「魏志倭人伝」訳注試案―清朝以降の訓詁学で読む 2019.04.17

  

(はじめに)中国人学者による「魏志倭人伝」の訳注は1983年に期せずして二書が出版された。一つは汪向栄著、小泉史郎訳『中国人学者の研究―邪馬台国』(風濤社 19835月)。もう一つは射銘仁著『邪馬台国―中国人はこう読む』(立風書房 198310月)。二氏ともに漢語を母語とする人だと思うが、述べられる見解は、必ずしも同じではない。なぜならば、同じ中国人でも「漢語の古語」を理解するには、古語の文献的根拠が必要であり、採用した根拠の種類や理解に左右されるからである。また読み手側にも何が正しいかの判断能力が問われる。古語に無知のままに現代人の現代感覚(知見の範囲)だけで判断することは危うい。所謂「人の歴史」は、歴史に立ち会った人々の証言として残る文字史料を通してしか知ることができない。おおざっぱに言えば、「歴史探究」は史料の読解から始めて読解に終わるものと思う。そのためには史料の原書を原語で読む必要があろう。それによって各研究者の主張に対して是非の判断能力を持ち得ると思う。

 

  読解手段

 今回ここでは、考証学が盛んになった清朝以降の訓詁学を主要な読解手段として試みたい。訓詁学には、西洋語文法に影響を受けた中国人による初の「文法書」である馬建忠の『馬氏文通』(1898年)以降、新たに「文法学(語法学)」の成果も加わる。「文法学」の論理性は、漢語を母語としない外国人には特にありがたい。日本にも教育の場で「漢文訓読法」があるが、これは主に漢語漢文を基礎にした日本語の文語文を学ぶためのもので、漢人の漢語を理解するためには充分ではない。但し、漢語を漢語で理解して、それを日本語に翻訳するときには重宝するであろう。

 

漢語文の特色は、品詞による語形変化のない「漢字」を使うところにある。漢字だけを取り出してもそれが「実詞(単独で意味をなす)」か「虚詞(単独で意味をなさない)」か、わからない。体言か用言かも同様である。つまり品詞(詞の職分)や語義(詞の意味)が未定である。漢字に品詞や語義を決定づけるのが「文中の位置」(語順)と「前後の関係性」である。これを楊樹達は『高等國文法』の中で、「其詞之職分、全視其所居之位置、而定。」と言う。漢文の基本構造は殷の甲骨文の時代から変わらないと言うが、現代漢語と違う点は、時がたつに連れて変化する音韻・字形・語義の漢字三要素と古文特有の語法(語順)であろう。

  

 凡例

 1) 版本の原文には句読点がないが、私見で句読点をうつ。

 2) 句点(。)をもって「文」の区切りとする。『現代中国語総説(邦題)』(三省堂)では、「文は最大の文法単位である。」(P278)と言う。文法が作用するのはこの「文」の範囲で、「文」と「文」との有機的なつながりは「文脈」となる。

3) テキストは中華書局発行標点付校訂本『三国志』を参考にし、そこにつけられた標点(句読点や文中記号)には必ずしもこだわらない。

 4) 訳文と語注は句点で区切った一文ごとに行い、訳文は、従来のような文語文調の  「読み下し」と「現代語訳」の二つに分けず、英語など他の外国語の訳文と同様に一つで行う。ただし原文の雰囲気は残したい。

 漢語と異なり日本語を日本語として成立させているものは、“て・に・を・は”などの格助詞や副助詞、係り助詞などの助詞類の適切な選択と述語を最後にもってくることであり、これらに注意して訳文を作る。※「かぎりある詞を以てかぎりなき心を顕すは手爾波(てには)なり。」(『手爾波大概抄之抄』)

 日本語に無い概念や音読みで読んだ方がわかりやすいものは、音読する。

  

主な参考図書

<邦文>

 松岡栄志・吉川裕監訳『現代中国語総説(邦題)』(三省堂、2008年)

 沖森卓也・蘇紅編著『日本語と中国語』―日本語ライブラリー(朝倉書店、2014年)

 鳥井克之著『中国語教学文法辞典』(東方書店、2008年)

 鳥井克之著『中国語文法入門』(東方書店、1988年)

 洪誠著、森賀一恵・橋本秀美訳『訓詁学講義』(原題;訓詁学)アルヒーフ、2003

 鮑善淳著、増田英次訳『中国古典入門叢書』(原題;怎様閲読古文)日中出版、1986

 鈴木健一編『漢文のルール』(笠間書院、2018年)

 

<中文>

章錫琛校注『馬氏文通校注』(中華書局、1988年)

楊樹達著『高等國文法』(上海古籍出版社、2007年)

 王力主編『古代漢語』(中華書局、1981年)

 兪樾・楊樹達等撰『古書疑義挙例等七種』(世界書局、1992年)

 孫常叙著『文語文法』(上海古籍出版社、2016年)

 郭在貽著『訓詁学―高等院校教学用書』(中華書局、2005年)

 南開大学中文系語言学教研組編『古代漢語読本』(人民教育出版社、1960年)

 『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館、2012年)

『王力古漢語字典』(中華書局、2017年)

 

 

<原文>1

倭人、在帶方東南大海之中、依山島為國邑。

  

<構文>

主語(倭人)+述語句①(在←帶方東南大海之中)+述語句②(依山島→*國邑)

  ※太字は述語動詞。矢印は修飾関係を示す。「*」は及物動詞(他動詞)の目的語を示す。

  ※「主語とは話し手が陳述する対象、述語(謂語)とは主語に対する陳述。」(現代中国語総説)

 

<訳文>

倭人は、帯方郡の東南の大海の中にいて、山島によって国をつくる。

 

<語注>

 【倭人】:ワジン。倭語の音写ではないので、古代漢人がつけた漢語による呼称。

【帯方郡】:韓國に隣接して後漢末に設置。「建安中(196220年)、公孫康、分屯有縣以南荒地為帶方郡。」(魏志韓伝)。比定地は、京畿道ソウル、又は北朝鮮の黄海北道サリウォン(沙里院)と言われるが不詳。

  【東南】:この「東南」は「正東南」ではなく、八分方位の一つで、それぞれに45度の範囲がある。

【山島】:中州のような「平らな島」ではなく、「山のある島」であろう。

 【為】:つくる。「作、造、為也。」(「爾雅」·釋言)

 【國邑】:国。「國邑」の「邑」も「國也」(説文)で、二字同義の連文。

 

<補足> 方位について

 方位磁石(羅針盤)のない時代の方位は、天文観測(太陽や星の観測)でしか出せない。東西は地球の回転方向であり、南北は地球の地軸方向になる。回転など運動する対象を観測するには、動かない定点観測が原則だが、この動かない点は天動説と地動説では真逆になる。地動説が宇宙の実態であるが、それ以前は天動説であった。この時代の動く対象は恒星である太陽や星であり、太陽の入りと出で「東西」を観測し、星の高度で「南北」の緯度差を知る。視認での観測は、対象が出す光によって行うが、地上にある対象が出す光は反射光で角度を持つ放射光線であるが、太陽や星などの光源からの光は、地球に届く時には角度を無視できる平行光線となる。特に古代はこの光の違いも認識していないので、方位に誤認が現れる。地上の物体は観測者が動けば相対的に動く(遠近変化)が、太陽や星は平行光線のため、観測者と一緒に動く。一日がかりで出した方位も観測者が移動すれば、その方位を見失う。大地が平面と見なせる範囲(約半径45km)を超えた地球規模の移動では、方位についての誤認は大きい。古人が何をどう誤認したかは地球規模の古地図を見れば一目瞭然であろう。「魏志倭人伝」の時代は、まさにこの様な時代である。

 

<原文>2

百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國

 

<構文>

(上文を承けて主語省略)述語句①(舊→百餘國)+述語句②(漢時→←朝見者)+述語句③(今→使譯所通→三十國)

 ※述語句①と③は述語名詞(体言述語文)。②は述語動詞(存在動詞)。

 

<訳文>

(倭人の国は)昔、百余りの国で、漢の時に朝見した者もいたが、現在、使者(魏の勅使)と通訳が至った所は三十国。

 

<語注>

【舊】:「昔(むかし)也」(韻會)。「故(もと)也」(廣韻)

【百餘國】:この情報源は恐らく『漢書・地理志・燕地』。そこに「樂浪海中有倭人、分為百餘國、以時來獻見云。<如淳曰、在帶方東南萬里。>」とある。文末に置かれる「云」には、「表示所述事并不确切、而是传说拟测的状况<(愚訳)述べる事実は正確ではないが、伝聞、あるいは推測であることを示す。>」(『古代漢語虚詞詞典』)の意味合いがある。「如淳」は「如淳、三国曹魏期人」(ネット百度百科)。

【漢時】:西漢(漢)や東漢(後漢)。『漢書』の他に『後漢書』にも「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀・・・光武賜以印綬。」や「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」の記事を載せる。

【有】:「在」と同じく存在動詞だが、「有」の場合は、存在の対象語句が「有」の後に置かれる(目的語や補語の位置)。これは「有」の本義に「他動詞」の性質があるためであろう。日本語の存在動詞は自動詞しかないので翻訳には注意が必要である。

【今】:現在。現在と云う時制は過去と未来との境界線で時間的幅のない時制であり、ここの今は編纂者(晋の陳寿)が利用した情報源を編纂した時の「今」である。「魏志倭人伝」が載る正史『三国志』は、魏時代のいろいろな情報源から取捨選択して作られている。よく知られているのは王沈の『魏書』や魚豢の『魏略』で、二人とも魏の時代の官僚であり、魏朝廷の秘書(公文書等)を閲覧できる立場にあったであろう。

【使譯】:使者(勅使)と通訳。「自前書皆言「使譯」、使即使者,譯則譯人。」(『後漢書』校勘記)。勅使は正始元年(243年)に派遣されている。後文に「伊都國・・・郡使往來常所駐」とある様に、勅命を帯びた勅使でなければ女王国の都まで行くことはできなかったであろう。後文の行程記事や風俗記事は、中国皇帝の権威を帯びた勅使であればこそ得られた情報であろう。

【所通】:至ったところ。「所」には動詞を名詞化する働きがある。「与后面的动词结,构成名构<(愚訳)後の動詞と結合して、名詞構造を構成する。>」(ネット字典「漢典」)。「通」は「通、達(いたる)也」(説文)。

 【三十國】:対馬からの行程上の8国と他の傍らの国の22国。(詳細は後述)

 

 

<原文>3

 從郡至倭:

 

<構文>

「從郡至倭」の四文字は、段落の標題(主題)。

  ※「文中標題:古書中有作者自標之題。其初本與正文分析者也。後経伝写、遂致混淆。読者不之知、遂竟誤認為正文矣。」(楊樹達著『古書疑義挙例続補』)。

 「從郡至倭」の語句は、下文に直接付かない。郡(帯方郡)より倭国までの行程を述べる段落の共通した「主題」となる。このため、この段落の結語は「自郡至女王國萬二千餘里。」となり、最初の「從郡至倭」と対応した語句で結ばれる。ここの「倭」は「女王國」に対応する。後述するが、九州諸国は女王国に従属する国であって「倭国」ではない。『隋書』にも「自竹斯(筑紫)國以東、皆附庸於倭。」と倭国に附庸(付く)と書かれる。

 ※「附於諸侯曰附庸。」(「礼記」王制)。「附庸;附屬於諸侯或大國的小國。」(漢典)

  

<訳文>

 (帯方)郡より倭に至る:

 

 

<原文>4

循海岸水行韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。

  

<構文>

 (主語省略)述語句①([循海岸→水行]←韓國)+挿入句(乍南乍東)+述語句②([到←其北岸狗邪韓國]七千餘里) 全体的には「体言述語文」。

 「循海岸」は自動詞(循)と補語(海岸)で連帯修飾語を成して「水行」を修飾する。さらに「循海岸水行」は連用修飾語を成して「歴←韓國」の述語動詞「歴」を修飾する。「乍南乍東」は情緒的挿入句で、無くとも基本的文意は変わらない。「到其北岸狗邪韓國」は自動詞(到)と補語句(其北岸狗邪韓國)で連体修飾語を成して「七千餘里」(述語名詞)を修飾する。

 ※「補語」は人により定義が異なるが、ここでは後ろから前の語を修飾する語を「補語」とします。

 ※「修飾:〔言語学・文法〕文法で、次にくる語句の上について、その語句の意味をくわしく説明・限定すること。」(国語辞典)

 ※「修飾語(附加語):偏正(主従関係)詞組中起修飾・限制・補充作用成分。」(『古漢語知識詳解字典』中華書局1996年)

  

<訳文>

 沿岸航行で韓国(西岸)を過ぎて(乍南乍東して)、その北岸(韓国南岸)の狗邪韓國に到るまで七千里余り。

  

<語注>

 【循海岸水行】:沿岸航行。狗邪韓國までの移動手段を示す。「水行」は主に河川の船旅だが、ここでは「循海岸」の情報を付加させ「海上の沿岸航行」であることを明示している。「陸行乘車、水行乘船、」(「史記・夏本記」)。 参考:「沿岸航路選定上の注意。①陸岸離隔距離、主要地点航過距離を決定。②沿岸に並行して航行するときは、向岸流や向岸強風に対して警戒。③変針点は、船位確認に有効顕著な岬角・島・航路標識などの物標の正横地点にする。④変針目標は、新針路の方向にこれと並行または並行に近く、近距離で明瞭な目標を選ぶ。⑤避険線はその設定が容易で、明確確実に避険できるものを用意する。⑥変針は大角度を避け、やむおえぬときのほかは、小刻みに変針するように計画する。」(長谷川健二著『地文航法』海文堂、昭和47年版)

【歴】:過ぎる。「歴、過也」(説文)。

 【韓國】:帯方郡に接する朝鮮半島南部の地。正始7年頃に、楽浪郡と帯方郡の二郡の攻撃を受けて滅亡する。韓国滅亡後、この地は三種に分かれる。「韓、在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。(韓)有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。」、「時(帯方)太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅“韓”。」(「魏志倭人伝・韓伝」)

 乍南乍東】:サナンサトウ。漢人当事者の体験的情緒的表現であり、あえて翻訳せずに、このまま音読とした。「乍」は「乍;暫也、初也、忽也、猝也、」(増韻)。「南」と「東」は動詞で「向南(東)移動」(漢典)。 沿岸航行で起きた二方向の不可抗力的急な変化は、恐らく朝鮮半島西岸の強い潮流の変化によるものであろう。『地文航法』に「朝鮮西岸では、(潮流が)海岸と角度をなして流れ、その横圧に対して、針路を修正する必要があり、また潮升が著しく大きいところがあるから注意する。」と言う。この「乍南乍東」をもって「陸行」を主張する研究者もいるが、この情緒的で曖昧な表現で、しかも当事者が証言もしていないことまで安直に想像する主張は不要である。

 【到】:いたる。ほかに「至」が使われているが、「到」と「至」の使い分けは、陳寿が引用したであろう情報源(魏略)がそうなっているのであり、それを書いた本人に聞いてみないとわからない。

【其北岸】:「其」は、文中直近の「韓国」を示す。「北岸」は韓国南岸。南北や東西は、見る人の視点により逆転する。海上から朝鮮半島南岸を見れば、それは北岸となる。

【狗邪韓國】:韓国滅亡後は「弁辰(弁韓)狗邪國」(「魏志倭人伝・韓伝」)となるか。

 【七千餘里】:現実離れした数値である。同時代の如淳も「(倭人)在帶方東南萬里。」(漢書注)というが、これは当時の迷信的俗説であろう。『隋書・東夷傳』の数値情報の方が比較的現実に近い。

 

<補足> 計量制度(里)について

社会で基準を作り、それを社会が守る計量制度は、人類が考え出した重要な発明の一つであり、そこに高度な文明が誕生した証でもある。今日の国際基準は、地球子午線寸法を発祥にしたメート法であるが、古代では主に人体寸法が用いられた。そのため文明は異なるも結果的に「尺」と「フィート」などの基準値は、ともに30センチ程度で似通っている。古代中国の度量衡の「度」は「尺」が基準寸法となり、そこからいろいろな長さや距離の単位が言葉で定義された。その定義は当時の各単位文字の字義に残る。「尺」の実際の長さも各時代の出土標準器(ものさし等)から知ることができる。古代から現代まで徐々に長くなるが、基本的に古代「周」の時代から現在の中国共産党政権まで、約1.3倍程度の差である。

『隋書』の「律暦志・審度」に「漢官尺:比晋前尺一尺三分七毫(1.0307)」、「魏尺:比晋前尺一尺四分七釐(1.047)」、「開皇官尺(隋の鐵尺):一尺二寸(1.2)」などの「周尺」(晋前尺・王莽銅斛尺)からの差異を述べている。ちなみに「王莽銅斛」は伝世品が現存し、その実寸は約23センチと言う。周の戦国時代の「商鞅方升」も同様。

研究者によっては史料に記載される個々の計測値や計算値から基準値を出そうとする風潮もあるが(短里説や長里説など)、これは本末転倒である。その時代の「基準値」によって個々の計測値や計算値の正誤を判定する。現代人には「計量制度」に無知な人が意外と多いが、古代に関する「度量衡」は、江戸時代の天才狩谷棭斎の『本朝度量権衡攷』(活字版;「日本古典全集」昭和二年)で、ほぼ研究し尽くされている。

 

※「周公踐天子之位、以治天下。六年朝諸侯於明堂、制禮、作樂、頒度量、而天下大服。<鄭玄注;踐、猶履也。頒、讀為班。度、謂丈尺高卑廣狹也。量、謂豆區斗斛筐筥所容受。>」(『禮記・明堂位』)

「十毫為一釐、十釐為一分、十分為一寸、十寸為一尺,十尺為一丈、十丈為一引」、「六尺為一歩,二百四十歩為一畝,三百歩為一里。」(『孫子算経』―古代初等数学書)

 ※「周文王在岐、今扶風郡岐山縣。用平土之法、以為治人之道、地著為本、地著謂安土。故建司馬法、六尺為步、步百為畝、畝百為夫・・・」(『通典・食貨』)

 

<原文>5

始度一海、千餘里至對馬國。

 

<構文>

(主語省略)述語句①(始→←一海)+述語句②(千餘里→對馬國)

※動詞の動量としての数量詞は、通常は連用修飾語として動詞の前(文中に置く)。数量詞を強調する場合は文末に置き、体言述語文(体言止め文)を形成する。鮑善淳著『怎様閲読古文』に「動量<動作の数量>を表す数詞(数量詞)は、現代中国語では一般に動詞の後に用いるが、古文では直接(介詞無しで)動詞の前に置く。」(同書翻訳本P136)。「もし、動作行為の数量を強調せねばならないなら、古文では往々にして(中略)動詞の前から文末に移し、全体の述語(述語名詞)に充当する。」(同書P137

※この段落での数量詞の置かれ方を以下に列挙する。(太字が数量詞)

1)「到其北岸狗邪韓國七千餘里」(述語名詞の位置)

2)「千餘里至對馬國。」(連用修飾語の位置)

3)「千餘里(名曰瀚海)至一大國。」(連用修飾語の位置)

4)「千餘里至末盧國。」(連用修飾語の位置)

5)「五百里到伊都國。」(連用修飾語の位置)

6)「至奴國百里。」(述語名詞の位置)

7)「至不彌國百里。」(述語名詞の位置)

8)「至投馬國水行二十日。」(述語名詞の位置)

9)「至邪馬壹國(女王之所都)水行十日、陸行一月。」(述語名詞の位置)

 

<訳文>

始めて一海をわたり、千里余りで対馬国に至る。

※日本語の読み下し文には諸本に乱れが見られる。例えば、岩波新書の石原道博編訳「魏志倭人伝」は「始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る。」と「千余里」を「渡る」に付けている。藤堂明保等著『倭国伝』(講談社学術文庫)では、「(郡より)七千里余里にして、始めて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に至る。」と「千余里」を「至る」に付けながら、前文の述語名詞「七千里余里」をこの文に付けるミスを犯している。「渡る」動作は「至る」で完了するので、確定した動量「千余里」は、「至」に付けた方が適切である。謝銘仁氏は「始めて一海を渡り、千余里にして対馬国に至る。」(「邪馬台国―中国人はこう読む」)と読んでいるが、古漢語語法ではこちらが正しい。

 

<語注>

【度】:わたる。「渡」と通用。「與渡通。」(玉篇)

【一海】:対馬海峡西水道。

 【對馬】:対馬。倭国ではなく、倭人の国(女王国の傍国)。「古事記」では「津嶋(つ・しま)」。「日本書紀」では「対馬嶋(三字で、つしま)」。

  

<原文>6

 其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。

  

<構文>

 主語①(其大官)+述語句①(曰*卑狗)+主語②(副)+述語句②(曰*卑奴母離)

 ※ここから「南北巿糴」まで「対馬国」の官吏・地理・風俗に関して、三つの文で説明している。

  

<訳文>

 其(対馬国)の官吏の長官は、卑狗と言い、副官は、卑奴母離と言う。

  

<語注>

【其大官】:対馬国の官吏組織の長官。詳細は不詳。参考「官:吏、事君(君に仕える)。」(説文)

【卑狗】:ヒク。意味不詳。卑の音は「ヒ」、狗は「ク」。「从犬、句聲。古厚切」(説文)。仮に「狗」を「コ」と読むと、「卑弥呼」の「呼(コ)」との音韻的違いの説明が必要であろう。 もしかしたら漢語の「将率」の「率」に対して、倭人が倭語の「ひく」を宛てたものが漢語で音写されたか。

【曰】:~と言う。「謂也、稱也。」(増韻)。

【卑奴母離】:「ヒナモリ」(夷守か)。

 

<原文>7

所居島、方可四百餘里、土地山險多深林、道路如禽鹿徑。

 

<構文>

{主語①(所居)+述語(絶島)}+{主語②(上文を承けて省略)+述語句(方→可→四百餘里)}+{主語③(土地)+述語句(山險←深林)}+{主語④(道路)+述語句([禽鹿→徑])}

 ※「山險」と「多深林」は、順序を入れ替えても意味変化が起こらない並列の述語句。「山險」は述語名詞で、「多深林」は「多」が述語形容詞となる。日本語では通常は述語を最後に読むため、訳文は「深林が多い」と前後を逆転させる。

 

<訳文>

居る所は孤島、(島は)面積はおおよそ一辺四百余里四方、土地は山險で深林が多く、道路はけものみちのようだ(きちんと整備されていない)。

 

<語注>

 【絶島】:ゼットウ。絶海の孤島。

【方】:ホウ。「方+数量詞」で“土地の面積”を示す。「指土地面積」(漢典)。

【可】:数量詞に付いて「おおよその程度」を示す(推量)。「能;可以 [canmay]」(漢典)

【山險】:サンケン。やまさか。「山勢險要的地方[precipitous mountain areas]」(漢典)

【深林】:シンリン。奥ふかい林。

【道路】:ドウロ。道や路。「供人馬車輛通行的路;兩地之間的通道。」(漢典)

【如】:~のようだ。~に似ている。「好像, 如同 [likeas if]」(漢典)

【禽鹿】:キンロク。二字で“けもの”。「二足而羽謂之禽,四足而毛謂之獸。」(爾雅・釋鳥)。「禽,鳥獸總名」(白虎通)。「吾有一術,名五禽之戯。一曰虎、二曰鹿、三曰熊、四曰猿、五曰鳥。」(三國志・華陀傳)

【徑】:ケイ。みち(小道)。

 

<補足> 面積表記について

面積の表記は古今東西とも抽象的“真の正方形”を基準にする。メートル法の面積単位は「㎡」(平方メートル)だが、これは<1m×1m=1㎡>の事で、一1mの正方形が基準となっている。例えば3.3㎡とは、<3.3×1㎡>の事で、一辺1mの正方形が3.3個あると言うことである。面積が表す数値は抽象的な数値であり、大きさ(広さ)だけを言い、対象の実際の“形状”は表さない(不動産取引では土地面積だけで購入してはいけない)。古代中国の「方+数量詞」での面積表記も同じである。対象の面積から平方根を求め、それを一辺の長さとする正方形として表す(「長方形」は2辺の長さが異なるが、正方形は一辺の長さで面積が定まる便利な図形である)。このため「平方根」を出す「開方術」は古代中国数学書に載る。

 ※「『九章算術』<少廣_12>:今有積(面積)五萬五千二百二十五步。 問、為“方”幾何? 答曰:二百三十五步。」

 ※「『孫子算術』<巻中>:今有積(面積)二十三萬四千五百六十七步。 問、為“方”幾何? 答曰:四百八十四步九百六十八分步之三百一十一。」

 ※「今秦地、折長補短、方數千里」(『韓非子』第一篇 初見秦)。この例も面積を合算し、そこから概略の平方根を求め、それを一辺とする一つの正方形(方數千里)で示している。『孟子・滕文公上』の「今、滕(国)、長補短、將(方)五十里也。」も同様である。

 

 

<原文>8

 有千餘無良田、食海物自活、乗船南北巿

  

<構文>

 {(主語①省略)述語句(*千餘)}+{(主語②省略)述語句①(*良田)+述語句②([*海物]自活+術語句③([乗←船]→南北→[市→])}

 ※日本語の「なし/ない」は主に「無い」状態を表す形容詞だが、漢語では「有」にたいする対語“動詞”でもある。

  

<訳文>

 (対馬国には)千戸余りの人家があるが、(国人は)良田を持たず、(主に)海産物を食べて自給自足するが、(時に)船に乗って南北へ行き市場で米を買う

  ※『邪馬台国―中国人はこう読む』の著者、謝銘仁氏の現代語訳は、主観的書き足しが多すぎる。

 ※「乗船南北巿糴」から韓国南部との交流がうかがえる。

  

<語注>

 :人家を数える助数詞。「量詞。計算住家數量的單位。如:“一人家”」(漢典)

 【無】:持たない(有の対語)。「没有。跟“有”相 [not havethere is not]」(漢典)

 【自活】ジカツ。自給自足。

 糴】:テキ(ジャク)。穀物(米)を買う。「臧孫辰告糴于齊。<疏;買穀曰“糴”>」(左傳・莊二十八年)

 

 

<原文>9

又南渡一海、千餘里(名曰瀚海)至一支國。(原文)

又南渡一海(名曰瀚海)、千餘里至一支國。(修訂文)

 ※「名曰瀚海」は明らかに「一海」に対する自注であり、「千餘里」に対するものではない。原文の自注の位置に疑義があり、「自注」を「一海」のすぐ後に修訂したが、文意には影響ない。

 

<構文>

(主語省略)述語句①(又→南→←一海)+自注句(名曰瀚海)+述語句②(千餘里→←一支國)

 ※この文には、情報源の編纂者(魏の王沈か)による自注句が挿入されている。

 ※楊樹達著『古書疑義挙例続補・十四文中自注例』に「古人行文、中有自注、不善読書者、疑其文気不貫、而実非也。」と言う。これは洪誠著『訓詁学』にも引用され、その翻訳本『訓詁学講義』(アルヒーフ)では「古文では、文章の本文中に自注がある場合があり、読書の能力の劣る者は、文勢がつながらないと怪しむことになるが、実はそうではない。」と翻訳される

 

<訳文>

また南に進んで一海を渡り((一海の)名は瀚海と言う)、千里余りで壱岐国に至る。

 

<語注>

【又】:また。「又;猶更也。」(廣韻)。「又;復、再 [again]」(漢典)

【南】:動詞。南に向けて進む。

【一海】:対馬海峡東水道。

瀚海】:カンカイ。今の“渤海(ボッカイ)”を指すか。「瀚海;“北海”」(廣韻)。「北海」とは「渤海;亦稱為“北海”。」(漢典)と言い、「北海;春秋戦国時又或指“渤海”。」(『辞海』1979年版)とも言う。一般的に“瀚海”とはモンゴルの砂漠やバイカル湖をも指すと言うが、これらは除外した方が良い。

 【一支國】:壱岐国。倭人の国(女王国の傍国)。魏志の宋版以降の版本は全て「一大」だが、「魏略」や「梁書」、「北史」は「一支」であり、日本側文献とも校合すれば「一支」であろう。『古事記』では「伊伎(いき)嶋」と書かれ、『日本書紀』では「壹岐嶋」と書かれる。

 

 <原文>10

亦曰卑狗、副曰卑奴母離。

 

<構文>

主語①(官)+述語句①(亦→←卑狗)+主語②(副)+述語句②(←卑奴母離)

 ※「官」は前文を承けて「大」を省略されている。以後同様。

 

<訳文>

 (壱岐国の)長官は、(対馬国と同じく)また卑狗と言い、副官は、卑奴母離と言う。

  

<語注>

【亦】:また。「也是 [also]、又 [again]」(漢典)

  

<原文>11

 方可三百里、多竹木叢林。

  

<構文>

 (主語省略)述語句①(方→可→三百里)+述語句②([竹・木→叢林]

  

<訳文>

 (壱岐国は)面積はおおよそ一辺三百里四方で、竹や木の叢林が多い。

  

<語注>

 【竹】:「竹;冬生草也。」(説文)

 【木】:「冒地而生」(説文)

 【叢林】:ソウリン。「叢林;樹林[jungle]」(漢典)

  

<原文>12

 三千許家、差有田地、耕田、猶不足食、亦南北巿糴。

  

<構文>

 {(主語①省略)述語句①([三千許→家])}+{(主語②省略)述語句①(差→←田地)+述語②(*田)+述語句③(亦→南北→[市→])}

  ※「亦南北巿糴」で、前文を承け、「乗船」の語句が省略されている。

  

<訳文>

 (壱岐国には)三千(戸)ばかりの人家があり、(国人は)やや田地をもち、田を耕すが、なお食料に足らず、(対馬国と同じく)また(船に乗って)南北へ行き市場で米を買う。

  ※「対馬国」と同様に「南北巿糴」から韓国南部との交流がうかがえる。

  

<語注>

 【許】:「数詞+許」で、~ばかり。「“許”用于数詞後、構成表約数的数詞短語、其後可帯名詞或量詞。」(『古代漢語虚詞詞典』)

【家】:「数詞+家」で人家を数える量詞(助数詞)。「用來計算家庭或企業的多少。如:三家商店;兩家人家」(漢典)

 【差】:用言などの前について「やや」。「差;用于動詞或形容詞前、表示具有一定程度。可譯“稍”・“略”・“比較”・“大致”等」(『古代漢語虚詞詞典』)

 【猶】:副詞。なお。それでもまだ。「;仍然 [stillyet]。」(漢典)

 【不】:副詞。下のことばを打ち消す否定詞。「用在动词、形容或个,表示否定 [notno]」(漢典)

 

<原文>13

又渡一海、千餘里至末盧國。

 

<構文>

(主語省略)述語句①(又→[一海])+述語句②(千餘里→末盧國)

 

<訳文>

さらにまた一海を渡り、千里余りで末盧国に至る。

末盧国には官吏についての記載は無い。(恐らく、港での出迎えには、伊都国に役所を置く「一大率」(後述する)が来ていて、彼らによって次の伊都国まで引率されたのであろう。)

 

<語注>

【末盧國】:倭人の国(女王国の傍国)。現在の佐賀県唐津市“松浦”川河口域か。『古事記』に「到筑紫“末羅”縣之玉嶋里」(仲哀天皇記)。『日本書紀』に「到火前(肥前)国“松浦(まつら)”縣」(神功皇后摂政前紀)。『万葉集』に「“麻都良”我多(松浦潟)  佐欲比賣能故何(さほ姫の子が)  比列布利斯(領巾振りし)・・・」(868)。

 

<原文>14

 有四千餘戸、濱山海居。

 

<構文>

(主語①省略)述語句(←四千餘戸)+(主語②省略)述語句([濱←山海]

 

<訳文>

(壱岐国には)四千戸余りがあり、(国人は)山や海に寄って住む。

 

<語注>

【濱(ヒン)】:寄る(動詞)。「靠近;臨近 [border onbe close to]」(漢典)

 

<原文>15

草木茂盛、行不見前人。

 

<構文>

主語①(草木)+述語(茂盛)+主語②(行)+述語句(不→*前人)

「行不見前人」は「行(道)」を擬人化して主語の位置に置き、「見」を他動詞にし、人に働きかける使役文として、「不見」は不可抗力的状況であったことを示す。この他動詞「見」は二重目的語を持つが、中心的目的語である「前人」だけ記載され、それとわかる「人(後人)」は省略されている。

 ※「使役とは他動詞なのである。他動詞は目的語に対して常に影響力を行使している。もしも目的語に意志があっても、それを無視して、好きなように目的語を動かすのが他動詞である」(中野清著『中野式漢文なるほど上達法』ライオン社、P112

 ※「外動詞(他動詞)之致動(使役)用法。 凡外動詞(他動詞)対於其賓語(目的語)有「使然」或“致然”之意者、 謂之外動詞(他動詞)之致動用法。」(楊樹達著『高等国文法』)

※「“使然”:致使變成這樣<このように変成させる>。 如:「他之所以誤入歧途,主要是不良的環境使然。」(漢典)

 

 <訳文>

草木がしげり、路(みち)は(後人に)前人を見せない。

「不見前人」とは、対馬国の様に道が未整備によるものではなく、道は整備されていても“直道”ではなく、曲道で、さらに道ばたに葦が生い茂っていたためと思われる。日本の国号は「葦原中国(あしはらなかつくに)」や「豊葦原」、「葦原国」とも言われるように、多くのところで葦原が広がっていたのが当時の特徴的風景であろう。

 

<語注>

【茂盛(モセイ)】:しげる。二字同義の連文。

【行】:「行;路也」(增韻)。「行;同本 [road]」(漢典)。

 

<原文>16

好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒、取之。

 

<構文>

(主語省略)述語句①([好→]*魚鰒)+述語句②([水→←深淺]→皆→沈沒)+述語③*之)

 

<訳文>

(国人は)魚や鮑をたやすく捕り、水の深い所や浅い所にかかわらず、どこでも水中に沈んで(潜って)、取る。

※「水無深淺」は、直訳的には「水に深浅(シンセン)が無い」となるが、日本語的にはわかりにくい。

 

<語注>

【好】:たやすく。簡単に。「便于[be easy to]」(漢典)

 ※佐伯有清氏は『魏志倭人伝を読む上』で、ここの「好」を「好む」と読んでいるが、「捕魚鰒は生業であり、レジャーの様に“好み”で行っているわけではなかろう。また漢語語法(文法)的に言えば、「好」を「好む」と他動詞的に読むと、「好」の直後の“語”は主に名詞となるが、原文は「捕」と言う他動詞である。逆に動詞ならその直前の“語”は、主に動詞を修飾する副詞か副詞的な修飾をする形容詞となる。文法的にも佐伯氏の読みは正しくないであろう。

 

【鰒(フク)】:あわび(鮑)。「鳆鱼 [abalone]。又名鲍鱼」(漢典)

【皆】:みな。「皆;代名副詞」(楊樹達著『詞詮』)。「皆;同本義 [allevery]」(漢典)。

 【沈没(チンボツ)】:沈む。二字同義の連文。

 

<補足> 古漢語の品詞分類

漢語の語(詞)の大別は「実詞」と「虚詞」の二つとなり、さらにそれらの細分は人により分け方が異なるが、「高等学校教学用書『古代漢語読本』南開大学中文語言学教研組編著1960年」では次のように分ける。

<実詞>(有実際意義的詞叫実詞)―主に述語になれる。

名詞。動詞。形容詞。

<虚詞>(没有実際意義、只起語法作用的詞叫虚詞)―主に述語になれない。

代詞(代名詞)。副詞。介詞(前置詞)。連詞(接続詞)。助詞。語気詞。嘆詞。

 ※代詞(代名詞)は「実詞」に分類される事が多い。

 

<原文>17

東南陸行五百里到伊都國。

 

<構文>

(主語省略)述語句([東南→陸行→五百里]←伊都國)

 ※「東南陸行五百里」は述語動詞「到」に「方位・移動手段・距離」を付加する連用修飾語。

 ※「伊都国」は「到」の補語。

 

<訳文>

東南への陸行の五百里で伊都国にいたる。

 

<語注>

【伊都国】:倭人の国(女王国の傍国)。現在の福岡県糸島市三雲周辺か。『古事記』に「筑紫国之“伊斗”村」(仲哀天皇記)。『日本書紀』に「筑紫“伊覩(いと)”縣主」(仲哀天皇紀)。

 ※末盧国から伊都国へは「東南」と言っているが、現代地図から言えば「北東」に近い。ここで既に方位角に約90°の間違いを犯している(角度のミスは、先行くほど大きな距離のミスに発展する)。大きく間違った方位角による距離情報には、地理的価値は無い。方位は一日がかりの天文観測で出す必要があるが、恐らく魏の勅使たちは、ここでほぼ地理的方位や距離の実測をあきらめたのであろう。

距離に関しても末盧国(松浦川河口付近)から伊都国(三雲付近)までの地図上の直線距離は約26km。「五百里(500里)」をメートル換算すると(<原文>4の「<補足> 計量制度(里)について」を参照)、

<魏尺;0.23m/尺×1.0470.24m/尺、500里;0.24m/尺×1800/里×500里÷1000m/km216km

となり、実際の直線距離約26kmに、道のりの補正を加算しても216km500里)には遠く及ばない。これによって「五百里」は実測値で無い事が明白である。

彼ら魏の勅使たちは、帯方郡からの船行距離に「如淳曰、(倭人)在帶方東南萬里。」の様な伝説的通俗情報を使い、上陸し陸行に移っても現実的な地理情報を見失ったままだったのである。

 

<補足> 指南車(司南車)と記里車(大章車、記里鼓車)

「指南車」とは、方位磁石(羅針盤)の無い時代、移動しても方位を見失わないために作られた機械的方位機である。これは最初に指針を南に設定すれば、以後車輪と連動した歯車仕立てによって移動の相対角度から指針が常に南を指すように作られた。

※「指南車;古代用來指示方向的車。車上裝有一木頭人,藉由一套齒輪系統轉動,使得車無論轉向何方,木頭人的手永遠指著南方。相傳為黃帝所作。或稱為“司南車”。」(漢典)

「記里車」とは、「指南車」同様に車輪と連動した歯車仕立てで、距離が測れるように作られた。

 ※「“大章車”、所以識道里也。起於西京、亦曰“記里車”。車上為二層、皆有木人、行一里、下層撃鼓、行十里、上層撃鐲。」(太傅崔豹撰『古今注』)。

『孫子算経』にも、記里車に関連する問題が次のように載る。「有長安、洛陽相去九百里。車輪一匝(回転)一丈八尺。欲自洛陽至長安。 問、輪匝(回転)幾何?  答曰:九萬匝(回転)。 術曰:置九百里,以三百步乘之,得二十七萬步。又以六尺乘之,得一百六十二萬尺。以車輪一丈八尺為法。除之,即得。」(下巻)。

 しかし、これらの測定機には大きな欠点が二つある。一つは船上で使えない事。もう一つは、車輪が接する路面状態による誤差が大きい事。伊能忠敬も同様な測定機である「量程車」を所持していたが、実際には殆ど使わなかったと言う(大谷亮吉編著『伊能忠敬』名著刊行会P290)。

距離だけを測るには「歩測」などもあるが、これも船上では使えないし、そもそも大きく方位を見失った距離情報には、地理的価値は無い。対象の地理的位置を示す座標は、“緯度と経度”の「X-Y座標」か“方位角と直線距離”の「極座標」のどちらかであるが、実測段階では主に後者であろう。

 

<原文>18

官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。

 

<構文>

{主語①(官)+述語句(*爾支)}+{主語②(副)+述語句(*泄謨觚・柄渠觚)}

 

<訳文>

長官を爾支と言い、副官は泄謨觚と柄渠觚と言う。

※次官が2名体制であることから、比較的に官吏組織が大きい。

 

<語注>

【爾支】:「ニギ」で「掌握」の「握(にぎ・る)」の意か。不詳。記紀神話の皇孫に「ニ“ニギ”ノミコト」の名に使われている。

【泄謨觚・柄渠觚】:不明。

 

 

<原文>19

 有千餘世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐

  

<構文>

 (主語省略)述語句①(←千餘)+述語句②(世→←王)+述語句③(皆→統屬←女王國)+述語句④([郡使→往來]→常→所駐。)

 

<訳文>

 (伊都国は)千戸(万戸)余りの人家があり、代々王がいるが、どの代の王も女王国に従属し、郡使往来の常(つね)の所駐(滞在地)である。

 ※便宜的に漢人は「女王国」と、時の王の性別で呼称しているが、後述にあるように、本来は「男王の国」である。中国の伝説上の「女国」と区別する必要がある。

 ※「郡使往來常所駐(郡使往来の常の滞在地)」と言うことは、“勅使”以外はこれより先に行けないと言うことでもあろう。

 

<語注> 

 【千餘】:『翰苑』の引く『魏略』では「伊都国」は「戸万餘」とあり、副官が二名いることからも「万餘戸」が正しいであろう。

 【世】:代々(よよ)。「世;世世(代代)」(漢典)

 【統屬(トウゾク)】:従属する。「统辖和隶属[subordination]」(漢典)

【常】:(形容詞)常の。普段の。「常:恒久;長久不変 [constantfixedinvariable]」(漢典)

 

【所駐(ショチュウ)】:とどまる所(滞在地)。「駐」は、とどまる。「駐;停留;止住 [stayhalt]」(漢典)。「所」は後の動詞を名詞化する。 ※「蓋「所」下加動詞、與名詞同、此馬氏之説也。」(楊樹達著『馬氏文通刊誤』)

  

<原文>20

 東南至奴國百里

 

<構文>

 (主語省略)述語句([東南→至←奴國]百里

  名詞「百里」が述語の体言述語文。

 

<訳文>

 東南へ向けて進み奴国に至るまで百里。

  

【奴国】:倭人の国(女王国の傍国)。現在の福岡県博多区及び春日市周辺か。近くに那珂(なか)川が流れ、春日市に“須玖岡本遺跡”がある。『日本書記』に「到儺縣(なのあがた)、因以居橿日宮(かしひのみや)」(仲哀天皇紀八年正月)。

 【百里】:糸島市三雲(伊都国)付近から春日市須玖岡本(奴国)までの地図上の直線距離は約19kmで、魏の時代の里数に換算すれば約44里。方位は「東南」と言うが実際には、ほぼ「東」。

  

<原文>21

官曰兕馬觚、副曰卑奴母離

  

<構文>

 {主語①(官)+述語句(*兕馬觚)}+{主語②(副)+述語句(*卑奴母離)}

  

<訳文>

 長官は兕馬觚と言い、副官は卑奴母離(ヒナモリ)と言う。

  

<語注>

 【兕馬觚】:不明。

  

<原文>22

 有二萬餘

  

<構文>

(主語省略)述語句(←二萬餘

  

<訳文>

 (奴国には)二万戸余りの人家がある。

 

 <原文>23

東行至不彌國百里

 

<構文>

(主語省略)述語([東行→至←不彌國]百里

※名詞「百里」が述語の体言述語文。

 

<訳文>

東へ向けて進み不彌国に至るまで百里。

  ※「東」など方位の言葉には、「向く」と「進む(行く)」の二つの意味を包含するので、恐らく「東行」の「行」は転写時の衍字であろう(当該段落で他には無い)。

 ※この不彌国からまた船に乗って進むことになる。一行の荷物は後述する「一大率」が別便で運び、郡からの多くの随行員(警備兵や船員、人夫)は、乗ってきた魏船や伊都国に留まり、少数の勅使等と通訳(譯者)だけが倭船に乗って進んだか。

 

<語注>

不彌(フミ)】:「うみ(宇美)」か。倭人の国(女王国の傍国)。現在の福岡県糟屋郡の“宇美川”流域か。『古事記』に「渡筑紫国、其御子者阿禮坐、故号其御子生地謂“宇美”。」(仲哀天皇記)。本居宣長の『古事記伝』に「さて今も、筑前国糟屋郡に宇瀰(うみ)村ありて、宇瀰神社もあり」。『日本書紀』に「生誉田天皇(応神天皇)於筑紫、故時人号其産處曰“宇瀰(うみ)”」(神功皇后摂政前紀)。

【百里】:参考;福岡県春日市役所付近(奴国)から同県糟屋郡宇美町役場付近(不彌)まで直線距離で約10.0km(魏尺で約23里)。方位は「東」より約90°ずれた「北」に近い。

 

 ※上陸後の推定地間の方位には、殆ど90°近いずれがある。俗に「中国人は方位を間違えない」と言われるが、これは根拠無い俗説である。方位に関心が高い中国人でも指南車や羅針盤(方位磁石)を持たずに、見知らぬ土地を移動すれば、富士の樹海に紛れ込んだ様に、間違えるのである。

 

<原文>24

官曰多模、副曰卑奴母離。

 

<構文>

{主語①(官)+述語句(*多模)}+{主語②(副)+述語句(*卑奴母離)}

 

<訳文>

長官は多模と言い、副官は卑奴母離(ヒナモリ)と言う。

 

<語注>

【多模】:不明。「とも(伴)」か。

 

<原文>25

有千餘家。

 

<構文>

(主語省略)述語句(←千餘

 

<訳文>

 (不彌国には)千戸余りの人家がある。

 

<原文>26

南至投馬國水行二十日

 

<構文>

(主語省略)述語句([南→至←投馬國]→水行→二十日

名詞「二十日」が述語の体言述語文。

 

<訳文>

南へ向けて進み投馬国に至るまで二十日。

 ※ここからは、方位だけでなく、距離の実測も完全にあきらめている。「二十日」とは、不彌国から投馬国に至るまでに要した時間である。「距離」と「時間」は別な次元となる。

 距離と時間の関係は:<距離=時間×速度>であり、速度(待ち時間を含む平均速度)が不明なら距離も不明となり、ここで、地理的情報は殆ど価値を失う。通い慣れた地域なら不明を補う方法もあろうが、不慣れな土地では適切な距離を推定することは不可能となる。実測で必要な地理情報は方位角と直線距離である。この二つにより極座標が得られ、緯度と経度のX-Y座標も得られる。

 本来なら部分的な極座標(方位角と直線距離)の“集積”で、基点としての帯方郡より女王国(倭国)までの大まかな最終的極座標(方位と直線距離)が得られる(測量術では、“集積”と言っても単純な加算ではない事に注意が必要である)。

 

<語注>

【投馬国】:不明。倭人の国。この国から副官の名称から「ヒナモリ(夷守)」がなくなるので、だいぶ女王国に近づいたと思える。

 

<語注>

【投馬国】:不明。倭人の国(女王国の傍国)。この国から副官の名称から「ヒナモリ(夷守)」がなくなるので、だいぶ女王国に近づいたと思える。

 

<原文>27

官曰彌彌、副曰彌彌那利。

 

<構文>

{主語①(官)+述語句(*彌彌)}+{主語②(副)+述語句(*彌彌那利)}

 

<訳文>

長官は彌彌と言い、副官は彌彌那利と言う。

 

<語注>

【彌彌(ミミ)】:不明。

【彌彌那利(ミミナリ)】:不明。

 

<原文>28

可五萬餘

 ※今まで「有+戸数」など「有」が述語動詞に使われていたが、ここには無い。述語動詞が無く「可が使われているが、文法的にも「可」は「有」の誤字であろう(誤字として扱う)。

 

<構文>

(主語省略)述語句(←五萬餘

 

<訳文>

(投馬国には)五万戸余りの人家が“ある”。

 

<原文>29

南至邪馬壹國(女王之所都)水行十日、陸行一月。

 ※「邪馬壹」の「壹」は「臺」の誤字として扱う。宋の版本以降の『三国志』「魏志倭人伝」は全て「壹」だが、唐以前編纂本類の目撃証言としての引用文は全て「臺」である(『後漢書』、『梁書』、『隋書』、『北史』、『翰苑』等)。これは、宋の版本以降の『三国志』が、一つの版本を“親本”とする兄弟関係の版本類であることを示す。

 

<構文>

(主語省略)述語句([南→至←(邪馬臺國+自注(女王之所都))][水行十日、陸行一月]。)

※名詞「水行十日、陸行一月」が述語の体言述語文。

 

<訳文>

南へ向いて進み邪馬臺国(女王の都を建てる所)に至るまで水行十日と陸行一月。

 

<語注>

【邪馬臺】:やまと。女王が都をおく国(倭国内の国)。奈良県巻向遺跡周辺。『古事記』で「倭」、「夜麻登」。『日本書紀』で「倭」、「日本」、「日本、此云耶麻騰。下皆效此」(神代上紀)。“倭”の初代国造は珍彦(うづひこ)。「以珍彦為“倭国造”」(神武天皇紀即位二年)。

 ※「邪馬臺」の位置は、「魏志倭人伝」だけではわかりづらいが、「魏」の勅使の次に来訪した「隋」の勅使(裴世清等)により確認されている。「倭國・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」(『隋書』倭国伝)。日本側史料でも彼らが来たことは記録にのこる。「歳次戊辰(推古十六年)、大隨國使主鴻艫寺掌客“裴世清”、使副尚書祠部主事遍光高等來奉」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)。邪馬台国論争で邪馬台の位置論争は無益な論争と言える。

【女王】:卑弥呼(ヒミコ)。『古事記』で「夜麻登登母母曽毘賣命」。『日本書紀』で「倭迹迹日百襲姫命」。つまり、「魏志倭人伝」が云う「径百余歩」規模で、築造年代も合う「箸墓」に埋葬された人物が卑弥呼であろう。

【所都】:「都」は動詞。動詞の場合は、一字で「都」と「建てる」の二義をもつ。「都;建都 [found a capital]」(漢典)。「所」を前置させ「都」(動詞)を名詞化している。

【水行十日、陸行一月】:船で十日と陸で一ヶ月。俗説にあるような船か陸かの選択構文では無い。ここも時間表記であり、時間は距離と次元が異なる。

  ※隋の勅使たちの場合は、『日本書紀』に依ると、「倭国」に到達後(難波津;615日)、都に至るまで(83日)一ヶ月半程度経過している。ちなみに、この時の「倭国」は、後に令制の中央集権国家体制で「畿内」と呼ばれる領域であろう。明代中国の兵法書『武備志』に載る日本地図には、「畿内」は周囲を海とする島国として描かれている。(下図参照)

 

 

<補足> 倭人と国

 漢人、韓人、倭人と民族分けする言葉が古代漢語文献より見られるが、東アジアの人々は、等しくモンゴロイドであり、容姿からでは見分けがつきにくい(当然ながら遺伝子検査などはない)。民族の分け方は、主に“出自”と“母語”であろう。“出自”は、母子関係は明瞭だが、父子関係は、母親となる女性の「あなたの子よ」と言う“自己申告”で決まる。“母語”とは、生まれ育った社会の言語である。だから曖昧な自己申告を除けば、「漢人」とは、生まれてから漢人社会で漢語を習得した人々の集まりと言える。「倭人」も同じように「倭語」を母語とした集団であろう。「言語」は人の心から生まれ、声となって言語となる。言語は「声の意味(語義)」と「発する順序(語法)」を共有して初めて他者に通じる。言語とは民族の精神性(感受性)をも共有した共有財産でもある。恐らく倭語の基礎は、日本列島で約1万年にわたり広く文化を共有した縄文時代にさかのぼるであろう。

一方、「国」とは、倭人社会での政治的区分である。倭人同士でも「おらがクニ」と「クニ」を異にする。細分化された狭い「クニ」意識が、広い「国」意識にまとまるには、多くの時間が必要であったであろう。大小の国々が生まれ、成長しつつあった時期が、将に「魏志倭人伝」の倭人世界である。

 

 

<原文>30

官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。

  ※「官“有”伊支馬」の「有」は、「曰」の誤字であろう。ここまでの文も、この文も「官」の名称について「・・・と言う」と述べる文であり、「官」の有無を言う文では無い。ここでは「有」を「曰」の誤字として扱う。

  

<構文>

 {主語①(官)+述語句(*伊支馬)}+{主語②(次)+述語句(*彌馬升)}+{主語③(次)+述語句(*彌馬獲支)}+{主語④(次)+述語句(*奴佳鞮)}

  

<訳文>

 長官は伊支馬と言い、次官は彌馬升と言い、その次官は彌馬獲支と言い、その次官は奴佳鞮と言う。

  ※次官は並列では無く、直列として読んだ。

 

 <語注>

【伊支馬】:不明。

 【次】:つぎ。次官。

 【彌馬升】:不明。

 【彌馬獲支】:不明。

 【奴佳鞮】:不明。

  

<原文>31

 可七萬餘

 ※ここの「可」も「有」の誤字であろう。「可」の基本的意味は「許可」の「可」と「可能」(推量)の「可」である。後者であれば、記録者の個人的推量(主観的推測)となるが、今までの「人家の戸数」の概数は、「数詞+余」で言ってきたが、ここだけ述語動詞の「有」に変えて「可」を使い、ニュアンスを異質にさせる必然性は無いと思われる。よって、ここでは「可」は「有」の誤字として扱う。

 

<構文>

 (主語省略)述語句(←七萬餘

  

<訳文>

 (邪馬臺国には)七万戸余りの人家が“ある”。

  

<原文>32

 自女王國以北其數道里、可得略載、其餘旁國遠、不可得詳

  ※この文には、推量を示す「可」が、二カ所使われており、この視点は、実見した勅使達の視点ではなく、文字で残されたその一次情報を見た人の視点で書かれている。つまり、勅使達の成果を評価する側の視点と言うことである。

  

<構文>

{主語句①(自女王國以北→數・道里)+述語句(可→*略載)}+{主語句②(其餘→旁國)+述語句①()+述語句②(不可→)}。

 「其數道里」の「其」は、これまでの行程で通ってきた国々をさす。

 「得」が二カ所使われているが、最初の「得」は動詞、次の「得」は助動詞。

 

<訳文>

女王国より北の(通って来た)国々の戸数や道里は、略載を得られたのであろうが、そのほかの周辺国は、遠すぎて、(戸数や道里を)明らかにすることが出来なかったのであろう。(だから、その他の周辺国情報は、国名だけである。)

  ※謝銘仁氏は『邪馬台国・中国人はこう読む』で、伊都国からの行程記事を放射式で読み取る榎木一雄氏の説を「放射式の読み方は珍訳」と批判したが、もっともな事である。榎木氏の様に放射読みすれば、それらの国々は道程から外れた傍国となるが、漢語原文では、戸数や道里が書かれた国々を傍国扱いにしていない。榎木氏の説は、漢語漢文が読めない人から支持された、読めない人の珍説と言える。これも無益な論争の一つである。

  

<語注>

 【自】:より。「{前置詞}より。場所や時の起点を示すことば。」(学研「漢和大字典」)

 【道里(ドウリ)】:道程(方位や距離)。みちのり。

 【略載(リャクサイ)】:要点記録。「略;要也。」(博雅)。「載;記載。 [recordput down in writing]」(漢典)

 【其餘】。其余。そのほか。「其」とは行程上既にいたった女王国の傍国を指す(対馬国~投馬國の計七カ国)。

 傍(ボウ)】:「傍」の倭訓は「かたわら」(学研「漢和大字典」)。 『日本書紀』の垂仁天皇紀で「傍國」に「かたくに」と倭訓を載せる。

 

 【遠絶(エンゼツ)】:二字で「遠すぎる」。

 【可】:推量的可能性。(・・・だろう)。「可:能;可以 [canmay]」(漢典)。漢語「可」に対する倭訓に「べし」があるが、この「べし」の意味の一つは、「べし:推量の意を表す。・・・だろう。・・・に違いない。」(小学館「古語大辞典」)。

 【得】:①目的語をもつ動詞では、獲得の「得る」。得;獲也。」(玉篇)。②動詞の前に付く助動詞では「・・・できる」。「「得;助動詞。能, [can]」(漢典)

 【不可】:上記「可」の否定的推量。倭訓に「ましじ」。「〔打消の推量〕…ないだろう。…まい。」(学研「古語辞典」)。「・・・百代尓母  “不可(ましじ)”易  大宮處」(万葉集・1053)。

 【詳】:明らかにする。倭訓は「つまびらかにする」(学研「漢和大字典」)。「審也、論也、諟也。」(玉篇)

 

<原文>33

次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。

 

<構文>

{(主語省略①)述語句①(次→←斯馬國)・・・+述語句㉑(次→奴國)}+{主語②(此)+述語句(女王→境界→所盡)} 

 ※「所盡」が中心の述語となる体言述語文。

 ※ここは、上文の「其餘旁國」を受けて傍国を列挙したものであろう。「次」から始まっているが、最初の国が欠落している。そもそもこれらの国は、国名だけで、その戸数や道里が不明な国である。元情報には「次有」の文字が無く、「魏志韓伝」の様に国名だけが列挙されていたものと思える。よって順序は地理的や政治的なものではなく、単に情報源に書いてある国名を編纂者が“見た順番”に、何らかの含みをもたせて「次有」と書いたものであろう(含みの内容は不明である)。傍国の総数は欠落分を含めると22カ国で、先の行程上の国の8カ国を合わせれば30カ国となり、冒頭の「今使譯所通“三十國”」に合う。

 ※参考として「魏志韓伝」の国名列挙の一部を抜粋すると、「“有”爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國・・・楚離國、凡五十餘國。」とあり、動詞の「有」は最初だけに使われている。

 

<訳文>

(傍国には)[○○国があり](欠落部分)、次に斯馬國があり・・・・次に○奴国がり、これら(傍国)は、女王の境界の尽きる所。

 ※各国の比定地は不明。

 

<語注>

 【次】:つぎに。「{副詞}つぎに。ついで。そのあとに続いて。」(学研「漢和大字典」)。「“次”可用作副詞、表示動作行為出現的時間」(「古代漢語虚詞詞典」商務印書館)。

奴國:「奴國」は既に行程上の国として詳細が記載されていて、詳細不明国ではない。ここの「奴國」は、恐らく「○奴國」とあったものが、前一字が欠落したものであろう。

【此】:これ(これら)。「此:代詞(代名詞);用来代人、事、物、或地点、時間等。在句中常作主語、賓語」<(私訳):人や事、物、場所、時間等を表すのに使われ、文中で主に主語や目的語になる。>(「古代漢語虚詞詞典」商務印書館)。

 境界(キョウカイ)】:女王の支配が及ぶ範囲であろう。「境界;[boundary]邊界、疆界」(漢典)

 

<補足> 「魏志倭人伝」記載の女王の畿内倭国と傍国(倭人の国)

  女王国内の国(畿内倭国)

邪馬臺国(1国)

  女王国以北の傍国(官吏や戸数、道里などを記載)

対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国(計7国)。

  その他の傍国(詳細不明で国名のみ記載)

(欠落した国)、斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、(?)奴国(計22国)。

 合計30カ国

  

『日本書紀』で記載する「傍国」とは、神宮のある伊勢国の様な「畿内」以外の国を指す。

   ※「離天照大神於豐耜入姫命、託干倭姫命。爰倭姫命求鎭坐大神之處、而詣莵田筱幡。〈筱此云佐佐。〉更還之入近江國。東廻美濃到伊勢國。時天照大神誨倭姫命日、是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也。“傍國(かたくに)”可怜國(うましくに)也。欲居是國。故隨大神教、其祠立於伊勢國。因興齋宮干五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之處也。(『日本書紀』垂仁天皇二五年 三月丁亥朔丙申)

 

<原文>34

其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。

 

<構文>

{主語句①(其→南)+述語句(狗奴國)}+{主語句②(男子)+述語句(←王)}+{主語句③(其→官)+述語句(狗古智卑狗)}+{(主語省略)4述語句(不屬←女王)}

 

<訳文>

その南には、狗奴国があり、男子が王となり、その(国の)官には狗古智卑狗があり、(狗奴国は)女王に従属しない。

 ※「其官“有”狗古智卑狗」は、「有」を「曰」に変え、「其官“曰”狗古智卑狗」とした方が、今までの文の流れに合うが、一応このまま訳す。

 

<語注>

【其】:上文の「女王境界所盡(傍国)」を指す。具体的にどの傍国の南なのか不明。

【狗奴國】:男王の国だがその王の名は不明。現在の比定地も不明。

【狗古智卑狗】:不明。

 

<原文>35

自郡至女王國萬二千餘里。

 ※この文は、この段の結語であり、当該段の標題の「從郡至倭」と呼応する。「自郡」は「從郡」と、「至女王國」は「至倭」とそれぞれに呼応し合う。

 ※「萬二千餘里」は荒唐無稽のであるが、「郡より倭(女王国)まで」の距離に当たる。この距離は、倭人伝文頭の「倭人在帶方東南大海之中」と対応して、郡からの方位と直線距離の「極座標」を示す。つまり、行程上の各区分距離の単純合算では無い。最終目的地までの極座標の直線距離は、そこへ行き着くまでの各行程間の極座標を図形化して得られるが、途中で距離不詳の時間(日数)表記が使われておりこの方法は不可能である。よって「萬二千餘里」はどこから出してきたのか不明である。

 

<構文>

主語句(從郡至女王国)+述語句(萬二千餘里

 ※述語が名詞句の体言述語文。

 

<訳文>

(帯方)郡より女王国(倭国)までは、一万二千里余里。

 

<語注>

【萬二千餘里】:根拠不明。「一万二千里」をメートルに換算すると

<(12000里×0.24m/尺×1800/里)÷1000m/km5184km

となり、荒唐無稽の数値と言える。ちなみに地球子午線上の1/490°)の距離は「10001.970km」(子午線象限、「1997年版・理科年表」)

 

参考として、勅使達が天文観測から約12000里を出したと仮定して、当時の古代中国天文学の知識を使ってみると次のようになる。

古代中国天文学の太陽観察では、方位や南中時(正午)の影の長さにより二至二分(夏至と冬至の二至と春分と秋分の二分)の四節を知る他に、迷信として子午線上の南中時の影の長さ「一寸」の違いは、地の距離千里に対応すると当時の天文学者の間で信じられていた。これを「一寸千里の法」と言った。影の長短を見る観測棒は「長さ八尺」で、「表」や「周髀」と言う。「法曰、周髀長八尺句之損益寸千里。」(周髀算経)。ちなみに古代中国天文学の概念は当然ながら「天動説」で「地は平面」である。

 想定条件:

 1)「帯方郡」はソウル付近とし、北緯約37.57°

 2)「女王」が都を置いた「邪馬臺国」は、箸墓付近とし、北緯約34.54°

 3)「西暦250年」の黄道傾角は約23.67°(現在は約23.43°)

※地球の公転軌道面に対する傾きは年々小さくなる傾向にあり、能田忠亮氏の推計によると黄道傾角は「西暦0年:23.70°」、「500年:23.64°」であり、ここから案分して西暦250年の黄道傾角をだした。(能田忠亮著「周髀算経の研究」、『東洋天文学史論叢』所収、恒星社、昭和十八年)

 以上の想定の下に影の差が12000里になる時期を計算すると下記のようになる。

帯方郡(ソウル付近)

表八尺(80寸)の南中時の影の長さ(晷の長さは黄道緯度による):

夏至:37.57°-23.67°=13.9°(黄道緯度)

tan13.9°)×80寸=19.80(晷の長さ)

冬至:37.57°+23.67°=61.24°(黄道緯度)

tan61.24°)×80寸=145.76寸(晷の長さ)

小雪:37.57°+(23.67×4/6)°=53.35°(黄道緯度)

tan53.35°)×80寸=107.52寸(晷の長さ)

大雪:37.57°+(23.67×5/6)°=57.30°(黄道緯度)

tan57.3°)×80寸=124.61寸(晷の長さ)

 

邪馬臺国(箸墓古墳付近)

表八尺(80寸)の南中時の影の長さ:

夏至:34.54°23.67°=10.87°(黄道緯度)

tan10.87°)×80寸=15.36寸(晷の長さ)

冬至:34.54°23.67°=58.21°(黄道緯度)

tan58.21°)×80寸=129.08寸(晷の長さ)

小雪:34.54°+(23.67×4/6)°=50.32°(黄道緯度)

   tan50.32°)×80寸=96.43寸(晷の長さ)

大雪:34.54°+(23.67×5/6)°=54.27°(黄道緯度)

tan54.27°)×80寸=111.21寸(晷の長さ)

 

帯方郡と邪馬臺国の影の長さの差

夏至(新暦622日頃):19.80寸-15.36寸=4.44

小雪(新暦1122日頃):107.52寸-96.4311.09

大雪(新暦127日頃):124.61寸-111.2113.4

冬至(新暦1222日頃):145.76寸-129.08寸=16.68

 

よって、帯方郡と邪馬臺国との影の差が約12寸(12000里)となるのは、新暦の約11月末頃の観測となる。

 

<原文>36

男子大小黥面文身

 ※ここから新たな段落になる。この段落は、報告記録での女王国の推定位置が現在の中国海南島付近と同じ緯度に当たると言う考えから、倭人風俗の「黥面文身」と会稽郡の故事とを関連づけたものである。本来なら段末の「計其道里,當在會稽、東冶之東。」がここにあるべきと思うが、一応このまま訳す。

 

<構文>

主語(男子)+述語句①(←大小)→述語句②(皆→[黥面・文身]

述語句①は述語句②の連用修飾語となる。

※代名詞の「其」が無く、「男子」から始まるとどこの男子だが不明となるが、上文の文脈から「女王国」の男子と推定。

 

<訳文>

男子は大小と無く、皆黥面し、文身する。

 

<語注>

【大小】:大人と小人(子供)。「大人和小孩[adults and children]」(漢典)。他に「尊卑や長幼」の意味(「尊卑或[degree of seniority]」(漢典))もあるが、人の「女子」に対する「男子」と言う区分の「大小」なら、「尊卑」など限定された意味より、より広い意味の「大人と小人(子供)」が対応するであろう。

【皆】:みな。上文の主語句の「男子無大小」を指す。「所指的人・物・事一般作為主語出現在皆的前頭」(『古代漢語虚詞詞典』)

【黥面(ゲイメン)】:顔にいれずみする(顔面のいれずみ)。「墨、黥也」(周禮司注)。「黥;墨刑在面也」(説文)。

 【文身(ブンシン)】:身にいれずみする(身体のいれずみ)。「文身;在人的皮肤上刺出有色的花[tattoo]」(漢典)

 

<原文>37

自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。

 

<構文>

[連体修飾語(自古以來)→主語句(其使)]+述語句①(←中國)+述語句②(皆→自稱←大夫)

 

<訳文>

古くから、その使は中国に至れば、皆大夫と自称した。

  

<語注>

 【自古以來】:古くから。直訳すれば「古くよりいらい」。

 【其使】:倭国(女王国)の使者。記録には『後漢書・東夷伝・倭伝』に見られる。

 詣】:いたる。「詣;往也,到也」(『玉篇』)

【大夫(ダイブ)】:古代の上級官僚(高官)。「[senior official in feudal China] 古代官名。」(漢典)