『日本書紀』から消えた「序」 2021.12.03

 

『古事記』と「六国史」の中で、「史書」本文中に、「編纂成立記事」があるのは『日本書記』のみであり、「序」や「表」がないのも『日本書紀』だけでありますが、「序」や「表」は、勅命による編纂書なら当然あるべきと思います。なぜ『日本書記』から消えたのか、ここでそれを少し考えてみます。

 

「上表文」と「序文」の違いについて

本題に入る前に「表文」と「序文」の違いについて述べます。

「表」とは、『文心雕龍』の「章表」に、

降七国(戦国時代)、未変古式、言事於王(天子)、皆称上書(中略)秦初定制、改書曰奏。

<戦国時代まで、未だ古式に変化はなく、事を天子に言うことは、皆上書と称した(中略)秦初の定制で、書を奏と改めた>

漢定禮儀、則有四品、一曰章、二曰奏、三曰表、四曰[]議。

<漢が礼儀を定めた時に、四品(しな・種類)となって、一は章と言い、二は奏と言い、三は表と言い、四は[]議と言う>

[]議】:『文心雕龍』では「議」と言うが、『独断』では「駮議(ハクギ)」と言う。「駮議;上奏文の様式の一つ」(学研漢和大字典)。

章以謝恩、奏以按劾、表以陳請、[]議以執異。

<謝恩に章し、按劾に奏し、陳請に表し、執異に議す。>

【按劾(アンガイ)】:劾案。罪をきびしく調べる。

【陳請(チンセイ)】:思いを述べる。「請願、陳述衷情<心の思いをのべる>」(漢典)。

執異(シツイ)】:異なる持論。「執異;謂持不同的主張<異なる持論を言う>」(漢典)。

と言います。「言」が「文」になり、「書」となり、「表」となっても、宛先は天子であることに変わりはありません。よって「表文」の頭出しが主に「臣某言・・・」と書かれます。

「序」とは、「はしがき。著書の始めにつけて、作者の意図や成立事情などをのべる短い文。」(学研漢和大字典)で、『文心雕龍』の「詮賦」に、

序以建言,首引情本<序は建言をもって、はじめに事情の根本を引きだす>」

【建言(ケンゲン)】:官庁・政府などへの意見。

【情本(ジョウホン)】:事情の根本理由。「情本;事情的根本因由。」(漢典)

と言います。このため「古事記」や「六国史」に見られるように、読者対象が天皇だけの場合は、「序」が「表」を兼ねる事にもなります。

『古事記』と「六国史」の中で、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』の「四史」は、「表」を兼ねた「序」が添えられ、その代わり「史書」の本文には“編纂成立記事”は、記載されていません。『日本書記』と『続日本紀』の「二史」だけは「序」が添えられていませんので、その代わりに、『日本書記』は、その編纂の時代を記す『続日本紀』の「本文」の中で、

1)『続日本紀』和銅七年(714)二月条

詔從六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麻呂。令撰國史。

2)『続日本紀』養老四年(720)五月条

一品舍人親王奉勅。修日本紀。至是功成奏上。紀卅卷系圖一卷。

と“編纂成立記事”が載り、『続日本紀』については、『日本後紀』に、『続日本紀』の編纂に関する二つの「表」(延暦十三年と同十六年)が転載されています。これらのことから『古事記』と「六国史」の中で、「表」を兼ねた「序」が基本的に添えられ、添えられた「史書」には、「本文」に“編纂成立記事”は無く、添えられなかった(紛失した)「史書」には、特例として「本文」に“編纂成立記事”があると言えます。『古事記』の“編纂成立記事”が『続日本紀』に無いのも当然な事と思えます。

また『日本書記』から「序」が消えたのは、『続日本紀』の編纂過程であると推定できますので、次に『日本後紀』が転載する『続日本紀』の編纂過程を記す二つの「表」を見てきます。

 

『日本後紀』で転載する『続日本紀』の上表文

『日本後紀』は、『続日本紀』の後を承ける国史です。その序文によれば、桓武天皇の延暦十一年(791)から淳和天皇の天長十年(833)に及ぶ全四十巻で、弘仁十年(819)に嵯峨天皇の勅を承けて、仁明天皇の承和七年(840)十二月に完成したとされます。六国史の中で、この『日本後紀』だけが全巻が現存せず、欠本が多く、『続日本紀』の上表文を記載する「延暦十三年」条と「同十六年」条の内、「延暦十三年」条は失われていますが、それは『類従国史』で補えます。そして、『続日本紀』の修史事業には、三人の天皇が関与し、「表」を一読しただけでは、複雑でわかりづらいので、これを整理してみます(修史に関係する部分のみ)。

 

延暦十三年794年)上表文(藤原朝臣継縄の上表文)

「原文」

1右大臣従二位兼行皇太子傅中衛大将藤原朝臣継縄、奉勅修国史成、詣闕拝表曰;(中略)爰命臣与正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衛佐伊豫守臣菅野朝臣真道・少納言従五位下兼侍従守右兵衛佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等、銓次其事、以継先典。

2降自文武天皇、訖聖武皇帝記注不昧、余烈存焉。但起自寳字、至寳亀(中略)故中納言従三位兼行兵部卿石川朝臣名足・主計頭従五位下上毛野公大川等、奉詔編緝、合成廿巻、唯存案牘、無綱紀。

3臣等、芟其蕪穢、以撮機要、摭其遺逸、以補闕漏、刊彼此之枝梧、矯首尾之差異。(中略)勒成一十四巻、繋於前史之末。

 

「訳文」

1)右大臣従二位兼行皇太子傅中衛大将藤原朝臣継縄等は、勅を承けた修国史が完成し、闕(みかど)に至り、拝表して曰く「(中略)ここに、臣と正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衛佐伊豫守臣菅野朝臣真道・少納言従五位下兼侍従守右兵衛佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等は、そのことを銓次して、先典(日本書記)に継けることを命じられました。

2)文武天皇より以降、聖武皇帝までの記録はあきらかで、余烈もここに存しています。ただし、天平宝字より起こして宝亀に至る(中略)ところは、故中納言従三位兼行兵部卿石川朝臣名足・主計頭従五位下上毛野公大川等が詔を承けて編集し、合わせて二十巻を成しましたが、(これには)ただ公務的文書のみがあって、綱紀がありません。

3)臣等は、その蕪穢を削って、機要をとり、その遺逸を拾って、闕漏(欠漏)を補い、かれこれのじゃまなものをけずり、首尾の差異を正した(中略)(二十巻を)十四巻に勒成し、前史(天平勝宝八年紀)の末に繋げました。」

 

「語注」

【銓次(センジ)】:順序をつけること。「銓次;排列先後次序」(漢典)

【降自文武天皇、訖聖武皇帝記注】;光仁天皇の勅命により石川朝臣名足、淡海眞人三船、當麻眞人永嗣等が、「曹案」を元に修撰した「文武天皇~聖武皇帝」の二十九巻。

【記注】:記録。

【昧(マイ)】:くらい。「不昧」を「あきらか」と訳した。

【余烈(ヨレツ)】:のちまで影響を及ぼす先祖の事跡。

【焉(エン)】:ここに。

【寳字】:天平宝字。孝謙天皇と廃帝(淳仁天皇)の年号。

【寳亀】:宝亀。光仁天皇の年号。

【案牘(アントク)】:「案牘;公務文書」(漢典)

【綱紀(コウキ)】:国家を治めるおおもとの規律。「綱紀;治理」(漢典)

【芟(サン)】:けずる。かる。

【蕪穢(ブワイ)】:雑草が群生した荒れた土地をさすが、いやしくて下品な例にも使われる。「蕪穢;雜草叢生、土地荒廢」(漢典)

【撮(サツ)】:とる。

【摭(セキ)】:ひろう。「摭;拾也」(説文)

【枝梧(シゴ)】:じゃまな枝やもの。

【矯(キョウ)】:ただす。「矯;糾正、匡正。」(漢典)

【勒成(ロクセイ)】:「まとめあげる」と解した。

【前史之末】:天平勝宝八年紀の後。天平勝宝八年は聖武太上天皇が崩御。

 

延暦十六年797年)上表文(菅野朝臣眞道の上表文)

「原文」

1)重勅從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子學士菅野朝臣眞道・從五位上守左少辨兼行右兵衛佐丹波守秋篠朝臣安人・外從五位下行大外記兼常陸少掾中科宿祢巨都雄等、撰續日本紀、至是而成。上表曰(中略)勅眞道等、銓次其事、奉揚先業。夫自寳字二年至延暦十年卅四年廿卷、前年勒成奏上。

2) 但初起文武天皇元年歳次丁酉、盡寳字元年丁酉惣六十一年、所有曹案卅卷、語多米鹽、事亦踈漏。前朝詔故中納言從三位石川朝臣名足・刑部卿從四位下淡海眞人三船・刑部大輔從五位上當麻眞人永嗣等、分帙修撰、以繼前紀。而因循舊案、竟无刊正。其所上者唯廿九卷而已、寳字元年之紀全亡不存。

3) 臣等搜故實於司存、詢前聞於舊老、綴叙殘、補緝缺文。雅論・英猷、義關貽謀者、惣而載之。細語・常事、理非書策者、並從略諸。凡所刊削廿卷、并前。九十五年四十卷、始自草創、迄于斷筆、七年於茲。

 

「訳文」

1)(桓武天皇は)從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子學士菅野朝臣眞道・從五位上守左少辨兼行右兵衛佐丹波守秋篠朝臣安人・外從五位下行大外記兼常陸少掾中科宿祢巨都雄等に、『続日本紀』を撰ぶことを重ねて命じたが、是に至って完成した。上表に曰く「眞道等に其の事を銓次して、先業を揚げ奉れと命じられた。それ寳字二年より延暦十年に至る三十四年間の二十卷は、前年に勒成して奏上いたしました。

2)ただし、初め、文武天皇元年(697年)より宝字元年(757年)までの合計六十一年の(官府で)所有していた曹案の三十卷には、語に米塩が多く、事柄にもまた疎漏がありました。(それで)前朝(光仁天皇)は、故中納言從三位石川朝臣名足・刑部卿從四位下淡海眞人三船・刑部大輔從五位上當麻眞人永嗣等に詔して、分担して修撰させて、それを前紀(日本書紀)に継がせました。しかし、旧案(曹案)に因循して、ついに誤りを正すことが無かった。その上げたところのものは、ただ二十九巻のみで、宝字元年紀は全く亡くなり存在していません。

3)(宝字元年紀は)臣等は、故実を司存に捜し、旧聞を古老に問い、残るものを収録し、欠文を補い集めました。雅論・良策や、義が貽謀に関われば、総て載せました。細語・常事や理が書くほどではない策は、ならびにしたがってこれらを省略しました。凡そ削りに削る所の二十巻(石川名足の修史の二十九巻に新たに宝字元年紀を加え、それをさらに二十巻に削る)は、前にならべました(現存する『続日本紀』の巻第一から巻第二十までの巻頭撰者名は菅野朝臣眞道となっている)。九十五年の四十巻は、草稿より始めて、断筆(完成)まで、ここに七年です。

 

「語注」

【勅】:天子の命令。

【歳次丁酉】:歳星が丁酉に宿る。697年。

【寳字元年丁酉】:天平宝字元年(757年)。「天平宝字」は孝謙天皇と廃帝の年号。

【前年勒成奏上】:延暦十五年。宝字二年から延暦十年までの二十巻が完成する。責任者の藤原朝臣継縄は、この年の七月十六日に亡くなる。現存する『続日本紀』の巻第二十一から巻第四十の巻頭撰者名は藤原朝臣継縄となっている。

【曹案(ソウアン)】:官撰案。恐らく図書寮によるものであろう。「職員令」に「図書寮;掌・・・修撰国史」とある。

【米鹽(ベイエン)】:語としては、米と塩だが、「米鹽;比喩瑣碎<些細なことのたとえ>」(漢典)と言う。

【前朝】:光仁天皇(諱は白壁。桓武天皇の父)。

【帙(チツ)】:本を包むおおい。ふみづつみ。

【竟】:ついに。

【无刊正(ムカンセイ)】:無刊正。けずり正すことが無い。

【司存(シソン)】:二字の名詞句とした。役所に存在する記録。

【寳字元年之紀】:現存する『続日本紀』の巻第二十にあたる。養老律令の施行、橘奈良麻呂の乱による自死、道祖王の廃太子と乱の嫌疑による拷問死等が載る。光仁天皇の時代に、「天平宝字元年紀」は失われたか。

【詢(ジュン)】:問う。

【前聞(ゼンブン)】:旧聞(キュウブン)。「前」は昔で、昔から聞き伝えられてきた話。

【舊老(キュウロウ)】:旧老。古老(昔を知る老人)。

【綴叙(テイジョ)】:収録。綴;集める。叙;記述する。

【補緝(ホシュウ)】:補い集める。「緝」はあつめる。

【缺文(ケツブン)】:欠文。

【雅論(ガロン)】:すぐれた議論。「雅論;猶高論」(漢典)

【英猷(エイユウ)】:良計、良策。「英猷;猶良謀」(漢典)。「良謀;好的策略。良策」(漢典)

貽謀(イボウ)】:「貽謀;指父祖對子孫的訓誨<子孫への父や祖父の教えを指す>」(漢典)

【所刊削廿卷】:現存する『続日本紀』の巻第一から巻第二十にあたる。この間の養老四年に『日本紀(日本書紀)』の編纂成立記事が載る。

【草創(ソウソウ)】:起稿。

【七年於茲】:逆算すると、桓武天皇の「修史事業」にたいする最初の勅は延暦10年となる。

 

天皇別修史事業について

前述の上表文より『続日本紀』の修史事業を天皇別に整理します。

廃帝(淳仁天皇) *明治三年、「廃帝」に「淳仁天皇」の名が贈られた。

  官撰国史(曹案)

文武天皇元年~天平宝字元年の30

完成年は不詳。

 

光仁天皇

  石川朝臣名足・淡海眞人三船・當麻眞人永嗣らによる勅撰修史。

文武天皇~天平勝宝八年の29

の曹案30巻を修訂しが、末巻の「天平宝字元年紀」を失う。

完成年は不詳。

  石川朝臣名足・上毛野公大川らによる勅撰修史。

天平宝字~宝亀の20

完成年は不詳。

 

桓武天皇

  藤原朝臣継縄・菅野朝臣真道・秋篠朝臣安人らによる勅撰修史。

③の20巻を14に修訂。

完成年は延暦十三年。

  藤原朝臣継縄・菅野朝臣真道・秋篠朝臣安人らによる勅撰修史。

④を増補した天平宝字二年~延暦十年の2014巻+増6巻)。

完成年は延暦十五年。(藤原継縄は同年716日に亡くなる)

  菅野朝臣真道・秋篠朝臣安人・中科宿祢巨都雄らによる勅撰修史。

文武天皇元年~天平宝字元年の20

完成年は延暦十六年。

②の29巻を全面的に修訂し、亡失した「天平宝字元年紀」も復原した。

そこから大いに削って、元30巻を20巻とする。

⑤と⑥をあわせて40として、ほぼ現存する『続日本紀』の姿となった。

 

結語

 

  現存する『続日本紀』は、約六度の編纂過程を経て、結果的に前半の第一巻から第二十巻が最後に一応完成しましたが、その後も多少の変更がなされたようです。『日本書記』編纂の完成を記す記事は、最終的に菅野朝臣真道が担当した『続日本紀』の「巻第八」に記されます。その本文に記載されたと言うことは、その時には『日本書記』の「序」は失われていたと思われます。

失われた時機は、恐らく「淳仁天皇(廃帝)」が失脚し廃位された後ではないかと考えます。なぜなら「廃帝(淳仁天皇)」の父親は『日本書紀』編纂の責任者である舎人親王ですから、それ以前に「序」を亡くすことは無いと思われます。恐らく亡失した期間は、廃帝の後を受けて重祚した称徳天皇から『続日本紀』が完成する延暦十六年(桓武天皇)の間と思われます。もし、その間に『日本書紀』の修訂がなされたならば、「序」の亡失理由は、舎人親王の「序文」と齟齬を来した結果ではないかとも考えられます。亡失の原因が過失か故意か分かりませんが、個人的には後者を疑います。

 世間では、上表文を兼ねた「序」が附される『古事記』の編纂記事が、『続日本紀』本文に記載されないことを問題視する人もいますが、本文への記載は、原則的非公開扱いをする当時の「史書」類にとっては重複記載にあたるでしょう。むしろ『続日本紀』本文に『日本書記』の簡単な編纂記事だけを残して、その上表文を兼ねた「序」が失われた方が問題だと思います。