「万葉集解釈」疑義挙例    2022.01.15  2022.05.07更新

はじめに

 万葉集はご存じのように奈良時代末に編纂された日本最古の歌集(全20巻)であるが、作られてから既に千年以上たって、当時当たり前の言葉や社会通念などが分かりにくくなっている。その為、読めることはよめるが、歌の意味がなかなか理解しがたい。理解出来なければ、疑念だけが先立ち、歌い手の心に共感も出来ない。近世から現代まで多くの「注釈書」が世に出ているが、それでも腑に落ちない所がある。ここで、いくつかその疑点や私見を述べたい。

原文は、まだ「カタカナ」や「ひらがな」が無い時代で、全て漢字(万葉仮名)で表記される。ここでの原文には、「西本願寺本」に校訂を加えた鶴久・森山隆編『万葉集』(おうふう・平成十二年版)を利用し、通説的解釈文には、稲田耕二著『万葉集(一)』久保田淳監修「和歌文学大系1」(明治書院・平成九年)と多田一臣著『万葉集全解1』(筑摩書房・2009年)を使う。

※ 原文の二行割り小書き部分は< >で示し、私の注は( )で示す。

 

歌番号2の歌について

「原文」

(詞書き)

髙市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇 

 天皇登香具山望國之時御製歌

 

(歌の本文)

(ヤマ)常庭(トニハ) 村山(ムラヤマ)(アレ)() 取與(トリヨ)()() 天乃(アマノ)()具山(グヤマ) (ノボリ)(タツ)  國見乎(クニミヲ)為者(スレバ)  (クニ)原波(ハラハ)  (ケムリ)(タツ)(タツ)  海原波(ウナハラハ)  加萬目(カマメ)(タチ)多都(タツ)  (ウマ)𪫧()國曽(クニゾ)  (アキツ)(シマ)  八間跡能國者(ヤマトノクニハ)

 

「読み方」

(稲田氏解釈)

大和(やまと)には 群山(むらやま)ありと とりよろふ 天(あめ)の香具山(かぐやま) 登(のぼ)り立(た)ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けむり)立(た)ち立(た)つ 海原(うなはら)は かまめ立(た)ち立(た)つ うまし国そ あきづ島 大和(やまと)の国は

 

(多田氏解釈)

大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けむり)立ち立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

 

(私見の解釈)

やまとには 群山ありと(言う) 鳥よろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) <空中に>騰(あが)り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けむり)立ち立つ 海原(うなはら)は 鷗(かもめ)立ち立つ うまし国そ あきづ島 やまとの国は

 

「語釈」

【山常庭 村山有等】:「山常庭」の読みは「やまとには」で疑義はないが、「村山有等」の読みについては、「群山ありと」と「群山あれど」に見解が分かれている。この歌の趣旨は「香具山」を賛美することでは無く、「国見」によって「やまと」を賛美することにある。また「やまと」は、「たたなづく青垣 山こもれる」(古事記歌謡)や「青山四周」(神武天皇紀・東征前段)と、連なる山々に囲まれている土地として言われる。よって「村山有等」は「群山ありと(言う)」の読みが適切に思える。

 【取與呂布 天乃香具山 騰立】:「取與呂布」は“鳥”を身につける。「天の香具山」には、天から天降った伝説がある。歌番号257の万葉歌に「天降付天之芳来山(天降りつく天の香具山)」と言い、「伊予国風土記・天山」逸文に「倭在天加具山(かぐ山)、自天天降時」と言う。天孫ならば「天浮橋(あまのうきはし)」(古事記・天孫降臨段)や「天磐船(あまのいわふね)」(日本書紀・神武天皇紀)を使うが、山ならば鳥を使って天降りしたと言うことであろう。ここはその逆で、鳥を使って大空に騰(あがり)、空中で山が浮島となったことを言うものと思われる。文字(漢字)で「山」が「鳥」を身につければ、「島」となる(下図参照)。また「騰」とは「騰;升入空中」(漢典)とあり、『日本霊異記』(上巻九話)にも「山里人家有嬰児、中庭匍匐<中庭で這う>、(それを)鷲擒騰空<わしがとり空にあがりて>・・・騰;安可利天<あがりて>」とある。この歌は文字(漢字)の使用が始まっている頃の作であり、文字の影響は無視できない。詞書きにある「登」と歌本文にある「騰」は書き分けていると見なす必要があろう。「鳥」と「山」についても同様と思われる。

【國原波 煙立龍】:国中の家々から炊事の煙が盛んに立ち上る様で、国が豊かな事を言う。 『古事記・仁徳天皇記』に「登高山(香具山)、見四方之國詔之、於國中烟不発。國皆貧窮(中略)後見國中、於國満烟。故為人民富<香具山に登って四方の国々を見て曰わく、国中に烟が立たない。国々は皆貧窮している(中略)後に国中を見れば、国々に烟が満ちた。それで人民が豊かになったと思われた」と言う。ここの「高山」は、本居宣長は『古事記伝・仁徳天皇段』で「高山は多加夜麻<かぐやま>と訓<訓む>」というが、『万葉集』では「高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎<かぐやまは うねび(山)ををしと みみなし(山)と あいあらそいき>」(歌番号13)で「高山」を「香具山(かぐやま)」と訓む。

※「高(コウ)」=「香(コウ)」→「かぐ」。

海原波 加萬目立多都】:「海原(うなはら)」とは、広々とした海の状景で、そこで魚を餌とする海鳥のカモメが盛んに飛び立つ様を言い、海が豊かな事を言う。「かまめ」は「かもめ(鷗)」で、契沖は『万葉集代匠記』の当該部分(精撰本)で「カマメ鷗也。ト音通ス」という。尚、「初稿本」では「と五音相通なり」とあるが、「め」は「も」の誤字である。また澤瀉久孝氏はその著『万葉集注釈』(中央公論社が昭和52年・P.47)で「と五音相通」と『万葉集古義』の間違いをそのまま引用しているが、これは注意書きが必要と思われる。 ※五音相通とは五十音図で同じ行の音韻は互いに通用し合うと言う近世の考え。

ここの「海原」の解釈は、「海」は「香具山」からは見えないので、賀茂真淵はその著『万葉考』で「香山の北麓の埴安ノ池はいと廣らにみゆるを、海原とはよみませし也」と言ったが、これ以降、多くの研究者は、大きな「溜め池」を「カモメが飛び交う海原だ」と言う。これは、どう考えてもおかしい。天降りの伝説がある香具山が、鳥に依って空に上がり、天空に浮かぶ浮島となった視点でみれば、「海」が見えたとしても何の問題も無い。心象風景として、古代人の、おおらかで、素朴なスケールの大きさも感じられる。それでこそ、疑念も持たれずに、万葉集にも撰ばれ、幾年も読み継がれてきたのであろう。そもそも「やまと」は「虚空(そら)見つ やまとの国」(『日本書紀・神武天皇紀』)と呼ばれる。

蜻嶋 八間跡能國者】:「蜻嶋(あきつ・しま)」は『古事記』に「豊秋津島」、『日本書紀』で「豊秋津洲」と言い、主に日本列島の本州を言う。意味は、「豊かな秋の実りの島」と言うのかもしれない。そして、「あきつ(トンボ)」は、実りの秋を象徴する秋虫だったのであろう。令制以後には「大倭豊秋津島」(大宝令)や「大日本豊秋津洲」(養老令)と呼称するが、最初は、奈良盆地内を「倭(やまと)」と呼び、領域が拡大してからは、主に五畿内を「倭(やまと)」と呼称したと思われる。『古事記』序文には、「神倭天皇経歴于秋津嶋<神武天皇は秋津嶋を経歴す>」ともある。推古天皇時代にあたる『隋書・倭国伝』に「自竹斯國以東、皆附庸於倭<筑紫国から以東(の国々)は、どの国も倭に従う>」と書かれる「倭」は、主に五畿内を指す。

 

「歌の主旨」

この歌は、香具山での国見行事あり、実際に見える風景を歌ったものではなく、香具山に託して、心象風景を歌ったものである。主題は香具山ではなく、「やまとの国」を誉め称えることにある。「やまと国」が、山に囲まれた奈良盆地を越えて、領域が五畿内に拡大すれば、その国見は、天空に視点を持っていかないと、全体が見通せない。この歌は、朝廷の恒例行事で歌われ続けたのかもしれない。

 

歌番号28の歌について

「原文」

(詞書き)

藤原宮御宇天皇代(持統天皇) 

高天原廣野天皇 元年丁亥 十一年譲位軽太子 尊号曰太上天皇>

 天皇御製歌

 

(歌の本文)

春過而(ハルスギテ) 夏来良之(ナツキニケラシ) 白妙(シロタヘ)() (コロモ)(サラ)(セリ) 天之(アマノ)香来山(カグヤマ)

 

「読み方」

(稲田氏解釈)(私見も同意)

春過(はるす)ぎて 夏来(なつきた)るらし 白妙(しろたへの)の 衣乾(ころもほ)したり 天(あめ)の香具山(かぐやま)

 

(多田氏解釈)

春過ぎて 夏来るらし 白栲(しろたへの)の 衣干(ころもほ)したり 天(あめ)の香具山(かぐやま)

 

「語釈」

この歌の読みは、多少の違いがあってもどれもほぼ同じである。この歌の疑義はどこに生まれるかと言うと、これを素直に読んでは、単なる洗濯や布を晒す歌であり、あまりにも平凡過ぎるからである。歌は見えぬもの(心)を見えるものに託して歌うものであろう。この歌が、何を何に託して詠っているのかを「語釈」で述べる。

【春過而 夏来良之】:この二句を字面で解釈すれば、「春が過ぎて、夏が来たようだ」となって、季節の経過を言うだけの句となる。当該歌を稲田氏は「和歌文学大系1」の脚注で「夏の到来を知った驚きを詠んだ歌」と言うが、当たり前の事になぜ驚いたのか、その理由を言わないとこの歌を理解したことにはならない。また同氏は同書で「暦法の施行にともなって季節感も深まり」とも言うが、日本は「中国暦」が採用される前は、「自然暦」であった。『三国志・魏志倭人伝』に「魏略曰;其俗不知正歳四節、春耕秋収為年紀」と言う。「自然暦」とは、気候や動植物の変化に合わせて生計を立てるもので、もともと季節変化に敏感であったであろう。「中国暦」と「自然暦」は地球公転軌道を基にするもので、どちらも「太陽暦」と言える(但し月単位の暦日は月の朔望を基準とする「太陰暦」)。違いは、前者は1日単位の天文観測による「天文学的な暦」であり、後者は毎日の季節変化の観察による「自然な暦」と言うことである。中央集権の国家運営の基本要件は、度量衡と時間(暦日)の統一にあって、日本が中国文明の律令制で中央集権の国家運営を始めれば、「中国暦」を採用するのは当然の成り行きといえる。

ここで「春」と「夏」に季節とは違う見立てをすれば、「春」の方位は「東」で、そこの宮は「東宮」であり、皇太子の宮となる。また「東宮」は「春宮」とも書かれる。『令義解』「東宮職員令」に「謂。太子之所居也」とあり、その役所に「春宮坊」がある。「夏」の方位は「南」で、「南面稱帝<南面して帝と称す>」(『史記·秦始皇本紀』)と言う。また、詞書き部分に、後人の手による小書きの注に「元年丁亥 十一年譲位軽太子 尊号曰太上天皇」と譲位記事があるが、これはこの歌の解釈を助けるためと思える。ここの「元年丁亥(687年)」とは、持統天皇の称制元年を言う。「称制」とは即位せずに臨時に政事をとることを言う。恐らく彼女は、天武天皇の三年の喪が明けてから、子であり、皇太子であった草壁皇子を即位させるつもりであったと思われるが、彼は、その称制三年に亡くなる。彼女は、その四年に「高天原廣野姫天皇」として正式に即位した。彼女の望みは、当時七歳の孫の軽皇子(草壁皇子の子)を即位させることに移ったと思える。

【白妙能 衣乾有 天之香来山】:日本語の特徴は文の最後に述語が来て、それは主に用言が多いが、ここは名詞(体言)が来ている。語句の倒置による強調表現であろう。そのため「天之香具山」対して、作者の強い気持ちが感じられる。通常の語順にすると「天之香具山 白妙能 衣乾有」であろう。「白妙能(白妙の)」は修飾語で「衣」を修飾する。「乾有(ほしたり)」が述語となる。山が衣を乾すことは無いので、作者の気持ちが擬人化された「香具山」に託されていることになる。「白妙」は「白栲」とも書かれるが、作者が天皇なら天皇の正装は白服なので(以白色為貴色、天皇服也。「令集解」)、「白栲(木綿)」より「白妙(絹)」の表現の方が良い。天皇家は、天より天降ったと言う伝説を持つ家系であり、香具山も同様に天降り伝説をもつ山である。そして、その衣を「乾す」とは、天皇の服(衣)を「脱ぐ(退位=譲位)」と言うことでもある。

 

「歌の主旨」

この歌は、俗に「古代日本最大の内乱」と言われる「壬申の乱」を経験した持統天皇の最終的な望みが叶うことを詠った歌であり、彼女と同時代を生きた人々には、

すぐに共感された歌でもあったであろう。

 次に近世から現代までの俗説をいくつか挙げて見ると、

契沖が「此御製ハ、第八巻夏ノ雑歌ノ初ニ載ヘキ」(万葉集代匠記)

賀茂真淵が「天皇埴安の堤の上などに幸し給う時、かの家らに衣を懸ほして有るを見まして、実に夏の来たるらし、衣をほしたりと見ますまにまにのたまへる御歌也。」(万葉考)

稲田耕三氏が「夏の到来を知った驚きを詠んだ歌」(和歌文学大系1

多田一臣氏が「この歌では『白栲の衣』を乾すという人為的な営みが季節の推移を感じさせている。ここには、暦によって季節の到来を把握するようになる直前の時間意識が現れている。その背後には藤原京における新たな都市の生活の始まりがある。」(万葉集全解)

どれも基本的に「洗濯の歌」としてしか見ない。詠った人の人生や時代性を省みない解釈といえる。

 ちなみに、古代の「白」は、基本的に魔除けの色で、「衣」としては「天皇の服」以外に、「神事の斎服や葬儀の喪服」にも使われ、特に夏を表す色では無い。令制での衣の色は、位階によって規定があるが、無位は「無位<謂。庶人服制亦同也>黄(きいろ)袍(ころも)。家人奴婢、橡(つるばみ)・墨(すみぞめ)衣。」(『令義解・衣服令』)。

 

「神にしませば」について

この言葉は韻文(和歌など)的史料の『万葉集』で使われ、通説の意味は、「神いらっしゃるので」であるが、これにはすこぶる違和感を覚え、解釈の誤解を疑う。なぜなら、『古事記』や『日本書紀』を含む「六国史」や「律令関連」などの古代散文的史料では、人と神の区分がはっきりしていて、混同した痕跡がほとんど見られないからである。古代の人は神々を祭って、その加護を受ける立場であり、天皇はその人主となって「惣祭天神地祇<総じて天神・地神を祭る>」(神祇令)。

文法的に「神にしませば」は、文中の従属節(句)で、「神」が主語で、「ます」は述語動詞となって「S+V」の構造をとる。その中で「に・し」は、対象(主語)を排他的に示す助詞の「に」と「し」が結びついたもので、主格を示す格助詞の「が」に似た働きがあると思える。末尾の「ば」は述語動詞の「ます」(存在の尊敬動詞)の已然形「ませ」について、順接確定条件を表す。意味は「神いらっしゃるので」となるか。たとえば「大王者  神尓之座者」(歌番号4261)の意味は、「おほきみには 神がいらっしゃるので」であろう。

 *参考辞典:三省堂『時代別国語大辞典』上代編。その「に」、「し」、「が」、「ば」の助詞項目参照。

 次に「神にしませば」が使われている歌番号を列記する。

  205  「王者 神西座者」  歌題は弓削皇子

  235  「皇者 神二四座者」 歌題は天皇(天皇が誰なのか不詳)

  235の或本 「王 神座者」 歌題は忍壁(刑部)皇子

  241  「皇者 神尓之坐者」 歌題は長皇子

  3227 「齋祭 神二師座者」 歌題は神のいる三諸山

  4260 「皇者 神尓之坐者」 歌題は大海人皇子(後の天武天皇)

  4261 「大王 神尓之坐者」 歌題は大海人皇子(後の天武天皇)

以上のように「神にしませば」のつく対象は「天皇」や「皇子」や「山」である。これらから「天皇=神という新しい観念を生み出した」(『和歌文学大系』)や「天武朝以降の天皇即神觀による」(『万葉集全解』)の主張には、無理がある。

列記した⑥と⑦の歌の詞書きには「壬申年之乱平定以後歌二首」とあり、壬申の乱に勝利した後の歌とある。壬申の乱とは、天智天皇の死後の翌年六月二十二日に勃発した近江朝の大伴皇子と大海人皇子との皇子同士での皇位をめぐる争いである。この内乱は同年七月二十六日に、大伴皇子の首が大海人皇子にもたらされて、彼の勝利で終了する。『日本書紀』では、なぜかこの壬申年を(天武天皇)元年と記すが、大海人皇子が勝利して即位するのは、是歳に岡本宮(後飛鳥岡本宮)の南に飛鳥浄御原宮を造り、そこへ遷った後の翌年二月二十七日である。だから実際には、天武天皇元年は即位前紀にあたるはずである。『日本書紀』のこの年紀表記は、編纂時に大人の都合がはたらいたのであろう。

またこの二首の歌の後半には、「沼田」や「沼地」を都に成したと歌われるが、最近の発掘結果では、都(宮)は重層的に築かれた飛鳥宮跡の上層部に造られたようである(林部均著『飛鳥の宮と藤原京』吉川弘文館・2008年・参照)。つまり「沼田や沼地を都と成した」というのは、現実的ではなく、大海人皇子側の皇子達が、困難な状況下で、勝利したことを比喩的に詠ったものであろう。⑥4260歌に「駒の 腹這う田居を」という詞句があるが、大海人皇子側の軍旗は「赤」と言われる。『古事記』序文に「絳旗耀兵、凶徒瓦解<赤旗は兵を耀かせ、凶徒は瓦解(ガカイ)した>」とある。また「神にしませば」の言葉は、主に壬申の乱で勝利した大海人皇子側の皇子達に、使用されることにも注意が必要である。

 『日本書紀』に、次のような乱の勃発直後の記述がある。

「天皇(大海人皇子)謂高市皇子曰、其近江朝左右大臣及智謀群臣共定議。今朕無與計事者、唯有幼小少孺子耳。奈之何。 皇子攘臂、按劔、奏言、近江群臣雖多、何敢逆天皇之靈哉。天皇雖獨、則臣高市頼神祇之靈、請天皇之命、引率諸將而征討、豈有距乎。」

<天皇(大海人皇子)は、高市皇子に向かって「それ近江朝の左右の大臣と智謀の群臣は共に評議して決めている。今朕には、共に事を計る者がなく、ただ幼少で未熟な子供たちがあるのみである。これをどうすればよいか」と言う。高市皇子は自分の腕を大きくはらい、己の剱をしっかとつかんで「近江の群臣は多いといえども、誰が敢えて天皇のみ心に逆らえましょうか。天皇はお一人といわれるのなら、ならば臣下の高市が、天神と国神のみ心に頼り、天皇の命令を請けて、諸将を引率して(凶徒を)征討すれば、どうして拒むものがありましょうか」と申し上げた。>

(天武天皇元年六月二十七日)

壬申の乱の困難な中での勝利は、彼ら大海人皇子側の皇子達に「天神や地神」が味方についたような結果に思えたのであろう。

 

「明神御宇(あらみかみトあめのしたしらす)」と「神ながら」について

散文的史料に、この言葉が出てくるのは、第三十六代の孝徳天皇紀からであるが、ついでに、これについても検討したいと思う。

孝徳天皇の即位は、中臣鎌子(鎌足)が計画をたて、中大兄皇子(後の天智天皇)が実行し、権勢を振るった蘇我宗家(蝦夷とその子の入鹿)を滅ぼし、皇極天皇を退位に追い込んだ「乙巳の変」の後である。それまで、第二十六代の継体天皇から天皇の権威が衰え、有力豪族(大伴→物部→蘇我)の政治的影響力が強い時代が続いていた。ここに、孝徳天皇による「天皇親政」の復活で、所謂「大化の改新」がはじまる。そもそも皇家が皇位にある正当性は、「日本神話」での天照大神の「神勅」に求められる。

日本国は俗に「神国」と言われたほど天神の子孫(天孫)系統の氏族が多い(自称)。『新撰姓氏録』(800年代の弘仁年間に成立)に記載される約1182氏族の60%以上は、天神の子孫(天孫)を自称する(他に帰化系氏族が約28%、国神系が約2%、未定雑姓が約10%)。「天孫系統」とは、天神が現人神として地上に天降りした後の子(子孫)である。但し「日本神話」では、天照大神から「治天下」の「神勅」を受けたのは天孫系統の中でも皇家の「ニニギノ命」とその直系だけとされる。孝徳天皇は、改めて「天皇親政」を敷くにあたり、王位の正当性にその神話を根拠として、「詔(みことのり)」の冒頭に「明神御宇」の文言を天皇号の前に敢えて冠したのであろう。これは、神職を家業とする氏族に生まれた中臣鎌子(鎌足)の提案かもしれない。中臣鎌子については、「孝徳天皇紀」即位の是日条に次のように載る。

 「以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣(中略)中臣鎌子連懷至忠之誠、據宰臣之勢、處官司之上。故進退・廢置、計從*・事立云々。」

*「計從」とは「従を計る」で、卜占での天意と人々の心意をあわせは計ることを言うか。『書経』洪範の「七、稽疑。擇建立卜筮人。」で、「汝則從、龜(亀卜)從、筮(占筮)從、卿士逆、庶民逆、吉。<三從二逆、中吉。亦可擧事。>」とあって、同書の孔穎達疏に「龜筮相違、既計從之多少、明從多則吉<龜筮が相違し、既に従の多少を計り、明らかに従が多ければ吉なり>」ともある。

「明神御宇」は、「現為明神御八嶋国」とか、「明神御大八洲」(天武天皇)や「現御神<止>大八嶋国所知」(文武天皇・宣命第一詔)と書かれ、「公式令」詔書式には「明神御宇」や「明神御大八洲」と字面や読み方はいろいろあるが、その意味はどれも「神と共に天下を治める」事である(「明神」や「現神」は神の尊称。「御」は治(修)める。「宇」や「八嶋(洲)国」は天下を示す)。通説では「神として天下を治める」と言うが、これは恐らく誤読であろう。大化元年八月五日の詔には、

「隨天神之所奉寄、方今始將修万國」

<天神(天照大神)のよせ奉るところ(神勅)に随い、まさに今、始めて万国を修めようと思う>」

とあり、大化三年四月二十二日の詔には、

  「惟神、我子應治故寄。是以與天地之初、君臨之國也。」

  <これ神は、我が子に治めるべしことをことよせる。これを以て、天地の初めより、君が臨む国なり> *(少々言葉足らずの詔である)

と載せる。『日本書紀』本文で、ここの「惟神」に「かみながら」の傍訓をつけ、「惟神者、謂随神道。亦自有神道也。」と二行割りで小書の注を載せるが、原本の注としては不自然な気がする。恐らく『日本書紀』完成後約100年後の弘仁以降の『日本書紀』講書会での講師の注釈かもしれない。どちらにしろ「神ながら」は、倭語表記で「神随」と書くが、漢語表記で「随神」と書くので、意味は「神(神勅)に随い」と思うが、『万葉集』での通説は「神であるままに」(『万葉ことば事典』大和書房。2001年)である。しかし、この意味では、散文史料との整合性がない。

 

ちなみに、この「大化の改新」とは、中国文明による「文明開化」であり、明治維新の西洋文明による「文明開化」に似ているかもしれない。そのため孝徳天皇紀の冒頭部分で「(天皇は)尊仏法、軽神道、為人柔仁、好儒<仏法を尊び、神道を軽んじ、人となりは柔仁にして、儒学を好む>」と書かれる。ここの「柔仁」の一般的意味は、「温和と慈愛」と思うが、彼は、皇極天皇の時代の聖徳太子一族の襲撃事件に襲撃側の皇子(軽皇子)として参加している。「柔」には「柔:弱也」(『廣韻』)の意味も有り、恐らく徳も教養も高いが、意志は「柔弱」だったのであろう。中臣鎌足が乙巳の変の実行者に、軽皇子ではなく、中大兄皇子を選んだ理由もそこにあろう。

孝徳天皇の政治理念は「當遵上古聖王之跡、而治天下。」(大化元年七月十二日の詔)であり、ここの「上古聖王」は中国の伝説的聖帝・明王を示すと思われる。大化二年二月十五日の詔に、黄帝・尭(ギョウ)・舜(シュン)・禹(ウ)・湯(トウ)・武王など中国の古典籍が引用される。恐らく中国文明による国家像を思い描いていたのであろう。これは共に儒学を学んだ中臣鎌足も同じ気持であったと思われる。しかし、孝徳天皇には、軽皇子時代に聖徳太子一族を襲撃した過去があり、さらに改革を急げば、保守派の反感をも生む。そのため彼は孤立した晩年を迎えた。その後を皇祖母尊(皇極天皇)が、天皇位(斉明天皇)に復活重祚した為、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が目指した天皇親政の律令に基づく中央集権体制への改革は、一時的に頓挫することになった。

皇位の正当性を神話の神勅に求める「明神御宇」のフレーズは、鎌足の子である藤原不比等による律令に採用されるが、これには大きな欠点がある。皇家に於ける至尊の天照大神の神勅には、「治天下」だけではなく、神の形代の宝鏡を「同床共殿」で親祭することも含まれるが、現実にその宝鏡は、既に崇神天皇や垂仁天皇により宮中から伊勢に出されている。つまり実態は「違勅状態」にあたる。これを宮中に戻せば、過去の天皇の罪を問わねばならないが、それはできない。その答えは『日本書紀』にある。宮中から出したのは、時の天皇の意志だが、伊勢に遷ったのは天照大神の意志とされた。また伊勢神宮への待遇も飛躍的に改善されることになったか。