2011/ 06/ 02

2021/09/08補訂

元興寺丈六仏光背銘文私考 

 

 はじめに

「元興寺丈六仏」は、推古天皇の時代に造られた銅造釈迦如来坐像で、元興寺(別名飛鳥寺、法興寺など)の本尊。大半は失われ、現在、飛鳥大仏の通称で知られる安居院にある仏像は、大部分が後の修復と言う。この仏像の光背部分の裏に刻まれた造蔵銘が「元興寺丈六仏銘」であるが、これは全く現存しないと言う。しかし「元興寺」の縁起を記した『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にその光背銘の全文が記載される。今回、この銘の読解を試みたい。

 

銘文の文字数

「縁起」に載る所謂銘文は、「丈六光銘曰」と引用される「天皇名廣庭」から「畢竟坐於元興寺」までの全369文字とされる。これを仮に一行20文字で揃えてみると、次のようになる。

 注)銘文の活字テキストには、諸本に文字の異同が多少あるが、ここでは、田中卓氏の『元興寺伽藍縁起并流記資財帳の校訂と和訓』(田中卓著作集10・国書刊行会・1993年)の校訂テキストを参考とした。


01.天皇名廣庭在斯歸斯麻宮時百濟明王上啓臣聞

02.所謂佛法既是世間無上之法天皇亦應修行擎奉

03.佛像經教法師天皇詔巷哥名伊奈米大臣修行茲

04.法故佛法始建大倭廣庭天皇之子多知波奈土與

05.比天皇在夷波禮辺宮任性廣慈信重三寶

06.魔眼紹興佛法而妹公主名止與擧哥斯岐移比

07.天皇在櫻井等由羅宮追盛辺天皇之志亦重

08.三寶之理指命辺天皇之子名等與刀々大王

09.及巷哥伊奈米大臣之子名有間子大臣聞道諸王

10.子教緇素而百濟惠聰法師高麗惠慈法師巷哥有

11.間子大臣長子名善德爲領以建元興寺十三年歳

12.次乙丑四月八日戊辰以銅二萬三千斤金七百五

13.十九兩敬造尺迦丈六像銅繍二躯并挾侍高麗大

14.興王方睦大倭尊重三寳遙以隨喜黄金三百廿兩

15.助成大福同心結縁願以茲福力登遐諸皇遍及含

16.識有信心不絶面奉諸佛共登菩提之岸速成正覺

.歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清使副尚

書祠部主事遍光高等來奉之明年己巳四月八日

甲辰畢竟坐於元興寺

最後に、一行9文字の中途半端な行ができるが、「歳次戊辰大隨國使主」から「畢竟坐於元興寺」までを「牒」の本文(叙述文)として、銘文から除けば、一行20文字の16行できっちりおさまる。

 

銘文の段落分けと読み

次に銘文をその内容によって、個人的に段落に分け、その読み(私見)を試みる。

注)今回の読みは、古漢語の「漢語語法」に従い、学校漢文読みや歴史的仮名遣いに沿わない。「私見」も古漢語の翻訳文として行う。


1<仏教流伝>

天皇名廣庭、在斯歸斯麻宮時、

百濟明王上啓;

臣聞所謂佛法既是世間無上法。

天皇亦應修行、擎奉佛像經教法師。

天皇詔、巷哥名伊奈米大臣修行茲法。

故佛法始建大倭。

「私見」
天皇の名は廣庭(欽明)、斯歸斯麻の宮にいます時、
百濟の(聖)明王が上啓して、
臣は、所謂佛法は、既に是は世間で無上の法と聞きます。
天皇もまた修行され、佛像、經教、法師を擎奉(ケイホウ)すべし」と。
天皇、詔して、巷哥(蘇我)_名は伊奈米(稲目)_大臣に、この法を修行させる。
それで、佛法は、始めて大倭(大和)にたった。

 

「語注」
擎奉(ケイホウ)】。あげたてまつる。「擎」は「音鯨。舉也,拓也,持高也。」(康煕字典)。「奉」は両手でささげ持つ。二字共に同じような意味の動詞。

 

2<天皇の功績>
廣庭天皇子多知波奈土與比天皇、

在夷波禮宮。

任性廣慈、信重三寶、

棄魔眼、紹興佛法。

而妹公主名止與擧哥斯岐移比天皇、

在櫻井等由羅宮、

追盛辺天皇志、亦重三寶理。

指命辺天皇子名等與刀々大王、

及巷哥伊奈米大臣子名有間子大臣、

聞道諸王子、教緇素。

「私見」

廣庭天皇の子の多知波奈土與比(たちばなとよひ)の天皇(用明天皇)は、
夷波禮(磐余)の池辺(いけべ)の宮にましました。
性の廣慈なるにまかせて、三宝を信重し、

魔眼を棄(エンキ)して、仏法を紹興した。
そして、妹の公主_名は止與擧哥斯岐移比弥(とよみけかしきやひめ)天皇(推古天皇)_は、

櫻井等由羅(さくらいノとゆら)の宮にましまして、

池辺の天皇(用明天皇)の志を追盛して、さらにまた三宝の理を重んじる。
(推古天皇は)池辺の天皇の子_名は等與刀々(とよとみみ)大王(聖徳太子)_

及び巷哥(蘇我)の伊奈米(稲目)の大臣の子_名は有間子(うまこ)の大臣_を指命して、
道(仏道)を諸王子に聞かせ、緇素(シソ)を教えさせる。

「語注」

】:いけべ。「記紀」には「池邊」とある。「瀆」は「説文」に「瀆;溝也」と言う。

棄(エンキ)】:すてさる。

【公主(コウシュ)】:天皇の娘。皇女。

【大王(ダイオウ)】:ここの「大」は大小の大ではなく、敬語表現の大。

【緇素(シソ)】「僧と、仏門にはいっていない世俗の人」(藤堂漢和辞典)

3<元興寺建立>
而百濟惠聰法師・高麗惠慈法師・巷哥有間子大臣長子名善德爲領、以建元興寺。

私見」

そして、百濟の惠聰法師・高麗の惠慈法師・巷哥(そが)の有間子(うまこ)の大臣の長子_名は善德_を担当役人とし、それで元興寺を建てる。

 

「語注」

【領(リョウ)】:担当役人。「方氏曰、承上令下、謂之領。」(韻會)

【善德(ゼントク)】:蘇我馬子の長男。「善徳」は出家後の法号か?『推古天皇紀四年』に「法興寺造竟、則以大臣男善徳臣拜寺司<法興寺(元興寺)が造り終わって、大臣の息子の善徳の臣を寺司に任命する>」とある。

【拝(ハイ)】:任命する。「拝;授與官職、任命。」(漢典)

4<造丈六仏>
十三年歳次乙丑四月八日戊辰、

以銅二萬三千斤金七百五十九兩、敬造尺迦丈六像。

銅・繍二躯、并挾侍。

「私見」
(推古)十三年(605年)、歳(ほし)乙丑にやどる四月八日戊辰(釈迦生誕日)に、
銅二萬三千斤、金七百五十九兩をもって、釈迦の丈六像を敬造する。

銅と繍(刺繍の画像)の二躯は、挾侍にならべる。

  )『推古天皇紀十三年夏四月』に「天皇詔皇太子・大臣及諸王・諸臣、共同發誓願。以始造銅繍丈六佛像各一躯。乃命鞍作鳥爲造佛之工。是時、高麗國大興王聞日本國天皇造佛像、貢上黄金三百兩。」とあり、『推古天皇紀十四年夏四月』に「銅・繍・丈六佛像並造竟。」とある。『日本書紀』では丈六仏の完成が推古十四年として、丈六仏の光銘と1年の違いがあるが、『日本書紀』の暦日は後付けの長暦であり、当時の暦日としては、現実の丈六仏から写し取ったこの光銘の推古十三年(605年)を一応優先すべきであろう。

 

「語注」

【挾侍(キョウジ)】:本尊の両脇に侍する仏像。脇侍(わきじ)とも言う。

 

5<仏縁>
高麗大興王、方睦大倭尊重三寳

遙以隨喜黄金三百廿兩、

助成大福、同心結縁。

「私見」
高句麗の大興王、まさに大倭(大和)が宝を尊重することにむつみ、
遠く離れていても、隨喜の黄金三百廿兩をもって、
大福を助成し、心を同じくして、縁(仏縁)を結ぶ。

 

「語注」

【大興王】:「嬰陽王(えいようおう、生年不詳 - 618年)は高句麗の第26代の王(在位:590- 618年)。姓は高、諱は元。平陽王とも記される。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

【隨喜(ズイキ)】:随喜。他人の善行を見て喜ぶ(仏教用語)。

【睦(ボク)】:むつむ。

【遙(ヨウ)】:はるかかなたにあるさま。

 

6<願文>
願以茲福力

登遐諸皇・遍及含識

有信心不絶面奉諸佛
共登菩提岸速成正覺

「私見」
願いは、この福力をもって、
登遐された諸皇と遍く衆生に及び、
信心をたもち、たえず諸佛を面奉し、
共に菩提の岸(彼岸)に登り、すみやかに正覺を成すことなり。

「語注」

【福力】:丈六仏を造った功徳。

【登遐(トウカ)】:死亡。

【含識(ガンシキ)】:衆生のこと(仏教用語)。心あるもの。

【正覺】:正覚。正しい悟り。


7
<叙述文部分>*銘文から除外
歳次戊辰、

大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清使副尚書祠部主事遍光高等、來奉之。

明年己巳四月八日甲辰、

畢竟坐於元興寺

「私見」
歳、戊辰(推古十六年)にやどるとき、
大隨國の使の主の鴻艫寺掌客の裴世清と使の副の尚書祠部主事の遍光高らが、

この時に来てくださった。

明年の己巳年(推古十七年)の四月八日甲辰(釈迦生誕日)に、

元興寺に於いて、(周辺工事や装飾、調度など)全て終わりました。

  )この7)の文は、「漢語漢文」で飛鳥時代に見られない様な用字使い(敬語の補助動詞化)が見られ、「光銘文」とは別で、天平十九年の「牒」本文の文と見た方が良いと思える。

 

「語注」

【歳次戊辰】:推古天皇十六年(608年)

【來奉(ライホウ)】:来奉。「奉」は「来」に付いた補助動詞と見て、「来奉」の意は敬語表現として「来させたてまつる(来てくださった)」と解釈した。

畢竟坐】:「畢」は、すべて。「畢;全部」(漢典)。「竟」は「おわる」、「坐」は、補助動詞の「ます」。

 

 

『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』について

「元興寺丈六仏銘」を収録するこの縁起は、その奥書に「牒、以去天平十八年十月十四日、被僧綱所牒・・・謹以牒上 天平十九年二月十一日」とあり、同時期の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』と並ぶ貴重な史料文献である。色々と疑義もあるが「法隆寺」のものと違い、推古朝当時の雰囲気を伝える文体でもある。

活字化されたものには、田中卓氏の校訂本の他に岩波書店の日本思想大系本『寺社縁起』や竹内理三編修の『寧楽遺文・中巻』、『大日本佛教全書(寺誌叢書第二)』などがある。これらの底本は、醍醐寺本「寺社縁起集」に収録されているものと言う。

 

『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の「生年一百」について 

『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の冒頭に

「等與彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百、歳(ほし)次(やどる)癸酉、正月九日」

とあり、等與彌氣賀斯岐夜比賣命(推古天皇)が「生年一百」と記されるが、他の史料では、「癸酉年」は推古天皇の60歳に当たるという。また「生年」とは、『史記』「屈原賈生列傳・賈誼本傳」に「時、賈、生年二十餘、最為少。」とあるように、その時の年齢でもあり、亡くなったときの年齢ではない。ではこの時、彼女は100歳なの60歳なのか。

当時の紀年法は、干支年で、この干支年は60年を一巡として一に変える一種の60進数である。だから一巡で桁が一つ上がり、「100位」となったと考えれば、60歳を「100」又は「100位」と言っても、100歳と言わなければ特に問題は無いと思う。本文中にも次のような文言がある。

今我等天朝生年之數算、達於當百位

ここには「百位」と記される。

ちなみに、岩波書店「日本思想大系」本では、この文を「今我等が天朝(みかど)の生年の数算、まさに百の位に達り・・」と読み下していますが、これでは少し意味が通じない。一番の問題は、「生年の数算」としているところで、「数算」を連語として扱っていますが、これは、恐らく「算を数えれば」と言う意味であり、「算」とは、「算木」であろう。「算木」は今の「そろばん」にあたる古代の計算の道具である。(竹で作った棒を「算木」として使い、その本数を数える。古代中国官僚の必携品。)「算木」による「加減算」は、二進数でも六進数でも十進数でも六十進数でも計算は容易にできる。よって私見の読みは、「今我らが天朝の生年の算(木)を数えれば、(算木が)當たること百の位に達す。」となる。

 

結語

そもそも古代には現存する史料自体が少ない。このため一面的になりやすく、知り得る範囲も限度がある。これは時代の性質上致し方ないことであると思う。この資料不足を各人の安易な空想で補えば、それは事実から遠く離れ、人それぞれの主観的仮想古代でしかない。まさに十人十色となり収拾がつかなくなる。事実認定とは証言や物証などの証拠にもとづくものである。証言とは史料であり、物証とは遺物である。しかし「物」は多くを語らず、生き証人のいない遠い過去を語るのは主に「史料」しかない。

 歴史探求の基本は、残された史料を読むことから始まる。特定の人に任せるのではなく、先学の助けを得ながらも、自分の目で直に読む必要がある。絵を見ずに他人の解説でその絵を見たつもりになってはいけないと言うようなことである。事実に対して、どう思い、どう感じるかは、人それぞれであるが、事実は一つである。