泥がしめって、未だかわかず。これをもって山にすみ、往来すれば、もとより自ずと足あと多し。故に邪麻止(やまと)という。また古語に居住(キョジュウ)をいうに、止(と)を言(こと)になす。山に住むなり。(止の)音は上に同じ。武玄之曰く、東海の女国(ジョコク)なりと。>

  

「語注」

【扶桑】「湯谷在黒歯北、上有扶桑木、水中十日所浴。」《山海經・海外東經》。 

【音登戸反】ネットテキストには「反」を「及」にするものがあるが、底本は「反」で、その傍らに「シ」の送り仮名があり、これは「反(かえ)し」と読み、漢字音韻表記の「反切」。万葉仮名では「止(乙類と)」、「(乙類と)」、「戸(甲類と)」で「止」と「登」は同じ乙類で同音と言えるが、漢字の四声韻では「止(上声韻)」、「登(平声韻)」、「戸(上声韻)」で、「止」と「登」は異なる。これは「登-戸」と反切させることにより、「止」を上声韻で発音させることを示すか。

【邪麻止】日本書紀に「日本。此云耶麻騰」。古事記に「夜麻登」。 

【武玄之】日本国見在書目録に「韻詮十巻<武玄之撰>」(十小学家)、「高宗実録六十巻<武玄之撰>」(十三雑史家)。新唐書芸文志に「武元之韻銓十五卷」。なお「高宗実録六十巻」は、新唐書芸文志に無い。

【東海女國】漢籍各史書に載る「女国」は「倭国」と別国。『翰苑』の魏略逸文に「自帯方至女国」とあるも『法苑珠林』の魏略逸文に「去女王国」とあり、「女国」は「女王国」の誤記か。

 

「余談」

「古事記偽書説」で「弘仁私記」の序文が取り上げられる事を散見しますが、先の「登戸反」を見れば、「漢音(隋唐音?)」に依る反切であり、ここには「記紀」等にあらわれる「上代特殊仮名遣」と言う音韻意識はみられません。むしろ「登戸反」でその「古音韻」の崩れに手を貸していると言えましょうか。

 「反切」は二字の音を借りて、一音を表す(一音に反る)手法で、最初の字が「声母」を、後の字が「韻母」を示すと言います。「声母」は音韻の清濁、軽重に作用しますが、漢語の「四声韻」や、和語の「上代特殊仮名遣」の「甲類」、「乙類」の別は、後字の「韻母」に作用されます。「反切」で後字が「上声韻」なら求める音韻は「上声韻」となり、これは倭語に当てはめても同じです。後字が「乙類」の音韻であれば、求める音韻は「乙類」と成ります。さきの「止」の音韻を求める「反切」が「登-戸反」で、前字に乙類の「登(と)」をあて、後字に甲類の「戸(と)」をあてています。これでは、万葉仮名で乙類にあたる「止(と)」が、甲類の「と」に変化してしまう。つまり、「弘仁私記」の著者は、「上代特殊仮名遣」を認識していないと言えましょうか。しかし、「上代特殊仮名遣」の中で「と」は例外のある仮名ですので、当然これだけで、一概に決めついける事はできませんが。

 

弘仁私記序愚考(訳注)3

「原文」4

一品舍人親王、<淨御原天皇第五皇子也。>

從四位下勳五等太朝臣安麻呂等、王子。神八井耳命之後也。>所撰也。

先是、淨御原天皇御宇之日、<気長帯日天皇之皇子。近江天皇同母弟也。>有舍人。

姓稗田、名阿禮、年廿八<天鈿女命之後也。>

為人謹恪、聞見慧。

天皇勅阿禮、使習帝王本記及先代舊事。

 豊御食炊屋姫天皇廿八年、上宮太子、嶋大臣共議、録天皇記及國記、臣、連、伴造、國造百八十部并公民等本記。又、自天地開闢至豐御食炊屋姫天皇、謂之舊事。>

 

「訳文」

(それ日本書記は)一品舍人親王、<淨御原天皇(天武)の第五皇子なり。>

從四位下勳五等太朝臣安麻呂等<王子。神八井耳命の後なり>による奉勅(ホウチョク)の所撰(ショセン)なり。

これより先、淨御原天皇(天武)<気長帯日天皇(舒明)の皇子。近江天皇(天智)と同母の弟なり。>の御世の日に、舎人あり。

 姓は稗田、名は阿禮、年は二十八<天鈿女命の後なり>

 人となりは、つつしみ深く、聞見(ブンケン)に聡恵(ソウケイ)たり。

天皇、阿禮に勅して、「帝王本記」及び「先代舊事」を習わせる。

<豊御食炊屋姫天皇(推古)二十八年に、上宮太子(聖徳太子)、嶋大臣(蘇我馬子)、共にはかりて、「天皇記」及び「國記」、「臣、連、伴造、國造百八十部并公民等本記」を録す。又、天地開闢(カイビャク)より、豊御食炊屋姫天皇に至まで、これを旧事という。>

 

「語注」

 一品舍人親王廃帝(淳仁天皇)の父で、追号は「崇道盡敬皇帝」天平宝字三年六月詔)。「次妃新田部皇女、生舎人皇子」(日本書紀天武紀二年二月条。「天渟中原瀛眞人天皇之第三皇子也」続日本紀天平七年十一月卒伝)。

【淨御原天皇】諡:天武天皇。日本書紀に「天渟中原瀛眞人天皇」。古事記序文に「飛鳥清原大宮御大八州天皇」。

【第五皇子】これは日本書紀天武紀二年二月条の皇子の記載順序。年齢の順序では、上記の続日本紀が記す第三皇子か。

從四位下勳五等太朝臣安麻呂】和銅五年の古事記序文の署名は「正五位上勲五等万侶太朝臣安萬侶」。墓碑銘は「左京四條四坊 従四位下勲五等太朝臣安萬侶 以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」。

 【神八井耳命之後】古事記に「神八井耳命者、意冨臣・・・等之祖也」。新撰姓氏録に「多朝臣:出自諡神武皇子神八井耳命之後也」(左京皇別上)。

 【気長帯日天皇】諡:舒明天皇。日本書紀に「息長足日廣額天皇」。新撰姓氏録は「息長」を「気長」と表記。古事記は「足」を「帯」と表記。同序文に「帯字、謂多羅斯(たらし)」。

【舍人】「師古曰、舍人;親近左右之通稱也。」(漢書)。「舍人、師古曰舍人猶家人ト、注シタ程ニ、女ノコトゾ。又ハ内ノ者ゾ。」(『蒙求抄』第二巻34オ)。「舍人」の言葉自体に性別はない。

【有舍人・・・先代舊事】本文は古事記序文を借用か。古事記序文は「時有舎人。姓稗田、名阿礼、年是二十八。為人聡明、度目誦口、払耳勒心。即勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。」。

天鈿女命】日本書紀に「猿女君遠祖天鈿女命」。古事記に「天宇受売者猿女君等之祖」。

【豊御食炊屋姫天皇】諡:推古天皇。日本書紀と同文。古事記に「豊御食炊屋比売命」。

上宮太子、嶋大臣共議・・・】日本書紀に「皇太子、嶋大臣共議之、録天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部并公民等本記。」(推古紀二十八年十二月条)。【嶋大臣】日本書紀に夏五月戊子朔丁未。大臣薨。仍葬于桃原墓。大臣則稻目宿禰之子也。性有武略、亦有辨才。以恭敬三寶。家於飛鳥河之傍。乃庭中開小池。仍興小嶋於池中。故時人曰嶋大臣。」(推古紀三十四年卒伝)

 

弘仁私記序愚考(訳注)4

「原文」5

未令選録、世運遷代。

豊國成姫天皇臨軒之年、<天命開別天皇第四皇女也。軒者、榲上板也。謂御宇為臨軒>

詔正五位上安麻呂、俾撰阿禮所誦之言。

和銅五年正月廿八日、<豊國城姫天皇年号也。>

初上彼書。所謂古事記三卷者也。

 

「訳文」

(・・・先代舊事)未だ選録せしめずに、世はめぐり、代を遷す。

豊国成姫天皇(元明)の臨軒の年<(元明は)天命開別天皇(天智)第四皇女なり。軒は、杉の上げ板なり。御宇(御世)を言いて臨軒と為す。>

正五位上安麻呂に命じて、阿禮の述べる言葉を撰ばせる。

和銅五年正月二十八日<(和銅は)豊国城姫天皇の年号なり。>に、

初めて彼の書をたてまつる。「古事記三卷」と言われるものなり。

  

「語注」

【豊國成姫天皇】諡:元明天皇。続日本紀に「日本根子天津御代豊國成姫天皇。小名阿閇皇女。天命開別天皇之第四皇女也。」。

【天命開別天皇】諡:天智天皇。日本書紀に、「天命開別天皇。息長足日廣額天皇太子也。母曰天豐財重日足姫天皇。」。

榲上板】「榲」は樹木の杉。「杉材の上げ板」で、質素を示すか。

 【為臨軒】底本は「馬臨軒」だが、これでは前句と意味をなさない。「馬」を「為」に採る。「臨軒」は、諸橋大漢和辞典に「天子が正座に御せずに、平臺に御するをいふ。」。三国志蜀書に「皇帝臨軒。」。

俾撰阿禮所誦之言】古事記序文に「撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞。」。

和銅五年正月廿八日】古事記序文と同文。

 

弘仁私記序愚考(訳注)5

「原文」6

清足姫天皇負依之時

<淨御原天皇之孫、日下太子之子也。世号飯高天皇。依、戸牅之間也。負斧依者、言以其所處名之。今案天子座之後也。>

親王及安麻呂等、更撰此日本書紀三十卷、并帝王系圖一卷

<今見在圖書寮及民間也。>

養老四年五月廿一日<淨足姫天皇年号也。>

功夫甫就、獻於有司<今圖書寮是也。 >

 

「訳文」

清足姫天皇(元正)の負依(フイ)の時に、

<淨御原天皇(天武)の孫の日下太子の子なり。世に飯高天皇とよぶ。「依」は戸牅の間なり。「負斧依(フフイ)」とは、そのおられる所をもって名付けたると言う。今案じるに、天子の座の後ろなり。>

親王及び安麻呂等、さらにこの日本書紀三十卷、ならびに帝王系図一卷を撰ぶ。

<今、図書寮及び民間に顕在する。>

養老四年五月二十一日に、<(養老は)淨足姫天皇年号なり。>

功(コウ)、それはじめてなり、有司に献ずる。<(有司とは)今の図書寮、これなり。 >

 

「語注」

【清足姫天皇】諡:元正天皇。続日本紀に「日本根子高端淨足姫天皇。諱氷高。天渟中原瀛眞人天皇之孫。日並知皇子尊之皇女也。」

 【負】「依」は「戸に衣」、以下同じ。「依」と同義(釈名)で屏風。「履天子之籍、依而坐」(荀子)。

【日下太子】日本書紀に「草壁皇子」、「皇太子草壁皇子尊」。続日本紀に「日並知皇子尊」、「岡宮御宇天皇(追号)」。

【飯高天皇】皇代記(群書類従本)に「諱飯高、後改氷高。」。帝王編年記も同様。

【依、戸牅之間也】これは『説文』の説明と同文。

【負斧依】「」と同義。「斧依」は諸橋大漢和に「斧の模様をぬいとりした屏風」。

親王及安麻呂等・・・】続日本紀に「先是、一品舍人親王奉勅、修日本紀。至是功成、奏上紀卅卷系圖一卷。」。

養老四年五月廿一日】続日本紀に同じ。

夫甫就】「夫」は「語端辭」《正韻》。「甫」は「始也」《玉篇》。「就」は「成也」《廣韻》。

 

弘仁私記序愚考(訳注)6

「原文」7

上起天地混淪之先、

<混、大波也。淪、小沈小波也>

下終品彙成之後。

<品、衆也。彙、類也。瓢、成也。>

神胤、皇裔、指掌灼然。

<中臣朝臣、忌部宿禰等為神胤也.息長真人、三國真人等為皇裔也。>

慕化、古風、舉目明白。

<東漢、西漢史及百濟氏等為慕化、高麗、新羅及東部、後部氏等為古風也。>

異端、小説、力、亂、神、

<一書及或説、為異端、反語及諺曰、為小説也。

恠、異也。大鷦鷯天王御宇之時、白鳥陵人化為白鹿。又蝦夷叛之、堀上野田道墓、則大蛇瞋目、出自墓以咋蝦夷也。

力、多力也。天國排開天皇御宇之時、膳臣巴提便至新羅、有虎、噬兒去也。提尋至巖岫。左手摯虎舌、右手拔劔刺殺。又蜾嬴捕山雷之類也。

 乱、逆也。蘇我入鹿失君臣之禮、有覬覦之心也。

 神、鬼神也。大泊瀨天皇於葛城山、急見長人、面白、容儀相似天皇。天皇問名。答云、僕是一言主神也>

為備多聞、莫不該<該、備也。>

 

「訳文」

(以下日本書紀の説明、効用を説く。)

上は天地混淪(コンリン)の先におこし、

<「混(コン)」は大波(タイハ)なり。「淪(リン)」は小沈(ショウチン)、小波(ショウハ)なり。>

下はおおくの類がなりなっての後に終える。

<「品」は衆なり。「彙(イ)」は類なり。「甄(ケン)」は成なり。>

神胤(シンイン)、皇裔(コウエイ)は、容易にあきらかなり。

<中臣朝臣、忌部宿禰等は神胤となすなり。息長真人、三國真人等は皇裔となすなり。>

慕化、古風は挙目(キョモク)明白たり。

<東漢、西漢の史及び百濟氏等は慕化となし、高麗、新羅及び東部、後部の氏等は古風となすなり。>

異端、小説怪、力、乱、神は、

<「一書」及び「或説」は、異端とし、「反語」及び「諺曰」は、小説となすなり。

「怪」とは「異」なり。大鷦鷯天王(仁徳天皇)の御世の時、白鳥(ヤマトタケル陵)の陵人が化して白鹿となる。また蝦夷(えみし)そむき、上野の田道の墓を掘れば、則ち大蛇、目を瞋(いから)し、墓より出て、もって蝦夷を咋(くら)うなり。

「力」とは「多力」なり。天国排開天皇(欽明)の御世の時、膳臣巴提便(はすし)新羅にいたるに、虎あらわれて、兒(わがこ)を噬(かみ)去るなり。提、尋ねて巖(いわお)の岫(いわあな)に至る。左手で虎の舌を撃ち、右手で劔を拔きて、刺し殺す。また、蜾嬴(すがる)が山に雷を捕らえる類なり。

 「乱」とは「逆」なり。蘇我入鹿、君臣の禮を失い、覬覦(キユ)の心をたもつなり。

「神」とは「鬼神」なり。大泊瀨天皇(雄略)が、葛城山に狩りをしたとき、急に長人(チョウジン)あらわれ、(その)面(メン)白くして、容儀、天皇に相似たり。天皇が名を問うに、(長人)答えて、僕はこれ一言主神なりという。>

多聞を備え、該博(ガイハク)せざることなし。<「該」は「備」なり。>

 

「語注」

【混、大波也】この注は、はたして適切か?「大水流貌」《集韻》《韻會》《正韻》。

 【淪、小沈小波也】この注もはたして適切か?「小沈」の「小」は衍字で、「沈」は「没」の誤字か。「小波為淪」《爾雅·釋水》。「淪、没也」《博雅》。

【甄】底本は「瓢(ヒョウ)」。これは「ひょうたん」であって「成」の意味は無い?「早稲田大学蔵書」本は「甄」で、こちらを採る。「甄(ケン),成也。」《魏都賦》《註》。

 【東部、後部氏】高句麗五部。日本書紀に「高麗遣大使後部主博阿于。」(天武紀五年)。日本後紀に「信濃国人外從六位下卦婁眞老。後部黒足。前部黒麻呂。前部佐根人。下部奈弖麻呂。前部秋足。小縣郡人无位上部豊人。下部文代。高麗家繼。高麗繼楯。前部貞麻呂。上部色布知等言。己等先高麗人也。」(延暦十八年j十二月条)

 【反語】倭訓栞に「反語あり、葦をよしといひ、僧をかみながといふの類是也。」

【白鳥陵人化為白鹿】日本書紀に「差白鳥陵守等死役丁。時天皇臨于役所。爰陵守目杵忽化白鹿以走。」(仁徳天皇六十年十月条)

 【蝦夷叛之】日本書紀に「蝦夷叛之。遣田道令撃。則爲蝦夷所敗。以死于伊寺水門。時有從者。取得田道之手纒與其妻。乃抱手纒而縊死。時人聞之流涕矣。是後蝦夷亦襲之略人民。因以掘田道墓。則有大蛇發瞋目自墓出以咋。蝦夷悉被蛇毒而多死亡。唯一二人得兔耳。故時人云。田道雖既亡遂報讎。何死人之無知耶。」(仁徳紀五五年条)

 【膳臣巴提便至新羅】日本書紀に「膳臣巴提便還自百濟言。臣被遣使。妻子相逐去。行至百濟濱。〈濱。海濱也。〉日晩停宿。小兒忽亡不知所之。其夜大雪。天曉始求有虎連跡。臣乃帶刀甲。尋至巖岫。拔刀曰。敬受絲綸、劬勞陸海、櫛風沐雨、藉草班荊者。爲愛其子令紹父業也。惟汝威神。愛子一也。今夜兒亡。追蹤覓至。不畏亡命。欲報故來。既而其虎進前開口欲噬。巴提便忽申左手。執其虎舌。右手刺殺。剥取皮還。」(欽明紀六年十一月条)

 

【蜾嬴捕山雷之類】日本書紀に「天皇詔少子部連蜾嬴曰。朕欲見三諸岳神之形。〈或云。此山之神爲大物代主神也。或云。菟田墨坂神也。〉汝膂力過人。自行捉來。蜾嬴答曰。試往捉之。乃登三諸岳。捉取大蛇奉示天皇。天皇不齋戒。其雷數數。目精赫赫。天皇畏。蔽目不見却入殿中。使放於岳。仍改賜名爲雷。」(雄略紀七年七月条)

 【覬覦(キユ)】藤堂漢和大辞典に「下の者が上のことをのぞむ。身分不相応なことをのぞむこと。「民服事其上、而下無覬覦<民其の上に服事して、下覬覦すること無し>」〔春秋左氏伝・桓二〕

【急見長人】日本書紀に「天皇射獵於葛城山。忽見長人。來望丹谷。面貌容儀相似天皇。天皇知是神、猶故問曰。何處公也。長人對曰。現人之神。先稱王諱。然後應。天皇答曰。朕是幼武尊也。長人次稱曰。僕是一事主神也。」(雄略紀四年二月条)

【為備多聞】ここの「為」は衍字か。無理に読めば「ために、多聞を備え」か「多聞を備えんがために」となるが、前後の本文とのつながりが悪い。恐らく注の文が長くなった事が原因か。ここは読まない方が無難か。

 【該、備也】「廣韻」と同じ。

  

弘仁私記序愚考(訳注)7

「原文」8

世有神別記十卷。<天神天孫之事、具在此書>

明神事、最為証拠

 紀夐遠、作者不詳。

 <夐、遠視也。隳正反。>

  

「訳文」

世に「神別記十卷」あり。<天神天孫の事、この書につぶさにあり。>

神の事をあきらかにするに、最も証拠となす。

されど、年数、はるかに遠く、作者は不詳。

<夐(ケイ)、遠視なり。隳(キ)-正(セイ)の反し(ケイ・去声))。>

 

「語注」

【神別記十卷】本朝書籍目録の「神事」に「神別記 十卷<日本紀私記曰、天皇天孫事、具在此書。>」。 和田英松氏著『本朝書籍目録考』(昭和11年)に「今伝はらず。・・・天皇天孫は誤りにして、天神天孫を正とすべし。・・・但し今神別記と称せる写本十巻あり。天地別記、陰陽別記、根国別記、黄泉別記以下、素戔男命、大国主命の系図を記したるものなり。後人の偽作なる事は言を俟たず。」

 【発明】藤堂漢和大辞典に「よくわからない物事を明らかにすること」。 「発、明也」《廣韻》。「亦足以發。《註》謂發明大體也。」《論語・為政》。「予觀春秋、國語、其發明五帝德。」(史記・舜帝)。「多有發明。」(続紀神護景雲三年十月二十九日条)。

【年紀】年数。 「靖侯已來、年紀可推。自唐叔、至靖侯五世、無其年数。」《史記·晉世家》。

【夐(ケイ)】「夐、遠也」(廣韻・去声)。

 

弘仁私記序愚考(訳注)8

「原文」9

自此之外、更有帝王系圖、

<天孫之後、悉為帝王而此書云、或到新羅高麗為國王、或在民間為帝王者。

 因茲延暦年中、下符諸國、令焚之而今猶在民間也。>

 諸民雜姓記、

 <或以甲後為乙胤、或以乙胤為甲後。如此之誤徃徃而在。苟以曲見、無識之人也。>

諸蕃雜姓記。

<田邊吏、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣等祖思須美、和德兩人、大鷦鷯天皇御宇之時、自百濟國化來而言、己等祖是貴國將軍上野公竹合也者。天皇矜憐、混彼族訖。而此書云諸蕃人也。如此類而世也。>

  

「訳文」※本文が少ないので、注と分けます。

(本文の部分)

これより外に、更に帝王系図、諸民雜姓記、諸蕃雜姓記あり。

(注の部分)

<(帝王系図)天孫の後は悉く帝王となす。そして、この書に、あるいは新羅、高麗、に到って国王になり、あるいは民間にて帝王になりたる者ありと言う。

これにより、延暦年中、符(太政官符)を諸国に下し、これを焼かしめるも今なお民間にあるなり。>

<(諸民雜姓記)あるものは甲の後をもって乙の胤となし、あるものは乙の胤をもって甲の後となす。かくの如きの誤り、往々にしてあり。いやしくも曲見(キョッケン)をもってすれば、無識の人を惑わすなり。>

<(諸蕃雜姓記)田邊吏、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣等の祖の思須美、和德の両人は、大鷦鷯天皇(仁徳)の御世の時、百済国より帰化のために来て、おのれらが祖は、これ貴国の將軍上野公竹合なりという。天皇あわれみ、彼の族に混入させておわる。しかるにこの書には諸蕃人というなり。かくの如くの書が、類をけがして世にあり。>

 

「語注」

【帝王系圖】不詳。本朝書籍目録に「帝王系圖 十巻」とあるが「神武以降至白河院、記代々君臣事」ともあるので、同名だが別本。ただし、日本後紀に「勅。倭漢惣歴帝譜圖。天御中主尊標爲始祖。至如魯王。呉王。高麗王。漢高祖命等。接其後裔。倭漢雜糅。敢垢天宗。愚民迷執。輙謂實録。宜諸司官人等所藏皆進。若有挾情隱匿。乖旨不進者。事覺之日。必處重科。」(大同四年二月条)

 民間為帝王者】上記の漢の高祖を言うか。

 【諸民雜姓記、諸蕃雜姓記】本朝書籍目録にもなく不詳。

 【或】まどう。まどわす。「與惑通。怪也。」(康煕字典)。

【延暦年中・・・】日本後紀の大同四年二月条に同じ様なことがあるが(上掲)、延暦年中は不詳。

【田邊吏、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣】新撰姓氏録に「豊城入彦命五世孫多奇波世君之後也。大泊瀬幼武天皇[謚雄略]御世。努賀君男百尊。為阿女産向聟家犯夜而帰。於応神天皇御陵辺。逢騎馬人相共話語。換馬而別。明日看所換馬。是土馬也。因負姓陵辺君。百尊男徳尊。孫斯羅。謚皇極御世。賜河内山下田。以解文書。為田辺史。宝字称徳孝謙皇帝天平勝宝二年。改賜上毛野公。今上弘仁元年。改賜朝臣姓」(左京皇別下・上毛野朝臣)。

 続日本紀に「近衛將監從五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東國六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之。豊城入彦命五世孫多奇波世君之後也」(延暦十年四月条)

和德】続日本紀に「和徳史龍麻呂等卅八人。賜姓大縣史。」(神亀二年六月条) 新撰姓氏録に「百済国人和徳之後也。」(右京諸蕃下。大縣史)

【上野公竹合】上毛野君祖竹葉瀬(仁徳紀五三年五月条)

】「汚也。」《增韻》。

類而世也】「訳文」では「世也」を「在世」と置き換えて読む。

  

弘仁私記序愚考(訳注)9

「原文」10

新撰姓氏目録者

<柏原天皇御宇之時、若狹國人新本系事。諸國獻本系、撰此書。而彼主當人等、未辨真偽、抄集誤書、施之民間。加以引神胤為上、推皇裔為方。尊卑雜亂、無由取信。伹正書目録、今在太政官。今此書者、所謂書之外。恣申新意歟。故雖迎禁駟、不及耳也。>

※(如此之書、觸類而夥。<夥、多也。>

踳駮舊説、眩曜人看。<踳駮、差雜貌。>

或以馬為牛、或以羊為犬。

輙假有識之號、以為述者之名。<謂借古人及當代人之名。>

即知官書之外。

 

「訳文」

新撰姓氏目録は、

<柏原天皇(桓武)の御世の時、若狹国の人、新本系の事を申す。これにより諸国に命じて本系をたてまつらせ、この書を撰ぶ。しかし、彼のつかさどる当人らは、未だ真偽をわきまえず、誤書を抄集し、これを民間に施す。くわえてもって神胤を引きて上となし、皇裔を推して方(かた)となす。尊卑雑乱し、信を取るによしなし。ただ正書の目録のみ、今、太政官にある。今、この書は、書の外と言われる。ほしいままに新意を申したか。ゆえに、禁中に四頭だての馬車で迎えられようとも、耳に及ばずなり(意見を曲げない)。(※かくの如きの書は、類をけがして、多し。)>

 (新撰姓氏目録は)旧説をまぜあわせ、人の見る目をまどわす。

ある者は馬をもって牛となし、ある者は羊をもって犬と為す。

たやすく有識者の号をかりて、もって述べる者の名と為す。<古人及び当代の人の名を借りることを言う。>

即ち(新撰姓氏目録は)官書の外と知れ。

 

「語注」

 【新撰姓氏目録者】注の文から『新撰姓氏録』の「目録」部分と考えられる。

但し、「抄集誤書、施之民間」とあるように、この「新撰姓氏目録」は単なる別添の「目録」でなく、民間頒布用に、「完本(三十巻本)」から「抄集」された情報を含んで、単独に『新撰姓氏目録』として成書されたものであろう。

また語末の「者」は、文末の助字としては不都合であり、主語を指し示す助字であろう。

【若狹國人】不明。

 【申新本系事】底本は「中新本系事」だが、国史大系の校合の「申」に従う。

【因茲令諸國・・・】底本は「同茲今諸国・・・」だが、これでは意味不明。よって「同」を「因」に、「今」を「令」にあてる。

【彼主當人等】担当者を名指していないが、恐らく新撰姓氏録の上表文に署名した萬多親王以下6名であろう。

【迎禁中駟】底本は「迎禁駟」だが、「中」を補い「迎禁中駟」とした。

【駟(シ)】四頭だての馬車。「四馬一乗也。」《玉篇》。

 【如此之書、觸類而夥。】この語句は、本文前句とのつながりが悪い。これに似た文言が上文にもあり重複竄入か。もしくは小書きの注が大書きの本文に紛れ込んだか。「訳文」では注として暫定的に読む。

 【夥(カ)】「をほきなり」(倭玉編)。

 【多】「をほし」(倭玉編)。

 【踳駮(シュンパク)】「踳駮、色雜不同。」《玉篇》。

 【眩曜(ゲンヨウ)】「惑乱貌。」《楚辞注》。

 【看】「視也」《博雅》。

 【或以馬為牛・・・以為述者之名。】「新撰姓氏録」の中の各氏族の小伝(家伝類)を言うか。

 【輙】「もっぱら。たやすし。」(倭玉編)。

  

  *「新撰姓氏録について」

『新撰姓氏録』は、日本紀略に「先是、中務卿四品万多親王、右大臣従二位藤原朝臣園人等、奉勅撰姓氏録。至是而成。」(弘仁五年六月条)とあるが、修正が加えられ、再度、上表文の日付の弘仁六年七月廿日に提出されたと言う。

 しかし、「弘仁私記」の序文に「今此書者、所謂書之外」と言われるように、編纂された当時、頗る評判が悪かったらしく、数年後に、

 勘本系使中務卿万多親王、中納言藤原朝臣緒嗣等奏曰、云々。伏拠旧記、判定訛謬者。許之。」(日本紀略・弘仁十年四月条)

と、再度修正がなされ。この「弘仁十年」より修正されたものが、今、我々が見る『新撰姓氏録』の元であろう(弘仁私記序文の著作当時とは異なる。)。

 現存する『新撰姓氏録』(抄本)の写本は、延文年間系と建武年間系の二系統に分かれると言うが、その建武系写本には、「新撰姓氏録序文」の首題の下に小書きされた下記の注がある。

   此者第一巻之序也。不載於官書目録、而載此巻。

   又抄姓氏録文、注於此巻。是皆為備指掌、私所為也。

 上記の訳文を試みれば次のようになる。

 これ(新撰姓氏録序文)は、(三十巻本の)第一巻(に記載)の序なり。

「官書目録」(民間配布用「新撰姓氏録目録」)には載っていないので、(手元の)この巻(「官書目録」)に載せる(書き入れる)。

 また(三十巻本の)姓氏録の文(出自以外の伝承部分)を抄出してこの巻に書き入れる。これは皆、指掌に備えんが為にして、私的になすところなり。

これは、当時の三十巻本の『新撰姓氏録』には、「官書目録(『新撰姓氏録目録』)」と異なり、出自以外の各氏族の小伝(家伝類)が含まれていたことを示すものであろう。

 (当時の三十巻本『新撰姓氏録』は、現存するや否や。)

  

弘仁私記序愚考(訳注)10

「原文」11

多穿鑿之人。是以官禁而令焚人惡、而不愛。

今猶遺漏、遍在民間。

多偽少真、無由刊謬。

是則不讀舊記、<日本書、古事記、諸等之類。>

 無置師資之所致也。播土為師。弟子為資

  

「訳文」

(世に)こじつける人は多い。これをもって、官は禁止し、人悪を焼かせて惜しまず。

 (しかし)今なお遺漏し、あまねく民間にある。

 (それらは)偽が多く、真は少なく、誤りを正すによしなし(根拠がない)。

これ則ち、旧記を読ませず、<(旧記とは)日本書紀、古事記、諸氏等の類。>

(国史の)師や弟子を置かないことの結果なり。<土にタネをまくのは師である。弟子は資である。>

 

「語注」

【穿鑿(センサク)】こじつけ。「皆為穿鑿、失爾雅訓也。」(顔氏家訓)。

 【官禁而令焚人惡】前文の「延暦年中、下符諸國、令焚之」を指すか。

【刊謬(カンビュウ)】藤堂漢和大辞典に「書物の誤りをけずってなおす。」。

【日本書紀】底本は「日本書記」だが、早稲田大学蔵本に従う。

【諸氏】底本は「諸民」だが、早稲田大学蔵本に従う。「諸氏」が何を指すか不詳だが、延暦年間の「新諸氏本系」ではなく、後文の「天平勝寶之前、毎一代使天下諸民各獻本系、永藏秘府」の「旧諸氏本系」類を指すか。

【師資】「師弟」(和漢音釈書言字考節用集・人倫)。出典は老子の「故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。」(善行無轍迹章第二十七)。

【播土】底本は「幡士」(はたおとこ?)だが、これでは文意に合わない。よって「播土」に置き換えた。「播」は「種也」(説文)、「其始播百穀。」(詩経)。

 

「余談」(学制)

律令制の「学令」には元々「史学」はなく、

 「経学」(四書五経など)や「書学」(書写)、「算学」(算術・天文・暦)のみ。

「史学(中国史)」が置かれるのは、

天平宝字元年757十一月」の勅による。

勅曰・・・其須講、

經生者三經。

 傳生者三史(中国史)。

 醫生者、大素、甲乙、脉經、本草、針生者、素問、針經、明堂、脉决。

天文生者、天官書、漢晋天文志、三色薄讃、韓楊要集。

陰陽生者、周易、新撰陰陽書、黄帝金匱、五行大義。

暦算生者、漢晋律暦志、大衍暦議、九章、六章、周髀、定天論。

  最終的に延喜式では、

 凡応講説者。

 禮記、左伝(大経)、各限七百七十日。

 周禮、儀禮、毛詩(中経)、律、各四百八十日。

 周易(小経)、三百一十日。

 尚書(小経)、論語(必修)、令、各二百日。

 孝経(必修)六十日。

 三史(中国史)、文選、各准大経。

 公羊、穀梁、孫子、五曹、九章、六章、綴術、各准小経。

 三開、重差、周髀共准小経。

 海嶋、九司亦共准小経。

 となったが、

 国史の学科が置かれることは、ついぞなかった。

  

弘仁私記序愚考(訳注)11

 

「原文」12

凡厥天平勝寶之前、

<感神天皇號也。世號法師天皇。>

毎一代使天下諸氏各獻本系。<謂譜為本系也。>

永藏秘府、不得輙出。

今存圖書寮者是也。

<雄朝妻稚子宿禰天皇御宇之時、姓氏紛謬、尊卑難決。因坐甘樫丘、令探湯、定真偽。今大和國高市郡有釜是也。後世帝王見彼覆車、毎世獻本系、藏圖書寮也。>

 

「訳文」

およそ、その天平勝寶の前は、

<(勝宝は)感神天皇(聖武)の号なり。世に法師天皇と号す。>

一代ごとに天下諸氏におのおの本系をたてまつらす。<いわく、譜牒を本系となすなり。>

永く官の書庫におさめて、たやすく出すことを得ず。

今、図書寮に存するものがこれなり。

<雄朝妻稚子宿禰天皇(允恭)の御世の時、姓氏紛謬(フンビュウ)し、尊卑決め難し。よって甘樫丘に坐して、探湯(くかたち)を命じ、真偽を定める。今、大和国高市郡にある釜は是なり。後世の帝王は彼の覆車(フクシャ)を見て、世ごと(一代ごと)に本系をたてまつることを命じ、図書寮におさめるなり。>

  

「語注」

天平勝寶之前】「天平勝宝」は孝謙天皇の年号で、その前は「天平」で聖武天皇の年号。

感神天皇号】諡桓武天皇。続日本紀に「勝宝感神聖武天皇(追号)」。

【世號法師天皇】続日本紀に「三寳〈乃〉奴(やっこ)〈止〉仕奉〈流〉天皇・・・」(天平勝宝元年四月の宣命)。同じく「是日。勅曰。太上天皇(聖武)出家歸佛。」(天平勝宝八歳五月十九日条)

【譜牒(フチョウ)】底本は「譜講」だが、国史大系の頭注校勘、校合を参考に「講」を「牒」に置き換える。古事類苑の姓名部に「譜牒に纂記、系図、譜図、氏文、門文、本家帳等あり」。

 秘府】藤堂漢和に「おもに、宮中の書庫」。

 雄朝妻稚子宿禰天皇】諡:允恭天皇。日本書紀に「雄朝津間稚子宿禰天皇」。古事記に「男淺津間若子宿禰命」。

紛謬】藤堂漢和に、「紛(フン)」は「まぎれる」、「謬(ビュウ)」は「あやまり」。

允恭紀四年九月の条に「詔曰。羣卿百寮及諸國造等皆各言。或帝皇之裔。或異之天降。然三才顯分以來。多歴萬歳。是以一氏蕃息。更爲萬姓。難知其實。故諸氏姓人等。沐浴齋戒各爲盟神探湯。則於味橿丘之辭禍戸。坐探湯瓮、而引諸人、令赴曰。得實則全。僞者必害。<盟神探湯。此云區訶陀智。或泥納釜、煮沸、攘手探湯泥。或燒斧火色、置于掌。>。於是諸人各著木綿手繦、而赴釜、探湯。則得實者自全。不得實者皆傷。是以故詐者愕然之。豫退無進。自是之後。氏姓自定。更無詐人。」

 甘樫】底本は「月櫓」だが、国史大系の頭注校勘文に従う。

大和國高市郡有釜是也】この文は、前文の「今存圖書寮者是也」と比べると、漢文の乱れがあるか。

覆車(フクシャ)】藤堂漢和に「他の失敗を自分の教訓とすることのたとえ」。出典:「前車覆、後車戒。」(漢書・賈誼)。ここでは「釜」を見ること。

 

  *「余談」弘仁私記序の図書類

弘仁私記序にあげられる図書類を著者の評価で分類すると、次のようになります。

 □信頼出来る図書

 『日本書紀』官書。弘仁三年当時まで未公開。

 編纂者: 舍人親王。太朝臣安麻呂

 編纂年:養老四年

 評価:神胤、皇裔が明らかで、多聞も備える書。

  

『古事記』官書。弘仁三年当時まで未公開。

編纂者:天武天皇(編纂)。稗田阿禮(口伝)。太朝臣安麻呂(選録)

編纂年:和銅五年

評価:旧事の書。日本書紀の先行史書。

 

神別紀十卷』民間書。

編纂者:不詳

編纂年:不詳

評価:神事の重要根拠の書。

序文の各人物の出自(天神。天孫の類別)もこれによるか。

 

旧進本系』官書。未公開(永蔵秘府)

編纂者:聖武天皇以前の歴代の天皇が各氏族に献上させる。

編纂年:不詳

評価:桓武天皇の延暦十八年の「新進本系」よりも評価が高い書。

 

□信頼できない図書

 帝王系図』民間書。

 編纂者:不詳

 編纂年:不詳

 評価:官禁の書(焚書の対象)であったが、世に残りはびこる。

 

諸民雜姓記』民間書。

編纂者:不詳

編纂年:不詳

評価:世人を惑わす書。

 

諸蕃雜姓記』民間書。

編纂者:不詳

編纂年:不詳

評価:類(系譜)を穢す書。

 

新撰姓氏録』官書。抄録の「新撰姓氏目録」のみ公開か。

編纂者:萬多親王以下六名。

編纂年:弘仁五年(初)。弘仁六年(補訂)。

評価:官書の外(官書にあるまじき書)。

 

弘仁私記序愚考(訳注)12

「原文」13

冷然聖主、弘仁四年、在祚之日、

<天智天皇之後、柏原天王之王子也。>

愍舊説將滅、本紀合訛、

詔、刑部少輔從五位下多朝臣人長、<祖禰見上>使講日本紀。

 

「訳文」

冷然聖主は、

<天智天皇の後、柏原天王(桓武天皇)の王子なり。>

旧説がまさに消滅し、本紀があやまりと同化することをいたみ、

弘仁四年<在祚の日>、刑部少輔從五位下多朝臣人長に命じて、<(多人長の)先祖のことは上文を見よ。>日本紀を講義させた。

 

「語注」

【冷然聖主】諡:嵯峨天皇。「冷然院」の場所は大内裏の東側と言われ、弘仁七年八月に「幸冷然院。命文人賦詩。賜侍臣禄有差。」(『類聚国史』「天皇行幸(下)」)とある。後に同所は「冷泉院」と名称が変更されたと言う。また「嵯峨院」も同年二月に「幸嵯峨別館。」とあり、両院を離宮としていたことがうかがえる。 

「聖主」は、天皇の別号。続日本紀に「方今聖主照臨。」(延暦十年正月条)。 また古事類苑「帝号」で所収する『簾中抄(れんちゅうしょう)』「帝王」に、「天子、皇帝、主上、天皇、陛下、至尊、聖朝、聖上、聖主、聖皇、国家、朝廷、一人、明朝、聖代」と載る。

よって、「冷然聖主」とは嵯峨天皇の天皇在位時(弘仁七年から)の号であろう。または「今上聖主」の誤記か。

俗説では「弘仁十四年四月甲午、帝遷于冷然院」(『類聚国史』「太上天皇」)の記事をもって退位後の号と言うが、退位後の号は「嵯峨太上天皇覽之。」(『続日本後紀』承和五年十二月)や「日本後紀」の各巻の首題に「太上天皇<嵯峨>」とあるように「太上天皇」である。死後は、続日本後紀に「嵯峨院者先太上天皇光臨之地」と言われるように「嵯峨」である。「冷然」の号は、退位後でも、死後でもないであろう。

 【弘仁四年、在祚之日】この語句は、主語の「冷然聖主」と、その述部にあたる「愍舊説將滅・・・」の間に挿入されており、文章的には注である。本文として読むならば、後文の「詔」の直前に置くのが適切であろう。「訳文」では、これを「詔」の直前に移し、「在祚之日」はその注とする。

【弘仁四年】弘仁四年(813)は実際の「始講」年。日本後紀の「是日。始令參議從四位下紀朝臣廣濱。陰陽頭正五位下阿倍朝臣眞勝等十餘人讀日本紀。散位從五位下多朝臣人長執講。」(弘仁三年(812)六月条)は、「始令」とあるように講の計画年を記す(「古事記」編纂後100年にあたるか)。 「始」は直後の「令」を修飾する。 講談社学術文庫の『日本後紀<全現代語訳>』(巻中・P275)の訳文は、「本日、はじめて・・・講読を行った。」としているが、これでは「始」が「読」を修飾することになり、原文の文意と違う。原文の文意は、「この日、はじめて・・・命じる」である。これ以降の講書の記事は、「始令」はなく、「令初講」、「始講」、「初講」の構文を取り、講の実行年度を記す。詳細は別項に記す。

 【愍(ビン)】「痛也」《説文》。「悲也。憐也。」《廣韻》。

【舊説】『古事記』をさすか。

【本紀】『日本紀』(日本書紀)をさすか。

【合】「同也。」《玉篇》。

【訛(カ)】「與譌同。僞也。謬也。舛也。」《玉篇》。

【刑部少輔從五位下多朝臣人長】弘仁三年時点(日本後紀)では散位だが、講書が始まる弘仁四年二月以降に刑部少輔に補任されたか。現存する「日本後紀」は「弘仁四年二月」から「弘仁五年七月」の間が欠落し、今のところ確認のすべはない。「刑部少輔」は定員一名で、相当位は人長の位階と同じ從五位下である。

 【祖禰見上】祖廟と父廟で先祖か。「上」とは太朝臣安麻呂のところ。

 

[別項] 弘仁三年と四年

 養老講書を除く六度の講書関連記事を列記します。

 

①「弘仁の講書」

『日本後紀』弘仁三年812六月戊子《二》(計画)

是日、始令參議從四位下紀朝臣廣濱、陰陽頭正五位下阿倍朝臣眞勝等十餘人讀日本紀、散位從五位下多朝臣人長執講。

  

②「承和の講書」

『続日本後紀』承和十年(843)六月戊午朔(実施)

令知古事者散位正六位上菅野朝臣高年、於内史局始讀日本紀。

 

③「元慶」の講書

『三代実録』元慶二年(878)二月廿五日辛卯(実施)

宜陽殿東廂、令従五位下行助教善淵朝臣愛成、始読日本紀従五位下行大外記嶋田朝臣良臣為都講。右大臣已下参議已上、聴受其説。

 

④「延喜の講書」

 『新国史』逸文延喜四年(904)八月廿一日壬子。(実施)

 是日、於宜陽殿東廂令初講日本紀也。(釈日本紀所引)

  

⑤「承平の講書」

『日本紀略』承平六年(936)十二月八日壬辰(実施)

宜陽殿東廂日本紀。

 

⑥「康保の講書」

1)『日本紀略』康保元年(964)二月廿五日壬申(計画)
今日、敕定散位正五位下橘仲遠講日本紀。

又尚復、學生、仰紀傳明經道可令差進之由、仰大學寮。 

2)『日本紀略』同年三月九日乙酉(日時が決定しても実施されず。) 陰陽寮勘申。可講日本紀之日時、來月廿日乙丑、同廿八日癸酉。

又大學寮差進尚復生二人、明經十市致明。

3『日本紀略』康保二年(965)八月十三日庚戌(実施)於宜陽殿東庇始講日本紀。以橘仲遠為博士。

 

上記から弘仁講書を除く五度の講書記事は、「始讀」、「令初講」、「講」、「始講」と書き、具体的な場所を「於内史局」や「於宜陽殿」と明記しています。ここから弘仁三年の「始令」の文言を使い、場所を明記しない記事は、計画段階のものと言える。実施は弘仁私記序が、場所を明記して言う弘仁四年か。

 計画から実施まで一年を要したのは、「弘仁の講書」の他に、最後の「康保の講書」がある。上記には、その過程((1)~(3))が残されている。

弘仁講書がなぜ一年順延したかは不詳であるが、「日本後紀」で弘仁三年六月二日以降の記事を見ると、

 同年六月四日:「賑給京中飢民。」

   同月十六日:京中米貴。出官倉米、以減價、糶貧民。」

   同月廿六日:「勅。甘澤不降。・・・所冀神靈垂祐、早致嘉雨。宜走幣畿内、祈於名神。」

 同年七月一日:「勅。頃者疫旱並行、生民未安。・・・除此災禍。宜走幣於天下名神。」

 同月二日:「御大極殿。奉幣於伊勢大神宮。爲救疫旱也。」

 疫旱並行」とあるように疫病と旱害(カンガイ)の記事が載り、それが「宜走幣畿内、祈於名神」から「宜走幣於天下名神。」(天下の名神に幣を走らせるべし)と、畿内から全国へと拡大したか。

これが弘仁四年になると疫旱(エッカン)の記事は殆どなくなり、次の記事が載る。

奉幣於名神、報豊稔也。」(日本紀略・弘仁四年十月条)。

 どうやら弘仁三年の末には疫旱も一応終息したようである。これら社会状況が影響したのかもしれないが、直接的な理由は不詳。

  

弘仁私記序愚考(訳注)13

「原文」14

即、課大外記正六位上大春日朝臣穎雄、

<王子。帯彦國押人命之後。從五位下魚成第一男。>

民部少丞正六位上藤原朝臣菊池麻呂、

<天孫。天兒命之後。從五位下是人第四男也。>

兵部少丞正六位上安倍朝臣藏繼、

王子。大彦命之後。從四位下弟者第二男也。>

文章生從八位上滋野朝臣貞主、

<天孫。魂命之後。從五位上家譯第一男。>

無位嶋田臣清田、

 <王子。神八井耳命之後。正六位上村田第一男。>

 無位美努連清庭等受業。

 <天神。角凝命之後。正六位上友依第三男也。>

  

「訳文」

則ち、(※6名の官位、氏名、注を省略)等に業を受けることを課す。

  ※6名の官位についての詳細は[別項]に記す。

  

「語注」

【課・・・受業】ここに記される大春日朝臣穎雄以下六名は、後の尚復学生と言われるメンバーであろう。上文の「師資」の「資」で、「業」を授かる弟子にあたるか。後に「召人」(類聚符宣抄・講書)と言われる聴衆メンバーの紀朝臣廣濱等(日本後紀弘仁三年記事)と異なる。

【大外記】令義解の職員令に「(太政官)大外記二人。掌勘詔奏。及読申公文。勘署文案。検出出稽失」。官職秘抄に「大外記:往年多以文章生任之」。職原抄に「大政官中有三局。左右辨官、外記是也」。続日本紀に「太政官奏稱。外記之官。職務繁多・・・大外記二人、元正七位上官、今爲正六位上官。少外記二人、元從七位上官、今爲正七位上官。」(延暦二年五月十一日条)

【王子】新撰姓氏録の「皇別」に相当する。その序に「天皇皇子派、謂之皇別」。

【天帯彦國押人命】底本に「大足彦國押人命」とあるが、国史大系頭註校勘に従い「大」を「天」に置き換える。日本書記に「天足彦國押人命」(孝昭天皇の長男)。古事記に「天押帯日子命」。

民部少丞定員二人。相当位は従六位上。

天孫新撰姓氏録では、神別を「天神」、「天孫」、「地祇」に区分し、天兒屋命は「天神」に分類され、ここと異なる。上文に「世有神別記十卷。<天神天孫之事、具在此書>」とあるが、この分類によるか。

天兒屋命】底本は「天兒命」。国史大系頭註校勘に従い「屋」を補う。 

【兵部少丞】定員二人。相当位は従六位上。

 【王子。大彦命】底本は「正二」だが、ここの分類から「王子」に置き換える。「大彦命」は日本書紀に同じ。孝元天皇の長男。古事記は「大毘古命」。

【文章生(もんじょうしょう)】虎尾俊哉著『延喜式(中)』(集英社)補注に「漢文学、中国史など文章科(紀伝道)を学ぶ学生」。選抜過程は、学生→擬文章生→文章生→得業生。

【天孫。神魂命之後】新撰姓氏録では「天神」に分類される。また底本は「魂命」だが、新撰姓氏録の「滋野宿禰:神魂命五世孫天道命之後」を参考に「神」を補う。

【神八井耳命】日本書紀に同じ。神武天皇の子で、綏靖天皇の兄。

【角凝魂命】底本は「角凝命」だが、新撰姓氏録の「美努連:同神(角凝魂命)四世孫天湯川田奈命之後」を参考に「魂」を補う(雄儀連と鳥取の祖に角凝命あり)。記紀に記載無く、延喜神名式に「出雲国神門郡・神魂子角魂神社」あり。

 

「追加語注」

【大春日朝臣】同系統に、大春日朝臣眞野麻呂がおり、「眞野麻呂暦術獨歩。能襲祖業。相傳此道。于今五世也。」(文徳実録天安元年正月条)と言われる。

 【藤原朝臣菊池麻呂】尊卑分脈に「菊地麿<「従五位上。治部大輔(最終官位)>」。

【從五位下是人】菊地麿の父として尊卑分脈(国史大系本)には「許人麿<正五位下。右少弁>」とある。この頭注に脇坂氏本は「許作麿」に作り、前田家所蔵本、内閣文庫本は「許麿」に作るという。この弟に「是公」がいる。また「許人麿」としては六国史に登場しない。「是人」から「許人麿」に改名したか。

 【安倍朝臣藏繼】「蔵継」は「倉継」とも書かれる。

 【從四位下弟者】「弟者」は「弟當」の誤写か。「弟當」は日本後紀に「散位從四位下安倍朝臣弟當卒。・・・延暦廿年授從四位下。清慎作性。夙夜在公。不過擁門。無事資産、家風也」(大同三年六月条)。

滋野朝臣】公卿補任(国史大系本)に、「(弘仁)十四年正月、與父家譯共賜朝臣姓。」(天長九年条尻付)とあり、これによると「宿禰」から「朝臣」に改姓されたのが弘仁十四年となる。彼は弘仁講書の弟子の中で唯一参議となった出世頭で、本人または後人が、序文の「宿禰」を「朝臣」に修正したか。

 彼の死亡日時は、公卿補任の仁寿二年条に「十二月十日卒<六十八才>。毒瘡発唇吻(シンプン・くちさき)」と記されるが、日本文徳実録の卒伝には「仁寿二年二月八日卒」とあり、公卿補任と日本文徳実録の日時が異なる。

正六位上村田嶋田臣清田の卒伝に「清田者。正六位上村作之子也・・・弘仁十四年改臣姓爲朝臣。」とあり、「村田」が「村作」に書かれる。「清田」の名が、親の一字を受けたものとすれば「村田」が正しいか。

 美努(みぬ)連清庭類聚国史「祥瑞上・雲」条に、「左大史正六位上御野宿祢清庭等」(天長三年(826)十二月条)とあるが、「美努連清庭」と「御野宿祢清庭」は、「カバネ」が異なるが同一人物か否か。

  

  ※参考;「美努岡萬連墓誌」

我祖美努萬岡連飛鳥浄御原天皇御世、甲申年正月十六日、勅賜連姓

 藤原宮御宇大行天皇御世、大宝元年歳次辛丑五月、使乎唐国

平城宮治天下大行天皇御世、霊亀二年歳次丙辰正月五日、授従五位下、任主殿寮頭

神亀五年歳次戊辰十月廿日卒、春秋六十有七

其為人小人事帝、移考為忠、忠簡帝心、能秀臣下、成功廣業、照一代之高栄、陽名顕親、遺千歳之長跡

 令聞難盡、餘慶無窮仍作斯文、納置中墓

   天平二年歳次庚午十月廿日

  

  [別項]六名の官位について

 ここで、序文に記載された多人長の弟子相当と思われる六名について、他の史料から弘仁四年開講時と序文撰時と思われる弘仁十年時の官位を推定し、序文記載の官位と照合します。令制以前の尊卑上下は、主に臣、連などの姓(かばね)が負っていたが、令制下では、『古語拾遺』に「至于浄御原朝(天武朝)、改天下万姓・・・不本天降之績。」と言い、『令義解』に「凡位有貴賤、官有高下。階貴則職高、位賤則任下。」と言われ、時の官位が重視されます。

 主に使う史料は次の三種です。

 .国史:『日本後紀』以降の国史(新訂増補国史大系本)

 ここには、叙位叙任記事が克明に記述されます(主に五位以上)。

但し、完本は残っておらず、また史書は主に一次情報の記録文書(行政文書や日記類)から情報を抄出し、編集した二次情報と言えましょう。

.類聚書:『類聚国史(職官部・叙位)』(新訂増補国史大系本)

これは国史から情報を抄出し、編集した三次情報と言えますが、現存する国史に欠巻が多いため、その穴埋め史料として重要です。しかし必ずしも国史どおりではなく省略もあります。尚、同じく国史から情報を抄出したものに『日本紀略』がありますが、叙位叙任に関しては「授位任官云々」などと記されるだけで、その具体的記述は省略されています。

 .記録的文書:『類聚符宣抄』『公卿補任』(新訂増補国史大系本)。『外記補任』(続群書類従本)

これらは国史と同じ一次情報の記録文書から抄出した二次情報と言えますが、比較的に国史より編集加工の度合いが少ない情報と言えましょう。

『類聚符宣抄』は太政官符や宣旨類の控えから抄出し類聚したと言われます。(参考:国史大系書目解題)

『公卿補任』の情報源は、蔵人によって毎年作成された「補略(ぶりゃく)」であろうと言われ、そこに初めて記載される時には、当人の略歴(この部分は尻付とよばれるとか)が記載されます。(参考:国史大系書目解題)

 『外記補任』は太政官の大少外記の補任記録です。(弘仁年間の部分はなぜか省略が多く不完全ですが)。(参考:群書解題)

 

* 注意事項

 現存する史料はどれも写本です。写本は一点物であり、権威ある書と雖も細部は伝写の間に百本百様となり、等しく校合、校勘の対象と言えましょう。

 また叙位記事は主に五位以上ですが、「位」を授けられる時には「元の位階」も書かれますのでそれを頼りとします。

 

大外記正六位上大春日朝臣穎雄

□弘仁四年当時の推定官職;少外記(序文と不合)

『外記補任』に記載為し。

『類聚符宣抄』の弘仁四年九月一日の請印事の条と弘仁五年二月十五日の行幸条に「少外記大春日朝臣穎雄」の署名あり。よって、弘仁四年年当時の官職は少外記と推定。

□弘仁十年当時の推定官位;大外記正六位上(序文と合か)

『外記補任』に記載為し。

『類聚国史』「叙位」の「弘仁十三年正月」条に「「正六位上・・・、正六位下紀朝臣深江、大春日朝臣穎雄・・・従五位下。」とあり、弘仁十年当時は「正六位下」と推定され、序文と異なる。しかし、同時代性のある一次情報的「私記序文」を優先させれば、この記事は「正六位上・・・大春日朝臣穎雄、正六位下紀朝臣深江・・・従五位下。」と修正すべきかと考えられ、弘仁十年当時の位階は正六位上と推定でき、「大外記」相当位となる。

 『外記補任』によれば、弘仁十年に於いて、大外記では外従五位下船湊守の一人であるが、彼は九月四日に石見守に遷っており(同書)、このままでは大外記は不在と成る。定員二名の少外記では、『類聚符宣抄』に、高丘宿禰潔門(九月七日)と宮原宿禰村継(六月十九日)の二名の署名があり、既に定員を満たす。

よって、弘仁十年当時の官位は大外記正六位上と推定。

 

民部少丞正六位上藤原朝臣菊池麻呂

 □弘仁四年当時の推定官位;民部少丞正六位上(序文のまま)

他の史料に記載為し。

□弘仁十年当時の推定位階;従五位下か。(序文と不合か)

彼の最終官位は「従五位上。治部大輔」(尊卑分脈)。

 

兵部少丞正六位上安倍朝臣藏繼(倉継)

□弘仁四年当時の推定官位;兵部少丞正六位上(序文のまま)他の史料に記載無し。

□弘仁十年当時の推定位階;従五位下(序文と不合)『類聚国史』「叙位」の(弘仁)十年正月条に「正六位上・・・安倍朝臣倉継・・・従五位下」。よって、従五位下と推定。

 

文章生從八位上滋野朝臣貞主

□弘仁四年当時の推定官位;文章生從八位上(序文と合か)『日本文徳実録』の彼の卒伝(仁寿二年二月)に「大同二年奉文章生試及第。弘仁二年爲少内記。六年轉爲大内記。」とある。しかし、『公卿補任』天長九年条の貞主の略歴(尻付)に「「大同三年奉文章生試及第。弘仁二<五>年二月少内記。同六年正月、転大内記。同八年正月、蔵人<文書生>。六月大内記<二所如元>」とあり、弘仁二年の「二」に「五」と注が傍記される。記載内容が『日本文徳実録』、『公卿補任』、「私記序文」とそれぞれ異なる。よって、同時代性のある「私記序文」を優先させれば、序文通りの文章生從八位上と推定。

□弘仁十年当時の推定位階;正六位下(序文と不合)『日本文徳実録』の彼の卒伝(仁寿二年二月)に「(弘仁)十一年、授外從五位下。兼爲因幡介」。

 『類聚国史』「叙位」の(弘仁)十一年正月条に「正六位下・・・滋野宿祢貞主・・・外従五位下。」とある。

『公卿補任』の尻付も「同十一(年)正(月)七(日)外從五位下」とある。

よって、正六位下と推定。

 

無位嶋田臣清田

□弘仁四年当時の推定位階;無位(序文のまま)

他の史料に記載無し

 □弘仁十年当時の推定官位;少外記正七位上(序文と不合)

「日本後紀序」に「後太上天皇(淳和)、詔副左近衛大将従三位兼守権大納言行民部卿清原真人夏野・・・従五位下行大外記島田朝臣清田等、続令修緝。」(『類聚国史』国史)と載る。

『外記補任』天長元年(天長元年は弘仁十五年正月五日改元)条に「少外記島田清田<月任(兼か)内蔵属。文章生。>」と載る。

よって、少外記で正七位上(少外記相当位)と推定。

 

無位美努連清庭

□弘仁四年年当時の推定位階;無位(序文のまま)

他の史料に記載無し。

□弘仁十年当時の推定官位;従七位(守)左少史(序文と不合)

『東寶記』「第七・僧寶」所収の弘仁十四年十月十日官符に「従七位(守)左少史美努連清庭」とあるという。(太田昌二郎『上代に於ける日本書紀講究』「本邦史学史論叢・上巻」(P382)昭和14年)。

よって従七位(守)左少史と推定。

『東寶記』()杲寶著述(第1-3:佛寶、 第4-6:法寶、第7-8:僧寶)。

京都教王護国寺(東寺)寺誌。東寺所蔵本は国宝。

「続々群書類従・第十二宗教部」(P138にも次のように所収される。

 

太政官符治部省

真言宗伍拾人

右被右大臣宣称奉勅、件宗僧等、自今以後令住東寺、(中略)

莫令他宗僧雑住者。省宜承知。依宣行之、立為恒例、符到奉行。

参議従四位下守右大辨勳六等伴宿禰国道

従七位守左少史美努連清庭

  弘仁十四年十月十日

 (『東寶記』第七<僧寶上>)

 

「伴宿禰国道」については、『公卿補任』の弘仁十四年の尻付記事に「従四位下大伴宿禰国道<五十六><五月十四日任。即兼右大辨。勳六等(五十六歳)。>」とあり、一致する。

 

「弘仁私記序の撰者」

上記より、弘仁四年当時の推定官位は、大春日穎雄を除けば序文の官位と全て合うと推認でき、私記序文の撰時と思われる弘仁十年時では、大春日穎雄を除いて全て合いません。

よって、撰時の官位を書いている者が撰者と推認でき、それは弟子の筆頭に書かれる大春日穎雄と言えるでしょう。

 

弘仁私記序愚考(訳注)14

「原文」15

就外記曹局而開講席。

一周之後、卷袟既竟。

<一為周>

其第一、第二両卷義縁神代、語多古質。

<世質民淳。言詞異今>

授受之人動易訛謬。

訛、化也

故以倭音辨詞語、以丹點明軽重。

凡抄三十卷、勒為三卷。

 

「訳文」

 外記曹局について講席を開く(弘仁四年)。

 一年の後に、(チツ)を巻き、既におわった(弘仁五年)。

<一年を周となす。>

その第一、第二の両巻の義は、神代のことにつき、語に古質が多い。

<世は純朴で、民は純情。ことばは今と異なる。>

(後の)授受の人は、ややもすればあやまりやすい。

<訛は化なり。>

ゆえに、倭音をもってことばをわきまえるに、

丹点をもって軽重を明らかにする。

およそ三十巻(日本書紀)より抜き出し、記して三巻(三巻私記)となす。

 

「語注」

【外記曹局】外記局の曹司(役所)。「太政官中有三局。左右弁官、外記是也。」(職原抄)。

 【一周】注にあるように、ひとめぐり。一年。仏事の一周忌と同様。

【年】底本は年の本字(他も同じ)。

【袟(チツ)】(チツ)と同義。「帙、書衣也」《説文》。

【其第一、第二両卷】日本書紀「神代」の上下二巻。

【質】底本傍訓は「スナヲニ」。

【淳(ジュン)】底本傍訓は「アツウシテ」。藤堂漢和に「あつい;真心があつい。情が深い。まじめなさま」。

】弁。藤堂漢和に「わける。わかつ。わきまえる」。

【以丹點明輕重】大野晋氏は「「弘仁私記の序」という文章には、「以倭音弁詞語、以丹点明軽重」とある。丹点とは朱点を意味するものと思われるが、平安時代初期においては白点(胡粉)をもって返点、送り仮名を記すのが一般的であって朱点を用いることは、時代が降って平安中期に至ってからのことである。」(岩波書店日本古典文学大系版(1967)「日本書紀」訓読(P3637))と言う。

 しかし、『日本古典籍書誌学事典』(岩波書店1999)には、「朱点;平安時代初期から行われたが、当時は朱色が淡く、料紙が黄色または褐色のものが多いこともあって、解読困難な資料が多い。しかし平安時代後期になると、鮮明な朱色を用いることがおおくなり・・」とある。

  ※(史料上で、どれが最古か否かは、個人が任意に決める問題ではなく、史料での初出をもって決めるべき問題である。)

【勒(ロク)】「キザム。シルス」(倭玉編)。

 

弘仁私記序愚考(訳注)15

「原文」16

夫自天常立命、

<倭語云、阿麻乃止己太知乃美己止>

至畏根命、

<倭語曰、加之古祢乃美己止>

八千萬億歳。

<日本一書有此句、但無史官。渉疑。>

是雖古記、尚。不緊切。<緊、切也>

自伊諾命、

<天神。是即陽神也。倭語云伊佐奈支乃美己止>

至彦瀲尊、

<天孫。彦火火出見命第一男。倭語云比古那支佐乃美己止>

史官不備、歳次不記。

但、自神倭天皇庚

<彦瀲尊第四男。諱狹野尊也。庚天皇生年。>

然聖主弘仁十年、一千五百五十七歳、

御宇五十二帝。

庶、後賢君子留情々、察之。

云爾。

  

「訳文」

それ天常立命より

<(天常立命は)倭語に阿麻乃止己太知乃美己止という。>

畏根命に至るまで、

<(畏根命は)倭語に加之古祢乃美己止という。>

八千萬億年。

<日本の一書に、この句があるが、ただ史官には(この書は)ない。(この書は)疑わしい。>

これ、古記といえども、ことは上代である。(これは)緊切とせず(あまり気にしなくとも良い)。<緊、切なり。>

 伊諾命より、

 <天神。これ(伊諾命は)即ち陽神(男神)なり。倭語に伊佐奈支乃美己止という。>

彦瀲尊にいたるまでは、

<天孫。彦火火出見命の第一男(むすこ)。(彦瀲尊は)倭語に比古那支佐乃美己止という。>

史官が備わらず、歳次は記されない。

ただ、神倭天皇の庚午年より、

<彦瀲尊の第四男。諱は狹野尊なり。庚午は(神武)天皇の生まれ年。>

冷然聖主の弘仁十年にいたるまで、一千五百五十七年であり、

治世は五十二帝である。

こいねがわくは、後の賢君子、情々をくみとどめ、察していただきたい。

しかいう。

 

「語注」

【天常立命】日本書紀(第一段・一書第六)に「天地初判、有物。若葦牙、生於空中。因此化神、號天常立尊」。 古事記に「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神・・・次、天之常立神・・・上件五柱神者、別天神。次、成神名、国之常立神」。 先代旧事本紀の神代本紀に「天御中主尊<亦云天常立尊>」。

【阿麻乃止己太知乃美己止】アマノカシコネノミコト。

【畏根命】日本書紀(第二段)に「次有神。面足尊。惶根尊。〈亦曰吾屋惶根尊。亦曰忌橿城尊。亦曰青橿城根尊。亦曰吾屋橿城尊。〉次有神。伊弉諾尊。伊弉冊尊」。 古事記に「次、於母陀流神。次、妹阿夜上訶志古泥神。次、伊耶那岐神。次、妹伊耶那美神」。 先代旧事本紀の神代本紀に「妹吾屋惶城根尊<亦云惶根尊。亦云蚊鷹姫尊>」。

 【加之古祢乃美己止】カシコネノミコト。

 【史官】諸橋大漢和に「記録を掌る官」とあり、太政官の外記や中務省の内記などを指すか。

拾芥抄の官位唐名に「大外記;門下起居郎。今世号外史。内記;著作郎。起居郎。今世号柱下、又内史、又柱史」。

通典(巻二十一職官・史官)に「史官。肇自黄帝有之、自後顯著。夏太史終古、商太史高勢。周則曰太史、小史、内史、外史。・・・至漢武、始置太史公、以司馬談為之。卒、其子遷嗣。卒、後宣帝以其官為令、行太史公文書。其修撰之職、以他官領之、於是太史之官、唯知占候而已。自漢以前、職在太史。具太史局。當王莽時、改置柱下五史、記疏言行、蓋效古「動則左史書之,言則右史書之」。自後漢以後、至於有隋、中間唯魏明太和中、史職隸中書、其餘悉多隸祕書。大唐武德初、因隋舊制、史官屬祕書省著作局」。

 【渉疑】疑にわたるで、疑わしい。

 【日本一書】ここの「日本」は、唐、韓などの外国に対する「日本」。「一書」とは「あるひとつの書」。早稲田大学蔵本に「日本紀一書」と「紀」を加えているが、解釈一事、還作矛盾となり、全体の文意が通じない。よって採ら。

 【尚】右下に「シ」とあり、恐らく「ひさし(久し)」と読んだか。「尚者、上也。言此上代以來書、故曰尚書」《尚書序》。

【緊切(キンセツ)】諸橋大漢和に「甚だ大切なこと」。底本の注は「緊、切也」とあり、これでは「切切」となる。前の切が「急」で、後の切が「要」の義であろうか。しかし、あまり適切な注とは思えない。

【伊諾命】日本書紀に「伊弉諾尊」。古事記に「伊耶那岐神」。

伊佐奈支乃美己止】イザナギノミコト。

【彦瀲尊】日本書紀(第十段)に「名兒曰彦波武○○(鵜・ウ)草葺不合尊」。古事記に「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命<訓波限云那芸佐。訓葺草云加夜>」。

彦火火出見命日本書紀に「彦火火出見尊」。古事記に「火遠理命」、「日子穂々手見命」、「山佐知毘古」。

【比古那支佐乃美己止】ヒコナギサノミコト。

【神倭天皇】諡:神武天皇。日本書紀に「神日本磐余彦尊」古事記に「神倭伊波禮毘古命」。

諱狹野尊】日本書紀に「諱、彦火火出見」。また同書「第十一段一書第一」に「先生彦五瀬命。次稻飯命。次三毛入野命。次狹野尊。亦號神日本磐余彦尊。所稱狹野者。是年少時之號也。後撥平天下奄有八洲。故復加號曰神日本磐余彦尊」。 先代旧事本紀の天皇本紀に「諱、神日本磐余彦天皇。亦云彦火火出見尊。即少年時号狹野尊也。」

【庚午】底本は「庚申」で、伝写間での誤記であろう。

【冷然】左傍に「嵯峨」とある。詳細は、「愚考(訳注)12」の「語注」参照。

【弘仁十年】819年。この私記序の著作年(撰時)であろう。

この年に、『日本後記』編纂の勅命があり、また『新撰姓氏録』の改修の勅許が下りる。

今見る『新撰姓氏録(抄本)』はこの改修後のものであろう。そのため「新撰姓氏録序文」と内容が合わなくなっている。例えば出自を神別、皇別、諸蕃の三体と言っているが、実際の内容は、皇別、神別、諸蕃の順序であり、これは私記序文で指摘した通りになっている。また「日本紀合」とか「依続日本紀」なども、批判に応える形で、改修作業で追記した文言であろうか。

【一千五百五十七歳】[別項]に詳細を記す。

【五十二帝】『歴運記<今名公卿記>』に「天皇五十二代<起神武天皇元年、至今生弘仁二年、歴一千四百七十一年。>男帝四十二。女帝八<二帝重治天下者>。皇后一」。

【云爾】しかいう。文を結ぶことば。

 

  [別項] 一千五百五十七歳について

 この神武生年から弘仁十年までの年数を示す数値は、どう計算しても合いません。別史料の『弘仁歴運記』(延喜式に添付される)には、「惣計従天皇元年(神武)辛酉、至今上弘仁二年辛卯、合一千四百七十一年也」とあります。

上記の内容は、神武天皇即位元年より弘仁二年までの年数は「1471年」と言うことです。この数値をもとに、神武生年から弘仁十年までの年数をあらためて計算してみますと、神武即位元年時(辛酉)は52歳(日本書紀)ですので、この52年に8年(弘仁二年年から弘仁十年間)を足し、『弘仁歴運記』の一千四百七十一年(1471年)に加えれば、

   <52年+8年+1471年=1531年>

 となります。

 よって、考えられることは、私記序の一千五百五十七歳(1557年)は、元々は一千五百三十一歳(1531年)で、伝本書写の間に、「五」は「三」に、「七」は「一」に、それぞれ誤りが生じたと言うことでしょうか。

「私記序」の著者に大春日朝臣穎雄が考えられますが、この大春日氏は、暦術を家業とする家柄であり、このことも考慮に入れる必要があると思います。

 

結語

 最近、愚頭の記憶力の衰えが目立ちます。せっかく読み集めた情報が、頭から抜け落ちる不安から、急いで今回の愚考をまとめました。いたらぬところが多々あると思いますが、お許し下さい。

  愚考の釈字、釈文、訳注でありましたが、全体を通して読んでみますと、本文やその注の文には、写本ならでわの事情により、いろいろな変遷があるようです。注の文に関しては、自注と後人による他注が見られると思います。概ね人物の出自記事や図書類の解説は自注と思われますが、語句の注に関しましては、適切でないと思われるものがあり、これらは他注でしょうか。

  さて、「弘仁私記序」の論説に関しては、懐疑派や擁護派、さらには事実認定の稚拙派などあります。懐疑派がよく引用する論文は、中沢見明著『古事記論』(雄山閣・昭和四年)の第六章「古事記と日本紀弘仁私記序」(P124132)と和田英松著『本朝書籍目録考證』(明治書院・昭和11年)の「弘仁四年私記 三巻」(P8588)です。(これらはネット上の近代デジタルライブラリーで閲覧が可能。)

 戦後の懐疑派としては、友田吉之助氏や大和岩雄氏などでしょか。擁護派の引用論文で多いのは、太田昌二郎著『上代に於ける日本書紀講究』(「本邦史学史論叢・上巻」富山房・昭和14年)でしょうか。 擁護派には田中卓氏(「田中卓著作集10」に所収の「弘仁私記の研究」昭和24年)や北川和秀氏(「国史大系書目解題上巻」所収の「日本書紀私記」)などがおり、現在の主流派と言えましょうか。しかし、擁護派と言っても撰者、撰時の推定にいたっては様々です。ただ、「私記序文」の著者をボケ扱い(弘仁三年と四年や官位の違いなど)することは共通するようです。事実認定の稚拙派としては、愚考の中でも言及しました大野晋氏と他に同類の西宮一民氏や築島裕氏などがおります。彼らは任意に決めた時点を最古とする方法を採っていますが、史料上の最古とは、史料の初出をもってするべきものと思います。

 管見ですが、以上が現在の「弘仁私記序」を巡る論説の簡単な概要です。しかし、残念なことに、全体を通しての釈字、釈文、読解の形跡がありません。現存を失った所謂歴史とは、史料上の存在であり、史料の釈字、釈文、読解を経ない論説は、砂上の楼閣と言えましょう。

 全文を通して「弘仁私記序」が記す内容は、今までの古事記、日本書紀、新撰姓氏録に対する概念を根本から問い直すものと言えましょうか。所謂「歴史書」が、臣民や国民に対するプロパガンダになったのは明治時代以降であり、特に古代においては、「百王之亀鑑」(続日本紀上表文)と言い、王が読む書であり、逆に臣民への閲覧を制限した書と言えましょう。これは史書の本場である古代中国においても同様です(唐代に解禁)。古代における日々の事実には「天人相応」と言われる観念があり、天や神の意志が介在していると信じられていました。だから「事実」に対する姿勢が現代人と根本的に異なることに注意が必要と思います。

 最後に本居宣長の文を引用しておわりにします。

 「書をよむに、ただ何となくてよむときは、いかほど委しく見んと思ひても限りあるものなるに、みづから物の注釈をもせんとこころがけて見るときには、いづれの書にても格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、それにつきて又外にも得る事の多きもの也。」(『うひ山ぶみ』「古書の注釈を作らんと云々」)