「七支刀銘文」私考 2011/12/19

  

<はじめに>

 「七支刀」とは、古代朝廷の武器庫(古代の豪族物部氏が管理)であったとされる奈良県天理市の石上神宮に六叉の鉾として伝えられてきた鉄剣。全長74.8cm。製造地は中国とされている(ウィキペディア・フリー百科事典を参考)。ここに刻まれた銘文は、古代の日朝関係(百済)を知る貴重な金石文史料と言えます。

この銘文の読解は、銘文の発見者である菅政友(『菅政友全集』「大和國石上神宮所蔵七支刀」)以来いろいろとなされていますが、現在の一例を「第2期日韓歴史共同研究報告書(第1分科会篇)20103月発行」から抜粋します。

 <以下引用文>(P103

 表面の銘文34字は、

 

  []四年(五)月十六日丙午正陽造百錬□七支刀[]辟百兵[]供供[](永年大吉)[]

 

となる。「泰和四年」(369年)の盛夏の「五月十六日」は、火気の強い「丙午」の日であるが、太陽が真南に昇った「正陽」の時刻に、「百」たびも「錬」ったと言う上質の「□」を材料として、「七支刀」を「造」った。この刀は「出」でては「百兵を辟ける」という呪力を持っており、「供供(深く恭しい)」たる「王」が佩刀するに「宜し」(相応しい)く、また「侯王」は「永年」に渉って「大吉祥」であろう。

 裏面の銘文32字は以下である。

 

先世[]未有此刀百[]王世[]奇生聖[音(晋)]故為王[]造傳[示後]

 

と判読される。「先世以来」、「未」だ「此」のような(形の、また、それ故にも百兵を辟けることの出来る呪力が強い)「刀」は(百済には)無かった。「百済王と世子」は「生」を「聖なる晋」の皇帝に「寄」せることとなった。それ「故」に、「倭王」の「為」に皇帝の旨を伝え示されんことを。

 <以上引用文>

 

ここには、銘文にあることないこといろいろと述べていますが、鈴木勉他著『復元七支刀』(雄山閣 平成18年)のP162には、金石文研究家の藪田嘉一郎氏の言葉を引用して、「この釈文(金石文の文字の判読)が十分に出来ていないと、その上に立つ考證論考は沙上の楼閣に等しい。」とあります。金石文読解の基本は、先ず「銘文」の釈文にあり、それにそって読解することと私も思います。「七支刀」の「釈文」には、有名な村山正雄氏の『石上神宮七支刀銘文図録』(1996年)がありますが、今回は、さらに銘文を鮮明に浮かび上がらせた先の鈴木勉他著『復元七支刀』(2006年)を使って、次に私考を試みたいと思います。

  

『復元七支刀』による釈文

『復元七支刀』による釈文は次の通りとなる。

<表の銘文>

 

泰和四年十一月十六日丙午正陽造百錬七支刀帯辟百兵宜供供王□□□□作

 

<裏の銘文>

 

先世以来未有此刀百済王世□奇生聖音故為倭王旨造傳示後世

 

ここで注目に値するのは裏の銘文の「音」の字である。従来これは「音」か「晋」か、判然とせず、議論の的でもあったが、今回「音」であることが下図のように明らかにされた。

 

       
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  図1     図2

 1は、村山正雄氏の『石上神宮七支刀銘文図録』

 2は、鈴木勉他著の『復元七支刀』

 

表の銘文読解

 表の銘文で先ず問題になるのは下記の年号および日付である。

泰和四年十一月十六日丙午

 李進煕氏は、「五月十一日丙午」とよんで、「東晋の太和では、干支日が合わない」と、かつて主張されたようだが、銘文は「十一月十六日丙午」であり、此の主張はそもそも論外となる。では「泰和」とは何時の年号かと言うことであるが、これは東晋の「太和四年」(369年)が妥当であろう。「泰」は、「滑也。又大也。」(『説文』)であり、「挟太山 以超北海・・・」(『孟子』「梁恵王上」)とあり、この「太山」とは「泰山」であり、「太」と「泰」とは通用する。「和」については偏の「禾」が判読できるので、「和」が妥当である。

 次に「正陽造百錬[]七支刀」部分の「語釈」は下記の通り。

 【正陽】;『荘子集釋』「逍遙遊第一」の「疏」に「李云、平旦(夜明け)朝霧、日午(日中)正陽、日入飛泉(滝)、夜半楢姫夜間の水気)、並天地二気為六気。」とあり、「六気」のうち日中の「気」を言う。呪力を持たせるには人事を超える文言が必要であったか。

 【百練】:「百練」の「百」は単なる数字ではなく「百官」、「百姓」と同じで、回数の多いことを言う。「銕」は、これが正解なら「鉄」の異体字。

  次に「帯辟百兵宜供供王□□□□作」の部分で問題になるのは、「供供」の解釈である。従来此の部分は、「王」にかかる形容句とされるが、形容句では「深くうやうやしい侯や王」となり、「深くかしこまっている侯や王」となる。これでは「辟百兵」の語句と対応しない。「供供」と同じ文字が続く場合は、擬態語的に「供供たる・・・」とする場合と、「供、供・・・」と間に句点を打って句を別けることが考えられる。後はどちらが、文意が通じるかである。今回の銘文では後者であろう。「供」には、「そなえる」と「差しあげる」の二つの意味があり、前の「供」は「(自ら)そなえる」であり、後語の「供」は「差しあげる」となる。

  最後の王□□□□作」の部分は不明な字が多く読解が出来ない。臆測が許されれば、「侯王将相。○○作」か。○○は作者名となるか。「侯王将相」には『漢書』「陳勝」に「侯王将相寧有種乎」と載る有名な語句もあり、侯や王など支配者や将や相など上級官僚を示すか。

 上記より、「表の銘文」の私見は次のようになる。

 泰和四年十一月十六日丙午。日中の気、百錬の鉄の七支刀を造る。帯びれば百兵をしりぞける。宜しく(自らも)そなえ、侯王将相にも供すべし。○○作。」

 つまり、年号と常套句で構成され、これは・・・高級なおみやげ品(市販品)か?
 

裏の銘文読解

裏に関しては、不明な文字が少なく銘文通りに読めるのではないか。先ず、この裏の銘文に次のように標点(句読点)を打ってみる。

   先世以来未有此刀。百済王世□奇生聖音。故為倭王旨造。傳示後世。

 ここで問題になるのは、「百済王世□奇生聖音」の部分である。

 □の字が不明だが、これを「子」とすれば、「百済王の世子の奇が聖音に生まれる。」となる。「世子」とは世継ぎであり、『晉書』「孝武帝曜」に 「太元十一年(386)夏四月。以百濟王世子餘暉為使持節、都督鎮東將軍、百濟王。」とあり、ここの「百濟王世子餘暉」が「百濟王世子奇」と、符合する。「餘暉」の「餘」は、百済王の「姓」であり、「暉」が名である。「暉」と「奇」は漢語では違う音韻であるが、日本の音読みではどちらも「キ」となる。「奇」は万葉仮名で「乙類」の「キ」に分類される。「暉」の発音は、漢語の音韻を示す反切表記で「許帰切」(『廣韻』)とされるが、ここで韻母を示す「帰」は、万葉仮名の「乙類」の「キ」である。つまり朝鮮と日本での古代漢字音では、「暉」と「奇」は同音となるか。また「暉」が泰(太)和四年(369年)生まれなら、先の太元十一年(386)では、<386-369+118>で、18歳となる。

  次の「聖音」とは、聖朝の治世と言える。『禮記』に、「凡音者、生人心者也。・・・治世之音、安以楽、・・・乱世之音、怨以怒」とあり、今の「歌は世に連れ、世は歌にれ・・・」と同じで、時の世情を言う(聖徳太子の『法華経義疏』「序品第一」には「物見聞、遅受聖音」)。後句の「旨造」の「旨」は、『説文』に「美也。」とあり、「美」は「甘也。美與善同意。」とある。

 よって「裏の銘文」の私見は、次の通りとなる。

 「先世以来、この刀にいまだあらず。百済王の世子の奇が聖朝の治世に生まれる。故に倭王の為に、うまく造り、後世に傳示す。」

後句に「故為倭王」とあるので、前句の「聖音」とは、当時の倭王の治世を言うか。また恐らく裏の銘文は、後から職人に特注で刻ましたか。どちらにせよ、この銘文には譲渡関係を示す語句は無い。

  

『日本書紀』の関係記事

 「七支刀」に関連する記事は「記紀」共にあるが、『日本書紀』の記事を下記に抜粋する。

 『日本書紀』神功皇后摂政五十年

「百濟王亦遣朝貢・・・啓曰。貴國鴻恩重於天地。何日何時敢有忘哉。聖王在上。明如日月。今臣在下。固如山岳。永爲西蕃。終無貳心。」

  『日本書紀』神功皇后摂政五十二年

 從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。七子鏡一面。及種種重寶。仍啓曰。臣國以西有水。源出自谷那鐵山。其七日行之不及。當飮是水。便取是山鐵。以永奉聖朝。

 ここで、百済側使者の口上に「七枝刀」や「聖朝」などの文言があらわれる。「聖朝」の文言が使われるのは、『日本書紀』ではここだけであり、次に使われるのは『続日本紀』「文武天皇三年閏四月」の新羅側使者の表文である。

  また『日本書紀』の暦日は、『日本書記暦日原典』により、編纂時の長暦による後付であることが明らかなので、実際の暦日は、基本的に金石文等によるものが優先される。「七支刀」に刻された暦日が実際に近いものであろう。

  

以上