『皇字沙汰文』訳注私案 2010.0706

 

 

 

はじめに

 これは、永仁四年(1296年)から永仁五年(1297年)にかけて、伊勢神宮の主に内宮と外宮との間で、外宮の受太神宮に「皇」の字を付けるか否かについて、朝廷を巻き込んだ文書による論争です。

 これを後日まとめたのは、その編集内容から外宮側禰宜の度會氏と言われています。

 論争は神宮の歴史や宗教観を含め当時ある史料を根拠としてなされ、しかも内部関係者での伊勢神宮の根本に遡っての争論であり、なかなか興味深いものがあると思います。

 しかし、管見ですが、この史料全体を通して一般向けに解説、読み下したものを見かけません。

 では、自分で読みこなしてみようと思いましたが、文章が中世の倭漢文古文書スタイルであり、独学の身としましては、なかなか読みがたく、そこで皆様のお知恵を拝借し、この史料の読解を果たしたいと思い立ちました。

これがどれほど有益なのか否かは分かりませんが・・・・。

作業としましては、原文をその配列順に載せ、勝手ながら語注や私見を書きますので、その都度でも流れに関係なくとも、ご批判ご意見を頂ければ幸いです。

元来が浅学で、アホな事も書きますので、内容は鵜呑みにしないでください。

また途中頓挫した場合にはご容赦の程を。

 

文中に現れる主な組織

 「朝廷側」

 担当奉行(蔵人頭・正四位下右中将三条実

 祭主(従三位行神祇大副大中臣朝臣定世)

「神宮側」

 大宮司(従四位下大中臣朝臣長藤)

内宮長(宮庁長官?荒木田秦氏?)

 外宮長(宮庁長官?度會定行?)

 禰宜(内宮、外宮)

 大内人(内宮、外宮)

 

 凡例

 1)基本テキストは「続群書類従」本にします。

 2)参考テキストは、読解の参考や異体字、旧字体の現行字体への変換などに、「大神宮叢書」本と「神道大系」本を参考にします。

 3)原文の闕字平出は無視し、本文の改行も内容的な区切りのところで、勝手に随時行います。

 4)句読点は「神道大系」本を、補読等は「大神宮叢書」本を参考にします。

 5)文書番号は「神道大系」本を参考に、原文の配列順に打ちますが、必ずしも「神道大系」本と同じではありません。

 6)原文配列は必ずしも日付順ではありません。

 7)原文中< >内は小字や小字二行割文を示します。

 8)ネット情報や一般辞書(古語・漢和)による語注は特に出典を明記しません。

 

 文書1永仁4211日:二所大神宮神主連署→太神宮司)

 

「原文」

 皇字沙汰文上(書名)

 

(本文)

 二所太神宮神主注進。

 可早経次第上奏任証文道理、蒙勅裁、全知行、被備進二宮上分米旨、権禰宜度會神主定行訴申。

 為蓮華光院所司等、募安井宮御威、押領伊勢国員辨郡石河御厨領家職、不辨年年神税、違例不信。

 神慮難測由事。

 副進

 右状云々、具也。

  永仁四年(1296年)二月十一日

 皇太神宮(連署)

  禰宜正四位上荒木田神主

  大内人正六位上荒木田神主

  ―――――

  ―――――

  ―――――

  豊受皇太神宮(連署)

  禰宜正四位上度會定行

  大内人正六位上度會神主彦

            行忠

            有行

            常尚

            尚行

            常良

       正四位下 行文

       従四位上 朝棟

  

「語注」

注進】チュウシン。上層部への報告。解状の一種。 【】(経の前にこの文字が抜けました)すみやかに。 【次第】シダイ。物事の順序。 【上奏】ジョウソウ。天子に意見や事情を申しあげる。 【全】副詞か動詞か?「太神宮叢書本」(以下「叢書本」と表記)は、動詞的補読あり。 【知行】チギョウ。土地を領地として支配すること。 【上分】ジョウブン。土地から上がる収益(土地そのものは「下地」シタジ)。 【定行】「叢書本」や「神道大系本」(以下「大系本」と表記)は「庭行」となっているが、連署のところに名が無く、あるのは「定行」。 【蓮華光院真言宗。旧太秦安井北御所町。歴代法親王が住持を務める安井門跡。【押領】オウリョウ。力ずくで他人の土地・物品などを奪いとる。 【員辨】「叢書本」傍訓に「イナベ」。「倭名抄」に為奈倍。 【石河御厨】「神鳳抄」に「員弁郡・石河御厨<三石。七丁。>。 【御厨】「荘園志料」の引く「建内記」に「号御厨者則神宮領也。皆致上分、外輩知行下地者也。」。 【領家】「領主家の略称なるべし」(「荘園志料」)。 【例】レイ。先例。前例。ためし。 【不信】フシン。不信義。《類義語》不誠実。 【神慮】シンリョ。神のみ心。 【】よし。伝聞した内容。 【副進】フクシン。添付文書を差し出す。この後の添付文書の目録は省略。 【右状云々】添付文書の要約文言を省略。【禰宜正四位上荒木田神主】以下、内宮側の連署だが、名を省略。 【大内人正六位上荒木田神主】前者と同列に列記されているが、「叢書本」は下段。おそらく筆記者で、「叢書本」が良いか。」。 【―――】内宮側の連署者の職位姓名省略。 【大内人正六位上度會神主彦】これも連署位置は下段が正しいか。 【行忠】度會行忠。度會神道(伊勢神道)の創唱者(「群書解題」)。 【常良】後、時の皇太子と同名のため「常昌」と改名。本書の編輯者?

 

 

 「私見」

 二所太神宮神主注進。

 すみやかに次第の上奏を経て、証文と道理に任せて、勅裁を蒙り、知行を全くし、二宮の上分の米を備え(そろえ)進められるべき旨、権禰宜度會神主定行訴え申す。

蓮華光院の所司等、安井宮の御威を募ることを為し、伊勢国員弁郡石河の御厨の領家職を押領し、年々の神税を弁(わきま)えぬこと、例に違い、不信。

神慮は測り難き由の事(常套句か)。

(以下省略)

 

*これは外宮側で文書を起案作成した二宮連名の解状の様です。本文の内容自体には問題がないと思います。今回の争論の発端は、外宮の署名の部分に、通例としては「豊受太神宮」とあるべきところを「皇」の字を加え「豊受皇太神宮」としたことです。当初この箇所に気がつかなかった内宮側が、始めてこれを指摘するのは「文章3」以降になります。

 

文書2同年214日:外宮禰宜定行→内宮長)

 

「原文」

此石河御厨事者、自訴候。

御正印事、無煩成給候者、可為本意候。

恐々謹言。

 二月十四日  禰宜定行

謹上 内宮長殿

  

「語注」

【者】この字は今も慣れ親しむ字ですが、『倭玉編』に訓が記さていないように、ちょっと複雑な用字用例をするようです。その意味を大別すると①名詞的「もの」で「増韻」に云う「即物之辞」に相当するか。②助詞的「は」で「説文」に云う「別事詞也」に相当するか。③文末に付いて「てへれば、てへり」と読む。③に付いては古文書に頻出しますのでその時に取りあげたいと思います。

 【候】さうらふ(候文:文語文の書簡文体の一種。鎌倉時代から盛んに行われ、江戸時代に完成)。 正印】内宮の政印か、内宮長官の花押か。『神宮雑例集』によれば、内宮印が置かれたのが天平十一年(739年)。大神宮司印は斉衡三年(856年)。外宮印は貞観五年(863年)。 【本意本来の目的。かねてからの願い。 【恐々】『公文抄』(続群書類従本p662)に「或恐惶ト書之、或恐々ト書之。可依仰下之奉行人之尊卑也」。

  

「私見」

この石河の御厨の事は、自ら訴えそうろう。

御正印のこと、煩い無しと成り給いそうらはば、本意を為すべく候。

(以下略)

  *先の解状の正文(原本)に印を要請する書状か。

 

文書3同年215日:内宮禰宜(秦氏?)→外宮長?)

「原文」

 石河御厨事解状、先日依不見及、令加署候之處、往代豊受太神宮<止>被載候<遠>豊受皇太神宮<止>候<者>若失錯候歟。

尤任先例、可有沙汰候哉。不審之間、如此尋申候也。

恐々謹言。

  二月十四日  内宮禰宜<判>

  

「語注」

】せしむ。一説に「使役の意ではなく、「・・・する」意味に多く用いられた。」(佐藤進一著『古文書学入門』)。判別が必要か。 【往代】オウダイ。昔。 【】もしは。もしくは。 【失錯】シッサク。しそこない。 】か。(この字古文書に頻出)。文末につけて疑問をあらわす。『増韻』に「疑辞也」。しかし、単なる疑問の他、今の「いかがなものか」と同様に婉曲的表現とも取れるか。 【沙汰】さた。処置。協議。評議。裁定。指図。命令。仰せと色々ありますがここでは「処置」が良いか。 【哉】か。かな。や。「叢書本」に「か」の傍訓あり。『手爾葉大概抄之抄』に「加字有二品之別(「か」の字に二しなの別あり)、一疑。二哉。「かな」と置べきを「な」を略して「か」とばかり置たるなり。」。 【不審】フシン。疑い。 【間】あひだ。(漢文調的表現)。接続詞的用法。・・・ので。・・・だから。 【如此】かくのごとし。

  

「私見」

石河の御厨の事の解状、先日みおよばぬによって、加署せしめ候のところ、往代より豊受太神宮と載せられ候を豊受皇太神宮と候は、もしは失錯に候か。

 もっとも先例に任せて、沙汰あるべく候か(かな?)。不審の間、かくの如く尋ね申し候なり。(以下略)

  *日付の後に宛先がありませんが、恐らく元は「謹上 外宮長殿」とあったか。

 

文書4同年215日:外宮禰宜→内宮長)

 「原文」

 豊受皇太神宮事、所見方々分明候。無失錯之儀候。

 而日来不書載之條、自然緩怠之間、載之候。

 但御方何様所見候哉。

 非御悋惜之限、可被行御正印候歟。

 仍石河事二宮解状進之候。

 恐々謹言。

  二月十五日  外宮禰宜<判>

 謹上 内宮長殿

  

「語注」

【儀】物事のなりゆき。こと。 【日来】ひごろ。 【自然】シゼン。人為の加はらない義。「道法自然」(老子)。 【緩怠】カンタイ。おこたること。 【】ただし。(とはいうものの。しかしながら)。 【何様】いかさま。(どのように)。 【悋惜】リンセキ。物惜しみすること。けち。 【】よって。(それゆえ。そこで)。

 

「私見」

豊受皇太神宮の事の所見は方々分明に候。失錯無きの儀に候。

但し、御方はいかさまの所見に候か。

悋惜の限に非ずして、御正印をおこなわれるべき候か

よって石河の事の二宮の解状、これを進め候。

  *同日の返信ですが、「所見方々分明」と根拠が曖昧で準備が不足しており、次の内宮の書状で、ここを突かれるか。

  

文書5同年216日:内宮禰宜→(外宮長?)

「原文」

(書状の部分)

豊受皇太神宮事、有所見由、示給候。

被載二宮解状條、未見及候。

神宮事、任先例可有沙汰候歟。

石河御厨事、御正印調進候

恐々謹言。

 二月十五日  内宮禰宜

(外宮側の書き込み部分?)

件解状、止皇字。

於当宮改清書、所相調也。

於本清書者、被書付当宮署之間、留置之上、後日有沙汰、於当宮禰宜署、可被摺之。

 

「語注」

】やむ。(とりやめる。中止する。やめる) 】うへ。(「は」を補読し)・・・である以上。・・・からには。 【する。(版木を用いて印刷する?)

 

「私見」

(書状の部分)

豊受皇太神宮の事、所見ありとの由も、示し給い難き候。

二宮の解状に載せられし條は、いまだみおよばぬに候。

神宮の事は、先例に任せ、沙汰あるべき候か。

石河の御厨の事は、御正印を調え進め候。

(外宮側の書き込み部分?)

件の解状、皇字をやむ。

当宮に於いて清書を改め、あい調えしところなり。

もとの清書においては、当宮の署を書き付けらるの間、これを留め置くの上、後日、沙汰ある時、当宮禰宜の署に於いては、これをすらるるべし。

(後半の読みがいまいちですので、どなたか・・・)

   *外宮側がいったん引き下がったかに見えますが、両宮のわだかまりは密かに進行し、それが文書番号8で、表沙汰となり、一気に争論が本格化・・・。

  

文書6同年229日:外宮禰宜→内宮長)

「原文」

当宮皇字事、先日粗申子細候之處、被申合傍官禰宜、可有御左右之趣、仰給之後、御無音何様候哉。

其間事、以雅見神主令申候。委被尋聞食、可承存御所存。

 六ヶ山事、雅見同委細可申候也。

 恐々謹言。

  二月廿九日  外宮禰宜

 謹上 内宮長殿

  

「語注」

【粗】「叢書本」に「ほぼ」の傍訓あり。 【申合】まうしあはせ(打合せ?)。 【左右】そう(あれこれ。とやかく)。 【】おもむき(趣意。意向)。 【無音】ブイン。おとなし(久しく音信がないこと)。 【委】たしかに(官文書の用語)。つまびらかに(すみずみまで)。 【聞食】きこしめす(聞くの敬語)。 【六ヶ山】むこやま?神宮領。この件の内容はここでは不詳?他の史料に、「去月廿九日到伊勢國、平氏雅樂、助三郎、盛時并子姪等搆城郭於當國六ケ山。」(吾妻鏡18巻)。 「天仁元年(1108年)六月九日依有陣定催・・・大神宮神戸伊賀国六ヶ山、與興福寺末寺傳法院領相論事。大神宮領頗有理歟」(中右記)。

 

「私見」

当宮の皇の字の事、先日、ほぼ子細を申し候のところ、傍官の禰宜に申し合わせられ、御左右あるべきのおもむき、仰せ給うの後、御無音、いかさまに候や。

その間の事、雅見神主をもって申さしめ候。

たしかに尋ね聞こしめされて、御所存をも承り存ずべし。

六ヶ山の事も雅見が同じく委細を申すべく候なり。

(以下略)

  *文書4で「けち」とまで言った文言と違って、外宮側の丁寧な言い方?に何があったのか。

  

文書7同年229日:内宮禰宜→(外宮長?))

「原文」

外宮皇字事、并六ヶ山事、両條委承候畢。

其子細御使雅見可申候也。

恐々謹言。

 二月廿九日  内宮禰宜

 

「語注」

】(接続詞)ならびに。(それにまた、の意をあらわす)。 おわんぬ。(すべておしまい。また証文の最後に書いて、以上でおわりの意をあらわす)。

 

「私見」

外宮の皇の字の事、ならびに六ヶ山の事の両條たしかに承り候畢。

その子細は御使の雅見が申すべく候なり。

  *内宮側は、ここで、これ以前の同月二十三日付(文書8)で、外宮に内緒で出した朝廷へのつげぐち的注進状(文書8)には触れなかったか。この文書7で主に内宮と外宮の直接のやりとは終わりになります。あとは上記注進状(文書8)が発端となり、朝廷など上層部を間に置いた争論が中心です。その始まりは、月も変わり四月十二日付の文書9

  

文書8同年223日:内宮禰宜→(太神宮司))

「原文」

太神宮神主依綸旨注進。風宮造営事。(事書;本文の要旨)

①(前段)

右、宮司今月十一日告状称、同十七日祭主下知称、去年十二月綸旨称、風宮造営事、通海法印状如此。子細見状候歟。

 可為何様候哉之由、被仰下候也。

 仍執達如件者。

 ②(本題:綸旨の問いかけに対する内宮の回答部分)

 謹案事情、

 二所大神宮内院外院殿舎、御垣、并諸別宮、式内式外摂社、自昔于今用檜、不交杉。就中、風神為社号之時、尚以檜木遂造営。況被授宮号之今、殆難被通用杉歟。

於神宮御事者、非可尋漢家之異儀、専可守日域之先蹤哉。

次、太神宮御造替、可限廿年之條、天武天皇御時、被定置之後、聖武天皇御宇天平十九年、諸別宮廿年一度御遷宮、可為長例之由、所被下宣旨歟。

加之、如延喜神祇式者、太神宮廿年一度、造替正殿、寶殿及外幣殿<度會宮、及諸別宮、余社、造神殿之年限准之。>云々。

伏考故実、

神宮造営料者、以正税調庸、致大廈之構、今者為諸国課役、修成風之功、難似有人民之煩費、為令及慈恵於衆庶歟。

広大神慮、商量争及。而風神被奉授宮号之上者、敢難違諸別宮之例歟。

殊被致崇重之禮者、有擁護之憑。

縦雖沿革従時、於神祇儀式者、難違古典哉。

然則早守傍例、遂営作、被令致天下泰平之御祈祷矣。

③(最近の外宮の言動を責める部分)

此事二宮禰宜可為一紙連署請文之處、外宮禰宜等、背先規、今月始豊受皇大神宮之由、載于解状之間、皇字為新儀之上、不経奏聞、無左右令書之條、依有其恐、成思慮之處、捧自由解状云々。

 是可謂神事之違例歟。不可不言上。

 仍注進如件。

   永仁四年二月廿三日

   大内人正六位上荒木田神主則貞(下段に記載:筆録者?)

禰宜正四位上荒木田泰氏(以下上段に記載)

―――章延

―――氏棟

―――経有

―――氏成

―――成言

―――氏尚

―――泰世

 

「語注」

綸旨】リンシ。天皇の言葉を記載した文書。平安時代後期以後、天皇の意を受けて「蔵人」が書いて出した。「りんじ」とも。「綸旨者、職事(蔵人)書出候。」(『三内口決』群書類従P52)。「蔵人所・・・謂之職事。」(『職原抄』群書類従P628)。  【】「叢書本」に「イハク」の傍訓有り。 【同十七日祭主下知】この日付は疑問。上からの文書通達の流れは、「朝廷→祭主→大神宮司→禰宜」であり、日付は「宮司今月(2月)十一日告状」の前でないといけないか。「同十七日」ではなく、「去(1月)十七日」か(綸旨は12月)。 下知】ゲヂ。指図すること。命令。  【通海法印状通海法印は、祭主隆通(寛喜二年任。在任廿年)の子。醍醐寺三宝院の権僧正。著書に『通海参内記』(続群書類従第三輯下)があるが、この参拝記と今回の「状」とは直接的に関係しないと思われ、「状」の内容は不詳であるが、この注進状の本文である程度はうかがい知れるか。 【執達】シッタツ。上部の意見・命令などを下部に伝えること。「執達くだんの如し」。 【】テエリ。特に「称・・・者」の関係では今の「 」の働きを示すとか。「者といふ事。・・・これは上の語につき、云々てへりとよむこと也。てへりは、といへりといふことなり。」(『玉勝間』岩波文庫上巻P132)。 【二所大神宮内院外院】「件荒垣有鳥居、此中号内院。・・・一殿一宇。神祇官殿。九丈殿。御輿宿。庁一宇。忌屋殿。子娘館。御倉三宇。御稲御倉一宇。已上号外院・・・已上外宮也。内宮殿舎一同之」(『新任弁官抄』群書類従P420)。 【就中】なかんずく。 【殆・・・】「ホトンド。将(マサニ)也。クレグレト云フ心。」(『理諺集』(和漢初学便蒙))。「叢書本」、「大系本」は共に「始」。 【先蹤】センショウ。古人の事跡。先人の足跡。 【加之】しかのみならず。 【如延喜神祇式者・・・云々】この「云々」小字二行割文となっていますが、この前までの小字二行割文が延喜式の原文であり、ここは通常の文字が正しいか。【大廈】タイカ。大きな建物。 【修成風・・・】の「修」は、「叢書本」、「大系本」共に「」。【成風之功】普請のできあがること。「大廈の構え、成風の功、年をへずしてつくりなせり。」(『平治物語』上巻の一)。 【商量】ショウリョウ。引き比べて考える。協議相談する。 【争】いかでか。疑問・反語をあらわす助詞。どうして。 【及】「叢書本」、「大系本」では共に「」で、「叢書本」の傍訓は「ヲヨバン」。 【】いや。(いよいよ。ますます。)。 【】「叢書本」の傍訓は「タノモシゲ」。 【】たとえ。(接続詞)。【沿革】エンカク。物事のうつり変わり。変遷。 【無左右さうなし。無造作だ。あれこれ考えない。

 捧自由解状云々】「叢書本」に「捧」の補読の送りがなに「ケシト」とありますが、これでいきますと読みは「自由の解状をささげしと云々」となり、伝聞的な柔らかい語調となりますが、後文の「不可不言上」から考えると、「自由の解状をささげて云々す。」の方が文脈にあっているような気もしますが、いかがなものか。

 

「私見」

太神宮神主綸旨に依って注進す。風宮の造営の事。

①(前段)

右、宮司の今月十一日の告状にいわく、同十七日(?)の祭主の下知にいわく、去年十二月の綸旨にいわく、風宮造営の事は、通海法印の状はかくのごとし。

子細は状を見るべく候か

いかさまに為すべく候やの由、仰せくだされ候なり。

執達くだんの如し。テエリ。

②(本題:綸旨の問いかけに対する内宮の回答部分)

謹んで事の情を案じるに、二所大神宮の内院外院の殿舎、御垣、ならびに諸別宮、式内式外の摂社は、昔より今に檜を用いて、杉を交えず。

なかんずく風神の社号たるの時も、尚、檜の木を以て造営す。

況や宮号を授けられるの今をや。

ほとんど杉を通用せられること難しか。

神宮の御事に於いては、漢家の異儀を尋ねべくも非ずして、専ら日域の先蹤を守るべきかな。

次に、太神宮の御造り替えは二十年を限るべし條の天武天皇御時に定め置かれし後、聖武天皇御宇天平十九年に、諸別宮の廿年に一度の御遷宮も、長き例と為すべきの由、宣旨を下されし所か

しかのみならず、延喜の神祇式の如くは、「太神宮廿年一度、造替正殿、寶殿及外幣殿<度會宮、及諸別宮、余社、造神殿之年限准之。>」云々。

伏して故実を考えるに、神宮造営の料は、正税の調庸を以て、大廈の構えを致す。

今は諸国の課役を為して、成風の功を修。

人民の煩費に似たると雖も、慈恵を衆庶に及ばしむと為すか。

広大な神慮は、商量いかでかおよばん。

しかして、風神に宮号を授け奉られし上は、あえて諸別宮の例に違うこと難しか。

ことに崇重の禮をいたされば、いよいよ擁護のたのもしげあり。

 たとえ沿革、時に従うといえども、神祇の儀式においては、古典に違うこと難しかな。

しからば則ち早く傍例を守り、営作を遂げ、天下泰平の御祈祷をいたせしめられん。

③(最近の外宮の言動を責める部分)

この事は、二宮禰宜の一紙連署の請文(うけぶみ)と為すべきのところ、外宮禰宜等は、先規に背き、今月、始めて豊受皇大神宮の由、解状に載せるの間、皇の字は、新儀たるの上に、奏聞を経ず、さうなくこれを書かしむの條の、その恐れあるによって、思慮を成すのところ、自由の解状をささげて云々す。

これは神事の違例と謂うべきか

言上(ゴンジョウ)せずべからず。

よって注進することくだんの如し。

(以下略)

 

文書9同年412日:外宮禰宜→(太神宮司))

「原文」

豊受皇太神宮神主注進。可早経次第上奏、蒙勅裁。当宮解状書皇字、為新儀違例由、内宮禰宜等載同宮風宮造営事請文状中、経濫奏、無謂由状(「由状」は「事」か)。

 右、謹披延喜神祇式、倩考神宮本記等、皇字、則二所太神宮之尊号、八百萬神等之通称也。

思其本元之儀(「儼」か)、案其玄始之起、惣匪言語之所莫筆墨之可記。

 延喜神祇祝詞式云、度會<乃>山田原<乃>。下津磐根<爾>称辞竟奉<留>。豊受皇太神宮前<爾>申<久>云々。

加之、延久、承保、承暦、寛治、寛治、天仁、天永、永暦、正治、度々被奉進神寶之時宣命云、豊受皇太神<乃>廣前<仁>、恐<美>恐<美毛>申賜<波久止>被載之。

於当宮用皇字、云式條、云宣命、先跡多存。争称新儀哉。上之所行、(「下」字脱か)必可順者也。仍守旧典、奉書皇字之處、内宮禰宜(「猥」字脱か)経訴(「詐」か)奏之條、乍存故事、暗訴新儀之由歟。

略與不略、何是何非。

併仰明察、不書(「盡」か)愚言。

此上猶御不審相貽者、(「速」字脱か)召對二宮之禰宜、被聞食一決之問答、為蒙勅裁、注進如件。

  永仁四年四月十二日

    大内人正六位上度會神主則彦(下段)

 禰宜正四位上度會神主定行(以下上段)

 ―――行忠

 ―――有行

 ―――常尚

 ―――尚行(一禰宜「息」字脱か)?)

 ―――常良

 ――正四位下――行文(一禰宜(「息」字脱か)?)

 ――従四位上――朝棟

  

「語注」

豊受皇太神宮神主】「皇」の字が付けられていることに注意か。 【無謂由状】ここは「事書き」部分と思いますので「叢書本」等にあるように「無謂事」がよいか。 【無謂】いわれなし。(理由がない)。  【請文】うけぶみ。下達文書受領報告書及び命令に対する報告、返書。 【】ひらく。 【神宮本記】これは特定の書名ではなく、「神宮の本を記す」で、諸史料をさすか。この「沙汰文」の中でも具体的根拠の書名としては上げられない。 【】つらつら。 【「叢書本」は「儼」で、「ナルヲ」の送り仮名あり。 【加之】しかのみならず。「ソレノミニアラズト云心也」(理諺集)。 【延久延久元年(1069)十一月八日の宣命? 【承保】承保二年(1075)十一月七日の宣命? 【承暦】承暦三年(1079)三月十六日宣命? 【寛治】寛治二年(1088)十月八日の宣命? 【寛治】同年十一月四日の宣命? 【天仁】天仁二年(1109)十月廿九日宣命? 【天永】天永元年(1108)七月廿四日の宣命? 【永暦】永暦元年(1160)十一月十一日の宣命? 【正治】正治二年(1200)十一月廿八日の宣命? 【必可順・・・】後の文書に「下必可順」とあるように、恐らく「下」の字が脱?『明文抄』に「上之所好、下必随之(貞観政要)」。 【猥】この字「叢書本」等にあり。 【】「叢書本」等は詐」で、文書8で内宮側は訴訟沙汰まで言及しおらず詐」の方が良いか。 【しかし。けれども。しかしながら。「叢書本」に「ナガラ」の送り仮名あり。 【】「叢書本」等は「盡」。 【「叢書本」等にはこの字あり。 【(一禰宜「息」字脱か)?)】後人の書き入れ部分か。「息」は息子か。

 

「私見」

豊受皇太神宮神主注進。早く次第の上奏を経て、勅裁を蒙るべし。

当宮解状に皇の字を書くこと、新儀違例と為すの由、内宮禰宜等が同宮風宮造営の事の請文状中に載せ、濫奏を経ることは、いわれなきこと。

右、謹んで延喜の神祇式をひらき、つらつら神宮の本記等を考えるに、皇の字は則ち二所太神宮の尊号で、八百萬神等の通称なり。

その本元の儀を思い、その玄始の起こりを案じるに、すべて言語のおよぶ所にあらず。たやすく筆墨の記すべくはなし。

かの延喜の神祇式の祝詞にいう「度會山田原。下津磐根<爾>称辞竟奉<留>。豊受皇太神宮前<爾>申<久>」云々と。

しかのみならず、延久、承保、承暦、寛治、寛治、天仁、天永、永暦、正治の度々の被神寶の奉進の時の宣命にいう「豊受皇太神<乃>廣前<仁>、恐<美>恐<美毛>申賜<波久止>」と、これを載せらる。

当宮に於いて皇の字を用いること、式條といい、宣命といい、先跡多く存す。

いかでか新儀と言わんや。

上の行うところは、下の必ずしたがうべきものなり。

よって旧典を守り、皇の字を書き奉りしところ、内宮禰宜の奏を経ることの條、故事に存しながら、暗に新儀の由を訴えしか

略すと略せざると、何れが是で何れが非か。

しかしながら明察を仰ぎ、愚言をつくさず。

この上、なお御不審のあいのこらば、二宮の禰宜を召しむかわせ、一に決することの問答をきこしめされて、勅裁を蒙らんが為に、注進することくだんのごとし。

(以下略)

  *ここから始めて訴訟というかたちで論争が本格化します。

 これが「初問状」で、訴えられた内宮側は「初答状」(文書13)を出すことになります。

  

文書10同年421日:太神宮司→(祭主))

「原文」

太神宮司解。申進申文事。

言上。豊受皇太神宮禰宜等注進。可早経次第上奏、蒙勅裁。当宮解状書皇字、為新儀違例由、内宮禰宜等載同宮風宮造営事請文状中、経濫奏、無謂由状。

副進(別添の文書)

 禰宜等注進状一通

右、得彼禰宜等今月十二日注文称、子細載于其状也。

仍相言上如件。以解。

  永仁四年廿一日 権主典(文書係)(位階姓名省略)

          主典(位階姓名省略)

 大司従四位下大中臣朝臣長藤(大宮司)

 大司従五位下大中臣朝臣(名前省略)

 少司(位階姓名省略)

  

「語注」

言上。豊受皇太神宮禰宜等・・・】「言上」が大宮司の言葉で、「豊受」以下「無謂」までは外宮側の言葉をそのまま貼り付け。 【無謂由状】ここは「事」ではなく、「由」で伝聞を示すか。 【右、得彼禰宜・・・】「右、」以下が大宮司側の添付意見。 【彼禰宜等】外宮側の禰宜等。 【今月十二日注文】「文書9」をさす。また「注文」ではなく「注進」がよいか?

  

「私見」

  *文書10と11では、文書伝達の流れ(文書9・禰宜→文書10・太神宮司→文書11・祭主→)を知ることが出来ますが、内容的には事務的です。

  

文書11同年424日:祭主→(朝庭))

「原文」

言上。豊受皇太神宮司言上。豊受大神宮司禰宜等注進。可早経次第上奏、蒙勅裁。当宮解状書皇字、為新儀違例由、内宮禰宜等載同宮風宮造営事請文状中、経濫奏、無謂由状。

副進(別添の文書)

 宮司解状一通(文書10)

  禰宜等注文状一通(文書9)

 右、得彼宮司今月廿一日解状(文書10)称、子細載于其状也。

 仍相言上如件。以解。

   永仁四年四月廿四日

 祭主従三位行神祇大副大中臣朝臣定世

  

「語注」

【豊受皇太神宮司言上・・・】ここは明らかなミスで「太神宮司言上・・・」が正しい。(ご愛敬か)。 【豊受大神宮司禰宜等・・・】「皇」の字が無いことに注目か。「叢書本」、「大系本」には「皇」の字があり「豊受皇太神宮司禰宜等・・・」とする。  

 

「私見」

(略します)

 

文書12同年58日:右中将実→大夫史)

 「原文」

 外宮禰宜等申皇字事。祭主状<副具状>経奏聞、返献之。

 此事先度直被仰下之。所詮相尋内宮禰宜等、所存可申歟之由、可被仰祭主之旨、所被仰下也。仍執達如件。

 五月八日  右中将実

大夫史殿 <次第施行、子細同前>

 

「語注」

先度】センド。(先ごろ。せんだって)。 【ただちに。(直接に。じかに)。 【所詮】ショセン。センズルトコロ。(結局のところ。つまるところ)。 【右中将実躬】蔵人頭。正四位下。三条藤原氏(『公卿補任』)。 【大夫史】太政官弁官局所属。五位の書記官の「大史」。

 

「私見」

外宮禰宜等の申す皇の字の事。祭主の状、奏聞をへて、返献す。

この事、先度、直に仰せ下さる。

「所詮は内宮禰宜等にあい尋ね、所存申すべきか」の由、祭主に仰せらるべしの旨、おおせくださるるところなり。よって執達くだんのごとし。

 (以下略)

   *蔵人頭が太政官の大史に綸旨の施行状を要請するもので、綸旨ならではのものか。

  

文書13同年67日:内宮禰宜→(太神宮司))07.24

「原文」

<初答状>(後日の書き入れ)

太神宮神主依綸旨注進。外宮禰宜等皇字事(事書き)

①(文書を確かに受け取った事を明らかにする部分)

右、宮司去月(5月)廿六日告状称、同十九日祭主下文称、同九日官施行称、同八日綸旨称、(以下「謹所請如件」の前まで文書12とほぼ同じ)

「外宮禰宜等申皇字事。祭主状<副具状>経奏聞、返献之。

此事先度直被仰下。所詮相尋内宮禰宜等、所存可申歟之由、可仰下也。仍執達如件」者。謹所請如件。

②(反論陳述)

1)抑彼宮(外宮)禰宜等申状称、披延喜神祇式、考神宮本記、皇字則二所太神宮之尊号、八百萬神等之通称也云々。就之案之、天照太神宮者惟祖惟宗、尊無二、自餘諸神者、乃子乃臣。孰能敢抗云々。通料簡義、趣夫如何。

2) 又以延久(1069)以後宣命、猥備新儀今案之支証歟若就其文可書載者、内外宮之間諸別宮之号、皆可用此字歟。就中諸社宣命之文、雖載皇字、社司訴訟之時、不(可か?)書皇字歟。随不見及日本紀、不注載儀式帳。速可被召出載解状之証験者也。縦雖有可加書之謂、思彼略與不略之篇、先哲之不書、実有由歟。後愚之意巧、豈可然乎。冥慮難測焉、尤非言語之所覃、是非幽玄也。即莫筆墨之可記。

3) 上之所行、下必可順云々。素存此文者、初宜仰勅裁歟。而以私儀俄載奏書、自由之至、無謂者乎。夫氏姓之中絶、猶経官奏。神号之増字、盍窺叡慮。自専之所為歟。言相違歟。

③(結語)

凡厥珠城大泊瀬御宇(雄略天皇)、奉定磯、度會両宮以降、春秋之祭禮、年中之行事任規所行来也。

所詮、本宮禰宜者、守先例而愬新儀、外宮神主者、背旧跡而申非儀。神不享非例、用捨云隔也。

早停止新儀、宜被任旧跡者、彌儼二宮無為之神事、増専一朝安全之御祈矣。仍注進如件。

 永仁四年六月七日

   大内人正六位上荒木田神主貞宗

禰宜正四位上荒木田泰氏

    章延

    氏棟

    氏成

    成言

    氏尚

    泰世

 

「語注」

【抑彼宮・・・通称也】文書9の外宮の文言。 【抗】コウス。(対等にたって張り合う)。「叢書本」に「タクラフ」の傍訓あり。 【通料簡義、趣夫如何】「叢書本」には「通称之料簡儀趣夫如何」とあり、「群書類従本」では意味が通じない。 【料簡】リョウケン。思慮。分別。 【夫】「叢書本」に「ソレ」の傍訓あり。 【如何】イカン。問いつめる意をあらわすことば。 【猥】みだりに。原則をおし曲げて。 【支】ささふ。 【就中】なかんづく。(とりわけ。殊に。特に)。 【証験】ショウケン。あかし。しるし。また、証拠だてる。 【是非幽玄也】「大系本」の訓点は「是、幽玄にあらずなり」と読むように打っていますが、これでは後文の「即莫筆墨之可記」と意味が合わない。「叢書本」には返り点がなくそのまま読むようになっていますのでこれに倣います。 【上之所行、下必可順】文書9の外宮の文言。ここには「下」の字がある。 【無謂】いわれなし(理由がない)。 【磯度會両宮】磯宮と度會宮。 【春秋】シュンジウ。一年。一年間。 【規】のり。物事の基準。また、基準となるきまり。「叢書本」の傍注に「先脱カ」。 【本宮禰宜者、守先例而愬新儀。外宮神主者、背旧跡而申非儀。】対句をなすか。 【愬】うったふ。(申し出る。告げる)。  【神不享非例】『明文称』に「神不享非禮。(論語)」とあり、「例」は「禮」か。 【用捨】ヨウシャ。用いることと、捨てて用いないこと。 【儼】ゲン。おごそかで動かしがたいようす。 【無為】むゐ。生滅、変化しないこと。

 

「私見」

① は略します。

②の1)

「抑彼宮(外宮)禰宜等申状称、披延喜神祇式、考神宮本記、皇字則二所太神宮之尊号、八百萬神等之通称也」(文書9参照)云々。これについて案じるに、天照太神宮は、これ祖、これ宗にして、尊きこと二つと無く、自餘の諸神は、すなわち子、すなわち臣。たれかよくあえて抗して云々す。「通称」の料簡の儀旨、それいかん。

②の2)

また延久(1069年)以後の宣命をもって、みだりに新儀、今案の支証に備えるか。なかんずく、諸社宣命の文に、皇の字を載せるといえども、社司、訴訟の時に、皇の字を書かずや。したがて、日本紀をみおよばずとも、儀式帳に注載せず。はやく解状に載せる証験を召し出さるるべしものなり。たとえ、加書すべきのいわれあれども、かの「略與不略」の篇を思うに、先哲の不書、実に由あるか。後愚の意巧、あにしかなるべからんや。冥慮、これ測り難く、もっとも言語のおよぶ所にあらずして、是非も幽玄なり。すなわち筆墨の記すべくはなし。(是非を決める訴訟沙汰に、外宮の「輙莫筆墨之可記」云々など書くなと言うことか?)

②の3)

「上之所行、下必可順」云々。もとよりこの文を存ずれば、はじめに、よろしく勅裁を仰ぐべしか。しかして、私儀をもって、俄に奏書に載せるは、自由の至りにして、いわれなしものか。それ、氏姓の中絶もなお官奏を経る。神号の増字、なんぞ叡慮を窺わざる。自らもっぱらとなす所為(ショイ)か。言、あい違うか。

およそ、それ、珠城大泊瀬のみ世に、磯、度會両宮を定め奉り以降、春秋の祭禮、年中の行事、先規に任せて行い来るところなり。所詮、本宮禰宜は、先例を守りて新儀をうったえ、外宮神主は、旧跡に背きて非儀を申す。「神不享非禮」の用捨は隔たりをいうなり。すみやかに新儀を停止し、よろしく旧跡に任されるべし。てえれば、いよいよ二宮の無為の神事を儼とし、ますます一朝の安全の御祈をもっぱらとせん。(以下略)

 

追加「語注」

【磯宮】『明文抄』に「大倭本紀曰、天皇之始天降来之時、共副護斎鏡三面・・・註曰、一鏡者天照大神之御霊代。名天懸大神。今伊勢国磯宮崇敬拝祭大神也。・・・(日本紀)」とあり。しかしこれは「日本書紀」ではなく、『釋日本紀』「巻七・述儀三(国史大系本P104)」の記述。しかも「今伊勢国磯宮崇敬拝祭大神也」の部分は、国史大系本の『釋日本紀』になし。また『大倭本紀』とは、『本朝書籍目録』に「大和本記 二巻<記神代古事。上宮太子御撰>」か。【禮】『禮記』「曲禮上」に、「夫禮者、所以定親疏、決嫌疑、別同異、明是非也」。その「疏」に「禮者、所以辨尊卑、別等級・・・」。

 

文書14(同年8月16日:外宮禰宜→(太神宮司))

  *(原文が長いので、「注進状部分」と「別添資料部分」の「その1」と「その2」に分けます。)

「原文」(注進状部分)

二問状(後日の書き入れ) 

豊受皇太神宮神主依綸旨注進。当宮皇字事(事書き)

①請文(うけぶみ)慣例的部分

右、今月十三日宮司符称、同十二日祭主下文称、同七日官施行称、同日綸旨称、「外宮禰宜等申皇字事。祭主請文<副内宮等状>経奏聞返献之。早可被下外宮之由所被仰下也。仍執達如件者。」謹所請如件。

②反論

1) 抑如内宮禰宜等請文者、「天照太神宮者惟祖惟宗、尊無二、自餘諸神者、乃子乃臣。孰能敢抗」云々。就之案之、内外両宮者、依為惟祖惟宗、無尊号之増減。天下余社者、依為乃子乃臣、有位記之階級。凡二所皇太神宮者、天地之霊貴。日月之大元也。故布化於乾坤、則長養万物。綿徳於陰陽、則照臨群品。神祇本源、君臣高祖、八穴社稷、四海宗廟也。是以、御形文図、義華一朝崇敬、不置差別。千木片成理露二宮禮奠、无有高卑。忝依内宮神勅、奉先外宮祭禮、幽契之縁也。致敬之太也。就中、皇字者、源起従天祖、流伝于王家。徳羽天地、則称之。義同大處、則号之。然間、貞観、延喜式文、延久、承徳宣命<先進之、自余略之>、神宮秘記飛鳥本記、倭姫皇女世記、伊勢寶基本記皆以奉載皇字於当宮也。誰人謂新儀。何族称違例矣。

2) 又称、「諸社宣命之文、雖載皇字、社司訴訟之時、不書皇字」云々。二所太神宮者、異于天下諸社之條、格文載而炳焉也。准拠所存、比興料簡歟。

3) 「不見及日本紀」云々。何起(「起」は「紀」か)哉。荒涼也。但日本書紀<自神武至雄略>、古語拾遺、古事記、律令格、及延暦公成、延喜安則等勘奏本系、天長元五、貞観十三年宣命紙、二宮共不載皇字。一方何可有其難哉。

4) 又称、「可召出載解状之証験」云々。延喜十四年正月氏本系勘進奏書(別添その1)、天慶九年四月日請神祇官符解状(別添その2)、為上覧所備進也。

5) 又称、「宜仰勅裁歟。而以私儀載奏書、自由之至、無謂」云々。有訴訟捧奏状、都無定様。古今各異也。所謂延喜十一年二宮解状者、伊勢二所皇太神宮載之。鷹守八氏注文、二宮并別宮職掌人喝(「喝」は「唱」か)連署也。延喜、天慶晴彦本系者、二宮神主交座而進名也。延喜十九年神宮公験、去貞元四年上奏文等、其趣不同、而悉非一義也。加之、或止由気宮被注之、或豊受宮由奉書之。如此之参差、随時之用捨、全不伺叡慮。更無蒙勅定。限此事、何加巨難哉。如載于先段、内宮皇字不<「載」脱歟>日本書紀<自神武至雄略>、以下数巻之古書。為載于解状、経上奏、預天裁歟。帯所見者、可出対也。不然者、争遁自難矣。

6) 又称、「氏姓之中絶、猶経官奏。神号之増字、盍窺叡慮。」云々。人倫氏姓者、有去来之故、雖経官奏、大祖神号者、属無窮之故、不及上聞。増字之謀訴、希代之結構也。被糺明尊号之増減、可被勘罪名之軽重歟。7)又、「珠城大泊瀬御宇(雄略天皇)、奉定磯、度會両宮」云々。以磯宮存本宮哉。背風土記、違儀式帳歟。

③結語

但当論肝心、啻在皇字。此上聖断(「及」の脱か)豫儀、勅裁不速者、二宮聴禁河、同時致参洛、遂究決、散鬱陶之(「之」は「也」か)。望請、早停止我意非分之乱訴、欲遂蒙神号理運之裁許。仍注進如件。

 永仁四年八月十六日

   大内人正六位上度會神主則彦(下段)

禰宜正四位上度會神主定行(以下上段)

―――行忠

―――有行

―――常尚

―――尚行

―――常良

――正四位下

――行文

――従四位上

――朝棟

 

「語注」

【位記】イキ。その位につけるということを書いて位を授かる者に与える文書。神位階で神宮には無い。『新儀式』に「神位階者、随諸司諸国申請、上卿奉勅、先令下勘本位、奉加授矣」。 【乾坤】ケンコン。天と地。 【綿】つらねる。 【陰陽】インヨウ。オンヨウ。オンミョウ。中国の古代の哲学ともいうべき易学で、宇宙の万物を造り出す根源。 【八穴】ハチエン。大地の八方の果て。(文字化けの場合「穴」は「土+延」)。 【成】エン。けずる。(文字化けの場合「成」は「手+炎」)。 【忝】かたじけなし。(恐れ多い)。 【羽】ひとしい。(文字化けの場合「羽」は「人+牟」)。 【大處】「叢書本」は「虚」で「大虚」。おおぞらのこと。 【炳焉】ヘイエン。あきらかなさま。 【比興】ヒキョウ。おもしろくたとえること。 【荒涼也】くゎうりゃうなり。要領を得ない。 【一方】ひとかた。いっぽう。 【帯】おぶ。(含みもつ)。 【肝心】カンジン。極めて大切なところ。 【啻】ただ。ただそれだけ。 【豫】ヨ。のんびりとゆとりをとる。 【二宮聴禁河】『新任弁官抄』に「正禰宜(内外宮各七人)十四人、有制不上洛。不渡櫛田川以西。在斎宮西。」 【鬱陶】ウットウ。気分がはればれしない。

    「本解状での引用史料」

    *この文書14で、以下の史料が根拠として引用されますが、本状に「副進」の項目とその「目録」がありませんので、提出された当時は、一切添付されなかった?後も提出開示の無いものは「未提出」としました。尚、別添(その1)と(その2)にあたる部分は、この「皇字沙汰文」の編集時以降に加書されたものと思えます。

 貞観、延喜式文】「貞観式」と「延喜式」の文。本状で指摘される該当部分は「貞観式」では「巻三・神祇三」の部分を、「延喜式」では巻第四・神祇四」の部分をさす。『貞観式』:勅撰。清和天皇貞観13年(871)奏進。藤原氏宗等が既存の「弘仁式(820)」に増訂、追補し、諸規定細則を集めて編纂。『延喜式』:勅撰。醍醐天皇延長5年(927年)奏進。藤原時平、忠平等が「弘仁」、「貞観」の二式を集大成して編纂。

延久、承徳宣命】文書13参照。

神宮秘記飛鳥本記】『豊受皇太神宮御鎮座本記』(続群書類従第一輯上P40)。鎌倉中期、度會行忠撰(「群書解題」で推定)。未提出。

倭姫皇女世記】『倭姫命世記』(続群書類従第一輯上P48)。鎌倉中期、度會行忠撰(「群書解題」で推定)。『太神宮神祇本記下巻』とも言う(「二宮禰宜等訴論外宮目安條々」)。未提出。

伊勢寶基本記】『造伊勢二所太神宮寶基本記』(続群書類従第一輯上P65)。鎌倉中期、度會行忠撰(「群書解題」で推定)。なお「度會行忠」とは、本解状に名を連署する「禰宜正四位上度會神主行忠」で、内宮側の「誰人撰乎」(内宮の二答状)の問いに対して、「飛鳥本記」以外は沈黙。未提出

 日本書紀】勅撰。元正天皇養老四年(720奏進。『続日本紀』に「養老四年・・・一品舎人親王奉勅修日本紀。至是功成、奏上紀三十巻。系図一巻」。『本朝書籍目録』に「日本書紀 三十巻<舎人親王撰。従神代至持統、凡四十一代>」。

 古語拾遺】私撰。平城天皇大同二年(807)撰上。斎部広成著。

延暦公成、延喜安則等勘奏本系】「延暦公成」は延暦十九年の太神宮禰宜公成の「本系帳」を奏進の解状。「延喜安則」は延喜六年の祭主安則の解状?未提出・不詳。

 天長元五、貞観十三年宣命紙】「天長元五」の「五」は「年」の誤写か。未提出・不詳。

延喜十四年正月氏本系勘進奏書】「別添その1」参照。

天慶九年四月日請神祇官符解状】「別添その2」参照。

延喜十一年二宮解状者】未提出・不詳。

鷹守八氏注文】未提出・不詳。

延喜、天慶晴彦本系】「延喜・・・」は「叢書本」に「延長・・・」。外宮禰宜晴彦の解状か。未提出・不詳。

 延喜十九年神宮公験】未提出・不詳。

 貞元四年上奏文】未提出・不詳。

 風土記】所謂「伊勢国風土記」は散逸し、「万葉集註釈」、「倭姫命世記裏書」、「日本書紀私見聞」、「大神宮儀式解」、「伊勢二所皇太神宮神名秘書裏書」、「萬葉緯所引神名秘書」等から逸文を採集したものが岩波の『日本古典文学大系』等に収められていますが、出所が怪しいものもあるか。

【儀式帳】「皇太神宮儀式帳」(内宮)と「止由気宮儀式帳」(外宮)からなり、延暦廿三年(804)の解状と共に上進された神宮側編纂の基本史料。「延暦儀式帳」とも。

 

「私見」

① は省略。

1) そもそも内宮禰宜等請文の如くは、「天照太神宮者惟祖惟宗、尊無二、自餘諸神者、乃子乃臣。孰能敢抗」云々と。これについてこれを案ずれば、内外両宮は、これ祖これ宗たるに依って、尊号の増減無し。天下余社は、すなわち子すなわち臣たるよう依って、位記の階級あり。およそ二所皇太神宮は、天の霊貴。日月の大元なり。故に化を乾坤にしけば、すなわち万物を長養す。徳を陰陽につらぬれば、すなわち群品に照臨す。(二所皇太神宮は)神祇の本源、君臣の高祖、ハチエンの社稷、四海の宗廟なり。これをもって、御形の文図、義は一朝の崇敬をかがやかして、差別を置かず。千木のヘンエン、理は二宮の禮奠をあらわして、高卑あることなし。かたじけなくも内宮の神勅により、先に外宮の祭禮を奉ることは、幽契の縁なり。致敬の太なり。なかんずく、皇の字は、源は天祖より起こり、王家に流伝せり。

徳、天地にひとしければ、すなわちこれ(皇)を称す。義、おおぞらと同じければ、すなわちこれ(皇)を号す。しかるあいだ、貞観、延喜式文、延久、承徳宣命<先にこれを進めたり、自余これを略す>、神宮秘記の「飛鳥本記」、「倭姫皇女世記」、「伊勢寶基本記」皆もって当宮に皇の字を載せ奉るなり。誰人か新儀といい、いずれの族か違例と称えん。

2) またいわく、「諸社宣命之文、雖載皇字、社司訴訟之時、不書皇字」云々と。二所太神宮は、天下諸社の條と異なり、格文にのり、ヘイエンなり。准拠の所存、ヒキョウの料簡か。

3) (また)「不見及日本紀」云々と。何の紀かな。荒涼なり。ただ日本書紀<自神武至雄略>、古語拾遺、古事記、律令格、および延暦公成、延喜安則等の勘奏の本系(帳)、天長元年、貞観十三年の宣命紙は、二宮ともに皇の字を載せず。一方に何ぞその難あるべきか。

4) またいわく、「可召出載解状之証験」云々と。延喜十四年正月の氏の本系勘進の奏書、天慶九年四月○日の請神祇官符解状、(今)上覧の為にそなえ進む所なり。

5) またいわく、「宜仰勅裁歟。而以私儀載奏書、自由之至、無謂」云々と。訴訟あって奏状を捧げるに、すべて定まるためし無し。古今おのおの異なり。所謂延喜十一年の二宮解状は、伊勢二所皇太神宮とこれに載る。鷹守八氏の注文は、二宮ならびに別宮の職掌人、連署を唱えるなり。

延喜、天慶の晴彦の本系は、二宮神主交じり座して名をすすめるなり。延喜十九年の神宮の公験、去貞元四年の上奏の文等は、その趣き同じからずして、ことごとく一義にあらずなり。しかのみならず、或は止由気宮とこれに注し、或は豊受宮の由これにかき奉る。かくのごとくの参差(シンシ)、随時の用捨、全く叡慮を伺わず。さらに勅定を蒙ること無し。このことに限って、何ぞ巨難を加えんや。先段に載せるが如く、内宮の皇の字、日本書紀<自神武至雄略>、以下数巻の古書に載らず。解状に載りたるは、上奏を経て、天裁に預かりしか。所見をおばば、出て対すべきなり。しからずんば、いかでか自難をのがれん。

6) またいわく、「氏姓之中絶、猶経官奏。神号之増字、盍窺叡慮。」云々と。人倫の氏姓は、去来(キョライ)の故あって、官奏をへるといえども、大祖神号は、無窮に属すの故に、上聞に及ばず。増字の謀訴、希代の結構なり。尊号の増減を糺明(キュウメイ)せられ、罪名の軽重を勘せらるべきか。

7) また「珠城大泊瀬御宇(雄略天皇)、奉定磯、度會両宮」云々と。磯宮をもって本宮と存ずるや。風土記に背き、儀式帳に違うか。

ただし当論の肝心、ただ皇の字にあるのみ。この上、聖断、豫儀におよび、勅裁のすみやかならずんば、二宮、禁河をゆるされ、同時に参洛を致し、究決を遂げ、鬱陶を散ずるなり。望み請うは、早く我意(ガイ)非分(ヒブン)の乱訴を停止し、遂に神号理運の裁許を蒙らんと。よって注進くだんのごとし。(以下略)

 

文書14別添文書その1

(永仁4年11月頃提出-文書14に遅れること約3ヶ月)

「原文」

延喜十四年(914年)正月官進本系帳云<二宮神主列署>、度會神主解申進氏新撰本系帳事。(以下当該解状の内容)彦久良為命、取要、自余略之。子大若子命、一名大幡主。右命、巻向珠城宮御宇天皇御宇(垂仁天皇)也仕奉<支>。爾時、越後荒振兇賊阿彦在<天>、不従皇化。取平<仁>罷<止>詔<天>標劔賜給<支>。即幡主罷行取平<天>進之。自時天皇勧<衍歟>歓給<天>、大幡主名加給<支>。

亦曰、皇太神又倭姫命<乃>御夢<爾>教覚給<久>、吾一所耳坐<波>御饌<毛>安不聞食。丹波国與佐小(餐)比沼魚井坐、道主子八乎止女<乃>斎奉、御饌都神止由居大神<乎>我坐国欲<止>誨覚給<支>。爾時、大若子命<乎>差使、朝庭<爾>進上<天>御夢状<乎>令申給<支>。即天皇勅。汝大若子、使罷往<天>布理奉者。退往<天>布理奉<支>。是豊受皇太神宮也<取要、自余略之>。右、司、去元慶二年(879年)二月廿七日符称、神祇官今年(延喜14年)正月十日符今日到来称、仍注事情、以解。

  延喜延喜十四年(914年)正月廿七日

    豊受大内人従六位上神主(最下段)

豊受宮禰宜外従五位下神主(上段)

  同宮擬禰宜大内人正六位上神主(以下下段)

  大内人外正七位上神主

  大内人従八位上神主

  権大内人正八位上神主

  大神宮大内人正六位上神主

  神部検非違使目代従八位上神主

  高宮内人従八位神主

  瀧原並宮内人外大初位上神主

  散位正六位神主正六位上神主

  従七位上神主従七位上神主

  従八位上神主外従八位上神主

 

「私見」

この文書は、内宮禰宜の陳状文(反論文)の指摘を待つまでもなく、「延暦儀式帳」や『神宮雑例集』及びその中の「大同二年二月十日太神宮司二宮禰宜等本記(「大同本記」)」の解状をご存知の方なら、そして、それを基準とするならば、明らかな偽造文書であることがお分かりになると思います。この文書で止由居大神を迎えに行ったのは、垂仁天皇に仕えた?「大若子(別名幡主、のち功により大幡主となる。)」とされますが、『神宮雑例集』では、「大若子」は垂仁天皇の時代、倭姫に仕えた度會の「遠祖」であり、迎えに行ったのは、「大同本記」では、度會の「先祖」の「大佐々命」とする。

 

余談ですが、この偽造文書が、東京大学史料編纂所編輯の「大日本史料」(第一編之四P573)に載ってしまっています。載せるのは仕方ないとしても、大いに疑義のあることを注記すべきではないか。

 

文書14別添文書その2

(外宮神主が天慶九年(946年)に出した解状)

  *文章としては長文ですが、証拠文言はわずかな部分であり、しかも大いに疑義がありますが、「神宮遠近四至」をめぐる記述が面白そうなので、一応載せます。

 

伊勢豊受大神宮神主解申。請神祇官裁事。請被任再三符判公験、裁下禁制、神主徳世并諸人民等己私公験、點地立居住、及強作神宮遠近四至地状。副進 公験拾枚之中、神祇官符一枚。祭主判二枚<新古各一枚>。官司符判四枚。神主徳世過状一枚。申文一枚。新家橋継申文一枚。

(過去の経緯)

 右、謹検案内、従上古代神宮遠近四至内、不居住人民等者也。而中間、神宮奉仕兵士、仕丁、百姓等居住。奉仕神宮之間、依去寬平五年(893年)十一月廿七日司符、被擯出者。其後不居住人民等。

而去延喜始間(901年)、又居住行事、新家橋継、其次、神主徳世、同令行、同常安、同徳守等也。

其後延長、承平年中(923937年)、来住人民員多。爰件人々等、非幾之間申云、件地己等私點地云々。強作并神宮近辺居住。動致死穢、及産穢、色々汚穢。

又宮河辺草木伐払。於神宮有洪水崩頽厄(危か)也。

去延喜十七年(917年)四月十九日神主注其由、申於宮司。徳世等称公験地、宮四至辺地西河原地誣妨領由。宮司判称、「於<依歟>解状、徳世所誣作尤無道也。何者、四至之辺地、強作、有古今禁制者、不可更作。加之、件地為洪水、崩損之厄(危か)有神宮者、而何称點請公験之地。可背禁制之旨哉。又點請公験、不知随近刀禰者。然則不可為公験之。仍不可令誣作徳世之状。判下知如件。神主郡司宜承知之。依件禁制。不得令誣作」者。

 而其後徳世等、背禁制、猶強作。

 于時以同延喜十九年(919年)九月十三日、神主又注具状申。

祭主并宮司之判称、「神主殊加禁制」者。而猶徳世等不遜神主禁制、強作。

于時以延長三年(925年)十一月廿七日、神主又注其由、言送宮司。司(宮司)依神主解状、言上神祇官。官(太政官?)、延長四年(926年)四月十一日、注其由、被定置神宮遠近四至地。以下符於宮司已畢。

司(宮司)依官符(太政官符)旨、同年(延長四年)五月廿七日、神宮遠近四至地定置之状奉行下符亦畢。

自爾以降、神主禁制件地、不可強作之由。

(今回の経緯)

而徳世等猶誣作不止。因之、去天慶六年(943年)九月廿七日、徳世令誣作日、禰宜晨晴禁制勘納徳世夫等鋤四柄。

爰徳世同年十月八日、同(天慶)七年七月三日、進於司庁(大宮司?)申文云、「件地十二町、徳世點請公験之地。仍令領作、而禰宜無道、勘取夫等鋤八柄」者。

 司(宮司)判称、「検徳世所帯公験、徳世領地之由明白也。而禰宜神主、神宮制地云々。徳世鋤所勘納、尤無道也。仍為令辨返。差使検非違使尾野徳恒。判下如件」。

司使徳恒、以天慶八年正月廿三日、徳世共参侍神宮。件地事辨定之由、徳恒與力於徳世、

 為御神宮無道之由云々。于時神主等、司使無道之由辨定、然則不能相辨。今須祭主宮司御前任公験、可辨申神主等者。司使徳恒日記(?)其由、罷立却也。

但可(所か)出徳恒(世か)所帯點地之由公験、去延喜三年(903年)、不與証署在地刀禰一人。乍併証署北卿(郷か)刀禰等。仍案併格意、不可為公験之状。言上已畢。

加以、宮司先年判文称、「徳世所帯公験、不可為公験」者。

又去延喜九年(909年)九月十三日、依司判、司使庁頭尾野有吉弁定之日、神宮四至地不可強作状、弁(并か)過状及申文等、進数枚徳世等已畢。

而今、伺日間徳世姦愁、宮司偏改、為徳世被判預。

(証拠文言;而掛恐~疎略也。

{而掛恐外宮四至内沙汰也。非内宮事。今皇大神宮者。是外宮御事也。皇太神宮事被疎略也。}

 因之以去年(天慶八年)二月十五日、注具状、申於祭主之判称「今依愁状、於神主、所帯公験件、四至地可禁制之由、公判累度也。而何称徳世等點地、妨作件地哉。又宮司為徳世判者。此不可然。仍判下如件。宮司宜承知之。依件令禁制、不得令強妨」者。

 件祭主御判早被奉行、可被禁制之由、度々申宮司、而猶為被引汲徳世等、不被奉行祭主御判下之間、今年天慶九年)徳世誣領作件神宮四至之十六町、伐払宮河辺草木、洪水崩頽、神主之(「危」脱か)尤非無。此宮司不支判、所領伐者。理不可然。

望請官裁、申被禁制徳世等無道之由。兼件地任旧例、神主承知可禁制由、被官符判下者、随判、神主禁制益神威。仍注事情、副再三符判、謹請官裁。以解。

 天慶九年四月七日

  権大内人従八位下神主<在々>

  大内人従八位下神主在々

  権大内人従七位下神主

大内人従八位(禰宜従五位下か)神主在判晨晴

擬禰宜大内人正六位上神主

禰宜代大内人従八位上神主<在々>雅風

禰宜代大内人無位神主<在々>安兼

(以下略)

  

「語釈」

公験】クゲン。官庁から交付された証文。 【】「叢書本」に「サダム」の傍訓あり。 【神宮遠近四至】「内宮」の四至は「延暦儀式帳」に既に載りますが、「外宮」の「四至」は定まったものがなく、それがこの解状が記す騒動の元とも言え、正式に定まるのは、本文にありますように「延長四年(926年)四月十一日」。 新家】「叢書本」に「ニヰミ」の傍訓あり。 【】控え文書(提出文書の「正文」に対する「案文」) 【中間】「叢書本」に「ナカゴロ」の傍訓あり。 【擯出】ヒンシュツ。しりぞけること。 【行事「叢書本」に「アリサマ」の傍訓あり。 【】ややもすれば。  【刀禰】行忠著『古老口実伝』に「応和年中、以二禰宜、被定置刀禰職・・・郷民所帯文書紛失之時、請在地刀禰判」。 【司使徳恒日記其由】「日記」では意味が通らず、「日」が衍字で「司使の徳恒、その由を記し・・・」か。 【不與証署在地刀禰一人】これは「在地刀禰一人、與証署」(在地の刀禰一人も証署を与えず)が倒置し、受身の表現とするか? 【加以】「叢書本」に「シカノミナラズ」の傍訓あり。 【掛恐~疎略也】ここの文言が「皇」の字を使用している証拠としているようだが、この文言はない方が本文のつながりが良い。しかも「叢書本」では、「外宮四至内沙汰也。非内宮事。今皇大神宮者。是外宮御事也。」の部分は行間細字書き入れ部分で、本文ではない。そもそもが、「掛恐~疎略也」は、後からの「行間細字書き入れ」の可能性があり、証拠文言としては甚だ疑問が残る。 

  

文書15同年820日:太神宮司→(祭主))

「原文」

伊勢太神宮司解申。請綸旨事。

①(添付文書)

壹紙(8/7日の綸旨?)<被載皇字事。内宮証文等、可下外宮申(由か)状>

 副進

外宮禰宜等証文(文書14、8/16日の外宮二問状か)。

 ②(請け文報告部分)

 右、今月(8月)七日綸旨称、同日大夫史仰称(施行状)、同十一日祭主下知称(下知状)、子細云々(子細省略)者。證(謹か)所請如件。

③(本題)

随即本(任か)被仰下之旨、下知于禰宜等(外宮)之處、所進請文(文書14、外宮二問状か)、今日(8月20日)到来如此。

仰(抑か)此事、先度依外宮解状(文書9)、相尋内宮禰宜等、可申之由、就去五月八日綸旨次第施行状等、加下知畢。

 而彼請文(文書13、内宮初答状か)、不経次第及上奏之條、違先規歟。

仍今勒所存、相副進請文、如件。謹言。

 永仁四年八月廿日

   権主典

   主典

大司従四位下行神祇権大祐大中臣朝臣長藤

権大司従五位下大中臣朝臣

少司

 

「語注」

【請綸旨】この「綸旨」は次行の「壹紙」の細字二行割注からみると、「6/7日付け文書13内宮初答状」に対するものであるが、その経緯は割愛されている。 【申(由か)】「叢書本」は「由」で、この方が、意味が通じる。 【證(謹か)】「叢書本」は「謹」で、この方が、書式にそっている。 【本(任か)】「叢書本」は「任」で、この方が、意味が通じる。 【仰(抑か)】「叢書本」は「抑(そもそも)」で、この方が、意味が通じる。 【不経次第及上奏之條、違先規歟。】内宮の「文書13」は、大宮司を通さずに越訴したようである。8/7日の綸旨の経緯が割愛されたのもこのためか。 【】ロク。「録」との通用か。 【所存】ショゾン。心に思っている考え。

  

「私見」

伊勢太神宮司解し申す。綸旨を請ける事。

①、②は省略。

③(本題)

随って即ち仰せ下されし旨に任せて、禰宜等(外宮)に下知のところ、進めるところの請文(文書14)、今日到来すること、かくのごとし。そもそもこの事は、先度の外宮解状(文書9)に依って、内宮禰宜等にあい尋ね、申すべきの由、去る五月八日綸旨の次第の施行状等に就いて、下知を加えおえる。而るに、彼の請文(文書13)は、次第を経ずして、上奏におよびし條、先規に違うや。よて、今、所存を録し、請文に相副えて進めること、くだんのごとし。謹言。(以下略)

 

  *「宮司」側は、内宮側の上奏に怒っているようですが、このあと内外宮の禰宜等は、使いをそれぞれに上洛させ、直接朝廷側や祭主とのやり取りをするようです。「太神宮司」は建前上の文書伝達機関に過ぎなくなり、このあとの文書の配列が、必ずしも日付順に配列されないのも、このためかも知れません。

  

文書16同年96日:内宮権禰宜泰直→藤左衛門尉

「原文」(書状)

皇字事。外宮禰宜等申状、付置宮(官か)之由承及候。

而政印解状、穢中定無沙汰候歟。

両方従在京之條、不便之次第候乎。

所詮仰宮(官か)務、召彼案文、経御奏聞、

於正文者、直被下神宮、可調訴陳之由、可被仰下之旨、申御沙汰之條、

可為何様乎。

以此趣可有御披露候。恐惶謹言。

 九月六日  内宮権禰宜泰直<状>(<判>か)

進上藤左衛門尉殿

 

「語注」

 【政印解状】「正文」をさすか。 【穢中定】文書17に「穢」云々とあり。「穢」;

 『延喜式』「神祇三/臨時祭」に「凡甲処有穢。乙入其処<謂著座。下亦同>。乙及同処人皆為穢。丙入乙処。只丙一身為穢。同処人不為穢。乙入丙処。人皆為穢。丁入丙処不為穢。其触死葬之人。雖非神事月。不得參著諸司并諸衛陣及侍従所等」。 【両方従在京】「叢書本」に「従」は「徒」とあり、「私見」はこれに随います。よって「両方」とは、内外宮から派遣された使いの権禰宜か。 【宮(官か)務】「叢書本」に「官務」とあり。「官務」;『職原抄』に、「(太政官)大史各二人<相当正六位上>・・・行官中事、謂之官務。・・・凡官務者、太政官文書悉知之。枢要之重職也」。 【訴陳】ソチン。勿論粗末な○○ではなく、訴状と陳状であるが、ここでは内宮側だけのことと思われ、よって「訴状に対する陳状(反論)」か。 【藤左衛門尉】名前は不詳。職名から「検非違使庁」の「尉」か。『職原抄』に、「検非違使;此云使庁・・・淳和天皇御宇天長年中初置之。・・・為国家之枢機。歴代以為重職。尉。称之判官。左右大尉<各二人>。・・・明法道儒必任之・・・又左右尉者必左右衛門也。

 

「私見」

皇の字の事。外宮禰宜等の申状、官に付け置くとの由、承り及び候。

而して政印解状、穢中の定にて沙汰なく候か。

両方、徒に在京の條、不便(フビン)の次第に候や。

所詮、官務(蔵人か)に仰せて、召したる彼の「案文」は、御奏聞を経、「正文」においては、直に神宮に下され、訴陳を調うべきの由、仰せ下すべきの旨、御沙汰を申すの條、いかさまに為すべきか。

この趣を以て、御披露あるべきに候。恐惶謹言。

(以下略)

  *内宮は検非違使庁に手を回し、太政官側に働きをかけたか?当時の政治状況は、「検非違使」と「蔵人」の二頭体制で、その中で「尉」と「頭」は中心的役割の様です。

  

文書17同年98日:右中将実蔵人)→大夫史)

「原文」

皇字事。(申状の内容が省略)泰直申状(文書15)如此。

(以下「 」内は綸旨部分?)

「觸穢之間、両方雑掌(内外宮の使)、従(徒か)在京誠不便歟。

重解状不経叡覧、早下論人、可被召整訴陳之由、處被仰下也。」

仍執達如件。

 九月八日   右中将実

大夫史殿

 

「語注」

重解状】かさねての解状。最初の訴状は「本解状」、「本解」、「初問状」、二回目以降の「二問状」、「三問状」を総じて「重解状」(ここでは外宮の8/16日付の二問状である文書14)。 【論人】訴状提出の訴えた側(原告)は「訴人」で、陳状提出の訴えられた側(被告)が「論人」(ここでは内宮禰宜)。

 

「私見」

  *文書16においての内宮側の働きかけが功を奏したか。

  

文書18同年929日:大夫史小槻→祭主)

「原文」

皇字事。為頭中将(実躬)奉行、被仰下之旨(綸旨)如此。

 仍相副泰直申状文書21、並外宮禰宜重解状文書14等。

 献覧之、早召整訴陳、可被進状如件。謹言。

  九月廿九日  左大史小槻

 謹上 祭主三位殿

  

「語注」

大史小槻】名は不詳。『職原抄』に、「大史各二人。中古以来、小槻宿禰為一史。・・・小槻氏称禰家。宿禰之義也。

 

「私見」

  *ここの「綸旨」の内容は省略されていますが、おそらく「文書17」の綸旨とは異なるでしょう。何故ならここで「泰直申状」と、後の「文書21」に言及しています。「文書21」とは、何らかのかたちで「文書17」以降に、「重解状文書14)」を見せてもらった在京の泰直が、正式な二答状(文書31)を出す前の九月某日に「重解状文書14)」の不備、不足を申し立てた申状であり、この「綸旨」はそれに答えた内容と思われる。おそらく外宮側がこの史料編纂時に綸旨」の内容を削って載せたと思われるが、そのため経緯の内容が不鮮明で、分かりづらい。

  

文書19同年1021日:祭主→大司御館(大宮司))

「原文」

皇字事。綸旨並有(官か)状<副外宮次第解具状>如此。

早任被仰下之旨、召整訴陳、可令上給也。

仍執達如件。

 十月廿一日  神祇大副(祭主)<判>

大司御館(大宮司)

 

文書20同年113日:大宮司→内宮長)

「原文」

皇字事。相副綸旨官状<副外宮次第解具状>等。

惣官(祭主)下知到来如此。

早任被仰下之旨、可令遂訴陳給候哉。

恐々謹言

 十一月三日  大宮司

謹上 内宮長殿

 

「私見(文書1920)」

文書18を含めて「大史→祭主→大宮司→内宮長」と、「外宮解状(二問状)」と「具状」(関係文書)の伝達の流れを示しているようですが、日付も少し開きがあり、疑問も多く分かりづらい。この間には、在京の内宮側使者の「文書21」での異義申し立てと、同じく在京の外宮側使者の反論を含む解状(文書26)等のやり取りもある。しかし、正式には文書20で、内宮側に伝達されたことになり、これにもとづき「二答状」(文書31)が提出されたか。

  

文書21同年9月(不明)日:内宮権禰宜泰直→不明)

「原文」

太神宮一禰宜泰氏神主代権禰宜泰直申。

欲早先止御沙汰中間自由推進解状、不日召渡数通例文、可惣(整か)進訴陳状由、被仰下。外宮禰宜等申新儀皇字事。

 副進

 一通 彼宮禰宜等重解状案

 一通 可被召渡具書注文

件事、就彼宮禰宜等重解状、擬相調陳状之處、條條勒奇謀之上、所載申之例文中、延喜十四年正月廿七日本系帳、天慶九年四月七日解状二通之外、飛鳥本記、倭姫皇女世記、伊勢寶基本記已下数通、雖載解状史<文カ>、不副進其状、以浮言立申支証。

 誰敢取信哉。荒涼之申状、言語道断也。

 就中、違所備進之延喜天慶文等、或豊受大神神主解之由載之、或度會神主氏解之旨書之由<衍カ>。

而今皇字之増加、為新儀意巧之條、於粲然乎。

所詮被召渡彼例状等、一々可被弁申子細者也。

次、皇字有無、召訴陳之處、云当論之篇、云神領之事、連々解状、恣載彼字推進之條、匪啻背訴論之法、自由濫吹之至。御沙汰中間、争無誡乎。

然則先止当時非儀解状、不日召渡数通例文、怱可調進訴陳状之由、為被仰下、粗言上如件。

 永仁四年九月 日

 

「語注」

不日】フジツ。日ならずして。近日中に。近いうちに。 【彼宮禰宜等重解状案】入手した外宮禰宜の重解状の写しか。 【可被召渡具書注文】関連文書要求リスト。 【注文】明細。  【延喜十四年正月廿七日本系帳、天慶九年四月七日解状】内宮側「文書31・二答状」の文中で「彼両通状、為当宮亀鑑也」とあり、内宮側もよく承知している文書であるが、後日、外宮側が改竄したものを提出。 【浮言】フゲン。根拠のないうわさ。流言。デマ。  【当論之篇】「皇字」の訴訟沙汰の件。 【神領之事】「文書1」の石河の御厨の件。 【訴陳】ソチン。ここでは「訴状」と「陳情」を互いに行う訴訟状態がよいか。 【誡】ヘイカイ。「炳」は、あきらか「誡」は、いましめ。 【当時】タウジ。時に当たっての現在。ただ今。 【怱】いそぐ。 【粗】「叢書本」に「ホボ」の傍訓があるが、ここでは「あらあら」(倭玉編)がよいか。 【九月 日】訴訟関連文書で、日付を不明にした編纂の意図に不信を持つ。

  

「私見」

太神宮一の禰宜泰氏神主の代の権禰宜泰直申す。

早く先ず御沙汰のあいだ、自由推進の解状を止め、(要望①)

ふじつに、数通の例文を召し渡し、訴陳状を整え進めるべき由、(要望②)

おおせ下さらんことを欲す。外宮禰宜等申す新儀皇の字の事。

 副進

 一通は彼の宮の禰宜等の重解状の案。

  一通は召し渡さるべき具書の注文。

 (要望②に関する部分)

 件の事、彼の宮の禰宜等の重解状について、陳状をあい調えんと擬するの處、條條の奇謀を録するの上、所載申す例文の中に、「延喜十四年正月廿七日本系帳」、「天慶九年四月七日解状」の二通のほか、「飛鳥本記」、「倭姫皇女世記」、「伊勢寶基本記」以下数通、解状文に載せると雖も、その状を副え進めずして、浮言をもって支証を立て申す。

 誰かあえて信を取るかな。荒涼の申し状、言語道断なり。

 なかんずく、違いて、備え進めるところの延喜、天慶の文等には、或いは(一方では)、「豊受大神(「宮」脱か)神主解す」の由、これに載せ、或いは、「度會神主氏解す」の旨、これに書く。

 而して、今、皇の字の増加、新儀意巧の條たるは、ここに粲然(サンゼン・あざやか)か。

 所詮、彼の例状等を召し渡されば、一々に子細を弁じ申すべきものなり。

(要望①に関する部分)

次に、皇の字の有無、訴陳をめすのところ、当論の篇といい、神領の事といい、連々の解状、ほしいままに、彼の字を載せ、推進の條、ただ訴論の法に背くのみにあらずして、自由濫吹(ランスイ)の至。

御沙汰のあいだ、いかでか誡(ヘイカイ)なからんか

 しかれば則ち、まず、当時(現在)の非儀の解状を止め、

 (結語)

 ふじつに、数通の例文を召し渡し、すみやかに訴陳の状を調え進めるべき由、おおせ下されんがため、あらあら言上すること、くだんのごとし。

(以下略す)

 

文書22同年1028日:右中将実蔵人頭)→祭主)

 「原文」

 外宮解状之事。泰直申状如此。

 「早可被召渡具書候」。(外宮に与える綸旨)

 「未断之間、可被止彼字之由、内宮禰宜等、雖請申、既番沙汰之上者、怱遂訴陳、可相待聖断之由」、内宮に与える綸旨

被仰下候。

存其旨可下知之状如件。

 十月廿八日  右中将実

祭主三位殿

 

「語注」

【彼字】「皇」の字のこと。 【請】「叢書本」には、「憤(いきどおる)」とし、「憤り申すと雖も」と読ませるが、はたして如何に? 【番】つがふ。((二つのものが)組になる。対になる)。 

 

「私見」

外宮解状の事。泰直の申し状、かくのごとし(状の内容が省略されている)。

(外宮には)早く、具書を召し渡さるべく候。

(内宮には)未断の間は、彼字を止めるべきとの由、内宮禰宜等、請い申すと雖も、既に沙汰につがいし上は、すみやかに訴陳を遂げ、聖断をあい待つべきとの由、仰せ下され候。

その旨を存し、下知すべきとの状、くだんのごとし。

(以下略す)

  *ここでは、外宮と内宮への通達の様であるが、この後の祭主以降の通達文章は、内宮だけのようであり、しかも祭主の文書発行の日付は、一ヶ月以上間を開けた十二月六日(文書23)。綸旨の「すみやかに」とは違い、不信。

  

文書23同年126日:神祇大副定世(祭主)→大司御館(大宮司))

「原文」

外宮解状之事。綸旨并泰直申状、具書如此。

早任被仰下之旨、怱可遂訴陳之由、可令相触神宮給也。

仍執達如件。

 十二月六日  神祇大副定世

大司御館

 

「語注」

綸旨】内容不詳。 【泰直申状、具書如此。】これでは意味不詳だが、「泰直申状具書、如此。(泰直の申し状の具書、かくのごとし)」なら、「文書21」で泰直が注文で要求した具書(関係文書)のこととなるか。

 

文書24同年127日:大宮司→内宮長)

「原文」(文書23の伝達)

外宮解状之事。相副綸旨、惣官下知 到来如此。

子細見于状候歟。早任其旨、怱可遂訴陳給候哉。

恐々謹言。

 十二月七日  大宮司

謹上 内宮長殿

 追伸

 於本解状具書等者、副渡外宮方候畢。可存知給候。

 

「語注」

追伸・・・】追伸の内容が意味不明。

 

文書25同年1211日:内宮禰宜泰氏→(大宮司?))

「原文」(文書24の請け文)

外宮解状之事。相副綸旨、惣官下知、示給之旨、承候畢。

怱可申所存候。恐々謹言。

 十二月十一日 内宮禰宜泰氏

 

「語注」

怱可申所存候】何の所存を申すのか? 外宮の「二問状」に対する「二答状」は、

「文書31」で、その日付は十一月某日。

 

  *「皇字沙汰文」の諸本の「解題」について

 「神道大系本」の解題は、「豊受太神宮に豊受皇太神宮と「皇」の字を用いることの是非について」云々。「大神宮叢書本」の解題は、「外宮に皇字を用ふる事の当否について」云々。とありますが、これはどちらも正しくない。この論争は、内外宮の神官による「解状の肩書き」に、「皇」の字を用いることの是非についての論争である。「豊受太神」そのものにではない事に注意が必要である。しかし、この問題には両宮の尊卑問題をはらむ。経済的基盤が強くなった外宮側神職達には、その基盤をより強固にするためにも、「尊卑問題」は譲れないところであり、それがための外宮側のなりふり構わぬ「皇」の字の論争であると個人的には思います。

  

文書26永仁??:在京外宮権禰宜雅見→不詳)

「原文」

在京外宮使権禰宜雅見謹言上。

欲早旦(且か)任神代本紀已下数巻古書等、且依延喜式文、延久已下代々宣命等、

停止内宮禰宜等非拠濫訴。(要求①)

 先可奉用外宮皇字由、預聖断、後猶胎慣者、付彼禰宜等召出「不可有当宮皇字証拠」、可糺明理非旨、可被仰下歟。(要求②)

不然者、無止往古神号、輙難及沙汰事。(脅し文言)

 副進

  先進解状等案

 

(要求①について)

 右、当宮奉載皇字之條、神記并神祇本記紀歟>已下之古書等、炳焉之上、延喜式祝詞文、并延久已下代々宣命等、載而粲然也。

就中、依二宮相殿神官幣事、如延喜十一年正月解状、二所皇太神宮禰宜等解申請官裁事云々。随則両宮禰宜等、連署交座勿論也。同(延喜)十四年、延長元年両度本系注進文、同奉載皇字、或受官印、或受司印。

又天慶九年四月、長寛二年二月解状等、同奉書皇字。然間依古典興絶、任旧例継廃、守先規、崇神威。

 内宮禰宜等、何称新儀違例乎。

 所存委先度言上之處、彼宮一禰宜代泰直神主、乍下預当宮解状(文書14の二問状)、徒送数ヶ月、不進再陳之状。剰先止彼字、称可被渡具書等。

就捧姦訴之申状、「可令召渡具書之由」(文書17綸旨、被仰下之條、恐鬱不少。

所以者何、云最前副進「延久已下宣命」等之案、云今度備進「延喜天慶解状」(文書14の別添文書)之案、全(「不」の字脱か)抑留、悉皆副使等。

 

(脅しの部分)

此外神代已下之古書等、依載最極之深秘、輙不及広覧。争渡内宮方哉。

 神宮第一之旧典。朝家無双之奥義也。

 雖為祠官、非其仁兮不披見之、雖為氏人、非其器兮猥不収之。

依茲納于神庫。奉比神宝。

顕露之條、為神為君有恐憚、不可不秘乎。

 

(要求②について)

内宮禰宜等、恣雖致今案推<雅歟>意之謬訴。

 于今未備進「不可有外宮皇字之証拠」。

 凡持分明之文証、申子細当宮禰宜等與致胸濫訴内宮神主等、理非雲泥也。

 

(結語)

勅裁何滞哉。此上猶彼古書等及御不審者、早任先進解状、聴禁河、禰宜等遂参洛、持参公門、可備上覧歟。所申無私曲、盍預聖断乎。

 宗廟往代之尊号、依及聊爾之沙汰、大小祠官寤寐愁歎、老若氏人朝暮傷嗟、頗為御祈之障礙。

忽預理運之勅許、偏凝無貳之丹誠、彌献(祷か)萬歳之宝算。

粗言上如件。

 永仁

 

「語注」

非拠】ヒキョ。根拠なくか。 【】「叢書本」の傍訓に「ノコス」。 【再陳之状】二答状(文書31)。 【あまつさえ。 【鬱】こもる。ふさがる。 【悉皆副使等】「使等」とは誰か、不詳。「叢書本」は「悉皆副渡畢」で、こちらがよいか。 

 {助辞}「へい、ほい」という間拍子の声をあらわす助辞。おもに「楚辞」や楚の調子をまねた歌に用いられた。▽訓読しない。(外宮の文章には難字、難例が目立つ)。 【有恐憚】「叢書本」では、「有恐有憚」。  【推<雅歟>】「雅意(ガイ)」なら、平生の志。「推意(スイイ)」なら、おもいを推すか。 【胸】キョウオク。自分の考え。 【理非】リヒ。道理にあうことと、あわないこと。  【】とどこほる。 【私曲】シキョク。よこしまで公正でないこと。 【聊爾】リョウジ。かりそめに。ふとした思いつきで。 【寤寐】ゴビ。寝てもさめても。 【愁歎】シュウタン。嘆き悲しむ。 【朝暮】チョウボ。一日じゅう。終日。 【】ショウサ。いたみなげく。 【理運】リウン。物事が理にかなっていること。 【】ひとへに。【】こる。熱中する。 【丹誠】タンセイ。いつわりのない心。まごころ。 【宝算】ホウサン。天皇の年齢。寿命。 【永仁・・・】年月日が削られているが、「叢書本」は、永仁四年十一月で、日は不明。

  

「私見」

在京外宮の使の権禰宜雅見、謹んで言上す。

早く、且は、神代本紀以下数巻の古書等に任せ、且は、延喜式の文、延久以下の代々の宣命等に依り、内宮禰宜等の非拠の濫訴を停止せんことを欲す。要求①)

先、外宮に皇の字を用い奉るべき由、聖断に預かり、後になお憤りをのこさば、彼の禰宜等に付けて、「当宮皇の字、あるべからずの証拠」を召し出し、理非を糺明すべき旨、仰せくだされるべきか。(要求②)

 然らずんば、やんごとなき往古の神号、たやすく沙汰の事に及び難し。(脅し文言)

 副進

  先進の解状(文書14)等の案(ここに初めて文書14の別添文書が提出されたか)。

 

(要求①について)

右、当宮に皇の字を載せ奉るの條、神記ならびに神祇本記以下の古書等に炳焉(ヘイエン。あきらか。)の上、延喜式の祝詞文ならびに延久以下代々の宣命等に載せて粲然(サンゼン)なり。

 なかんずく、二宮の相殿神の官幣の事に依る、延喜十一年正月の解状の如くは、二所皇太神宮禰宜等解し申す。官裁を請う事云々。

随って則ち、両宮禰宜等の連署交座は勿論なり。

 同じく延喜十四年、延長元年両度の本系帳注進の文、

 同じく皇の字を載せ奉り、或いは官印を受け、或いは司印(大宮司)を受く。

また天慶九年四月、長寛二年二月の解状等にも、同じく皇の字を載せ奉る。

しかる間、古典に依り、絶えたるを興し、旧例に任せ、廃れたるを継ぎ、先規を守り、神威を崇む。

内宮禰宜等、何ぞ新儀違例と称するか。

所存はくわしく先度、言上の所、彼宮の一の禰宜代泰直神主、当宮の解状を下し預かりながら、徒に数ヶ月を送り、再陳の状を進めず。

あまつさえ、先に彼の字を止め、具書等を渡さるべきことを称う。

姦訴の申し状を捧げしについて、「具書を召し渡さしめるべきの由」仰せ下されるの條、恐鬱(キョウウツ)少なからず。

所以は何となれば、最前に副へ進める「延久以下の宣命」等の案と云い、今度、備え進める「延喜、天慶の解状」(文書14の別添文書)の案と云い、全く抑留せず、悉く皆、副え渡しおえる。

 

(脅しの部分)

この外、神代以下の古書等、最極の深秘を載せるに依り、たやすく広覧に及ばず。

 いかでか内宮方に渡さんかな。

 神宮第一の旧典にして、朝家の無双の奥義なり。(誰が決めた?)

祠官たると雖も、その仁にあらざれば、これを披見せず。

氏人たると雖も、その器にあらざれば、猥にこれを収めず。

これにより神庫に納れ。神宝に比し奉る。

 顕露(ケンロ)の條は、神のため、君のために、恐ろしき憚りあり(?)。

秘せざるべからず。

 

(要求②について)

内宮禰宜等、ほしきままに、今案推意の謬訴(ビュウソ)に至ると雖も、

今に、いまだ「外宮皇の字、あるべからずの証拠」を備え進めず。

凡そ分明の文証を持ち、子細を申す当宮禰宜等と胸臆(キョウオク)濫訴(ランソ)を致す内宮神主等との理非(ヒリ)は雲泥なり。

 

(結語)

勅裁、何ぞ滞るや。この上、なお、彼の古書等、御不審におよばば、早く先進の解状に任せ、禁河をゆるされ、禰宜等の参洛を遂げ、公門に持参し、上覧に備えるべきか。申すところ私曲なく、なんぞ聖断にあずからずや。

 宗廟の往代の尊号、聊爾(リョウジ)の沙汰に及により、大小の祠官、寤寐(ゴビ)愁歎(シュウタン)し、老若の氏人、朝暮(チョウボ)傷嗟(ショウサ)にして、頗る御祈の障礙(ショウゲ。じゃま。)を為す。

すみやかに理運の勅許を預かり、ひとえに無貳の丹誠に凝(ギョウ)し、いよいよ萬歳の宝算を祈らん。

よって、あらあら言上くだんのごとし。

 

  *ここまで外宮側を強気にさせるものは何か?時の朝廷の足下を見たか。はたまた、神官に極刑はないことをみこんで、賭に出たか。

 

  *伏見院の内憂外患

 この時代は後深草院(持明院統)と亀山院(大覚寺統)とに分かれ、皇位をめぐり対立し、南北朝の動乱の遠因を作った時代と言われる。前の天皇は後宇多院で亀山院の子で、当の伏見院は後深草院の子。治世は正応(五年)、永仁(六年)。その永仁元年(正応六年八月改元)の神宮への宣命を『正応六年七月十三日公卿勅使御参宮次第』で見ると、「・・・去年(正応五年)の冬比より、異国(元)忽(たちまち)牒書を送て、強和好を求む。若(もし)、逆命へば可用兵之由を告ぐ・・・加之ず、頃(このごろ)は、天変○呈れ、地妖頻出す。又炎旱渉旬て稼穡不節・・・」。『帝王編年記』には、「正応三年三月十日、源為則(甲斐源氏)推参内裏、昇南殿、自害(切腹)。永仁元年四月(正応六年)大地震。・・・死者二万三千余人。」

  

文書27同年1127日:右中将実蔵人頭))→大夫史(太政官辨官局))

「原文」

 在京外宮雅見申皇字事。

 申状<副具書>、如此(文書26)。子細見状。

 「所詮帯不可有外宮皇字所見、委可注申之由、可被下知内宮禰宜等之旨」(綸旨)、被仰下之状、如件。

 十一月廿七日  右中将実

大夫史殿

 追伸

此事、就先度外宮申状(文書14)、不副渡具書之由、内宮訴申之間(文書21)、被仰下外宮之處(文書22の綸旨)、如此令申候也(文書26)。

 可令存知給候。

  

「私見」

在京外宮の雅見の申す皇の字の事。

申し状<具書を副える(別添文書その1、その2)>、かくのごとし。

子細は状(文書26)をみるべし。

(綸旨)「所詮、外宮皇の字あるべからずとの所見をおばば、委しく注申すべきとの由、内宮禰宜等に下知せるべきとの旨」仰せ下さるの状、くだんのごとし。

(中略)

追伸。

このこと、先度、外宮の申し状について、具書を副え渡さずとの由にて、内宮訴え申す間(ので)、外宮に仰せ下さるのところ、かくのごとく申せしめ候なり。存知せしめたまうべき候。

 

  *朝廷側に、外宮側の文書26に対する困惑がうかがえるか。

  

文書28同年1127日:左大史小槻→祭主)

「原文」

外宮申皇字事。為頭中将奉行、被仰下之旨、如此。

仍相副雅見申状献覧之、以此趣、可令下知内宮禰宜等給之状如件。

謹言。

 十一月廿七日  左大史小槻<判>

謹上 祭主三位殿

 

文書29同年126日:神祇大副定世(祭主)→大司館)

 「原文」

 外宮申皇字事。綸旨并官状、雅見申状、具書等、如件。

 早任被仰下之旨、帯不可有外宮皇字所見者、委可注申之由、可令相触内宮禰宜等給也。

仍執達如件。

 十二月六日  神祇大副定世

大司館

 

文書30同年1227日:大宮司→内宮長)

 「原文」

 外宮申皇字事。相副綸旨、具書等、惣官下知到来如此。

 任被仰下之旨、可令進所見給候哉。

 恐々謹言

  十二月廿七日  大宮司<判>

 謹上 内宮長殿

  

「私見」

  *この綸旨(11/27日付)に答える文書は、「大系本」文書番号38ですが、「群書類従本」の上巻は文書31で終えます。下巻は「大系本」文書番号45から始まりますが、「文書番号38」が省略文書に含められたのは、その内容が殆ど「文書31」と重複するからと思います。また史料的価値もこの「文書31」で終わると見てもよいかもしれません。それだけ「文書31」には史料的に重要な内容を含み、またここに証拠として添付された文書類も今となっては、他にない貴重な史料と思います。特に「二宮供奉神事上代本紀拾肆(14)箇条」で、所謂「大同本紀」。不完全な形では『神宮雑例集』にも所載されますが、当時の解状の趣を残して所載されるのはこの文書だけと思います。しかし、惜しむらくは、ここでも抜粋であることです。

  

  *「皇字沙汰文」文書31について

 「群書類従本」の上巻の最後となる文書31は、この本で10ページ、「叢書本」で16ページにわたる長文ですので、それを幾つかに分けて載せたいと思います。

 文書の基本構成は、請け文部分の前文と、本題の反論部分および証拠の添付文書の三つです。

反論部分は、項目別に一つ書きでまとめられており、全部で10項目。これをそれぞれに分けて載せます。各項目の記述内容は、先ず外宮側の対象文言を載せて、これについての反論を述べています。

 証拠としての添付文書は全部で5通。そのうち、メジャーな「延喜式」と「古語拾遺」以外の3通は、貴重なものと思いますが、そのなかでも個人的に特に注目しますのは、所謂「大同本紀」です。しかし、これは漢語漢文ではなく、漢字を用いた倭語倭文で書かれており、(古代神道では口伝で伝えられた伝承形式が本来のものと思います。)これに註釈を付けるには、また別に資料を用意しないといけないかも知れません。

尚、一身上の都合により、切りのよい上巻を以て、この連載を一応休止する予定です。

  

文書31同年11月某日:内宮禰宜→(大宮司?)

 「原文」

 <二答状>

 (前文;事書きと請け文部分)

 皇太神宮神主依綸旨注進。豊受太神宮禰宜等申新儀皇字事。

返上(あずかり文書の返却)

 外宮禰宜等二問状并具書二通

  副進(証拠文書の提出)

 一通。延暦廿三年一月十四日外宮儀式帳<外宮不載皇字、内宮載皇字。>

一通。大同二年二月大宮司并二宮禰宜等注進供奉神事本記<外宮不載皇字、内宮載皇字。>

一通。延喜七年九月内宮禰宜○貞等勘造進譜図帳<皇太神宮禰宜之由載之。>

一通。延喜式第四巻<内宮載皇字、外宮不載皇字。>

一通。古語拾遺

右、宮司今月(11月)三日告状称、去月(10月)廿一日祭主下文称、去九月廿九日官施行称、同月(9月)八日綸旨称、「皇字事。泰直申状如此。触穢之間、両方雑掌従(徒か)在京、誠不便歟。重解状雖不経叡覧、早下論人、可被召整訴陳之由所被仰下也。

仍執達如件」者。

先彼皇字者、相論之字也。而沙汰之中間、云当論之篇、云神領之事、連連解状、恣載皇字、令推進之状、濫吹之甚也。

早止当時自由推書之皇字、召調訴陳状、可有聖断者也。

 

「語注」

依綸旨注進】下文から文書17の綸旨(9/8付)にもとづく解状であることを示す。 【返上】返上文書の具書二通は別添文書(1、2)と思われる。 【宮司今月三日告状】文書20 【去月廿一日祭主下文】文書19 【去九月廿九日官施行】文書18 【同月(9月)八日綸旨】文書17。

  

「私見」

皇太神宮神主綸旨に依り注進す。豊受太神宮禰宜等の申す新儀皇の字の事。

返上外宮禰宜等二問状ならびに具書二通。

副進。(中略)

右、宮司の今月三日告状にいわく、去月廿一日祭主下文にいわく、去九月廿九日官施行にいわく、同月八日の綸旨にいわく、「皇の字の事。泰直の申し状かくのごとし。触穢の間、両方の雑掌いたずらに在京、誠に不便か。重解状(二問状)、叡覧をへずといえども、早く論人に下し、訴陳を召し整えるべしとの由、仰せ下さるところなり。よって執達くだんのごとし」てえり。

 先ず彼の皇の字は、相論の字なり。

 しかるに沙汰のあいだ、当論の篇といい、神領の事といい、連々の解状に、ほしきまま

皇の字を載せ、推進せしむの状(條か)、濫吹これ甚だしきなり。

早く当時(現在)の自由推書の皇の字を止め、訴陳状を召し調えて、聖断あるべきものなり。

 

文書31の2

「原文」

一、如外宮禰宜等重解状者、「内外両宮者、依為惟祖惟宗、無尊号之増減。

天下余社者、依為乃子乃臣、有位記階級」云々。 

此條存外也。外宮御鎮座之次第、不見日本紀<大泊瀬御宇>之上、如風土記者、浴于丹波国與謝郡比沼(治か)乃真井之天女。即当宮御饌都神坐也。

何神之子、何帝之祖哉。惟祖惟宗之儀、尤可被糺明歟。

就中、大神宮御鎮坐者、垂仁天皇即位廿五年也。

度會宮御遷坐者、雄略天皇即位廿一年也。

二宮若相並而祖宗之神坐者、天照太神者、惟祖惟宗、尊無二之由事、(「争」脱か)可載古語拾遺哉。

而両宮共祖神之由、混申之條、姦搆之企也。

随日本紀私記云、「今天照太神者、是諸神之最貴也」云々。其上不能子細歟。

 

「語注」

【如風土記・・・】「日本古典文学大系」の『風土記』「丹後国逸文」に載り、「丹後国、丹波郡、比治里」。『倭名抄』には、「丹後国。和銅六年、割丹波国五群、置此国。・・・加佐、與謝、丹波、竹野、熊野」。 【御饌都神】みけつかみ。 【(「争」脱か)】「叢書本」に「争」の字あり。 【『日本紀私記』】ここの「私記」とは、『日本書紀』講書での註釈をまとめたものであるが、『本朝書籍目録』に、『養老五年私記』から『康保四年私記』まで七つの「私記」の他に『日本紀私記』三巻とあるも完本は現存せず、「新訂増補国史大系」八巻に「日本書紀私記(丁本)」として『日本紀私記』の零本(はんぱ本)を載せる。しかし、この「零本」からは、「今天照太神者・・・」云々の記述は確認できない。確認できるのは、『長寛勘文』(群書類従・第26輯・P249)で、そこに同文が引用文として載る。

 

「私見」

一、外宮禰宜等の重解状の如くは、「内外両宮は、惟祖、惟宗たるに依って、尊号の増減なし。天下余社は、すなわち子、すなわち臣たるに依り、位記、階級あり。」云々と。

 

(反論)

この條存外なり。外宮御鎮座の次第、日本紀<大泊瀬御宇>に見ざるの上に、『風土記』のごとくは、丹波の国、與謝(よさ)郡、比沼(治か)の真井(まない)に浴したるの天女。すなわち当宮の御饌都(みけつ)神にてますなり。

何れの神の子、何れの帝の祖や。惟祖、惟宗の儀、もっとも糺明せるべきか。

なかんずく、大神宮御鎮坐は、垂仁天皇即位25年なり。

度會宮御遷坐は、雄略天皇即位21年なり。

二宮、もしあい並びて、祖宗の神にてませば、天照太神は、惟祖、惟宗、尊きこと二つとなきの由の事、いかでか『古語拾遺』に載るべきか。

しかして両宮共に祖神の由、混ぜ申す條は、姦構のくわだてなり。

したがって、『日本紀私記』に云う、「今、天照太神は、これ諸神の最貴なり」云々と。その上は、子細にあたわずか。

 

文書31の3

「原文」

(「一」の字脱か)同申状云、二所皇太神宮者、天地之霊貴、日月之大元云々。 

此條、殊以不審。如日本書紀者、次生月神<一書云、月読尊>。

其光彩亜日、可以配日而治。故送之于天云々。

旧事本記又同。即今別宮月読神歟。

管見之所覃如此。

豊受宮月神坐之條見何文哉。

 

「語注」

【(「一」の字脱か)】「叢書本」に「一」あり。 【如日本書紀者・・・】ここの文は、日本古典文学大系新装版『日本書紀』上巻P87に載る。 【旧事本記・・・】ほぼ同じ文が『先代旧事本記』「巻第一・陰陽本紀」に載る。 【別宮月読神】『皇太神宮儀式帳』「管神宮肆(四)院行事」に「月読宮一院。正殿四区・・・次称月読命。御形馬乗男形、着紫御衣。」 

 

「私見」

一、同申し状に云う、「二所皇太神宮は、天地の霊貴、日月の大元」云々と。

 

(反論)

この條、ことにもって不審。

『日本書紀』のごとくは、「次生月神<一書云、月読尊>。

其光彩亜日、可以配日而治。故送之于天」云々と。

『旧事本記』また同じ。

即ち(外宮は)今の(内宮の)別宮の月読神か。

管見のおよぶところかくのごとし。

豊受の宮の月神にますの條は、何の文を見るべきか。

 

文書31の4

「原文」

一、同状称、「御形文図、義一朝崇敬不置、不置差別。千木片(エン)理露二宮禮奠、無有高卑」云々。 

是又無謂。所以者何、御形之方円、千木之俯仰、表天神地祇歟。

陰陽之比量、幽契之縁、不得其意。

凡厥幣帛、本宮者錦綾也。外宮者平絹也。

殿舎之寸法、神宝之員数、於事有差別、於禮有高卑、載延暦儀式、注延喜式文也。

不顧此等之旨、不置差別之由、掠申之條、罪責難遁者歟。

如長寛二年勘文者、又延喜御記中有太神宮與豊受宮、如君臣之文、豊受宮猶然。況余神哉云々。

即天無二日、地無二王之義也。

諍論(争論)之趣、可謂不足言歟。

 

「語注」

【無謂】いわれなし(理由がない)。 【所以者何】「叢書本」傍訓に「ユエイカントナレバ」。 【千木】ちぎ。神社建築で、屋根のむねの両端にX字形に交差させて突き出させた材。ひぎ。『延暦儀式帳』に「正殿一区・・・上搏風肆(4)枚、号称比木(ひぎ)」。『倭名抄』に「辨色成立云、搏風板比木」。『日本書紀』に「神武天皇元年・・・故古語稱之曰。・・・峻峙搏風於高天之原(「搏風」に「ちぎ」の傍訓あり)」。『貞和御餝記』(群書類従第一輯)に、「組目ヨリ上ヲ謂千木。組目ヨリ下ヲ謂搏風」。『神社啓蒙』に「一問、搏風何義。答、搏音博、俗言破不也」。「学研国語辞典」では、「搏風(破風)。日本建築で、妻に出る屋根の端部をかくして装飾する、山形の幅広い板。破風板」。「『宝基本記』に「千木者、智義也。摶風(ハフ)也。義則仁也。」 【俯仰】フギョ。ふすと仰ぐ。内宮正殿の千木の先端は内削ぎといわれ、上が水平。外宮は外削ぎで側面が垂直。『神道名目類聚称』に「内宮ノ千木ハ内ヲソグ、外宮ノ千木ハ外ヲソグナリ」。『宝基本記』に「千木片(「手+炎」エン・そぐ)者、水火之起、天地之象也。・・・仰<天>以<弖>開口<久>・・・」 【比量】ヒリョウ。くらべはかること。比較。 【・・・不得其意】『古事記傳』にも、「此の千木の端を(そぐ)こと・・・陰陽の理などことごとしく云ひなすは、例の漢意の附会也・・・何の意も有るべきに非ず」。 

【殿舎之寸法】「延暦儀式帳」に、皇太神宮は、「正殿一区<長三丈六尺。広一丈八尺。高一丈一尺。>」。止由気宮(豊受宮)は、「正殿一区<長三丈。広一丈。高一丈。>」。 【神宝之員数】「延暦儀式帳」に、「宝殿物十九種」とあるが、「止由気宮」には記載なし。 【如長寛二年勘文者・・・】引用同文は、長寛二年四月二日の太政大臣殿御勘文の「日本紀私記」の引用文にあり(「群書類従第二十六輯P249」)。 【延喜御記】醍醐天皇の日記で『醍醐天皇御記』や『醍醐天皇宸記』とも。 諸書に逸文としおてあるのみで現存せずとか。

 

「私見」

一、(外宮の)同状にいわく、「御形の文図、義は一朝の崇敬をかがやかして、差別を置かず。

千木のヘンエン、理は二宮の禮奠をあらわして、高卑あることなし。」云々と。

 

(反論)

これまたいわれなし。

ゆえいかんとなれば、御形の方円、千木の俯仰、天神地祇をあらわすか。

陰陽の比量、幽契の縁とは、その意を得ず。

凡そ、その幣帛、本宮は錦綾なり。外宮は平絹なり。

殿舎の寸法、神宝の員数、事において差別あり、禮において高卑あること、延暦儀式に載せ、延喜式の文に注するなり。

これらの旨を顧みず、差別を置かずの由、掠申の條の罪責、遁れ難しものか。

長寛二年の勘文の如くには、「又(衍字か)延喜御記の中に太神宮と豊受宮とは君臣の如くの文あって、豊受宮猶しかり。況や余神かな」云々と。

即ち天に二日なく、地に二王の義なしなり。

争論の趣、言にたらずと言うべきか。

 

文書31の5

「原文」

一、同状称、貞観延喜式文、延久承徳宣命<先進之。自余略之>。

神宮秘記飛鳥本記、倭姫皇女世記、伊勢宝基本記、皆以奉載皇字於当宮也云々。 

彼貞観已下状等、雖申先進之由、不副渡于敵方。是為奉欺朝廷歟。

惟(倩か)就宣命文、案事情、諸神者皆為天胤之間、公家被致祭礼之日、雖被載皇字於宣命、諸社捧解状之時、皇太神宮神主之外、全不書皇字於申状。

是太神宮者、天下之最貴、海内之至尊坐之故也。

彼倭姫皇女世記、伊勢宝基本記等、誰人撰集乎。

神主飛鳥等者、外宮禰宜之先祖也。

為其宮祠官、私記置之文、非沙汰之限。

若猶備申支証者、不日可被召出件状等也。

 

「語注」

【貞観延喜式文・・・皆以奉載皇字於当宮也】外宮側は後の「三問状」で、「貞観延喜式文<二宮共不載皇字>」と、この主張を変えるが、これは内宮がここで添付した「延喜式文」の誤り(内宮載皇字、外宮不載皇字。)に気づいたからと思える。 【雖申先進之由、不副渡于敵方。】外宮が添付した一部の文書が何らかの事情で内宮側に全く渡っていないことを示す。 【惟(倩か)】「叢書本」等は「倩(つらつら)」で、この方が良いか。 【雖被皇字於宣命、諸社捧解状之時、皇太神宮神主之外、全不書皇字於申状。】この部分の「全不書皇字於申状」が本訴訟の主題だが、外宮側は勝ち目は無いと見てか「於申状」の部分を削り、「全不書皇字」か、と一貫して争点をずらす手法をとる。 【海内】天下。国内。 【神主飛鳥】『二所太神宮例文』(群書類従第一輯)に「乙乃古命二男。継体天皇御代奉仕」。同書の同時代の荒木田は「赤冠荒木田刀良<薬子(赤冠荒木田薬の子)。継体天皇御代奉仕>」。 

 

「私見」

一、(外宮の)同状にいわく、「貞観、延喜式の文、延久、承徳の宣命<先にこれを進めき。自余これを略す>。

神宮秘記の飛鳥本記、倭姫皇女世記、伊勢宝基本記、皆もって当宮に皇の字を載せ奉るなり」云々と。

 

(反論)

彼の貞観以下の状等、先にこれを進めしの由といえども、敵方に副え渡らず。

これ、朝廷を欺き奉るとなすか。つらつら宣命の文に就き、事の情を案ずるに、諸神は皆天胤(テンイン)となすの間(この「間」は接続助詞的用法)、公家の祭礼を致されるの日、宣命に皇の字を載せらるるといえども、諸社の解状を捧げる時、皇太神宮神主の外は、全く申状に皇の字を書かず。

これ、太神宮は、天下の最貴、海内の至尊にましますの故なり。

彼の『倭姫皇女世記』、『伊勢宝基本記等』は誰人の撰集か。

神主飛鳥等は、外宮禰宜の先祖なり。

その宮の祠官(公官)となして、私に記し置くの文、沙汰の限りにあらず。

もしなお支証に備え申せば、日ならずして、件の状等をめしだされるべきなり。

 

文書31の6

「原文」

一、同状称、日本書紀<自神武至雄略>、古語拾遺、古事記、律令格、及延暦公成、延喜安則等勘奏本系、天長元五、貞観十三年宣命紙、二宮共不載皇字。一方何可有其難哉。 

就之謂之、外宮解状、不可載皇字之條、承伏自称也。

於本宮者、如載先段、依異于諸社、書来解状之條、古今之定例也。

延暦儀式、延喜式文、同七年九月禰宜(茎)貞等造進譜図帳載而炳然也。

外宮禰宜巧新儀、任自由、始而推書事者、去二月也。

今所引之記等、更以不足准的之証。所詮当論之肝心、何也(何世か)、何時、豊受皇太神宮神主申之由、載解状哉。

古来全不承及。有其証者、可出對也。

又延暦公成本系、不載皇字之由申之條、太以不審。可被召出彼状者也。

 

「語注」

【延暦儀式】「延暦儀式帳」。個々の名称は、内宮は『皇太神宮儀式帳』で、外宮は『止由気宮儀式帳』。 【延喜式文】「延喜式」の当該文中に「皇」の字は共になく、ここは内宮のミスであるが、外宮の当初の「皆載」の主張に対する反証としては有効か。 【同七年九月禰宜(茎)貞等造進譜図帳】添付されたこの文書の名称は『伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳』。 【譜図】フト。血縁関係や師弟関係などのつながりを書きあらわしたもの。 【炳然】ヘイゼン。あきらかなさま。 【巧】たくむ。(たくらむ)。 【去二月】「文書1」をさす。 【准的】ジュンテキ。「準的」(めあて。めやす。標準)と同義か。 【何也】「叢書本」には「何世」とあり、こちらの方が良いか。

 

「私見」

一、(外宮の)同状にいわく、「『日本書紀』<自神武至雄略>、『古語拾遺』、『古事記』、「律令格」、および「延暦公成、延喜安則等の勘奏の本系(帳)」、「天長元年、貞観十三年の宣命紙」は、二宮ともに皇の字を載せず。一方に何ぞその難あるべきかな」と。

 

(反論)

これに就いてこれをいわば、外宮の解状に、皇の字を載せるべからずとの條、承伏自称するなり。

本宮においては、先段に載るが如く、諸社に異なるに依って、解状に書ききたるの條は、古今の定例なり。

「延暦儀式」、「延喜式文」、「同七年九月禰宜(茎)貞等造進譜図帳」に載て、炳然(ヘイゼン)なり。外宮禰宜の新儀をたくみ、自由にまかせ、はじめて推書せる事は、去る二月なり。

今、所引の記等は、更にもって准的の証とするに不足。

所詮、当論の肝心、何れの世、何れの時にか、「豊受皇太神宮神主」と申すの由、解状に載るかな。

 古来、全く承り及ばず。その証あらば、出對すべきなり。

また「延暦公成本系(帳)」、皇の字を載せざるの由、申すの條、おおいにもって不審。

 彼の状等をめしだされるべきものなり。

 

文書31の7

「原文」

一、 同状称、

延喜十四年正月氏本系勘進奏書(文書14別添その1)、天慶九年四月日請神祇官符解状(文書14別添その2)、為上覧所備進也云々。 

彼両通状、為当宮亀鑑也。即或豊受太神宮神主申之旨書之、或度會神主申之由書之、一切不載豊受皇太神宮禰宜等申之由。彌顕当宮理訴者也。

彼延喜十四年状云、即天皇勅、汝大若子便罷往<天>布理奉者、退往<天>布理奉<支>。是豊受皇太神宮也云々。

是又外宮禰宜冬雄私詞歟。其上疑多論。如何者、就延暦廿五年七月三日太政官符、大同(「二」脱か)年二月大宮司并二宮禰宜等進(「官」脱か)供奉神事上代本紀(大同本紀)云、爾時天皇驚給、度會神主等先祖大佐佐命召<天>差使布理奉<止>宣<支>。仍退往、布理奉<支>。是豊受太神宮也云々。奥位所云、豊受太神宮禰宜天村雲命孫神主。天照坐皇太神宮禰宜天見通命孫神主。太神宮司正八位下天子屋根命孫大中臣朝臣者。

外宮不加皇字、内宮書載皇字之條、既以分明也。

仍副進之彼延喜状者、注倭姫皇女夢想之由、書豊受皇太神、載大若子。

大同文者注雄略天皇御夢之由、書豊受太神、載大佐々命。

参差是多、可謂疑書歟。

又延喜十一年二宮解状、鷹守八氏注文等、怱被召渡、可申所存哉。

 

「語注」

【亀鑑】キカン。てほん。模範。 【大若子】『神宮雑例集』に「大若子命<天牟羅雲命七世孫。度會神主遠祖>また「垂仁天皇即位二十五年・・・供奉」。『校訂度會系図』に「一名大幡主命」。「天牟羅雲命」は『二所太神宮例文』に「天御中主尊十二世孫」。 【外宮禰宜冬雄】『二所太神宮例文』に「高主二男。寬平五年任。在任廿六年」(延喜十四年当時の禰宜)。 【延暦廿五年七月三日】延暦二十五年は、三月に桓武天皇が崩御し、五月に「大同」に改元。『日本後紀』に、「大同元年(八〇六)五月辛巳《十八》。即位於大極殿(平城天皇)。・・・改元大同」。では、「延暦廿五年七月三日」の日付は間違いかと言うと、そうとは言い切れない。この時の詔の内容は「改元大同、非禮也。国君即位、踰年而後改元者。縁臣子之心不忍一年而有二君也。今未踰年而改元、分先帝之殘年、成當身之嘉号、失愼終无改之義、違孝子之心也。稽之舊典、可謂失也。」で、建前では大同元年でも、日常的には延暦二十五年が使用されたか。そうすると延暦二十五年の翌年は大同二年。  【大同(「二」脱か)年二月】「添付文書」から「二」を加え「大同二年」がよいか。また「大同二年二月」には、『古語拾遺』も撰上されており、「延暦廿五年七月三日太政官符」の内容は不詳だが、『古語拾遺』の序文に「幸蒙召問」、跋文に「幸遇求訪之休運」とあり、これと同じ様な趣旨で神宮にも「古事」の提出が求められたか。 【大佐佐命】『二所太神宮例文』に「彦和志理命一男。雄略天皇御代奉仕。」 【奥位所】差出人連署部分。 【天見通命】『神宮雑例集』に「天見通命<天兒屋根命十二世孫。荒木田神主遠祖>。また「「垂仁天皇即位二十五年・・・供奉」。 【天子屋根命】天兒屋根命。『尊卑分脈』によれば「天御中主尊」から数えること十代目。 【参差】シンシ。くいちがい。 

 

「私見」

一、(外宮の)同状にいわく、「延喜十四年正月の氏の本系勘進奏書、天慶九年四月○日の請神祇官符解状、上覧の為にそなえ進む所なり」云々と。

 

(反論)

彼の両通の状は、当宮の亀鑑と為すなり。即ち、あるいは「豊受太神宮神主申」の旨、これに書き、あるいは「度會神主申」の由、これに書く。一切「豊受皇太神宮禰宜等申」の由を載せず。いよいよ当宮の理訴を顕すものなり。

彼の延喜十四年の状にいう、「即ち天皇勅し、汝大若子、すなわち罷り往き<て>、フリたてまつれとテエレバ、退き往き<て>ふフリたてまつり<き>。これ豊受皇太神宮なり」云々と。これまた外宮禰宜冬雄が私の詞か。その上、疑い多い論なり。

いかんとなれば、延暦廿五年七月三日太政官符についての大同二年二月大宮司ならびに二宮禰宜等が官に進めし供奉神事の「上代本紀」にいう、「その時、天皇驚き給いて、度會神主等の先祖大佐佐命を召し<て>、差し使わし、フリたてまつれ<と>のたまい<き>。よって退きいきて、フリたてまつり<き>。これ豊受太神宮なり。」云々と。

奥位の所にいう、「豊受太神宮禰宜天村雲命孫神主。天照坐皇太神宮禰宜天見通命孫神主。太神宮司正八位下天子屋根命孫大中臣朝臣」とテエリ。

外宮に皇を字を加えず、内宮に皇の字を書載せし條、すでにもって分明なり。

よって、副進の彼の延喜の状では、「倭姫皇女夢想」の由を注し、「豊受皇太神」と書き、「大若子」と載せし。

大同(大同本紀)の文では、「雄略天皇御夢」の由を注し、「豊受太神」と書き、「大佐々命」と載せし。参差(シンシ)これ多く、(彼の延喜十四年の状は)疑書というべきか。

また「延喜十一年二宮解状」、「鷹守八氏注文」等は、いそぎ召し渡され、所存を申すべきかな。

 

文書31の8

「原文」

一、同状称、内宮皇字、不見日本書紀<自神代迄雄略>以下数巻之古書。

為載于解状、経上奏、預天裁歟。

帯所見者、可出対也。不然者、争遁自難矣。 

当宮解状、載皇字之條、神宮累代之規範也。

今更不能陳答。委載先「 」畢。

 

「語注」

【「 」】群書類従本は欠字。「叢書本」には「段」の字あり。

 

「私見」

一、(外宮の)同状にいわく、「内宮の皇の字、日本書紀<自神武至雄略>、以下数巻の古書に載らず。

解状に載りたるは、上奏を経て、天裁に預かりしか。

所見をおばば、出対すべきなり。しからずんば、いかでか自難をのがれん」と。

 

(反論)

当宮の解状に皇の字を載せたるの條、神宮累代の規範なり。

今更、陳べ答えるにあたわず。くわしく先段に載せおわんぬ。

 

文書31の9

「原文」

同状称、大祖神号者、属無窮之故、不及上聞。

増字之謀訴、希代之結構也。被糺明尊号之増減、可被勘罪名之軽重歟云々。 

如載先段、大祖神号、何皇祖哉。

若大祖神号、属無窮而無定様者、至天下大社者、不可有定神号歟。

荒涼之申状、頗迷是非乎。巧自専之條、於焉顕然也。

本宮禰宜者、不與新儀顧後勘、而可窺勅定之由申之。

外宮神主者、併好非例、任自由、増書神号、而不及上聞之旨申之。

何理何非、尤可被糺断罪法哉。

夫二所太神宮神態者、守旧例所来也。

都無違変之法。所謂元々本々。左物不移右。萬事無違事之故也。

爰外宮神主、自上代迄去正月不書之皇字。何始而可載于解状哉。

新儀者違例也。違例者咎祟之基歟。可被停禁者也。

 

「語注」

【自専】ジセン。自分勝手に行うこと。 【後勘】コウカン。後日にうける叱責。 【上聞】ジョウブン。天子に申しあげること。 【神態】「叢書本」に「カミワサ」の傍訓あり。 【都】すべて。 

 

「私見」

一、(外宮の)同状にいわく、「大祖神号は、無窮に属すの故に、上聞に及ばず。

増字の謀訴、希代の結構なり。尊号の増減を糺明(キュウメイ)せられ、罪名の軽重を勘せらるべきか」云々と。

 

(反論)

先段に載せるが如く、大祖の神号とは、何れの皇祖かな。もし、大祖の神号、無窮に属して定めるさま無くんば、天下の大社に至っては、神号を定めることあるべからずか。

荒涼の申し状、頗る是非に迷うか。自専をたくめるの條、ここに顕然なり。

本宮禰宜は、新儀にくみせず、後勘を顧み、しかも勅定を窺うべきとの由、これを申す。

外宮神主は、非例を好むことにあわせ、自由にまかせ、神号を増し書き、しかも上聞におよばずとの旨、これを申す。何れが理か、何れが非か、尤も罪法を糺断せらるべきかな。

それ、二所太神宮の神態は、旧例を守りきたるところなり。

すべて違変無きの法。所謂、元を元とし、本を本とす。左の物は右に移さず。

萬事違う事なきの故なり。

爰に外宮神主、上代より去る正月まで書かざるの皇の字、何ぞ始めて解状に載すべきかな。

新儀は違例なり。違例は咎、祟りの基か。停禁せらるべきものなり。

 

文書31の10

「原文」

一、同状称、以磯宮存本宮哉。背風土記、違儀式帳歟云々。

磯宮本宮坐之條、具見日本紀也。

所難之趣、殆守一隅之所致歟。

 

「語注」

【具見日本紀】『日本書紀』「垂仁天皇二五年(丙申前五)二月甲子《八》・・・故隨大神教、其祠立於伊勢國。因興齋宮干五十鈴川上。是謂磯宮。」。余談ですが、「内宮側」は「日本紀」と云い、「外宮側」は「日本書紀」と・・・。

 

「私見」

一、(外宮の)同状にいわく、「磯宮をもって本宮と存ずるや。風土記に背き、儀式帳に違うか」云々と。(反論)磯宮に、本宮の坐すの條、具には「日本紀」を見るべきなり。所難の趣、殆ど一隅を守ることの致すところか。

 

文書31の11

「原文」

一、同状称、二宮聴禁河、同時致参洛、遂究決、散鬱胸(陶か)云々。

雖存長暦三年(1039年)宣旨参洛之篇、進而不退、謹所相待勅喚也。

抑本宮禰宜者、去貞観年中叙内位以降、外宮神主者、代々難成所望、古来終以不許也。

而窃掠取内階位記之條、科條惟重。

早任延久四年(1072年)宣旨、停廃乱階、糺断具(其か)科。守正応三年(1290年)宣旨、正位階、宜被儼神事禮奠也。

以前條々、重甄録言上如件。 

  永仁四年十一月 日

    大内人正六位上荒木田神主貞宗

禰宜正四位上荒木田神主泰氏

                章延

                氏棟

                経有

                氏成

                成言

                氏尚

                泰世

 

「語注」

 【鬱胸】「文書14」には「鬱陶」。 【長暦三年宣旨参洛之篇】『太神宮諸雑事記第二』に「長暦三年二月十五日太神宮禰宜等京上了(直訴)」(群書類従第一輯P106)。 【進而不退】「正法眼蔵」に「・・・精而不雜、進而不退」。 【去貞観年中叙内位】『三代実録』に「貞観七年(865)十二月九日丙辰、授伊勢大神宮祢宜外正五位下神主繼長從五位下」。『豊受太神宮禰宜補任次第』に「(外宮)神主真水・・・同(貞観)七年十二月四日叙外従五位下。同日内宮禰宜継長、考宝亀格文、所叙内階也。而当宮禰宜同時依不上奏、叙外階也」。 【】とが。等級をつけた罪。延久、正応の宣旨】不詳。ご存知の方、教えて下されば幸いです。 【具(其か)】「叢書本」は「其」。 【】ゲン。ゴン。おごそか。 【以前】単数をうけるときは「右」、複数を受けるときは「以前」(佐藤進一著「古文書学入門」)。 【甄録】「叢書本」に「ケンロク」の読みと「シルス」の傍訓あり。

  

「私見」

 一、(外宮の)同状にいわく、二宮、禁河をゆるされ、同時に参洛を致し、究決を遂げ、鬱陶を散ずるなり」云々と。

 

(反論)

長暦三年宣旨参洛の篇を存するといえども、進みて退かず。

 謹んで勅喚をあい待つ所なり。

 抑も本宮禰宜は、去る貞観年中に内位に叙されて以降、外宮神主は、代々所望のことなしがたく、古来終にもって許されずなり。

 而るに窃に内階位記を掠め取るの條の科條(カジョウ)、これ重し。

 早く延久四年の宣旨に任せて、乱階を停廃し、その科を糺断せられ、正応三年の宣旨を守り、位階を正し、よろしく神事禮奠を儼せらるべしなり。

 以前、條々、重ねて甄録(ケンロク)し、言上(ゴンジョウ)くだんのごとし。

  

文書31添付文書1

「原文」

度會宮禰宜内人等解申。等由気太神宮儀式并禰宜内人物忌等年中行事事。

 合玖條

    自余略之

 一、等由気太神宮院事<今称度會宮。在度會郡沼木郷山田原>

 合陸院

天照坐皇太神、始巻向玉城宮(垂仁天皇)御宇天皇御世、国々處々大宮處求賜時、度會<乃>宇治<乃>伊須須<乃>河上<爾>大宮供奉。爾時、大長谷天皇(雄略天皇)御夢<爾>誨覚賜<久>、我高天原坐<弖>見<志>真岐賜<志>處<爾>志都真利坐<奴>。然吾一所<耳>坐<世波>、甚苦。加以大御饌<毛>安不聞食坐。故<爾>、丹波国比沼<乃>真奈井<爾>坐我御饌都神、等由気太神<乎>我許欲<止>誨覚奉<支>。

爾時、天皇驚悟賜<弖>、即従丹波国令行幸<弖>、度會<乃>山田原<乃>下石根<爾>宮柱太知立、高天原<爾>比疑高知<弖>、宮定斎仕奉始<支>。

是以御饌殿造奉<弖>、天照坐皇太神朝<乃>大御饌、夕<乃>大御饌<乎>日別供奉。

   自余略之

以前、度會<乃>等由気太神宮儀式并禰宜内人物忌等年中種々行事、録顕進上如件。仍注具状、謹解。

 延喜廿三年三月十四日

   内人無位神主山代

   内人無位神主御受

   内人無位神主牛主(以上下段)

禰宜正六位上神主五月麻呂

太神宮司正八位下大中臣朝臣真継

神祇官検

従四位上行伯兼左京大夫勲十二等丹治比真人

(以下6名省略)

 

「語注」

【等由気太神宮儀式・・・】これは『止由気太神宮儀式帳』として現存し、そこにも「度會宮禰宜内人等解申。止由気太神宮儀式并禰宜内人物忌等年中行事事」と記載あり。神宮の基本的史料。 【玖】九。 【自余略之】ここは目録部分。 【陸院】六院。冒頭の由来の部分のみ載せ、院の説明以下は省略(自余略之)。 【送り仮名】<乃>の。<爾>に。<久>く。<弖>て。<志>し。<奴>ぬ。<耳>「叢書本」では「仮名」ではなく「真名」で「のみ」の傍訓あり。<世波>せば。現存「儀式帳」では「波」のみで、こちらが良いか。<毛>も。<乎>を。<止>と。<支>き。 【河上】「叢書本」に「かはら」の傍訓あり。 【高天原<爾>比疑高知<弖>】「比疑(ひぎ)」は「千木」。「千木」とは搏風(破風)が屋根の棟で交り、その後を更に天に向け突き出した部分で、「高知」の「たかしり」は、「高後」または「高尻」か。 【神主】「姓」として「度會」がまだ付けられていないが、全て度會系神主か。

 

「私見」

度會宮禰宜内人等解し申す。等由気太神宮儀式ならびに禰宜内人物忌等の年中行事の事。合わせて九條

   自余略す。

一、等由気太神宮院事<今、度會宮という。度會郡沼木郷山田原にあり。>

 合わせて六院

天照坐皇太神、始め、巻向玉城宮の御宇の天皇の御世に、国々處々に大宮處を求(まぎ)たまうとき、度會の宇治の伊須須(いすす)の河上(かわら)に大宮をそなへ奉る。その時、大長谷天皇(雄略天皇)の御夢におしえさとしたまわく、「われ高天原にまして見しまぎ(求)たまいし處にしづまりましぬ。

されど、われの一所のみにますは、いとくるし。

しかのみならず大御饌(みけ)も、やすくきこしめさず。

ゆえに、丹波国比沼(ひぢ)の真奈井(まない)にいます、我が御饌都神、等由気太神を我が許(もと)に欲す」とおしえさとしたてまつりき。

その時、天皇驚きさとりたまいて、すなわち丹波国より行幸(みゆき)せしめて、度會の山田原の下つ石根(いはね)に宮柱太しり立て、高天原にひぎ高しりて、宮を定め、斎き仕へたてまつり始めき。

これをもって、御饌殿を造り奉り、天照坐皇太神の朝の大御饌、夕の大御饌を日別(ひごと)に供へたてまつる。

   自余略す。

以前、度會の等由気太神宮儀式ならびに禰宜内人物忌等の年中の種々の行事、録顕進上くだんのごとし。

よって具状に注し、謹んで解す。(以下省略)

  *延暦の「儀式帳」では、「豊受神」の遷座行幸に仕えた具体的人名はない。

 

文書31添付文書2の1の1

「原文」

伊勢天照坐皇太神宮司并二宮禰宜等解申。注進神宮色々雑事。依宣旨注進二宮供奉神事上代本紀拾肆條状

   自余略之

皇太神朝御饌夕御饌供奉本紀

(2の1の1:御饌の始めの由来説話)

志貴瑞垣宮御宇崇神天皇以往御世<波>天皇<乃>相殿坐聞食<支>。

然後宮内大庭穂掠<乎>造出奉<津>。

皇子<女歟>以豊鋤比賣命<乎>令供奉。

以纏向珠城宮御宇垂仁天皇御世<爾>以倭姫命<乎>令供奉。

其時<爾>倭姫命戴奉、度會宇治<乃>五十鈴宮令入座鎮<理>賜時<爾>、度會神主等先祖大若子命<乎>大神主<止>定給。

其女子兄比女<乎>物忌定給。宮内<爾>御饌殿<乎>造立、其庭<爾>為抜穂田稲<乎>令抜穂抜<久>。大物忌大宇禰奈々、共為令舂炊供奉始<支>。

又御酒殿<乎>造立、處々神戸人夫進神曰<田歟>以稲神酒作。先太神供奉、次倭姫命奉、残者仕奉物部人等給<支>。

 

「語注」

【神事上代本紀拾肆條】所謂「大同本紀」。完本はなく、逸文がここと『神宮雑例集巻第一』(以下「雑例集」)に残るが、「群書類従本」の「雑例集」に「自定幸云々至此三十七行、延佳本以大同本紀、補之。」とあり、「雑例集」の「大同本紀」の逸文の多くは、度会(出口)延佳が、この『皇字沙汰文』から引用し補入したものか。事実、「自定幸云々至此三十七行」の部分は殆ど同じ。 【以往】「叢書本」に「いんさき」の傍訓あり。これより前。 【穂掠】「叢書本」に「ほくら」の傍訓あり。祠か。 【供奉】グブ。天子、身分の高い人のそばにいて用を務める。 【以纏向・・・】「叢書本」は「次纏向・・・」。 【戴】いただき。 【度會神主】姓は「神主」、「度會」は地域名。 【大神主】官職名。『二所太神宮例文』の「一員禰宜補任次第」の条に「天武天皇元年、停大神主、始被置禰宜職」とあるも『豊受太神宮禰宜補任次第』には「禰宜外少初位上神主兄虫・・・始任禰宜」とあり、「始被置」云々は無い。『伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳』では、神世から禰宜が見られ、「延暦儀式帳」では「(倭姫)爾時、太神宮禰宜氏荒木田神主等遠祖・・・天見通命<乎>禰宜定<弖>」とあり。正史にはこのいきさつはなく不詳。 【舂炊】ショウスイ。穀物をうすでつき、飯をたく。食事のしたくをすること。 【人夫】「叢書本」に「オホンタカラ」の傍訓あり、「おほみたから」(人民)か。 【物部人等】「物部氏」とは関係なく奉仕部民か。

 

「私見」

伊勢天照坐皇太神宮司ならびに二宮禰宜等解し申し注進す。神宮色々雑の事。宣旨により注進す。二宮の神事に供奉する上代本紀十四條の状。

   自余略す。

 

(2の1)

 「皇太神の朝の御饌、夕の御饌の供奉本紀」。

 

(2の1の1:御饌の始めの由来説話

 志貴瑞垣宮御宇崇神天皇以往の御世は、天皇の相殿に坐してきこしめしき。

然る後、宮内(朝廷)の大庭に祠を造り、出したてまつりつ。

皇子(みこ)豊鋤比賣命をもって供奉せしむ。

次に纏向珠城宮御宇垂仁天皇御世に、倭姫命をもって供奉せしむ

 その時に倭姫命、いただき奉りて、度會の宇治の五十鈴宮に入座せしめ、鎮りたまう時に、度會の神主等の先祖大若子の命を大神主と定め給う。

その女子(むすめ)の兄比女(エヒメ)を物忌と定め給う。

宮内(神宮)に御饌殿を造り立て、その庭に抜穂と為す田の稲を抜穂せしめて抜く。

 大物忌の大宇禰奈々と共に為して(?)、舂炊(ショウスイ)せしめて、供へ奉り始めき。

また御酒殿を造り立て、處々の神戸の人夫が進る神田の稲をもって神酒を作る。

先に太神に供へ奉り、次に倭姫命に奉り、残りは仕へ奉る物部の人らに給いき。

 

  *添付文書31の2の1「皇太神朝御饌夕御饌供奉本紀」は、食にまつわる四つの説話に別れており、

2の1の1が「米」の話し。

2の1の2が「海産物」と「塩」の話し。

2の1の3が「陪膳」に関するはなし。

2の1の4が「水」の話し。

 

文書31添付文書2の1の2

「原文」

(2の1の2:御饌の調達説話)

其時、御船乗給、御膳御贄處定行幸島国、国崎島、鵜倉、慥柄等島<爾>、朝御饌夕御饌<止>詔而、由貴潜女等定給<天>、還坐時、神堺定給<支>。戸島、志波崎、佐加太伎島定給而、伊波戸居而、御饌夕御饌處定奉。

 然倭姫命御船留而、鰭廣魚、鰭狭魚、貝満物、息津物、辺津毛依来<爾>、海塩相和而淡在<支>。故淡海浦<止>号<支>。

伊波戸居島名戸島号<支>。彼<波歟>刺處名柴前号。従其以西<乃>海中<爾>有七箇島。従其以南海塩淡甘<支>。其島<乎>淡良伎之島号。其塩淡満浦名<乎>伊気浦号<支>。其處参相<弖>御饗仕奉神<乎>淡海子神<止>号<弖>、社定給<支>。

 其處<乎>朝御饌夕御饌島定<支>。

 還行幸其御船泊留在<志>處<乎>津長原<止>号<支>。其處<爾>津長社定給<支>。自爾以来、太神主<爾>仕奉氏人等、以女子<乃>未夫婚、物忌<止>為<弖>、令供奉。

 

「語注」

【贄】にへ。神に供え、また朝廷に献上するささげ物。とくに食料に供する魚鳥の類。 【島国】志摩の国か。 【国崎島】くにさきの島。三重県鳥羽市国崎町(旧志摩郡長岡村大字国崎)か。【鵜倉、慥柄】うくら、たしから。『神宮雑例集』に「国崎、鵜倉、慥柄等島者、朝夕御饌御贄之所」 【潜女】かずきめ。(かずく。水中にもぐる。潜水する) 【鰭廣魚】はたのひろき魚(大魚)。  【鰭狭魚】はたのせまき魚。(小魚)。 【貝満物】かいつ物(貝類)。 【息津物】いきつもの。「叢書本」は「息津毛」。「祈年祭」の祝詞に「奥津藻葉」。 【辺津毛】へつも。「祈年祭」の祝詞に「辺津藻葉」。 【号】なずく。 【戸島】「叢書本」に「ヘシマ」の読みあり。 【志波崎】「叢書本」に「シバサキ」の読みあり。【佐加太伎島】「叢書本」に「サカタキシマ」の読みあり。 【伊波戸居】「叢書本」に「イハヒヘスエ」の読みあり。 【名戸島号】先の「戸島」か。 【柴前】先の「志波崎」か。 【淡良伎之島】『伊勢参宮名所図会』に「俗にとび島といふ。潜島の艮(うしとら。東北。)十丁計に有。是より東へ廻る入江を伊気浦と云。 【伊気浦】『伊勢参宮名所図会』に「山を浮島山といひて・・・今は志州(志摩)の内、内宮領村下村の東にありて、山中へ深く入たる江なり」。 【淡海子神】「皇太神宮儀式帳」の「管度會郡神社行事」に「粟御子神社一處。称須佐乃命御玉、道主命」。『皇太神宮参詣順路図会』に「伊気浦の入江松林の中にあり、道主尊<素盞鳴尊御玉>を祀りて内宮摂社二十四座の内なり」。 【津長原】「皇太神宮儀式帳」の「管度會郡神社行事」に「津長大水神社一處。称大水上兒、柄長比女命。形石坐。倭姫内親王代、定祝」。

 

「私見」

(2の1の2:御饌の調達説話)

その時、御船に乗り給いて、御膳の御贄の處を定めに、島国の国崎島、鵜倉(うくら)、慥柄(たしから)等の島に行幸(みゆき)す。

朝の御饌、夕の御饌と、のたまいて、由貴(ゆき)の潜女(かずきめ)等を定め給て、還ります時、神堺を定め給いき。

 戸島、志波崎、佐加太伎島を定め給いて、イハヒヘスエて朝の御饌、夕の御饌の處と定め奉る。

さて倭姫命の御船留まりたまいて、はたのひろき魚、はたのせまき魚、貝つ物、いきつも、へつもの依り来たるに、海の塩あい和(にぎ)て、淡くありき。故に淡の海の浦となずけき。

イハヒヘスエし島の名を戸島となずけき。波さす處の名を柴前となずく。

それより西の海中に七箇の島あり。それより南の海の塩は淡く甘き。その島を淡良伎の島となずく。その塩淡の満つる浦の名を伊気浦となずけき。

その處に参りあいて御饗(うたげ)に仕へ奉りし神を淡海子神となずけて、社を定め給いき。

 その處を朝の御饌、夕の御饌の島と定めき。

 還りの行幸のその御船の泊まり留まりありし處を津長原となずけき。

その處に津長の社を定め給き。

それより以来、太神主に仕へ奉る氏人等のむすめの、いまだとつがざるをもって、物忌と為して、供奉せしむ。

 

文書31添付文書2の1の3

「原文」

(2の1の3:豊受神の遷坐説話)

是後、雄略天皇御夢<爾>皇太神<乃>教覚給<久>、高天原坐我見志末岐宮處<爾>鎮<理>坐<弖>後、経年間、吾一所<耳>坐<禮波>、御饌安不聞食。

 吾高天原在時、鳴尊帯十握劔素(索か)取、三段打折為所生三女神<乎>。葦原中国宇佐島降居道中、奉助天孫。而為天孫所参(「祭」か)<止>、詔<志>神。

丹波国與佐比沼魚井坐。道主王子八乎止女<乃>斎奉御饌都神、止由居<乃>神<乎>吾坐国欲誨覚給<支>。

爾時、天皇驚給、度會神主等先祖大佐々命召<弖>差使布理奉<止>宣<支>。

仍退往布理奉<支>。是豊受太神也。

即度會<乃>山田原<爾>荒御魂宮、和御魂宮造奉令鎮<理>坐。

其宮之内、艮角御饌殿<乎>造立<弖>其殿内<爾>天照坐皇太神御坐奉東方、止由太神御坐西方。又御伴神三前御坐下奉<弖>、大佐々命<乎>定奉、抜穂田<乎>従春始、神主等労作<弖>抜穂<爾>抜<弖>穂<爾>抜<弖>、神主<乃>女子等未夫婚<乎>物忌<爾>定令舂炊、載(戴か)持、神主御前進<弖>、物忌子<乎>御饌殿奉(「入」脱か)<弖>、土師物忌之率(「率」は衍字か)造進御器<爾>令盛奉之了<弖>物忌出( )。

神主物忌<乎>率其殿前侍、祈祷白<久>、朝庭天皇常石(<爾>脱か)堅石<爾>護幸<江>奉賜<比>、百官<爾>仕奉人及天下四方国人民平<爾>愍給申拝奉。

天照坐皇太神八度。止由太神八度。御伴神八度。

毎日朝夕<爾>供奉。又三時祭<波>毎宮夕朝供奉。此<乎>由貴奉夜<止>号也。

  

「語注」

鳴尊帯十握劔・・・】『日本書紀』「神代上巻」に「索取素戔鳴尊十握劔、打折爲三段、濯於天眞名井・・・所生神、號曰田心姫。次湍津姫。次市杵嶋姫」。 『古事記』「上巻」に「天照大御神、先乞度建速須佐之男命所佩十拳剣、打折三段而・・・吹之狭霧所成神御名、多紀理毘売命、亦御名、謂奥津島比売命。次、市寸島比売命、亦御名謂狭依毘売命。次、多岐都比売命」。  【素(索か)】「叢書本」は「索」。(もとめる)。  【所生三女神】「所生」、うむ。ここで「三女神」の名を明かさず。 【宇佐島】『日本書紀』「神代上巻(一書第三)」に「・・・所生三女神者。使隆居于葦原中國之宇佐嶋矣。今在海北道中・・・。」  【・・・道中、奉助天孫。『日本書紀』「神代上巻(一書第一)」に「所生三女神令降於筑紫洲。因教之曰。汝三神宜降居道中、奉助天孫、而爲天孫所祭也」。  【道主王『日本書紀』「神代上巻(一書第三)」に「・・・今在海北道中。號曰道主貴。此筑紫水沼君等祭神是也」。  【御伴神三前】『止由気宮儀式帳』に「大宮壹院・・・同殿坐神参(三)前」とあり、豊受神の伴神で、名は不明。 【労】つとむ(倭玉編)。 【常石】『中臣壽詞』に「常磐」(ときは)。 【堅石】『中臣壽詞』に「堅磐」(かきは)。 【愍】めぐし。あわれむ。

【拝】をがむ。はいす。(ていねいなおじぎ)。 【八度】「八度拝」か。『皇太神宮儀式帳』「年中行事」に「四段拝奉<弖>・・・又更四段拝奉」。『江家次第』に「以八度拝、為両段再拝」。『古事記伝』に「『中右記』に・・・拝八度・・・是名両段両拝」<是名両段両拝とあるは誤りなり。両段両拝と云は、上に云る如く四度拝のことなり。然れば八度拝は両段両拝、二度なるをや」。 【三時祭】「延喜の神宮式」に「凡三時祭者<謂、六月、九月、十二月>」。六月、十二月は月次祭。九月は神嘗祭。 【毎宮夕朝供奉】通常の日は、外宮内御饌殿で一緒。通常の日の事は『止由気宮儀式帳』「二所太神朝御饌夕御饌供奉行事」に「供膳物。天照坐皇太神御前、御水四毛比(もひ)、御飯二八具、御塩四杯、御贄等。 止由気皇太神御前、御水四毛比(もひ)、御飯二八具、御塩四杯、御贄等。 相殿神三前、御水六毛比(もひ)、御飯三八具、御塩六杯、御贄等。」これを「日別二度奉(日に、二度に別けて奉る)」。 (皇太神と豊受神の内容は一緒で、お水は2毛比×2度/日=4毛比。御飯は2度/日×8具=16具。御塩は2杯×2度/日=4杯。相殿神で、御水は3神×2度/日×毛比1=六毛比、御飯は3神×2度/日×4具=24具。御塩は3神×2度/日×1杯=6杯。か)

 

「私見」

この後、雄略天皇の御夢に皇太神の教え覚し給わく、「高天原に坐すとき、我が見しまぎ(し)宮處して後、年を経る間、吾一所のみにいませれば、御饌も安くきこしめず。

 吾、高天原にいます時、鳴尊の帯ぶ十握の劔を求め取り、三段に打折り為して、三の女神をうみ、葦原中国の宇佐島に降し、道中にいまして、天孫を助けまつりて、天孫の為に祭られよと、のりたまいし神(なり)。

今、丹波の国與佐比沼魚井(まない)にまします。

道主王の子の八乎止女の斎き奉る御饌つ神、止由居の神を吾が坐す国に欲す」と、おしえさとしたまいき

その時、天皇驚きたまいて、度會の神主等の先祖大佐々の命を召して、差し使わすに「フリ奉れ」と、のりたまいき。

よって退き往きフリ奉りき。是、豊受太神なり。

 即ち度會の山田原に荒御魂の宮、和御魂の宮を造り奉り、鎮りいませしむ。

その宮の内、艮(東北(鬼門))の角に御饌殿を造り立て、その殿の内に天照坐皇太神の御坐を東方に、止由太神の御坐を西方に奉る。

 また御伴神三前の御坐も下げ奉りて、大佐々の命の定め奉る抜き穂の田を春より始め、神主らがつとめ作りて、抜き穂に抜きて、穂に抜きて、神主のむすめらのいまだとつがざるを物忌に定め舂炊せしめ、いただき(戴)もち、神主の御前に進みて、物忌の子を御饌殿に入れ奉りて、土師の物忌の(ひきいて)造り進る御器にこれを盛らしめ、終わりて、物忌出( )。

 神主、物忌を率いてその殿の前に侍りて、祈祷(いのり)もうさく、「朝庭の天皇の常石に堅石に幸をまもりたまえと奉りたまい、百官に仕え奉る人および天下四方の国の人民(おほみたから)を平らかにまぐし(めぐみ)たまへ」と申し奉る。

 天照坐皇太神八度。止由太神八度。御伴神八度。

 日ごとの朝夕に供へ奉る。

 また三時祭は、宮ごとに、夕朝に供へ奉る。

 此を「由貴のまつりの夜」と、もうすなり。

   *ここの説話は、『日本書紀』等の記述を取り入れたものか。

 

文書31添付文書2の1の4

「原文」

214度會神主等先祖天村雲命の水の説話)

1中臣壽詞』の「天忍雲根神」説話と競合する水の説話。

度相神主等先祖天村雲命<乎>皇御孫命召>、食国荒水介利。又神財、毛比、二<乃>物忌(「忘」か)之(<弖>か)在。故御祖命<乃>御許<爾>参上>申<止>詔<天>奉登<支>。

 具由申時<爾>御祖命詔>、雑<爾>仕奉<良牟>政<波>行下<天>在<禮止母>水取政遺<天>在<介利>。何神<乎加>下奉<良布(「牟」か)止>思食間<爾>勇<乎志弖>参上来<止>詔<天>、即>、天忍石<乃>長井水<乎>取持下参<天>八盛<爾>盛<天>奉<禮>、其遺(<波>脱か)天忍水<止>云<天>食国<乃>水<乃>於<爾>灌和<天>、御伴<爾>天降奉仕神等八十氏諸人<爾毛>斯水<乎>食(「令」か)飲<止>>。

 

2天村雲命の別名説話。

 神財及玉毛比等授給参下<天>、献持時、皇御孫命>、何道<與利曽>参上<之止>問給。

 申<久>、大橋<波>皇太神、皇御孫命<乃>天降坐<乎>恐<美>、後<乃>小橋<與判(「利」か)奈母>参上<之止>申時<爾>、皇御孫命>、後<爾毛>恐奉仕事<曽止>詔<天>、天村雲命、天二登命、後小橋命<止>云三名負給<支>。

 

3御膳に使う井戸の説話

彼朝夕供奉御膳<乃>御水、止由気宮<乃>坤方岡片頬<爾>御井堀<天波>(「<天>汲」か)供奉。

 其水大旱魃年 不涸。其下二丈許下<天>、底有水田。其田<波>旱魃(「損」脱か)<須禮止毛>此御井<乃>水<波>専不干、涌出。異怪之事不遇<過歟>於是。

又他用更不可用之。其御饌殿<乎>今号伊屋殿是也。

 

「語注」

度相神主・・・詔中臣壽詞』には「中臣<乃>遠<都>祖天兒屋根命、皇御孫尊<乃>御前<仁>奉仕<>、天忍雲根神<遠>天<乃>二上<仁>奉上<>」。 【食国未熟荒水中臣壽詞』には、「皇御孫尊<乃>御膳都水<波>、宇都志國<乃>水<爾>、天都水<遠>加<>奉<牟止>」 【神財】かむたから。「高橋氏文」に「六雁命<乃>御魂<乎>膳職<爾>伊波比奉<天>、春秋<乃>永世<乃>神財(かむだから)<止>仕奉」(時代別国語大辞典上代)とあり、有形だけはなく無形(御魂)をもさすか。 【毛比】もひ。水などを入れる器。「武烈天皇前紀」の歌に「摩該爾播、伊比佐倍母理。摩暮比爾。瀰逗佐倍母理。(たまけには、いいさへもり、たまもひに、みずさへもり)」。 【御祖命】みおやのみこと。中臣壽詞』には「神漏岐、神漏美命」。 【忌(「忘」か)】「叢書本」は「忘」。 【】くさぐさ。『日本書紀』「大化二年二月」の記事の「雑役」に「くさぐさのえだち」の傍訓あり。 【水取】もひとり。『倭名抄』に「水取司<毛比止里乃豆加佐>」。 【其遺・・・灌和<天>】『中臣壽詞』には「 天<乃>玉櫛<遠>事依奉<>、此玉櫛<遠>刺立<>、自夕日至朝日照<萬>、天都詔刀<乃>太詔刀言<遠>以<>告<禮>。如此告<波>、麻知<波>弱韮<仁>由都五百篁生出<牟>。自其下天<乃>八井出<牟> 」。 【(<波>脱か)】「叢書本」に<波>あり。 【(「令」か)】「叢書本」は「令」。 【大橋・小橋】所謂「天の浮橋」か。 【何道<與利曽>参上・・・中臣壽詞』には「天忍雲根神天<乃>浮雲<仁>乗<>」。 【御水「叢書本」に「オモユ」の傍訓あり。 ひつじさる。南西(裏鬼門)。 【片頬】「叢書本」に「カタツラ」の傍訓あり。 【(「<天>汲」か)】「叢書本」は「<天>汲」。 】「叢書本」に「ヒデリ」の傍訓あり。 【・・・ 不涸】「叢書本」には「・・・<母>不涸」。 【(「損」脱か)】「叢書本」には「損」あり。 【異】イカイ。「叢書本」には「アヤシキ」の傍訓あり。 【伊屋】「叢書本」に「イヤ」の傍訓あり。

  

「私見」

1中臣壽詞』の「天忍雲根神」説話と競合する水の説話。

また、度相の神主等の先祖天村雲(あまのむらくも)命を皇御孫(すめみま)の命が召して、のりたまわく、「食国(おすくに)の未熟にて荒水(あらみず)に在りけり

 また神財、毛比、二の物忘れてあり。

 ゆえに御祖命(みおやのみこと)の御許(みもと)にまいのぼりて申せ」と、のたまいて、のぼらせまつりき。

御祖命に)つぶさに由を申しし時に、御祖命がのりたまわく、「くさぐさに仕へ奉らむ政(まつりごと)は行い下して在れども、水取の政は遺りて在りけり。何れの神をか下し奉らんと思いめす間に、勇をして参り上がり来たる」と、のりて、即ちのりたまわく、「天忍石の長井の水を取り持ち下り参りて、八盛りに盛りて奉れ。

その遺りは、天忍水と云って食国の水の於(うえ)に灌ぎ和て、御伴に天降りつかへまつる神等八十氏のもろびとにも、その水を飲しめよ」と、のたまわく

 

2天村雲命の別名説話。

 神財および玉毛比等を授けられたまいて、参り下りて、(皇御孫命に)たてまつる時に、皇御孫命がのたまわく、「何れの道よりぞ参り上りしか」と、問いたまう。

「もうさく。大橋は皇太神、皇御孫命の天降りますを恐(かしこ)み、後の小橋よりなも参り上りし」と、もうせし時に、皇御孫命のりたまわく、「後にも恐みつかへまつる事ぞ」と、のりて、天村雲命、天二登命、後小橋命と云う三名を負いたまいき。

 

3御膳に使う井戸の説話

彼の朝夕にそなへまつる御膳(みけ)の御水(おもゆ)は、止由気の宮の坤(ひつじさる)方の岡の片頬(かたずら)に、御井を堀りて、汲みそなへまつる

 その水は大旱魃(ひでり)の年もかれず。

 その下、二丈ばかり下がりて、そこに水田あり。

 その田は旱魃に損すれども、この御井専らほされず、涌き出ず。

怪の事、是にすぎず。

また他用には更にこれを用いるべからず。

その御饌殿を今、伊屋(いや)殿ともうすことこれなり。

  *この説話は、中臣の遠祖、「天兒屋根命」の子の「天忍雲根神」の功績を奪ったものか。度會の遠祖「天村雲命」と「天忍雲根神」とを同一視する見解もある様ですが、この「大同本紀」では別神です。

 

文書31添付文書2の2

「原文」

豊受神宮新立御気殿、供奉二宮朝夕御饌本紀。

聖武天皇即位<乃>神亀五年(728年)正月十日。依例<天>豊受神宮<與利>、天照坐皇太神宮<乃>朝御饌調備<之天>、先(「天」か)村雲孫<乃>令捧齎<天>参入<流>處<爾>、途中宇治山<乃>谷道<爾>死人<乃>有<乎>乍見齎参<志天>挟(「授」か)渡天見通命孫荒木田禰宜<爾>。

 任例且供奉已了<天>、以後二( )月程、天皇<乃>御薬急御坐。重祟給、件死穢<乃>由。

仍宮司亮(「高」か)良比連千上<加>依勘由(「申」か)、川麻呂、弘美等科大祓。

蒙宮司舂賞(勧賞か)已了。

同年三月十五日、依宣旨并御占両合、新立御気殿。

供奉御饌為例、太神宮<江>捧齎不参。

 自余略之

右、依太政官延暦廿五年(大同元年/805年)七月三日符之旨、被下神祇官。

 同十三日符称、子細云々具也。

  大同二年(806年)二月十日

     豊受神宮大内人神主

     太神宮大内人神主

 豊受神宮禰宜天村雲命孫神主(度會神主)

 天照坐皇太神宮禰宜天見通命孫神主(荒木田神主)

 太神宮司正八位下天子屋根命孫大中臣朝臣(真継か)

  

「語注」

【神亀五年】『太神宮諸雑事記』(以下「神宮雑記」と記す)には「神亀六年」で月日は同じ。 【先(「天」か)村雲孫】奥書の連署からも「天村雲孫」か。「神宮雑記」には「豊受宮大物忌父」。 【参入】「叢書本」に「マイ」の傍訓あり。 【宇治山<乃>谷道】「神宮雑記」には「字浦田山之迫道」。 【死人】「神宮雑記」は「死男」で、「為鳥犬被喰、肉骨分散途中」と詳細を記述。  【挟(「授」か)渡】「叢書本」は「授渡」。 【以後二( )月程】「叢書本」には「以後、経二ヶ月程」。 【亮良比連千上】『二所太神宮例文』「大宮司補任次第」に「第九、高良比連千上<神亀三年三月一日任。在任五年>」。 【川麻呂、弘美「神宮雑記」には「神主川麻呂、御炊内人神主弘美」。 【舂賞】「叢書本」は「眷賞」。「神宮雑記」に「宮司千上・・・可被勧賞(ケンジョウ/恩賞)。」の文言あって、眷賞」で「ケンジョウ」と読ませ、勧賞を意味するか。 【御占両合「神宮雑記」に「神祇官、陰陽寮共卜申既了」。

  

「私見」

豊受神宮に新たな御気殿を立て、二宮の朝夕の御饌を供へ奉る本紀。

 聖武天皇即位の神亀五年正月十日。

 例に依って、豊受神宮より、天照坐皇太神宮の朝の御饌を調備(チョウビ)して、天村雲の孫のささげもたしめて、まいる所に、途中、宇治山の谷道に死人のあるを見ながらサイサンして、天見通命の孫の荒木田の禰宜に授け渡す。

 例にまかせ、且は供奉(グブ)すでにおわりて、以後、二ヶ月ほど経ち、天皇の御薬(みくすり)のことにわかに御坐(おわします)。

重く祟り給うは、件の死穢の由(よし)なり。

よって、宮司の高良比連千上が勘え申すに依って、川麻呂、弘美等に大祓を科す。

宮司、勧賞を蒙り、すでにおわる

同年三月十五日、宣旨ならびに御占のふたつとも合う(神祇官と陰陽寮の占い)ことに依り、新たに御気殿を立てる。

御饌を供へ奉る例となして、太神宮へはささげもち参らず。

(以下省略)

  *大若子命」や「天村雲命」が登場するのは、この所謂「大同本記」からです。これ以降、両宮の祀官達により、神話や伝説が作られていく。

 

文書31添付文書3

「原文」

伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳

皇太神<乃>天磐門閉給<天>隠坐時<仁>、高天原闇<天>、天八百萬神達愁祈。

于時天兒屋根命夢悟<天>称、天香山立<流>於(「彌」か)津加之木枝<乎>曳折<天>、一夜刺坐神<乃>事<爾>随者。

八百萬神達、天安河原<爾>神集々給<天>、件木枝<乎>曳折<天>、各々刺立<支>。

之中国摩大鹿島命二男大狭山命兒天見通命刺生。

此時禰己之(「爾」脱か)己(「之取」脱か)、上枝<爾波>天抜門<加>作<流>八尺鏡懸<介>、中枝<波>天明玉<加>作<流>八尺(「曲」脱か)玉懸<介>、下枝<波>天<乃>香豆比女<加>作<流>真蘇<乃>木綿着<>、荒木田神主等<加>遠祖天見通命、木綿葛<乎>鳥(「為」か)繦、懸>令捧持、忌部遠祖太玉串命、種々幣帛捧<>、天石門前跪坐<天>、天手力男命天石門<乃>左方居<天>、右方天<乃>於須女居<天>、常世国永鳴鳥儲(「令鳴」脱か)、天日影葛<乎>諸命為、大中臣遠祖天兒屋根命神祝詞申<止之良无流爾安哉(「也」か)之加利>給<天>、天石門<乎>開坐<支>。

 于時奉始真坂木<爾>木綿着<天>、号玉串(<>脱)、供奉。

神世禰宜天見通命、天狭山命子也

兒天布多田岐命(<天見通命兒>脱か)、此命、纏向珠城宮御宇天皇(垂仁天皇)御世禰宜。

 自余略之

右、依神祇官仰事、禰宜不絶供奉譜図帳、勘造進上如件、以解。

 延喜七年九月十七日

    大内人正六位上荒木田神主茎安

前禰宜従五位下荒木田神主徳雄

今禰宜従五位下荒木田神主茎角(「貞」か)

(この下の八人の連署省略)

 

「語注」

  *ここでの校合は、「叢書本」、「大系本」の他に「神宮古典籍影印叢刊」(皇學館大学刊)所収の国宝『皇太神宮禰宜譜図帳』の「影印本」を使用し、同書所載の田中卓氏の「校訂本」を参考とします。

【皇太神宮】「叢書本」に「皇」字なし。「影印本」にはあり。 【磐門】いはかど?。『日本書紀』は「磐戸」(いはと)で、『古事記』は「石屋戸」(いはやと)。 【天兒屋根命夢悟<天>称・・・者(てえり)】この用例は公文形式。 【於(「彌」か)】「国宝本」「禰」で「叢書本」は「彌」。 【於(「彌」か)津加之木枝】『日本書紀』は「真坂木」(ま・さかき)で『古事記』は「五百津真賢木」(いほつ・ま・さかき)。これは「真佐」を補い彌津のマサカの木枝」か。しかし、本来なら「ミツの真榊(まさかき)の枝」ではないか。 【曳折】ひきおり。『日本書紀』は「掘」(ネコジニして)。 【】「影印本」は「判」。 【国摩(くにすり)大鹿島命】『尊卑分脈』に「天兒屋根命」より数えて10代後の孫。 【二男大狭山命】『尊卑分脈』では「国摩大鹿島命」の子に「巨狭山命」があり、「天見通命」はその二男か。 【禰己之(「爾」脱か)己(「之取」脱か)】「影印本」では「禰己爾己之取」(ねこじにこじとり)。【古事記】に「根許士爾許士」(ねこじにこじ)。 【天抜門】『日本書紀』に「鏡作遠祖天抜戸」。 【天明玉】『日本書紀』に「玉作遠祖伊弉諾尊兒天明玉」。 【八尺(「曲」脱か)玉】「叢書本」に「曲玉」。 【香豆比女】かづひめ?不詳。情報をお寄せ下さい。 【鳥(「為」か)】「影印本」「為繦」。『日本書紀』に「手繦<手繦。此云多須枳>」。「繦」つな。なわ。 【】ひざまずく。 【於須女】『古語拾遺』に「天鈿女命<古語天乃於須女>」。 【(「令鳴」脱か)】「影印本」に「令鳴」。 【日影葛】ひかげのかずら。「岩波文庫」の西宮一民校注『古語拾遺』の語注に「ひかげのかずら。細長い紐状のつる草で「狐の襷」とも言う」(P22、注七)。 【止之良无流爾安哉(「也」か)之加利】「影印本」で「哉」は「也」。文の前半は意味不明だが、後半部分は「・・・あやしがり」。私案として、文法上問題の問題もありますが、<止与良无流爾安也之加利>で「とよらむるに、あやしがり」ではないか。『古事記』の「天石屋戸」の段に、「高天原動而八百萬神共咲(わらふ)」とあるなかの「動」の読みに、「古事記伝」では、「ゆすり」と言うも「又、登余美弖と訓むも悪からず」と言い、「日本古典文学大系」本では、「とよみ」の訓を施している。「とよむ」の意味は「鳴り響かせる」等。  【(<天見通命兒>脱か)】「影印本」には有り。 【茎角(「貞」か)】「影印本」に「茎貞」で、本文にも「茎貞」。 

  

「私見」

伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳。

皇太神の天磐門を閉じ給いて、隠れ坐す時に、高天原は闇(やみ)にして、天の八百萬の神達、愁い祈る。

時に天兒屋根命、夢に悟りていわく、「天香山に立てる彌津加の木枝を曳き折りて、(それを)一夜、刺して、(そこに)います神のことに随え」と、てえり。

(そこで)八百萬の神達、天の安の河原に神集い、集い給いて、件の木枝を曳き折りて、各々刺し立てき。

この中で、国摩大鹿島命の二男の大狭山命が兒の天見通命の刺すところに(神が)生(あ)れます。

この時、禰己之爾己之取(ねこじにこじと)り、上枝には天の抜門が作る八尺の鏡を懸け、中枝は天の明玉が作る八尺の曲玉を懸け、下枝は天の香豆比女が作る真蘇(まそ)の木綿(ゆふ)を着けて、荒木田神主等が遠祖天見通命、木綿葛(ゆふかずら)をツナとなして(たすきに)けて、ささげ持たしめ、忌部遠祖太玉串命は、種々(くさぐさ)の幣帛を捧げて、天の石門の前に跪(ひざまず)きいまして、天の手力男の命を、天の石門の左方にすえて、右方に天の於須女をすえて、常世(とこよ)の国の永が鳴き鳥を儲け、鳴かしめ、天の日影葛を諸々の命が(かずら(かみかざり))となし、大中臣遠祖天兒屋根命が神の祝詞を申し<トヨラムルニ、アヤシガリ>給いて、天の石門を開けましき。

 時に始めて真坂木(まさかき)に木綿を着て奉りて、(それを)玉串ともうして、供へ奉る。

神世の禰宜天見通命は天の狭山命子なり。

兒の天布多田岐命<天見通命兒>、この命、纏向珠城宮御宇天皇(垂仁天皇)の御世の禰宜なり。

  自余これを略す。

 右、神祇官の仰せ事により、禰宜の絶えずに供え奉る譜図帳、勘え造り進上することくだんのごとし、もって解す。

(以下省略)

  *この「譜図帳」はここ以外に他書に引用されることが殆どなく、そのため「神宮叢書神宮典略二十九-荒木田氏論」でも「度会神主家の偽作」と言われたようですが、本格的研究は昭和十七年の池山聡助氏著「伊勢天照皇大神宮禰宜譜図帳について」(『神道古典の研究』に所収。P98)と言う。現存写本の国宝指定は昭和26年。

  

文書31添付文書4

「原文」

延喜式巻第四<神祇四>

伊勢太神宮

太神宮三座<在度会郡宇治郷五十鈴河上>

天照坐皇太神一座

相殿神二座

祢宜一人<従七位官>。大内人四人。物忌九人<童男一人。童女八人>。父九人。小内人九人。

 自余略之

豊受宮四座<度會郡沼木郷山田原。去太神宮西七里>

豊受太神一座

相殿神三座

禰宜一人<従八位官>。大内人四人。物忌六人。父六人。小内人八人。

 自余略之

延喜式巻第四

 延長四年(926年)十二月廿六日

(以下省略)

 

文書31添付文書5

「原文」

古語拾遺一巻 

蓋聞、上古之世、未有文字、貴賤老少、口々相傳、前言往行、存而不忘。

書契以来、不好談古。

浮華競興、還嗤舊老。遂使人歴世而彌新、事逐代而変改。

顧問故実、靡識根源。

國史、家牒、雖載其由、一二委曲、猶有所遺。

愚臣不言、恐絶無傳。

幸蒙召問、欲[手慮]・蓄憤。故、録舊説、敢以上聞、云爾。

 自余略之

夫尊祖敬宗、禮教所先。故聖皇登極、受終文祖、類于上帝、祀于六宗、望于群神。

 然則天照太神者惟祖惟宗、尊無二。

 自余諸神者、乃子乃臣、孰能敢抗。

 而今神祇官班幣之日、諸神之後、叙伊勢神宮。所遺二也。

  自余略之

  (大同二年二月十三日)

 古語拾遺一巻

 從五位下齋部宿禰廣成 撰

   *「古語拾遺」の注釈は、岩波文庫『古語拾遺』等を御覧下さい。

  

『皇字沙汰文』上巻のおわりに

これにて「群書類従本」の上巻は終わりになります。

『皇字沙汰文』は内外宮の神官達による訴陳でありますので、その意味で、一種の内部告発となっています。この告発の対象史料は、主に「大同年」(平城天皇御宇)以降に、当の神官達によって作られたものであり、その不備を互いに批判し合うことにより各史料の実態が浮かび上がってきます。これが貴重な逸文を遺すと共に、『皇字沙汰文』の歴史的価値と言えましょうか。