「太神宮諸雑事記」訳注(抄)

 20181229

2022.03.11補訂

「太神宮諸雑事記」訳注試案(抄)

 (伊勢神宮最古の歴史書)

 

はじめに

『太神宮諸雑事記』(だいじんぐうしょぞうじき)は、伊勢神宮側の基本史料の一つで、『神道大系』(神道大系編纂会「神宮編一」昭和五十四年)の「解題」(同書P.1822)を引用すれば、

「この本は二巻に分かれ、第一巻は垂仁天皇の二十五年より後一条天皇の長元八年<乙亥(1035年)>九月までの五十八代に亙る一千四十年の記事を収め、第二巻は後朱雀天皇の長暦元年<丁丑(1037年)>より後三条天皇の延久元年(1069年)十一月十二日<辰甲>までの三代に亙る三十三年間の記事を収める。」

と言い、作者については、同解題に、

「皇大神宮禰宜荒木田徳雄神主(貞観十七年(875)禰宜拝任、延喜五年(905)辞任。)の家々に代々相伝されて来た古記文があって、その後、その孫の興忠神主(応和元年(961)禰宜拝任、天元元年(978)辞任。)・その子の氏長神主(天元元年(978)禰宜拝任、長保三年(1001)辞任。)・その子の延利神主(長徳元年(995)禰宜拝任、長元三年(1030)辞任。)・その子(系図に拠れば孫に当たる。)延基神主(長元二年(1029)禰宜拝任、承暦二年(1078)卒去。)等が代々これを相伝し、且つ各自が日記を書き継いで来たものである」

と言われる。   

神宮史料として有名な『皇太神宮儀式帳』、「延喜の大神宮式」、『倭姫命世記』等は、既に詳細な注釈などがありますが、『太神宮諸雑事記』に関しては、管見ですが目にしません。そこで、今回無謀とは思いますが、『太神宮諸雑事記』(以下「神宮雑事」と表記)の伊勢神宮の創始から上代部分(嵯峨天皇の時代)までの「訳注」を試みたいと思います。

現在と言う時制は、過去と未来の時間的幅のない境界線であり、人もその線上に実存し、人の過去やその事実は、人による記憶や記録の存在です。歴史探究とは、その記録から過去の人の存在や事実を探るもので、基本は想像ではなく、残された記録(史料)の真偽も含めた読解にあって、読解に始まり読解に終わると言えましょう。これは、私の歴史にたいする基本姿勢でもあります。

 

凡例

一、原文のテキスト底本は、多くの公立中央図書館に蔵書される「群書類従巻第三」(神祇部三)を使用。

 

二、他に『神道大系』の校訂本(神宮編一)を参照。

三、原文を適時切り、私見で「句読点」をつけ、「原文」、「訳文」、「語注」の順に掲載。

四、原文の旧字、変体字の新字への変換や改行は適時行う。

五、訳文(現代語的訳文)は、原文を尊重しながら意味を取ることに重点を置く。

六、原文は基本的には倭習漢文であり、その漢字の読み等は、『神道大系』本に付される諸本の傍訓などを参照。

七、原典・原文で本文に対する「二行割小書き文字」は、< >でくくる。( )内は筆者の注記

八、訳注での「原文」は、凡例三、四、七を経たものを「原文」とする。

 

「原文」(1)(伊勢神宮創始)

「垂仁天皇<寿百四十>(傍注に<三十>)

天皇即位二十五年<丙辰>、

天照坐皇太神、天降坐於大和国宇陀郡。

于時国造進神戸等<今号宇陀神戸是也>。

是已皇太神宮始天降坐本所也。

其後奉令鎮坐伊勢国度会郡宇治郷五十鈴川上下都磐根御宮所也。

 

「訳文」

垂仁天皇(標題)<寿命は百四十歳>

(垂仁)天皇が即位して二十五年<丙辰>に、

天照坐皇太神は大和国宇陀郡に天降(あまくだり)ます。

時に、(大和の)国造は、神戸等をたてまつる<現在、宇陀の神戸と言うのは是である>。

是をもって、(宇陀は)皇太神宮がはじめて天降(あまくだり)ます本所なり。

その後、(朝廷は)伊勢国度会郡宇治郷五十鈴川のほとりの下都磐根の御宮所に鎮めさせ奉る。

 

「語注」

【垂仁天皇】:古事記に「伊久米伊理毘古伊佐知命(153歳)」。日本書紀に「活目入彦五十狭茅天皇(140歳)」。

【丙辰(ヘイシン)】:中国暦の六十進数の干支年号。内田正男氏の『日本書紀暦日原典』によれば紀元前の四年にあたる。

【天照坐皇太神(あまてらします・すめおおかみ)】:古事記に「天照大御神」。日本書紀に「天照大神」等。

【天降坐(あまくだり・ます)】:「坐(ます)」は尊敬の補助動詞で、ここは動詞としての意味はない。古事記の猿田毘古神の段に「聞天神御子天降坐」とある「坐」も同様。

【大和国宇陀郡】: 垂仁紀(日本書紀)二十五年三月十日条に、「託干倭姫命。爰倭姫命求鎮坐大神之處。而詣莵田篠幡。」。岩波書店の日本書紀補注に、「莵田は大和国宇陀郡で今、同郡榛原町に篠幡神社がある。」と言う。「太神宮」の「伊勢」に至までの諸国遍歴の始まりを言うが、遍歴経路は『日本書紀』の他に『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世記』に諸説がある。

【国造(くにのみやつこ)】:『皇太神宮儀式帳』(以下「内宮儀式帳」と表記)には、「大倭國造」と言う。神武天皇紀二年二月条に「以珍彦為倭國造」。『倭名抄』に「畿内国大和、国府在高市郡」。 「国造」とは、『古事記伝』(七之巻)に「国造は諸国にて其国の上(カミ)として、各々其国を治る人を云う尸(カバネ)なり」という。天皇親政による直接統治(中央集権)は令制以後であり、それ以前は、所謂「封建」的治政で、各地の有力者が、皇家(王家)と関係を結んで、その地域を治めたと思われる。その有力者が「国造」や「縣主」などであろう。

【神戸(かんべ)等】:「神戸」とは、「神祇令」に「凡神戸調庸及田祖者、並充造神宮及供神調度。其税者、一準義倉<およそ神戸の調庸と田祖は、皆一様に神宮を造ることと神の調度を供える事に充てる。その税は、一に義倉に準ずる>」とあり、主に特定神社の財源を担う民。「儀式帳」には「神御田并神戸進」とあって、ここの「神戸等」の「等」は「神田」をさすか。

【是已・・・始天降坐】:神道大系本は「是已」を「これ、すでに」と読ませるが、これでは意味が通らない。「已」は「すでに」の他に「已字與以通」(助字辨略)と「以」と通用し、「是以」の意と解した方が通じる。後文で「すでに」の意味には「既」の文字を使用している。また、ここで「始天降」と言うが、日本書紀では伊勢国の磯宮が始とする。

【皇太神宮(コウタイジングウ)】:天照大神のこと。名前を控え、宮の名称で言う。

【五十鈴川上】:ここの読みは「いすずの川のほとり」。岩波書店の「日本古典文学大系新装版」の『日本書紀』は「其祠立於伊勢國。因興斎宮干五十鈴川上。是謂磯宮(いそのみや)。則天照大神、始自天降之處也。」(垂仁紀二十五年三月条)で「上」に「ほとり」の傍訓を付ける。倭玉篇(日本古典全集版)の「上」にも「ほとり」の訓あり。また本居宣長の『古事記伝』や『日本書紀』の岩波本や国史大系本等では「其祠立於伊勢國」の読みを「その祠“を”伊勢の国に立てたまう」として、「祠」に目的格を示す“を”を付けているが、ここの「祠」の位置は「主格(主語)」の位置にあたり、「漢語語法」では、目的語が主語の位置に来れば、その文は受動(受け身)文*となり、「その祠は、伊勢の国に立てられた」となる。「是謂磯宮」についても同様に受動文で「是は磯宮と呼ばれた(言われた)」である。「祠(ほこら)」とは、神や神宝を安置する社(やしろ)。順序を整理すれば、先ず祠が立てられた。次に、それによって、斎王の拝殿と居住殿を兼ねた「斎(いつき)の宮」を「五十鈴」の川のほとりに興し、その宮は「磯宮(いそのみや)」と呼ばれた。恐らく「祠」と「斎宮」の建物配置は、神勅に従い「同床共殿」的配置であったであろう。現在の神宮は社殿のみで拝殿はなく、基本的な拝礼は、社殿前の屋外で行う。

そして、本居宣長は『古事記伝十五之巻』で「五十鈴」は地名であると言い、「磯宮」は「多気郡の相可(あふかの)郷のあたり」と推定する。『日本書紀』で神武天皇の正妻を「媛蹈鞴“五十鈴”媛命(ひめたたら“いすず”ひめのみこと)」と言う。また「多気郡」は、元々は「度會」であり、内宮の「儀式帳」に、孝徳天皇の治世に「度会」を「度会郡」と「多気郡」の二つに分け、さらに天智天皇の治世で、多気郡から飯野郡が分かれたと言う。大神宮が「多気郡」から現在地でもある「度会郡」に移るのは、文武天皇二年十二月の「乙卯(二十九日)、遷多気大神宮于度会郡」(続日本紀)で、西暦698年の1229日と言う。大神宮は、『日本書紀』で「磯宮」と呼ばれたと言い、『古事記』では、「伊須受能宮(五十鈴の宮)」と言う(これが度会に移り、その側を流れる川も「五十鈴川」となったか)。これで「祠(社殿)」と「斎王の斎宮」が完全に分離され、古来の「同床共殿」形式はここに終わる。この「神宮雑事」は、持統天皇の次の項目は元明天皇で、その間の文武天皇の項目は省略されている。

 

*)「漢語語法」の受動文は、主動者と受動者の語順が入れ替わる。受動者は主語の位 置に置かれ、主動者は、「於」、「被」、「為」などの助字を前に伴って、目的語の位置に置かれる(濱口富士雄編『重訂版・漢文語法の基礎』東豊書店・2018年・P.94参照)。また主動者を隠して提示しない場合もある。「動作行為的主動者也是隠而不提的」(南開大学編『古代漢語讀本』人民教育出版者・1960年・P.96)。

 

 【下都磐根(したつ・いはね)】:神武元年紀に「太立宮柱於底磐之根」。祈年祭等の祝詞に「下都磐根<爾>宮柱太知立」とあり、掘っ立て柱を立てる地中の基礎石を指すか。

 

「原文」(2

抑皇太神宮勅<託宣>偁、

我天宮御宇之時、天下四方国摂録、可天下宮所、放光明、見定置先畢。

仍彼所可行幸御之由宣。

 

「訳文」

(伊勢に来たことは)そもそも、皇太神宮(天照大神)が勅<託宣>して、

「我、天宮の治世の時に、天下四方の国をおさめ、天下に宮すべき所を、光明を放ち、見定め置くことは先に終えている」と言った(称した)。

かさねて(天照大神が)彼の所(伊勢)に行幸(みゆき)しますべき由をのべた。

 

「語注」

【抑】:そもそも。ことのおこり。

【勅(チョク)】:天子の命令やお言葉。「漢制度曰:帝之下書有四。一曰策書,二曰制書,三曰詔書,四曰誡敕。」(後漢·光武紀註)。この勅は、「儀式帳」に「願給国求奉」とある文言をさすか。日本書紀にも「故隨大神教、其祠立於伊勢國・・・」(垂仁紀二十五年三月)とある。

【託宣(タクセン)】:神託。人に託して神の言葉を言う。大系本は本文としているが、「勅」の「注釈文」とした方が良い。つまり、この「神勅」は、人が語った言葉と言うこと。

【偁(稱・称)】:言う。称する。

【御宇(ギョウ)】:宇(天下、一家)を御すで、治世。和訓では「あめのしたしろしめす」。日本書紀に「於纒向玉城宮御宇天皇之世」(仁徳天皇即位前紀)など使われる。「公式令」も同様。しかし古事記などは「坐畝火之白檮原宮、治天下也。」(神武記)とあり、古い史料は「治天下」が使用される。

【摂録】:「摂」は「兼也。録也。」(廣韻)とあり、「録」と互訓の関係。「録」は「取也。」(公羊傳·成九年・註)。「總(すべおさめる)也。」(增韻)。「摂録」は同義語の関係と見て、二字一語として「おさめる」とした。またここで「天下四方国摂録」と言うが、古代の天照大神祭祀は、延喜式に「凡王臣以下、不得輙供太神幣帛<およそ王臣以下は、太神に幣帛を供えることは(許可無く)できない>」(神祇式)とあるように天皇だけによる祭祀であり、尊卑の別はあっても伊勢神宮自体に他の神社との主従関係など支配、被支配関係は確認出来ない。

【放光明】:「法華経」などの影響を受けるか。「放眉間白毫相光、照東方万八千世界、靡不周遍<眉間の白毫相より光を放ち、東方一万八千世界を照らし、あまねからざることなし>。」(妙法蓮華経・序品第一)。

【行幸(ギョウコウ)】:天皇のお出まし。和訓で「みゆき(御行)。いでまし。」。古事記に「幸行」。「幸」一字でも同様。「幸、天子所至也。」(玉篇)。

【仍】:かさねて。「仍:重也、頻也」(『康煕字典』)

【御】:ます。尊敬を示す補助動詞。

【宣】:のる(言う)。尊敬語としての「のたまふ」、「のらす」。大系本の傍訓に「サトシタマフ」とある。

 

「余談」<1>

この『太神宮雑事記』(以後「神宮雑事」と表記)の原文(1)と(2)では、天照大神が宮中から出て、諸国を遍歴し、伊勢に移った事は、天照大神の自発的意志によると主張する。しかし、これは、下記の先行史料である『日本書紀』①や「内宮の儀式帳」②などの記述と異なる。

  「先是、天照大神、倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢共住不安。故以天照大神、託豐鍬入姫命、祭於倭笠縫邑<これ(疫病禍)より前は、天照大神と倭大國魂の二神は、並びに天皇大殿の内で祭られていた。しかし、(崇神天皇は)その神の勢いを畏れ、共に住むことが不安になった。それで天照大神を豊鍬入姫命に託して、倭の笠縫の村で祭った>。」(『日本書紀』・崇神天皇六年)

  (崇神)天皇同殿御坐、而同天皇御世<爾>、以豊耜入姫命、為御杖代、出奉<支><(崇神)天皇は(宝鏡と)同殿におわしましたが、(宝鏡は)同天皇の御世に、豊耜入姫命をみ杖代(つえしろ・介助者)として、出したて奉られた>。」(「内宮の儀式帳」)

以上の様に『日本書紀』や「内宮の儀式帳」では、時の天皇の意志で、天照大神(宝鏡)を宮中から出したとする内容となっている。神に「神勢(神威)」あっての神祭りであり、何をそこまで畏れたのか。そもそも皇孫には、天照大神から「天下の王」たる神勅の他に、次のような神勅も科されている。

1)「此之鏡者、専為我御魂而、如拝吾前、伊都岐奉<この鏡は、もっぱら我が御魂となして、吾が前を拝むが如く、いつき奉れ。>」(『古事記』)

2)「吾兒視此寶鏡當猶視吾、可與同床共殿以為斎鏡<吾が子は、この宝鏡を視ることは吾を視るがごとくし、ともに床を同じくし、殿舎をともにして、もっていつきの鏡と為すべし>。」(『日本書紀』神代下第九段一書第二)

「神授の宝鏡」は、基本的には天皇と寝食を共にする同床共殿での祭祀である。しかし、現実にはは、それを畿内ではなく国外の伊勢に移し、宮中ではわざわざ「模造品の宝鏡」*まで作り、天照大神の宮中内祭祀を継続させると言う現代まで続く不可解な状況が、ここにうまれた。

  (*)「至於磯城瑞垣(崇神天皇)朝、漸畏神威、同殿不安・・・更鋳鏡、造剣、以為護身御璽。是今踐祚之日所獻神璽之鏡剣也<磯城瑞垣(崇神天皇)の朝廷に至って、ようやく神威を畏れ、同殿に安からず・・・さらにまた鏡を鋳造し、剣を造り、もって護身の御璽となす。これが、今の践祚の日に献じるところの神璽の鏡と剣なり>。」(『古語拾遺』)。

後世、神勅への違勅行為でもあるこの不自然な状況を説明するために、色々なこじつけが生まれた。この「神宮雑事」の天照大神が自ら希望した説もその一つであろう。現在も臆測の諸説が作られつづけている。

 順徳天皇(在位;12101221年)の著作といわれる『禁秘抄』には、宮中での「模造の宝鏡」の扱いを次のように述べる。

  「左右近衛五位蔵人供奉之、行幸之時如此。」

   訳文;左右近衛五位の蔵人がこれを供奉し、行幸の時も如此(かくのごとし)。

  「入御時、主上下地御。唐櫃二合又五合。」

   訳文;(神璽が)御殿にお入りの時には、主上(天皇)が地に下りて御す。(神璽をいれた)唐櫃は二つ又は五つ。

   ※唐櫃(からひつ)が二つの時は、鏡と太刀。五つの時は、鏡・太刀・契・鈴・印。(関根正直著『禁秘抄釈義』(明治三十三年)参照)。

 つまり、「模造品」を「神授品」の如く扱い、行幸の時にも、常に側に置き、天皇と共にあって、『万葉集』に詠まれる「神にしませば」や、「公式令」の「明神御宇(あらみかみトあめのしたしらす)の言葉も、常時この「神授品」と共にある事を言う。

ちなみに、『古事記・上巻』に「此二柱神者、拝祭佐久々斯侶伊須受能宮<この二柱の神は、さくくしろ五十鈴の宮に拝(おが)み祭られる>」と言う文があるが、この二柱の神の一つは「鏡」であり、もう一つは地上に天降った「天照大神」である(天照大神は本来“天上”にいますべきであろう)。この二柱の神は、現代も変わりなく、伊勢神宮で拝祭されている。「天照大神」への朝夕のお食事は、そこにいますが如くに、一日も欠かさず提供される。『古事記』は「神授の宝鏡」を伊勢に出したことや、「天照大神」が地上に天降ったことに関して沈黙しており、そのため、この文の二柱の神が、何なのかが分かりづらくなっている。

オカルト部分を除いて、この不自然な状況を見れば、背景に古代の政変がうかがえる。先の『日本書紀』や「内宮の儀式帳」の記述によると、神授の宝鏡と共に宮中から出されたのは、豊(とよ)姫(豊鍬入姫命)である。この豊(とよ)姫は、中国史書の「魏志倭人伝」に、「復立卑弥呼宗女臺與年十三為王<また卑弥呼の宗女トヨ十三歳を王となす>。」とある「臺与(トヨ)」と重なる部分がある。伊勢での神宮祭祀の創始と「記紀」に記述されない卑弥呼に関する疑問は、日本古代史の二大疑問と言えるが、ひょっとするとこの二つは、表裏一体をなすかもしれない。

 

「原文」(3

倭姫内親王奉載<天>、

先伊賀国伊賀郡一宿御坐、即国造奉其神戸。

次伊勢国安濃郡藤方宮御坐三年之間、国造奉寄神戸六箇処也。

所謂安濃・一志・鈴鹿・河曲・桑名・飯高神戸等也。

次尾張国中嶋郡一宿御坐、国造進中嶋神戸。

次三河国渥美郡一宿御坐、国造進渥美神戸。

次遠江国浜名郡一宿御坐、国造進浜名神戸。

 

「訳文」

倭姫内親王は(天照大神を)いただきたてまつって、

まず、伊賀の国の伊賀郡にひと夜おわしますに、

やがて(すぐに)、伊賀の国造が伊賀の神戸をたてまつる。

次に、伊勢の国の安濃郡藤方宮におわしますこと三年の間に、

伊勢の国造が神戸六カ所を寄せたてまつるなり。

(これらは)所謂、安濃・一志・鈴鹿・河曲・桑名・飯高の神戸らなり。

次に、尾張の国の中嶋郡にひと夜おわしますに、(尾張の)国造が中嶋の神戸をたてまつる。

次に、三河の国の渥美郡にひと夜おわしますに、(三河の)国造が渥美の神戸をたてまつる。

次に、遠江の国の浜名郡にひと夜おわしますに、(遠江の)国造が浜名の神戸をたてまつる。

 

「語注」

【倭姫内親王】:垂仁天皇の女子。日本書紀に「倭姫命」。古事記に「倭比賣尊」。「内親王」は、「継嗣令」等に規定はないが、「家令職員令」に「親王<内親王准此>」とあり、待遇は親王に準じる。親王の規定は「凡皇兄弟皇子、皆為親王。」(継嗣令)とあるが、これは男子。後に「詔曰・・・兄弟姉妹親王〈止〉爲〈与止〉」(天平宝字三年(759)六月)と男女一緒に規定される。六国史での初見は「賜親王、諸臣、内親王、女王、内命婦等位。」(持統紀・五年(691)正月)か。

【伊賀国】:倭名抄に「伊賀(<以加(いか)>)国<国府在阿拝郡。行程上二日、下一日>管四(郡)。阿拝<安倍(あへ)>。山田<也末太(やまた)>。伊賀(<以加>)。名張<奈波利(なはり)>。」。

【一宿】:大系本の傍訓に「ひとよ」。一泊。神宮雑事は、伊勢国以外は「一宿」とする。

【其神戸】:伊賀の神戸。『神宮雑例集』(巻第一)に「神戸四百十三戸<七ヶ国在二十一ヶ處>;(その内)三百五十三戸<本神戸>御鎮座之昔国造貢進。・・・伊賀国伊賀神戸<二十戸>」とある。

【伊勢国安濃郡】:倭名抄に「伊勢(<以世>)国<国府在鈴鹿郡。行程上四日。下二日。>管十三(郡)。桑名<久波奈(くはな)>。員辨<為奈倍(ゐなへ)>。朝明<阿佐介(あさけ)>。三重<美倍(みへ)>。河曲<加波和(かはわ)>。鈴鹿<須須加(すすか)>。奄藝<阿武義(あむき)>。安濃<安乃(あの)>。壹志<伊知之(いちし)>。飯高<伊比多加(いひたか)>。多気<竹(たけ)>。飯野<伊比乃(いひの)>。度会<和多良比(わたらひ)>」とあり、『武備志』の「巻二百三十一/日本考/津要」に「(日本)国有三津(中略)洞(アノ)津<伊勢州所属>」とある。ここの「洞津」が「安濃の津(港)」と言われる。

【藤方宮】:「安濃郡藤方宮」と言うが、内宮儀式帳には「壹志藤方片樋宮」と言う。

【神戸六箇処】:『神宮雑例集』(巻第一)に「伊勢国百五十二戸六箇;飯高神戸<三十六戸>。壹志神戸<二十八戸>。安濃神戸<三十五戸>。鈴鹿神戸<十戸>。川曲神戸三十八戸>桑名神戸<五戸>」と言う。

【尾張国】:倭名抄に「尾張(<乎波里(をはり)>)国<国府在中島郡。行程上七日、下四日。>管八(郡)」。

【中嶋(奈加之萬)郡神戸】:『神宮雑例集』(巻第一)に「本神戸四十戸<号中嶋神戸>」。

【進】:大系本の傍訓に「たてまつる」。

【三河国】:倭名抄に「参河(<三加波(みかは)>)国<国府在寶飯(<穂>。「寶飯」二字で「ほ」)郡。行程、上十一日、下六日>管八(郡)」。

【渥美神戸】:『神宮雑例集』(巻第一)に「本神戸二十戸<号渥美神戸>」。

【遠江国】:倭名抄に「遠江(<止保太阿不三(とほたあふみ)>国<国府在豊田郡。行程上十五日、下八日>管十三(郡))。

【浜名神戸】:『神宮雑例集』(巻第一)に「本神戸三十戸<号濱名神戸>」。

 

*「各史料の遍歴経路比較」

(偽書の疑いがある『倭姫命世記』は除く。*『皇字沙汰文』参照)

1)【垂仁紀二十五年(日本書紀)】

笠縫邑(豊鍬入姫命)→菟田篠幡(倭姫命)→近江国→東美濃→伊勢国(五十鈴川上・磯宮)。

<同書一云>)磯城厳橿之本(倭姫命)→伊勢国渡遇宮。

 

2)【皇太神宮儀式帳】

不明地(豊鍬入姫)→美和・御諸原(倭姫命)→菟田・阿貴宮→佐々波多宮→伊賀・空穂宮→阿閇・柘殖宮→淡海・坂田宮→美濃・伊久良賀波宮→伊勢・桑名野代宮→河曲→鈴鹿・小山宮→壹志・藤方片樋宮→飯野・高宮→多氣・佐々牟江宮→玉岐波流礒宮→度會国・宇治家田田上宮→伊須須乃河上。

 

3)【太神宮諸雑事記】

大和國宇陀郡→伊賀國伊賀郡(倭姫命)→伊勢國安濃郡藤方宮→尾張國中嶋郡→三河國渥美郡→遠江國濱名郡→伊勢國飯高郡→度會郡宇治郷五十鈴川頭。

 

「原文」(4

従此等国更還<天>伊勢国飯高郡<ニ>御坐。

三月之後、

差度会郡宇治郷五十鈴之川頭<仁>進、参来、

称申云;此河上<爾>最勝地侍。

其妙不可比他処。

早速可垂照鑑御也。

即奉迎而<大田命神御共奉仕>、令照鑑早畢。

 

「訳文」

これらの国よりあらためて還って、伊勢の国の飯高郡におわします。

三ヶ月の後、

使者が度会郡宇治郷五十鈴の川頭(かわかみ)に進み、参り来て、

(使者が)「この河上にすぐれたる地があります。

そのたえなること他の処と比べることが出来ません。

すみやかに、照鑑(ショウカン)をたれておわすべきなり」と、ほめ申す。

即ち迎えたてまつって<大田命神がみともにつかえまつる>、照鑑のことはやくにおえしむ。

 

「語注」

【此等国】:尾張、三河、遠江の三国を指す。

【飯高郡<ニ>御坐】:飯高郡のどこか不明。内宮の儀式帳が言う「飯野高宮」か。

【差・・・進参来】:大系本の傍訓に「差(さし)」とあり、「・・・をめざし」と解釈し、「進参来(すすみまゐらせたまふ)」と、文字にない尊敬語の「たまふ」を補読して読んでいるが、そもそも「参来」は謙譲語であり、後文の「称申」の「申(もうす)」も謙譲語である。また「行く」「来る」の動作状況も乱れ不自然。ここは先遣隊としての使者の行動として読んだ方が自然か。倭語の「さす」は用言で「・・・をめざす」だが、漢語の「差(サ)」は、「差使也」(韻會)とあり、諸橋大漢和辞典で「差使」は「使者」と解する。愚見で、「差」を「使者」と仮定し、「用言」ではなく「体言」とし、この文の主語とした。

【頭】:大系本の傍訓に「かみ・を」。直後の文には「川上」。大系本校勘に「益本、上。」。倭玉編(日本古典全集版)に「頭;かうへ。かふ。ほとり。」。

【侍】:大系本傍訓に「はべり」。「はべり」は、「あり」「居()り」の丁寧語。

【称】:大系本の傍訓に「たたへ」。ほめること。倭玉編に「称;いはく。いふ。な。かなふ。はかり。あくる。ほむ。」。

【最勝地】:大系本の傍訓に「すぐれたるところ」。

【妙】:大系本の傍訓に「たへなること」。倭玉編に「妙;めてたし。たへなり。」。

【早速】:大系本の傍訓に二字で「すみやかに」。

【奉迎】:迎えたのは、大田命か。内宮の儀式帳に「太田命<乎>。汝国名何問賜<支>。白<久>百船<乎>度会国。是川名<波>佐古久志留伊須須<乃>川<止>申<須>。」(大神宮儀式解校訂本)。ここの「五十鈴之川」は、度会の川で、今の宮川か。もともとの度会の主(あるじ)は太田命か。

【照鑑(ショウカン)】:照覧。大系本の傍訓に「みそなはし」。『時代別国語大辞典』に「みそなはす;見ルの尊敬語」。『古事記伝』「朝倉宮上巻」に「古語に見賜ふを、美蘇那波須(みそなはす)と云は、見し行(オコナ)はすと云を約めたる言」。日本書紀(神代上・第七段(本文))の「窺」に「みそなはす」の傍訓あり。仏教関係では「仰冀三宝 俯垂照鑑」(曹洞宗の亡僧回向文)。漢籍では、漢語大詞典に「照鑒(鑑);明察。」とし、用例として「亮不忍坐視、特此告知、幸垂照鑒(鑑)。」(三国演義)をあげる。

【大田命神】:大田命の説明は後文にあって、その前に突然出てくる事に不自然を感じる。よって愚見で、文中注釈文とした。またここでは「神」としているが、内宮の儀式帳では「人」。

【御共】:大系本の傍訓に「みとも」。「とも」は、従者、随身。または「官吏」。「官曰多模(トモ)。」(魏志倭人伝)。

【奉仕(ホウシ)】:大系本の傍訓に「つかへまつる」。

 

「原文」(5

于時、皇太神宮託宣稱;此地者於天宮所見定之宮所是也者。

奉鎮座既畢。

即神代祝、大中臣遠祖天児屋根命神、禰宜荒木田遠祖天見通命神也。

宇治土公遠祖大田命神、当土乃土神也。

然而為玉串大内人。

即與荒木田禰宜相並供奉於祭庭之例也。

 

「訳文」

時に、皇太神宮の託宣にいわく、

「この地は、天の宮にて、見定めたところの宮どころは、これなり」と言う。

鎮座ましますこと既におえる。

即ち、神代(かみよ)よりの祝(はふり)は、

大中臣の遠祖天児屋根命神、禰宜の荒木田の遠祖天見通命神なり。

宇治土公の遠祖大田命神は、当国の国神なり。

しかれども(大田命神は天神ではないけれども)玉串大内人となる。

即ち、(天神を遠祖とする)荒木田の禰宜と並んで、祭の庭に供奉(グブ)する例なり。

 

「語注」

【稱・・・者】:古文書で見られる形式で「稱(云)」と「者(テエリ)」の間に引用した言葉や文が入る。本居宣長はその著『玉勝間(上)』の「者(テヘリ)といふ事」の条で「こは上の語につき、云々(しかじか)てへりとよむこと也、てへりは、といへりといふことなり」と述べている。

 【祝(はふり)】:祭を担当する現業神職。「はふり」の語義不詳。しかし、「ねぎ」が「禰宜」と漢字仮名で表記されるのとは違い、「はふり」は漢語の「祝」で表記される。これは漢語の「祝」と「はふり」が似た概念だからか。『説文解字』に「祝、祭主賛詞者・・・易曰、兌為口、為巫。<徐曰、按易、兌、悅也、巫所以悦神也。>」とある。『令義解』「職員令」にも「神祇官、伯一人。掌。神祇祭祀。祝部<謂為祭主賛辞者也>(<祭に賛辞をつかさどる者を謂うなり>)神戸名籍」と記載される。尚、「職員令」にのる神職は「祝」だけで、「禰宜」や「神主」は載らない。「物記云、禰宜(ねぎ)、破付里(ほふり)、是神戸也。神主、是為監神・・・唯挙祝(はふり)一色、若約祝部之句哉。」(古本令集解・職員令)。しかし太政官符等には、「凡祭神之礼、以神主・禰宜・祝部為斎主。而不勤職掌、疎略神事、非唯神主等之怠、還又斎官不加糾勘之所致也。」(「類聚三代格」寛平五年三月二日太政官符)と載る。 後世の「祝」は地位が下がって、『古事類苑』「神職上」に「祝は亦神主禰宜をも併称する事あり・・・しかれども区別なきにあらず。・・・禰宜は祝の上に在り。神主は禰宜の上に在り。而して神主は宮司の命を受けて禰宜、祝に令するものなり。」と言われる。

【大中臣】:「中臣」は神事の時の役割名。「大中臣」は「中臣」に「大」を付けた美称。後にどちらも特定氏族の「姓」となる。『中臣氏系図』(群書類従巻第六十二)に「本末中良布留人、称之中臣(もとすゑなからふる人、これを中臣という)。」と言い、氏族の姓となるのが同書に「中臣<中臣姓始>常磐大連公;右大連、始賜中臣連姓。磯城嶋宮御宇天國押開廣庭天皇(欽明天皇)之代」とある。この姓に「大」がつくのが「本系大中臣朝臣姓、元中臣朝臣清麿、(神護)景雲三年(769)六月丁酉(1日)、特有優詔、加給大字。」(『大中臣氏系図』(続群書類従巻第百七十七))。『続日本紀』に「詔曰、神語有言大中臣。而中臣朝臣清麻呂、両度任神祇官、供奉无失。是以賜姓大中臣朝臣。」(神護景雲三年(769)六月乙卯(19日))。 中臣の本職は「天兒屋命・・・故俾以太占之卜事而奉仕焉。」(『日本書紀』「神代下第九段一書第二」)で、「占卜」である。 本姓は「本者、卜部也(本は卜部なり)」(『藤原氏系図』「常磐大連」の傍注)と言う。「姓」ではなく、役割としての「中臣」の記述は、『政治要略』「巻二十四・九月九日装束」に「官曹事類云、右符案云、養老五年九月十一日・・・中臣正六位上菅生朝臣忍桙、忌部従七位上忌部宿祢公子、輿前従行」と見られる。

【天児屋根命神】:『古事記』に「思金神令思・・・召天児屋命、布刀玉命、天香山之真男鹿之肩抜而、取天香山之天之波々迦而、令占合麻迦那波」、「其天児屋命<中臣連等之祖>」とある。

【天見通命神】:古事記、日本書紀に記述なし。内宮の儀式帳に「爾時、太神宮禰宜氏、荒木田神主等遠祖、国摩大鹿嶋命孫天見通命<乎>禰宜定」とあり、「神」ではなく「人」とし、倭姫の御送りの大鹿嶋命の孫で、内宮禰宜の荒木田氏の遠祖とする。

【禰宜(ねぎ)】:皇太神宮に供奉する現業神職の筆頭。神戸。「ねぎ」の語義は不詳。中臣が「なからふる人」なら、禰宜は「ねぎらふる(ねぎらう)人」か。『令集解』「職員令」に「「物記云、禰宜(ねぎ)、破付里(ほふり)、是神戸也。」。『延喜式』に「伊勢大神宮:大神宮三座。禰宜一人<従七位官>」。

【土神】:国神。大系本の傍訓に「くにつかみ」。

【然而】:大系本の傍訓に「しかれども」。逆接の接続詞。

【玉串】:神に捧げる榊(さかき)の一種。内宮儀式帳の「山向物忌」条に「此太玉串并天八重佐加岐(さかき)乃元発由者、天照坐太神<乃>高天原御坐時<爾>素戔烏尊依種々荒悪行事、天磐戸閉給時<仁>、八十万神、会於天安川辺、計其可禱之方時<仁>、天香山<仁><留>掘真阪樹<弖>、上枝懸八咫鏡、中枝懸八坂瓊<乃>曲玉、下枝懸天真麻木綿<弖>、種々祈申<支>。此今賢木懸木綿、太玉串<止>号之。」とある。

 【大内人】:おほうちびと。おおうちんど。伊勢神宮での特色をなす神職。三人いる大内人の中でも特に宇治土公をその功績を称えてか、「宇治大内人」とも「玉串大内人」とも言う。この「内人」とは、ここの記述に依れば、外来の大和の人と区別しながらも、共に重要な職をこなす、選ばれた現地の人のことであろう。内宮の儀式帳には「職掌雑任四十三人<禰宜一人。大内人三人。物忌十三人。物忌父十三人。小内人十三人(八人か?)・・・宇治大内人;無位宇治土公磯部小紲。右人卜食定。・・・三節祭、並春秋神御衣祭及時々弊帛駅使時、太玉串并天八重榊(さかき)儲備供奉。」とある。 

【供奉(グブ)】:ここは「グブ」と漢語読みとした。神や貴人に対する供給、近習、お供。「つかへまつる」と「奉仕」と同じ訓が付けられることもあるが、意味する所は多少異なり、 その意味も幾つかに分かれる。

1供給;「秦為無道、厚賦税以自供奉、罷民力以極欲。<秦は無道を為し、税を厚く賦(フ)し、もって自の供奉(グブ)とし、民の力を疲れさせ、もって欲を極める>」(漢書·王莽伝中)。

2侍奉、伺候;「初、明帝少失所生,為太后所摂養、撫愛甚篤。及即位、供奉礼儀、不異旧日。<初め、明帝は幼くして両親を失い、太后の摂養するところとなった。撫愛(ブアイ)すること甚だあつかた。(明帝が)即位に及んでも、供奉(グブ)礼儀は昔と異ならず>」(南史·后妃伝上·宋孝武昭路太后)。

3お供;「公卿、殿上人、一人もぐぶせられず」(平家物語・法皇被流)。

 

「原文」(6)(斎内親王供奉の始)

景行天皇<寿百六十歳>

即位三年<癸酉>、始令祀神祇。

仍定置祭官職一人<今号祭主是也>。

即位廿八年<戊戌>《當唐章和十二年》、九月十三日、

差遣五百野皇女、奉令載祭伊勢天照坐皇太神宮也。

斎内親王供奉之始也。

 

「訳文」

景行天皇<寿命は百六十歳>

即位三年<癸酉>(73年)に、始めて天神地神をまつらす。

よって、祭官職一人を定め置く<今、祭主というのはこれなり>。

即位廿八年<戊戌>(98年)《中国の章和十二年にあたる。九月十三日に、

五百野皇女をえらびつかわし、伊勢の天照坐皇太神宮をいただき祭らしめたてまつる。

斎(いつきの)内親王の供奉(グブ)のはじめなり。

 

「語注」

【景行天皇】:日本書紀に「大足彦忍代別天皇」。古事記に「大帯日子淤斯呂和気天皇」。

【寿百六十(160)歳】:古事記に「壹伯参拾漆(137)歳」。日本書紀に「六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩於高穴穂宮。時一百六(106)歳」。しかし、同書垂仁紀に「(垂仁)三十七年春正月戊寅朔、立大足彦尊(景行)為皇太子。」とあり、立太子から崩御年までの年数を計算すると「99年(垂仁治世年)-37年(立太子年)+60年(景行治世年)=122年」となり、日本書紀の年齢をすでに超えることになる。また同書の景行天皇即位前紀に「活目入彦五十狭茅(垂仁)天皇三十七年、立為皇太子<時年廿一>。」ともあり、これで歳を計算すると「122+21143歳」となる。どちらにしても無理な後付の暦日である。

【即位三年<癸酉>】:西暦73年(日本書紀暦日原典)。

【祀】:まつり。「祀;まつり。」(倭玉篇)。「祀;年也、又祭祀。」(廣韻)。

【神祇(ジンギ)】:天神と地神。「神祇令第六<謂、天神曰神、地神曰祇>;凡天神地祇者、神祇官皆依常典祭之。」(令義解)。「馬融曰、天曰神、地曰祗。」(史記集解)。「跡云、自天而下坐曰神也。就地而顕曰祇也。祭祀謂載於神祇令諸祭。但班諸国社弊帛、亦在末。又祀就神、祭就祀而読。然広言時皆同耳。」(令集解・職員令神祇官)。

【祭官職】:日本書紀や古事記に該当記事無し。景行天皇紀三年の条には「卜幸于紀伊國、將祭祀群神祇、不吉。仍車駕止之。遣屋主忍男武雄心命、令祭。」とあるのみ。『職源抄』には「垂仁天皇御宇、天照太神鎮座伊勢国度会郡五十鈴川上之時、命中臣祖大鹿嶋命為祭主。其後代々為祭主。朝廷被置官以後、神祇官伯<昔為祭主頭>、伊勢神宮祭主、又各別。」とあり、『大中臣系図』に「一男小徳冠前事奏官兼祭官中臣御食子大連公;神武天皇勅道臣命為斎主、迄推古元年癸丑(593年)、一千二百三十三年、国史不詳。小墾田朝廷以御食子為祭官。」とある。

【祭主】:令外官(リョウゲのカン)で、職員令には無い神職。「祭主;神宮棟梁ノ職ナリ。」(神道名目類聚抄)。「延喜式・伊勢太神宮」に「官五位以上中臣任祭主者。初年給稲一万束。除此之外。不得輙用」。その始まりは、『二所太神宮例文』「祭主次第」に「意美麿;国足一男。始為祭主。改祭官字為主者也。天武天皇元(年)任。在任三十七年」とあって、中臣意美麿が「祭官」を「祭主」に改めた初めとなる。

 【即位廿八年<戊戌>】:西暦98年。日本書紀』には「廿年(庚寅・西暦90年)春二月辛巳朔甲申、遣五百野皇女。」とあり、年が異なる。

 【當唐章和十二年】:この語句は文中注釈文(中国の暦日に対応させた挿入句)とし、《 》でくくった(以下同じ)。 「唐」は「唐王朝」ではなく、広義の「中国」の意味で、倭訓で「もろこし」。 「章和」は後漢の章帝の年号。「秋七月壬戌,詔曰・・・今改元和四年為章和元年(丁亥)。」(後漢書・肅宗孝章帝紀)。しかし章和二年に章帝は没す。その後「章和二年(戊子)二月壬辰、即皇帝(和帝)位、年十歲。尊皇后曰皇太后、太后臨朝。」(後漢書・孝和孝殤帝紀)と「和帝」が即位し、翌年に年号は「永元」となり、「章和」の年号は二年で終わる。ここの干支年の「戊戌」は、後漢の和帝の「永元十年」にあたる。 大系本の校勘記に「真本・益本・群本(群書類従本)に、廿八年<戊戌>當唐章和十二年、九月三日、とあるが、『日本書紀』に景行天皇、廿年春二月辛巳朔甲申、遣五百野皇女令祭天照大神、とあるに鑑み、中本(*)の正しいことが考えられる。」と言い、本文を「即位廿年<庚寅>、當唐永元二年」と校訂しているが、『日本書紀』の暦日は編纂時の後付であり、これを正誤の基準には出来ない。よって愚見では一応「群書類従本」の記述そのままとする。そもそもこの「神宮雑事」には『日本書紀』と異なる記述が少なくない。

*「中本」とは、大系本の底本で、「中田氏収蔵本」(書写年代や由来不明)のことを言う。

【差遣】:えらびつかわす。ここの「差」は用言とし「差;擇(えらぶ)也。簡(えらびだす)也。」(廣韻)。または漢語で「サケン」と読むか。「差遣」の用例は「続日本紀」の「春秋二時、差遣官人、奠祭玉津嶋之神明光浦之靈。」(神亀元年(724)十月壬寅)からか。

【五百野(いほの)皇女】:景行天皇の女子。「妃三尾氏磐城別之妹水歯郎媛、生五百野皇女。」(景行天皇紀四年条)とあるが、古事記にはこの皇女の記載が無い。また日本書紀に「遣五百野皇女、令祭天照大神。」(景行紀二十年春二月)とあるが、この命令内容に「侍(はべる)」がなく、所謂「斎内親王」と言うよりも「祭の勅使」であり、前年までの九州平定の報告を天照大神に行ったものか。

【斎(いつきの)内親王供奉之始】:この「神宮雑事」は五百野皇女が斎内親王のはじめと言うが、他の史料と異なり、倭姫命を斎内親王の例からはずしている。これは内宮儀式帳の倭姫命は天照大神を伊勢に鎮座させた後「朝庭<爾>参上坐<支>」と、伊勢に侍らず帰京したと言う主張にそったものであろう。 また『二所太神宮例文』「伊勢斎内親王」の条では「(1)豊鋤入姫命<崇神皇女>。(2)倭姫命<垂仁皇女>。(3)久須姫命<景行皇女>」と載せ、日本書紀が言う五百野皇女の記載は無い。

 

「余談」<2>斎王

斎宮歴史博物館の歴代斎王表から推古天皇までの斎王を以下に抜き出します。

  豊鋤入姫   (とよすきいりひめ)崇神・垂仁

  倭姫    (やまとひめ)垂仁・景行

  五百野   (いおの)景行

  伊和志真   (いわしま)仲哀

  稚足姫   (わかたらしひめ)雄略

  荳角    (ささげ)継体

  磐隈    (いわくま)欽明

  莵道    (うじ)敏達

  酢香手姫   (すかてひめ)用明~推古

日本書紀には「斎王」の名称は無く、「~を拝す」か「~に侍る」。また豊鋤入姫 は、伊勢に移る前の斎王である。

 これらの斎王には、それぞれにドラマがあり、五百野皇女から後の例を見ると、仲哀天皇には皇女はいませんので、「伊和志真」は誰の子なのか? 恐らく『仁所太神宮例文』から引用したと思うが、ここから引用するなら欽明と敏達の間の宮子内親王を忘れてはいけないと思う。彼女は同書の注釈文に「太神主小事女。在任廿九年」とあり、つまり実際の内親王ではなく、豊受太神宮神職の神主小事の娘であり、内親王がいない場合は、神職の娘が内親王の代理を務めていたと言うことであろう。雄略天皇の皇女の稚足姫(白髪内親王)は、妊娠の嫌疑がかけられ、突然、神鏡をもって逃走し、悲劇的な自死で終わっています(この事件からも当時の大神宮の祭祀形態は斎王による同床共殿的祭祀であったことがうかがえる)。磐隈と莵道の斎王は、それぞれに痴情のトラブルをおこし、酢香手姫も謎めいたところがあります。

この中でも数奇なドラマは倭姫命でしょうか。彼女は最終的に、どこへ行ったのか? 内宮儀式帳では「倭姫内親王、朝庭<爾>参上坐<支>」とあり、朝廷(庭)、つまり大和に帰ったと言いますが、大和側の史料(記紀)には記載がありません。その代わりか、倭建(やまとたける)と倭姫のエピソードを載せます。この日本男と日本女とも言える名を持つ二人には、なぜかオカルトチックで悲劇的な雰囲気が漂います。

 

「原文」(7)(外宮の創始)

雄略天皇<寿百四十歳>

即位廿一年丁巳《当唐大和元年也》而、

天照坐伊勢太神宮乃御託宣称;

我御食津神<波>坐丹後国与謝郡真井原<須>。

早奉迎彼神、可奉令調備我朝夕饌物也、託宣賜既了。

仍従真井原奉迎<天>、

伊勢国度会郡沼木郷山田原宮<仁>奉鎮給<倍利>。

<今号豊受太神宮是也>。

 

「訳文」

雄略天皇<寿命百四十歳>

即位廿一年丁巳(477《中国の大和元年にあたるなり》にして、

天照坐伊勢の太神宮の御託宣に、

「わが御食(みけ)の神は、丹後の与謝郡の真井原にまします。

早く彼の神を迎え奉り、わが朝夕の(飲食の)そなえ物をととのえ備えさせ奉るべきなり」と、託宣賜ること既におわる。

よって真井原より迎え奉って、

伊勢の国度会郡沼木郷山田原の宮に鎮め奉りたまえり。

<今、豊受太神宮というはこれなり。>

 

「語注」

【雄略天皇】:日本書紀に「大泊瀬幼武天皇」。古事記に「大長谷若建命」。景行天皇から雄略天皇の間の八代は欠史。

【寿百四十歳】:日本書紀に記載無し。古事記に「壹伯貳拾肆(124)歳」。帝王編年記に「年百四(104)。」。扶桑略記に「天皇年九十三崩<一云五十一(51)崩。一云一百四(104) 歳>。」。

【即位廿一年丁巳】:西暦477年(日本書紀暦日原典)。日本書紀、古事記に当該記事は無い。

【大和元年】:南北朝北魏の太和元年。「太和元年春正月乙酉朔、詔曰・・・改今號為太和元年。」(魏書・高祖孝文帝紀)。大系本では南朝宋の年号で昇明元年(477)と記す。

【御託宣称】:ここでは、誰に神懸かりし、なぜ御食津神を呼び寄せるのかが省略されている。『止由気宮儀式帳』(以後、外宮儀式帳と記す)には「爾時、大長谷天皇御夢<爾>、誨覺賜<天>、吾高天原坐<弖>見<志>真岐賜<志>處<爾>志都真利坐<奴>。然吾一所耳坐<波>甚苦。加以大御饌<毛>安不聞食坐。故<爾>丹波国(与謝郡?)比治<乃>真奈井<爾>坐、我御饌都神、等由気太神<乎>我許欲<止>、誨覺奉<支>。」と記される。要約すれば、雄略天皇に夢で託宣し、高天原にいるときより希望していた所に鎮座したが、一人では寂しいので、我が食事の神をそばに置きたいと言うことである。

【御食津(みけつ)神】:食事や食料庫の神。 群本は「食津(けつ)神」とするが、大系本に従い尊敬文字の「御」を補い「御食津神」とする。 他に「御膳都神」や「御饌都神」とも記されるが読みはどれも「みけつ神」。また日本書紀に「倉稲魂。此云宇介能美麿(うかのみたま)。」とあり、「稲倉の神」をも示す。

【丹後国与謝郡真井原】:「丹後国」は倭名抄に「太邇波乃美知乃之利(たにはのみちしり)」。また「国府在加佐郡。行程上七日。下四日。和銅六年(713)、割丹波国五郡、置此国」とあり、和銅六年に「丹波国」から分かれ、その中に「与謝郡」が含まれた。与謝は倭名抄に「與謝<與佐(よさ)>」と言う。『日本書紀』には「丹波国餘社郡菅川人瑞江浦島子、乗舟而釣」(雄略紀二十二年条)と載る。ここの「瑞江浦島子(みずのえの浦島の子)」とは、伝説の「浦島太郎」の事であろう。この他に「丹波国余社郡」(顕宗即位前紀)とも記される。「真井原」は、このまま読めば「まいはら」だが、外宮儀式帳には「丹波国比治<乃>真奈井(まない)<爾>坐」とある。 『日本書紀』に「天真名井」(神代上・第六段本文)、『古事記』に「天之真名井」(上巻天安河の誓約段)と書かれる。「真名井」の解釈に岩波書店の『日本書紀』注釈では「神代上・第六段一書第一」の「濯于天渟名井(亦名去來之眞名井)而食之。」を引用し、この中の「渟名井」をなぜか「真渟名井」と読み替えて、複雑な解釈を試みるが理解に苦しむ。原文は「真渟名井」でなく「渟名井」又は「真名井」である。しかも先の文に「濯・・・食之。」と、「濯いで・・・食す」とあれば、「飲料や調理に適した井戸」と言う意味であろう。また「去來之眞名井」とは「人々が往来(去来)する道の(共用の)名水の井戸」と言う意味であろうか。 ちなみみ、「渟(テイ)」は康煕字典に「渟;水止也。」、「決渟水致之海。(史記·李斯傳)」とあり、『日本書紀』で「天渟中<渟中、此云農難(ぬな)>原」(天武天皇紀上)と、「渟(テイ)」を「ぬ」と読ませているのは、「字音」からでなく、「字訓」からであろう。この「ぬ」は沼か。沼は和名抄に「沼;唐韻云沼池也。<和名、奴(ぬ)>」とある。先の「天渟名井」は(「名(な)」は助詞「の」と同等とみなす)「天の沼の井戸」で、天武天皇の御名の「天渟中原」は「天の沼の原」か。『日本書紀』の「神渟名川耳天皇(第二代綏靖天皇)」を『古事記』では「神沼河耳命」と表記する

【饌】:「そなへ」(倭玉篇)。「飯食也」(玉篇)。「具食也」(説文)。

【沼木郷山田原】:外宮儀式帳に「等由気太神宮院事<今称度会宮。在度会郡沼木郷山田原村>。」とあり、倭名抄の度会郡に「沼木<奴木(ぬき)>」がある。 江戸時代の『参宮名所図絵』に「山田;外宮神前の町をいふ。又是を陽田とも云。但し【和名抄】に陽田(ひなた)と訓せり(中略)人家九千軒計り。尤宮中は沼木郷にて、其外箕田郷・継橋郷抔(など)今の市店(町)の内にもあり。」と言う。

【豊受太神宮】:外宮儀式帳では「止由気宮」や「等由気太神宮」と記す。この「止由気」や「等由気」などの「とゆけ」は字音に依る表記で、「豊受(とようけ)」は字訓による表記。詳細は不明。

 

「原文」(8

其後皇太神宮重御託宣称;

我祭奉仕之時、先可奉祭豊受神宮也。

然後我宮祭事可勤仕也云々。

彼宮禰宜<仁八>、天村雲命孫神主氏<乎>別定置令供奉也。

即依託宣、豊受神宮之艮角造立御饌殿、

毎日朝夕御饌物調備、令捧齎、令参向太神宮。

爾時、太神宮禰宜天見通命孫神主氏乃禰宜、請預供奉之例也。

但皇太神宮天降御坐之後、経四百八十四年、

然後彼天皇即位廿二年戊午七月七日、

豊受神宮<於波>被奉迎也。

 

「訳文」

その後、皇太神宮の重ねての御託宣に、

「わが祭りに奉仕するときは、先に豊受神宮を奉祭(ホウサイ)すべしなり。

しかる後に、我が宮の祭事に勤仕(キンシ)すべきなり云々」と言う。

彼の宮の禰宜には、天村雲命の子孫の神主氏(度会氏)を別に定めおきて、供奉させるなり。

即ち、託宣によって、豊受神宮の北東に御饌殿を造立(ゾウリュウ)し、

毎日、朝夕の御饌物(おそなえもの)は調備(チョウビ)し、ささげもたらせ、太神宮に参向(サンコウ)させる。

時に、太神宮禰宜で天見通命の子孫の神主氏(荒木田氏)の禰宜も、供奉に、うけあずかる例なり。

ただし、皇太神宮のあまくだりまします後より、四百八十四年を経て、

然る後、彼の天皇(雄略天皇)即位二十二年戊午(478年)七月七日に、

豊受神宮をば、迎え奉られるなり。

 

「語注」

【我祭奉仕之時・・・】:『皇字沙汰文』(文書14)に「忝依内宮神勅、奉先外宮祭禮、幽契之縁也。」とある「神勅」がここの部分。

【天村雲命】:外宮禰宜の度会氏の祖神。天牟羅雲命とも書かれる。『二所太神宮例文』の豊受太神宮度会遠祖奉仕次第の条に「天牟羅雲命<天御中主尊十二世孫。天御雲命子>。」とあり、『神宮雑例集』の御井社ノ事の条に「本紀云、皇太神宮皇孫之命(ニニギの命)天降坐時<爾>天牟羅雲命御前立<天>天降仕奉。」とあるが、日本書紀や古事記に登場しない。

【孫】:孫や子孫で、ここは子孫。「子之子曰孫。系、續也。」(説文)。「孫:和名、無萬古(むまこ)。一云、比古(ひこ)。」(倭名抄)。

【神主氏】:ここの神主は職名ではなく、氏族の姓か。

【艮】:方位の「うしとら(丑寅)」。北東(鬼門)。

【御饌殿(みけでん)】:ここの御饌殿は「御饌物調備、令捧齎、参向太神宮」とあるように、太神宮への御饌物を準備するところで忌火屋殿にあたり、今の調理室を言うか。後文の聖武天皇の段に記載される事件からここが膳を提供する殿舎となり、今の食堂に変更される。この当初の構造、規模は不詳。 なお『神宮雑例集』の「大同二年(807)二月十日。太神宮司二宮禰宜等本記十四ケ條内、朝夕御饌條」に「度会神主等遠祖大佐々命ヲ召<天>・・・宮之内艮角御饌殿<乎>造立<天>、其殿ノ内<爾>天照坐太神御坐奉、東ノ方止由居(豊受)太神御坐奉。」とあるが、これは聖武天皇以降の食堂としての御饌殿であり、これによって、この「大同本記」の伝承は新しいもので、雄略天皇時代ではないことが判明する。 外宮の儀式帳に「大宮壹院;御饌殿壹宇<長一丈。廣一丈。高一丈。>」と記されるのも変更後の御饌殿であり、食堂を言う。『新任辨官抄』にも「御食殿<一宇也。如宝殿有千木堅魚木。毎日二度、御膳供之屋也。朝未明、夕秉燭(ヘイショク・ともしびを手に持つ)程、供之。内宮御膳同供于外宮此殿也。」と記される。 神宮側史料、特に神代、託宣に関わる伝承は、年代を経るごとに、神宮神職の都合で改変、新造されたものもあり、取り扱いに注意が必要と言える。

【毎日朝夕】:原文は「毎日御朝夕」だが、「御」は衍字か。愚見で「御」をはずす。大系本は「毎日朝御饌夕饌物」と校訂する。

【於波】:「於」は「お」であるが、「乎(を)」の誤字か。大系本は「真本(神宮文庫所蔵本)」で校訂し「於波」を「乎波(をば)」に校訂している。私見の訳文もこれに従って訳した。

 

【豊受神宮・・・被奉迎也】:雄略天皇の時代に伊勢に迎えられても、『日本書紀』に「豊受神宮」に関する記事はなく、朝廷から官弊を受けるのも『公事根源』の「九月・例弊・十一日」条に、「さて外宮は、内宮鎮座の後四百八十四年を経て、雄略天皇の御宇に跡を垂れさせたまふ。養老五年九月十一日に、始めて官弊を奉らる。」とあって、養老五年からであろう。

 外宮に関する記事は、養老四年の『日本書記』に無いが、和銅五年の『古事記』には「登由宇気神、此者、坐外宮之度相神者也<(私見)豊受神;これは、外宮にいます度会の神なり>」と載る。つまり、『古事記』のこの文は、「登由宇気神(豊受神)」は、「度相神也」と言う「判断文」スタイルとなっている。この文から、雄略天皇の時代に外宮が出来たことは想像させられるが、度会の神である豊受神が、丹波から迎えられた神かどうかまでは分からない。私見で、ここの「此者」の「者」は係助詞の「は」に訳したが、「坐外宮」と「度相神」の間の「之」は、前句が「自動詞と補語」から成る連体修飾語で、後句が被修飾語である事を示す助字であって、日本語訳では読む必要は無い。通説では「坐外宮之度相」を「外宮の度相にいます」と「之」を「の」として読むが、日本語として違和感がある。所在を表す「の」であれば、順序は「度会の外宮」であろう。本居宣長も「反(カエ)さまに外宮ノ度相とあるは、聞(キキ)つかぬここち」と言うが、彼の『古事記伝』の「訓法の事」には「(之);用言に属(つき)たるは(中略)捨てて訓むべからず」や「(者);者也とある者ノ字も、訓むべからず」と言っている。自説に違うここの解釈は、彼らしくない非合理である。本居宣長の目を曇らしたのは、伊勢神宮に対する信仰心であろう。学問の探求者は、合理性を貫くべきである

 

「余談」(3)御饌殿の変遷

御饌殿の変遷は大別すれば三期に分かれると思います。私見を交えて以下に整理します。

   内食期:(~雄略天皇)

伊勢に鎮座当時で、大神宮内院の御饌殿で調理して神前に供える。

   仕出し期:(雄略天皇~聖武天皇)

御饌殿が外宮(そとノみや)として大神宮外院に建てられ、そこで調理したものが大神宮に運ばれる。その「外宮」に「豊受神」が招かれ鎮座する。

ここは更に、大神宮の所在により、二期に分かれる。

前期;雄略天皇~文武天皇

「文武天皇二年十二月乙卯。遷多気太神宮于度会郡(宇治)」(続日本紀)

後期;文武天皇~聖武天皇

養老五年に「豊受神」が官幣を受けることになり、「豊受“大”神」となり、御饌殿とは別に「豊受大神」のための正殿が建てられ、これを「外宮(げくう)」と称される。

   外食期:(聖武天皇~現在)

天照大神が、食事の度に、外宮の御饌殿に行かれて、外食される。

  

「原文」(9

用明天皇

即位二年<丁未>、聖徳太子與守屋大臣合戦。

其故者、太子修行仏法、我朝欲弘法<爪>。

大臣我朝偏依為神国、欲停止仏法<志天>、成欲誅殺太子之企。

爾時年十六歳也。

爰合戦之日、遂誅殺大臣畢、

太子勝於彼戦畢。

于時以大錦上小徳官前事奏官兼祭主中臣国子大連公差勅使、

令祈申於天照坐伊勢皇太神宮給<倍利止>云々。

 

「訳文」

用明天皇。

即位二年<丁未>(587)に、聖徳太子と守屋大臣が合戦。

その理由は、太子が仏法を修行し、我が朝廷に仏教を弘めようとしたからである。

(守屋)大臣は、我が朝廷は、ひとえに神国たるによって、

仏法を停止させようとし、太子を誅殺(チュウサツ)しようとする企てをなす。

その時、(太子は)年十六歳なり。

ここに、合戦の日、ついに、(守屋)大臣を(逆に)誅殺しおえて、

太子が彼の戦いに勝っておわる。

時に、錦上小徳官前事奏官兼祭主の中臣国子大連公(きみ)を勅使に選び(使わし)、

天照坐伊勢皇太神宮を祈り申させたまえりと云々。

 

「語注」

【用明天皇】:日本書紀に「橘豊日天皇」。古事記に「橘豊日命」。これ以降、天皇の寿命の記載は無い。雄略天皇から用明天皇の間の八代は欠史。

【即位二年<丁未>】:西暦587年(日本書紀暦日原典)。天皇崩御は二年四月癸丑(九日)。合戦は同年七月。『帝王編年記』に「大連弓削守屋<天皇二年、為馬子宿祢・厩戸皇子等被殺。>」。

【守屋大臣】:日本書紀は「物部守屋大連」。同書敏達天皇元年紀に「以物部弓削守屋大連爲大連、如故。以蘇我馬子宿禰爲大臣。」。

【弘法(グホウ)】:(仏)法をひろめること。

【企】:群本は「命」だが、大系本の校訂に従い「企(くわだて)」とした。

【誅殺(チュウサツ)】:「誅」とは「討也。」(説文)、「殺也。」(廣雅)、「詰誅暴慢。<暴慢を詰誅(キッチュウ)する。>」(禮·月令)とあり、「誅殺」とは「罪を問い、罰として殺すこと」で、この文言はここに不適切と思える。

【爰】:「ここに」(倭玉篇)。「爰、於也。言祖乙已居於此<祖乙(13代殷王)が既に、ここに、いることを言う。>」(商書・盤庚・注)。

【大錦上小徳官前事奏官兼祭主中臣国子大連】:『中臣系図』に「小徳冠前事奏官兼祭官国子大連公。右大連公供奉岡本朝廷(舒明天皇)とあり、「国子」は舒明天皇の時に奉仕した人であり、時代が合わない。日本書紀にもこの記事は無い。 「大錦上」は天智三年の冠位であり「大徳」に相当。 「小徳」は推古十一年の冠位で、どちらも時代に合わない。また「小徳官」の「官」は、中臣系図から見ても「冠」であろう。

【前事奏官】:不詳。 『大中臣系図』に「小徳官前事奏官兼祭官御食(子)大連公;小墾田朝廷(推古)、以御食子為祭官、補中納言。」とあり、「前事奏官」とは令制の「中納言(令外官)」に相当するか。 中納言は『職原抄』に「持統天皇六年始置此官。其後罷之。大宝二年定官位令日、無此官。仍為令外官歟。」。 『続日本紀』「大宝元年(701)三月甲午」条に「是日罷中納言官。」と一時廃止するが、同書「慶雲二年(705)四月丙寅」条に「更置中納言三人。以補大納言不足。其職掌、敷奏・宣旨・待問・參議。」と復活させる。

【差】:ここは体言でなく、用言として解釈。または「選択」の意か。

 

「原文」(10

孝徳天皇

大化元年<乙巳>、蘇我入鹿大臣已為謀反之企。

仍公家為其御祈、被進於伊勢太神宮神宝物等。

而間中大兄皇子、中臣鎌子公、誅殺件入鹿大臣、既畢。

同二年、依右大臣宣奉勅、

被進伊勢太神宮御神宝物等<不記色々。具式文也。>。

 

「訳文」

孝徳天皇

大化元年<乙巳>(645年)、

蘇我入鹿の大臣がすでに謀反の企てをなす。

よって、公家はその御祈りをなし、伊勢太神宮に神宝物等をたてまつれる。

しかるあいだ、中大兄皇子と中臣鎌子公が、件の入鹿の大臣を誅殺し、すでにおわる。

同二年(646年)、右大臣宣(セン)の奉勅(ホウチョク)により、

伊勢太神宮に御神宝物等をたてまつれる<色々と記さず。式文につぶさにあり。>。

 

「語注」

【孝徳天皇】:日本書紀に「天萬豊日天皇」。 崇峻・推古・舒明・皇極の四代は欠史。

【大化元年<乙巳>】:西暦645年(日本書紀暦日原典)。群本に<乙巳>は無いが、大系本に従い補う。 「大化」より始めて中国式年号を採用し、中国文明を積極的に取り入れる。日本書紀に「尊佛法軽神道〈斬生國魂社樹之類是也。〉。為人柔仁好儒、不択貴賎、頻降恩勅。」(孝徳天皇即位前紀)。 但し社会的に年号の使用が義務化されるのは「大宝令」以降。「凡公文応記年者、皆用年号」(儀制令)。

【蘇我入鹿大臣】:「大臣」とあるが、皇極天皇紀に「以蘇我臣蝦夷爲大臣如故。大臣兒入鹿〈更名鞍作。〉自執國政。威勝於父。」とあり、大臣は父の蝦夷。 日本書紀では、入鹿は、父に勝って、自ら国政をとると記載され、時の天皇(皇極)との私的な強いつながりを示す。

【謀反】:「律」に定める「八虐(謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義)」の最初の項目に上げられる重罪。「一曰。謀反。謂。謀危国家(天皇)。<謂。臣下将図逆節。而有無君之心。不敢指斥尊号。故託云国家。>」(律・八虐)。 大系本は「謀叛」とするが、「謀叛」は、同じく八虐に「三曰。謀叛。謂。謀背国従偽。<謂。有人謀背本朝。将投蕃国。或欲翻城従偽。或欲以地外奔。>」とあり、また中大兄皇子が宮中で入鹿を襲撃したときの口上に「鞍作(入鹿)盡滅天宗、將傾日位。」(皇極紀四年六月)とあることなどから考えると、ここは大系本の「謀叛」より、群本の「謀反」が適切か。

【公家】:皇家(天皇。朝廷)。近世の「公家」とは異なる。「天皇を申し奉る称。おおやけともいへり。転じては朝廷の別称とす(中略)徳川時代、武家に対して朝臣の事をすべて公家といへり。」(関根正直他箸「有識故実辞典」)。

【進】:たてまつる。大系本の傍訓に「たてまつ」とある。

【御祈】:内容は不詳。

【中大兄皇子】:後の天智天皇。舒明天皇の子で、母は皇極天皇。

【中臣鎌子】:鎌足とも記される。藤原氏の氏祖。帝王編年記に「内臣中臣鎌子連<(中臣)御食子大連子息。(孝徳)天皇元年為内臣、年三十一。>」。

【誅殺】:群本には「誅進」とあるが、大系本に「誅殺」とあり、これに従う。

【右大臣】:蘇我倉山田石川麻呂。入鹿襲撃の功労者の一人。帝王編年記に「右大臣大錦冠蘇我山田石川麿<(孝徳)天皇元年為右大臣。五年、為皇太子(中大兄皇子)被殺。>」。

【奉勅(ホウチョク)】:群本の原文は「依右大臣宣勅」とあるが、大系本や太政官符等の文書形式により「勅」の前に「奉」を補う。 ここの 「奉」は「承也」(説文)の「うけたまわる」の意。 公文の文書形式は、「宣」より後が、その宣の内容となり、「○○宣、奉勅・・・」となるが、文頭に「依」があるため、「依」より後の奉勅までの文を「依」にかかる体言句として漢語読みとした。

【式文】:内宮儀式帳の「寶殿物十九種」をさすか。

 

「原文」(11

天武天皇

白鳳二年<壬申>。

太政大臣大伴皇子企謀反、擬奉誤天皇。

于時天皇之御内心<仁>伊勢太神宮令祈申給。

必合戦之間、令勝御者、以皇子<天>、

皇太神宮御杖代可令斎進之由御祈祷有感応、

彼合戦之日、天皇勝御<世利>。

仍御即位二年<癸酉>九月十七日、

天皇参詣於伊勢皇太神宮<志天>、令申御祈給<倍利>。

或本云、神宮参着了者、

又或本云、従飯高郡遙拝皇太神宮、帰御之由具也。

件記文両端也。<記日本紀也>。

 

「訳文」

天武天皇

白鳳二年<壬申>(672年)。

太政大臣大伴皇子が謀反を企て、天皇(天武)をあやめ奉ることを擬(ギ)す。

時に、天皇の御内心に、伊勢太神宮を祈り申さしめ給う。

かならず合戦の時に勝たしまさば、皇女をもって、

皇太神宮の御杖代に斎進させるべき由の御祈祷(キトウ)に、感応あって、

彼の合戦の日に、天皇を勝たせますなり。

よって、御即位二年<癸酉>(673年)九月十七日に、

天皇が伊勢の皇太神宮に参詣(サンケイ)して、御祈を申した給えり。

或本には、神宮に参着(サンチャク)したと言う。

また或本には<日本書紀に記すなり。>、飯高郡より皇太神宮を遙拝し、帰りますの由(よし)は具(つぶさ)なりと言う。

件の記文(キブン)は両極端なり。

 

「語注」

【天武天皇】:日本書紀に「天渟中原瀛眞人天皇」。斉明天皇、天智天皇の二代は欠史。

【白鳳二年<壬申>】:壬申年は西暦672年(日本書紀暦日原典)であり、「壬申の乱」の年で、天武天皇元年に当たる。 後文にも「白鳳四年<甲戌>」とあり、「甲戌」は「壬申」から算えて三年目で、天武天皇三年に当たる。このため群本では、白鳳元年が天武即位前年の辛未年となり、天智天皇十年となると言う。これで「白鳳」が大友皇子の年号の可能性も出てくるが、 『帝王編年記』では、「白鳳元年壬申即位。」とあり、壬申年が白鳳元年とする。

この他、白鳳元年の時期には諸説がある。「白鳳」が記載される比較的古い史料には『三代類聚格(天平九年三月十日条)』、『続日本紀(神亀元年十月条)』、『古語拾遺』、『藤氏家伝』などが上げられているが、この中で干支年が並記され年代が換算できるのは『藤氏家伝』の「貞慧傅」だけであろう。そこには「白鳳五年歳次甲寅」と「白鳳十六年歳次乙丑」の二つの記述がある。これで見ると白鳳五年の甲寅年は西暦654年で、乙丑は甲寅から算えて12年目で、記述の白鳳十六年にあたる(5+12-116)。元年は、これを逆算すれば庚戌年(650年)となる。この白鳳元年、五年、十六年を日本書紀で見ると、それぞれ孝徳天皇の白雉元年(庚戌)、白雉五年(甲寅)と天智天皇四年(乙丑)に該当する。 日本書紀は「白鳳」の年号を収録していないが、これは日本書紀独自のものと言えよう。正史と言う六国史の中でも日本書紀の暦日だけは、おもに編纂時の後付であり、存在しないものや実施されていない暦法に依る長暦が使用され、史書としては特異な存在と言える。 また令制による「大宝」より前の年号で色々と諸説がうまれた原因には、当時の社会的実施暦が曖昧で、年号自体も法的に行政化されていなかったことや、日本書紀が一般に公開されず、それにかわる民間の「年代記」等が後世に多く作られ、それらが世間に流布したことなどがあげられる。この「年代記」は、『帝王編年記』(新訂増補国史大系)、『扶桑略記』、 『皇代記』(群書類従)、『東寺年代記』(続群書類従)など現存する類も多いと言う。

そもそも所謂「王代記(帝紀)」と言うものは、古事記序文に天武天皇のお言葉として「諸家が所持する帝紀及び本辞(諸家之所齎帝紀及本辞)」と記載するように、天皇に近習した各氏族がそれぞれに伝えてきたものであろう。これを公的に管理するようになるのが、職員令に「中務省;監修国史」とあるように「大宝令」以降であり、それ以前の史官の存在は管見であるが確認出来ない。古事記と日本書紀が欠史八代を含めた「王代」が同一というのも情報源を同じくするものか。弘仁年間(813年頃)の「日本書紀私記序文」にも選者、選時不詳本として、日本書紀とは異なる『神別紀』や『帝王系図』、『諸民雜姓記』等の民間流布本を載せる。

【太政大臣】:行政官(太政官)のトップ。「職員令」に「太政官:太政大臣一人。右師範一人、儀形四海、経邦、論道、燮理陰陽、無其人則闕。」。日本書紀に「是日。以大友皇子拜太政大臣。以蘇我赤兄臣爲左大臣。以中臣金連爲右大臣。」(天智天皇一〇年(六七一)正月)とあり、「太政大臣」の始め。

【大伴皇子】:大友皇子。天智天皇の息子で、『帝王編年記』に「大友皇子;母宅子娘。浄御原御宇(天武天皇の治世)謀反。被誅。」。日本書紀に「又有伊賀采女(うねめ)宅子娘(やかこのいらつめ)、生伊賀皇子。後字(のちのなは)曰大友皇子」とある。

【擬(ギ)】:はかる。「度也」(説文)。

【誤】:大系本の傍訓に「あやめ(る)」。 「誤;謬也。」(説文)。「謬;乱也、詐也。」(玉篇)。日本書紀に「今聞。近江朝庭之臣等、為朕謀害。」(天武天皇元年(672)六月壬午(22日))。

【合戦】:壬申の乱。日本書紀に依れば、始まりは壬申年(672年)622日。「(天武天皇)宣示機要、而先發當郡兵、仍經國司等差發諸軍、急塞不破道。朕今發路。」(天武天皇元年(672)六月壬午(22日))と天武天皇が挙兵の命令をだす。終結は同年723日に「大友皇子走無所入。乃還隱山前(やまざき)。以自縊焉。」(同年(672)七月壬子(23日))と大友皇子が自死。同月26日に「將軍等向於不破宮。因以捧大友皇子頭而獻于營前。」(同年七月乙卯(26日))と大友皇子の首を天武天皇に献上した記事を載せる。合戦は約一ヶ月 。尚、この時には天武天皇は天皇ではなく、大海人皇子として吉野の離宮で俗世を捨てた出家(戒を受けない自称)の身。よって厳密には、大伴皇子の行為は謀反にあたらない。

【者】:群本は「前」だが、意味不詳となるため、大系本に従い「者」とし、同本の傍訓「ば」に従う。

【皇子】:後文から考えるに、「皇女」であろう。

【御杖代(みつゑしろ)】:斎宮(斎王)。天照大神の御杖代として諸国を巡幸した倭姫になずらえて呼ぶか。『類聚国史』にも「天長五年(828)二月・・・氏子親王<乎><淳和皇女>大神御杖代<止之弖>奉入<多留>親王<邇>在」とある。

【即位二年<癸酉>】:西暦673年(日本書紀暦日原典)。日本書紀の天武天皇二年十二月の条に「是年也、太歳癸酉。」

【記文(キブン)】:記録文書。

【両端】:両極端と解した。一つは伊勢神宮側の記録で、もう一つは日本書記の記録。

【記日本紀也】:これは「また或本」の注釈と思われ、その直後の位置に修正した。日本書紀には合戦の途上で「於朝明郡迹太川邊、望拜天照太神。」(天武天皇元年(672)六月丙戌(26日))とあり、本陣となる不破郡野上(関ヶ原)に近い朝明郡での「望拜」とある。天皇の伊勢参拝記事は六国史にはない。神宮側史料でもおもにここの記事だけであろう。 天皇みずからの伊勢参拝は、阪本廣太郎著『神宮祭祀概要』に「天皇の御参拝は古来嘗てなく、初めて明治天皇がその御例を開かせ玉ふた。」と言う。

 

「原文」(12)(遷宮の制度化)

白鳳四年<甲戌>秋九月十三日<仁>、

多基子内親王参入於太神宮給<倍利>。

朱雀三年九月廿日。

依左大臣宣奉勅、伊勢二所太神宮御神宝物等<於>、

差勅使被奉送畢<色目不記>。

宣旨状称、二所太神宮之御遷宮事、廿年一度応奉令遷御、宜為長例也云々。

抑朱雀三年以往之例、

二所太神宮殿舎御門御垣等<波>宮司相待破損之時奉修補之例也。

而依件宣旨定遷宮之年限、

又外院殿舎倉四面重々御垣等所被造加也。

 

「訳文」

白鳳四年<甲戌>(674年)秋九月十三日に、

多基子内親王が太神宮に参入したまえり。

朱雀三年九月廿日。

左大臣宣の奉勅により、伊勢二所太神宮の御神宝物等を、

勅使を選び、送り奉った<(その)品目は記さず>。

宣旨の状に「二所太神宮の御遷宮の事、二十年に一度、まさに遷御させ奉り、(これを)長例と為すべし也云々」と言う。

そもそも朱雀三年以往の例は、

二所太神宮の殿舎、御門、御垣等は、宮司が破損の時を相まって、修理奉る例なり。

しかして、件の宣旨によって、遷宮の年限を定め、

又、外院の殿舎、倉、四面の重々(じゅうじゅう)しい御垣等を作り加えられる所なり。

 *ここに、今に続く「二十年毎の遷宮」等が規定された。

 

「語注」

【白鳳四年<甲戌>】:西暦674年。天武天皇三年(即位二年)。

【多基子(たきこ?)内親王】:不詳。天武天皇の皇女「託基(たき)皇女」か。彼女は、『続日本紀』で「多紀(たき)皇女」や「當耆(たき)皇女」と表記される。但し、日本書紀で天武天皇三年に伊勢に派遣されたのは「大来皇女自泊瀬齋宮、向伊勢神宮。」(十月九日条)とあり、大来皇女。

『二所太神宮例文』の「第二十伊勢斎内親王」に載せる天武天皇以降の斎宮は、「大来内親王・多基子内親王・阿閇内親王・當耆内親王・泉内親王・田形内親王・多紀内親王・・・」と順に列記するが、この内、阿閇内親王(後の元明天皇)と泉内親王は天智天皇の皇女で、他が天武天皇の皇女。 多基子、當耆、多紀の3名は恐らく同一人物であろう。ここに列記された皇女の中で斎宮として滞在したのは天武天皇時代の大来皇女と、文武天皇の時に派遣される當耆(多紀)、泉、田形(多形)の三皇女。他は勅使としての臨時派遣か。 滞在型は「遣當耆(多紀)皇女、侍于伊勢齋宮。」(続紀文武二年)と「侍(はべる)」があり、臨時派遣の場合は「丙申(27日)、遣多紀皇女。山背姫王。石川夫人於伊勢神宮」(天武紀朱鳥元年四月)と「遣」で、「侍」は無い。同書同年五月の記事に「五月庚子朔戊申(九日)、多紀皇女等至自伊勢。」とあり約二週間弱で帰京している。

【朱雀三年】:不詳。「朱雀」が日本書紀の言う「朱鳥」ならば、その三年は持統二年(持統元年は即日称制の翌年正月)にあたり、ここの勅は持統天皇のものとなる。 日本書紀の朱鳥元年は天武十五年(即位十四年)で、同年七月二十日に改元し、同年九月九日崩御。即日、持統天皇が臨朝称制で天皇の代役に臨む(即位は持統四年正月)。 『二所太神宮例文』 「第九大宮司次第」には、「<第二(二代目大宮司)>大朽連馬養<朱雀二年。持統天皇御代任。在任十七年、或十五年。>」と持統天皇に朱雀二年の記事がある。  尚、大系本はこの文の前に「白鳳十四年・・・宜長例者也」の文を挿入するが、これは『群書解題』によれば、後世の書き加えと言う。

【左大臣】:日本書紀等によれば、天武天皇の時代は、左右大臣は空席。次の持統天皇の時は、太政大臣(高市皇子・四年七月五日任)と右大臣(多治比嶋真人四年七月五日任)のみで、左大臣は空席。

【<色目不記>】:ここに品目を記さないと言うのは、前文にあった「具式文也」を受けたものであろう。前文の「式文」とは、恐らく内宮儀式帳の「寶殿物十九種」をさすか。

【宣旨(センジ)】:命令下達の公文書。「宣奉勅」は勅命を伝える。天子の命令書には「公式令」に「詔書(詔旨)式」や「勅旨式」があるが、「宣旨」はこれらの作成手続きを簡素化した文書。後世その種類は多岐にわたる。 六国史での初出は「東宮宣旨<止>爲<弖>」(弘仁元年九月の宣命)と「職名」として記載される。 『中家実録』(続々群書類従)に「凡宣旨者、蔵人頭奉口勅、書其趣而、遣上卿(大臣等)、謂之口宣。以其口宣留書之、在蔵人、謂口宣案。上卿以其口宣、留我家、別写一通、下知外記或史。然外記史更写一通。年月之下記自官位姓名遣仕人。是曰宣旨。」と言う。*(『中家実録』;中原家の有職故実に関する秘伝書。)

【宜為】:群本は「立為」だが、大系本に従い「宜為」とした。

【殿舎御門御垣】:ここに言う殿舎、御門、御垣は内宮儀式帳に言う「大宮、壹院」のことであろう。そこには、正殿壹区、寶殿二宇、御門十一間、玉垣三重、斎内親王侍殿一間、女孺侍殿一間とある。 『新任弁官抄』では、御垣を瑞籬(みづがき)、内玉垣、外玉垣、荒垣の四重と言い、「件荒垣有鳥居、此中号内院。内院殿皆萱葺。千木堅魚木有之。門又同。」と言う。

【宮司】:神宮の政所(まんどころ)でその役職も言う。内宮儀式帳の「初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事」に「従纏向殊城朝廷(垂仁天皇)以来、至于難波長柄豐前宮御宇天萬豐日天皇(孝徳天皇)御世有爾鳥墓村造神庤(シンチ)<弖>、為雑神政行仕奉<支>。(中略)同朝廷御時<仁>・・・度會山田原造御厨<弖>改神庤<止>云名<弖>、号御厨、即号大神宮司<支>。」と場所や名称の変遷を記す。*(《玉篇》庤;儲也,具也。)。  『二所太神宮例文』 「第九大宮司次第」に<第一><中臣>香積連須気<河内國錦織郡人也。孝徳天皇御代任。在任四十年>」と代々の大宮司の補任を孝徳天皇の世から記す。中間は他姓も補任されたが、同書に「<第十七此宮司以後不任他姓>中臣比登<祭主廣見七男。寶亀元年十二月任。>」とあり、これ以降は中臣氏の専任となる。 『類聚三代格』の太政官符に「加置伊勢大神宮司員事。元一人。今、加一人」(貞観十二年八月十六日)。

【外院】:内宮儀式帳に載る「大宮、壹院」以外の「幣殿一院」から「諸物忌小内人常宿斎館屋」までを言うか。

【重々】:ジュウジュウ。幾重にもかさなるようす。

 

「原文」(13

持統女帝皇

即位四年<庚寅>。太神宮御遷宮。

同六年<壬辰>。豊受太神宮遷宮。

 

「訳文」

(省略)

 

「語注」

【持統女帝皇】:持統天皇。日本書紀に「高天原廣野姫天皇」。名前に「高天原」とついているが、自称「高天原」出自の臣下も石を投げればあたるほど多い。その中であえて「高天原」と付けたのは、俗世の垢に染まらず、高天原から降りたてのように清く美しいと言う事か。

【即位四年<庚寅>】:この「庚寅」年は、西暦690年(日本書紀暦日原典)。持統天皇四年にあたり、即位元年。この「神宮雑事」で「即位四年」と書くが「持統天皇四年」のつもりであろう。

【太神宮御遷宮】:前文の朱雀三年九月廿日の宣旨による初めての遷宮。但し先の朱雀三年の宣旨は「依左大臣宣奉勅」と言うが、日本書紀や民間の年代記等によれば、天武及び持統天皇期の左大臣は、空席のままである。 『二所太神宮例文』「第二十六二所太神宮正遷宮臨時并仮殿遷宮」(正遷宮とは臨時や仮殿に対する名称)に、「白鳳十三年<庚寅>九月太神宮御遷宮。<持統天皇四年也。自此御宇、造替遷宮被定置廿年。但、大伴皇子謀反時、依天武天皇之御宿願也。>」と言う。干支年は「神宮雑事」と同じだが、年号が異なる。同じ神宮史料の中でも白鳳等の年号はまちまちである。これは、これら法制化以前の年号に行政的統一がなされていない事を示す。また式年遷宮は、「天皇之御宿願」と記述するが、実際に勅命を出したのは持統天皇である事を示唆する。

【豊受太神宮遷宮】:『二所太神宮例文』を見ると、

遷宮は、先ず内宮の遷宮が行われ、次に年をずらして外宮の遷宮が行われている。現今のように二宮同年遷宮は、『神宮年代記抄』に「天正十三年乙酉(1585年)十月十三日内宮御遷宮、同十五日外宮御遷宮。」とあり、これより始まると言う(古事類苑)。

 

「原文」(14)(宮司神館の設置)

元明女天皇

和銅二年<己酉>。

於太神宮外院之乾方、始立宮司神館。

五間二面、萱葺屋二宇。

定置永例料也。

同二年太神宮御遷宮。

同四年豊受宮御遷宮。

 

「訳文」

元明女天皇

和銅二年<己酉>(709年)。

太神宮外院の西北に宮司神館をはじめてたてる。

五間二面で萱葺屋根の二棟。

(これを)永例の料(リョウ)と定め置くなり。

同二年(709年)太神宮御遷宮。

同四年(711年)豊受宮御遷宮。

 

「語注」

【元明天皇】:『続日本紀』に「日本根子天津御代豊国成姫天皇」。文武天皇の世は欠史。元明天皇以降は欠史がなく、一代毎の記載となる。

【和銅二年<己酉>】:西暦709年(歴史読本編「万有こよみ百科」)。群本は「和同」だが、大系本に従い「和銅」とした。

【太神宮外院】:『神宮典略』「殿舎考三」に「大宮内院の外は皆外院なり。」という。『参宮名所図絵』に「一鳥居<神宮の入り口なり。>」とあり、一の鳥居から外院に入るか。『西宮記』「伊勢使」に「至御裳濯河、行祓、於第一鳥居外、脱剣。」とある。

【乾】:いぬゐ(ケン)。西北。「一の鳥居」の辺りか。

【宮司神館】:不詳。宮司の内宮での宿館(斎館)か。延暦廿三年の「内宮儀式帳」に、宮司の政所としての御厨(みくりや)は、孝徳天皇の時代から「山田原」にあると言うが、「宮司神館」の記載はない。この後の記事に、この神館の度重なる出火の事があり、これにより撤去されたか。

【五間(ま)】:五部屋。各部屋の寸法は不明。六尺を一間とする寸法の単位と異なる。

【二面(メン)】:二ヶ所。平面上の地割を言うか。

【二宇(ウ)】:二棟。ここの「宇」は、家屋の数をかぞえる単位。「宇、謂屋之覆也」(漢書・師古注)。「宇、屋也」(楚辞・離騒注)。

【料(リョウ)】:ここの「料」は基準値か。「料;量也。量者,稱輕重也。稱其輕重曰量。稱其多少曰料。」(説文解字注)

【同二年・・・】:和銅二年(709)の内宮遷宮。『二所太神宮例文』に「和銅二年<己酉>内宮遷宮<元明天皇御宇>。自白鳳十三年(持統天皇の四年)及廿二年。」。

【同四年・・・】:和銅四年(711)の外宮遷宮。『二所太神宮例文』に「和銅四年<辛亥>外宮遷宮。自内宮遷宮隔中一年。」。

 

「原文」(15

元正女天皇

霊亀三年八月十六日、大風洪水。

仍豊受神宮之瑞垣并御門一宇流散。

但、件水御正殿之許一丈際、専不流寄〈志天〉、

土下涌入也。甚神妙也云々。

養老六年〈癸亥〉三月三日。

大和国宇陀神戸司進於神祇官申文云;

年中四ヶ度御祭、臨時奉幣

[執幣丁朔日奉稲富目上古時](執幣丁、期日、奉稲富。自上古時)

為譜第之者、専無他役。

而以去二月廿七日、為散位縣造宿祢吉宗被打損者。

仍上奏已畢、

随則以同年五月七日、

件吉宗被配流隠岐国又畢。

 

「訳文」

元正女天皇

霊亀三年(717年)八月十六日、大風洪水。

よって、豊受神宮の瑞垣ならびに御門一棟が流れ散る。

但し、件の水、御正殿のもと一丈(約3m)際までは、もっぱら流れ寄らずして、

土の下に吸い込まれるなり。(これは)甚だ神妙なり云々、

養老六年三月三日。

大和国宇陀の神戸司が神祇官に申し文をたてまつり、

「年中四度の御祭や臨時奉幣の幣を守る役夫には、(各々の)期日に稲富を差し上げる。

(この役は)上古の時より、譜第の者をなし、もっぱら他(他姓)を役(エキ)することなし。

しかるに、去る二月廿七日に、(稲富は)縣造宿祢吉宗のために打ちそこなわれる。」

と言う。

よって、上奏すでにおわり、

したがって、(勅裁が下り)すなわち同年五月七日をもって、

件の吉宗は、隠岐の国(隠岐の島)に流されまたおわる。

 

「語注」

【元正女天皇】:群本にないが、大系本に従い補う。『続日本紀』に「日本根子高瑞浄足姫天皇」。

【霊亀三年】:養老元年(11月改元)。丁巳年で西暦717年(万有こよみ百科)。

【瑞垣(みづがき)】:正殿の一番内側の垣。

【涌入(ヨウニュウ)】:「わきいる」か。涌出(ヨウシュツ)の逆か。

【養老六年〈癸亥〉】:「癸亥年」は養老七年(723)にあたり、養老六年(722)は「壬戌年」。年号年か干支年か、どちらかに記述の誤りがある。

【神戸司】:不詳。神戸の地元責任者の一人か。『続群書類従・神祇部二十』に所収の『公文抄』「刀禰補任状下様・神領」の条に「神戸司」が散見出来るが、「宇陀郡の神戸司」はない。「職員令・神祇官」に「掌・・・神戸名籍」。

【年中四ヶ度御祭】:伊勢神宮に勅使を派遣する四度の祭り(春の祈年祭・夏冬の月次祭・秋の神嘗祭)。「伊勢神宮式」に「凡神嘗祭弊帛使・・・其年中四度使、・・・其祈年、月次使」。

[執幣・・・上古時]】:愚見で[  ]内にくくる部分の文は、群本や大系本でも意味不明となる。よって、「朔→期」に、「目→自」に変え、「稲富」を人名か役名とした愚見を( )内に提示した。「訳文」もこの文で行った。

】:まもる。「執;守也、持也。」(正韻)。

【丁(よほろ)】:令制の役夫。

【譜第(フダイ)】:世襲的に公職(臣下)に就くこと。

【役(エキ)】:公用ために人民を使役すること。「役;使役也。」(玉篇)。

【散位】:位階があって官職のない者。ここの位階は不明。「職員令・式部省・散位寮」に「謂、文武官人解官之後、皆同此司耳。」。

【縣造宿祢吉宗】:不詳。

【打損(うちそこなふ)】:理由は不明だが、傷害や殺害に及ぶか。

【配流】:流罪。

 

「原文」(16

聖武天皇

神亀六年正月十日。

御饌物依例於豊受神宮調備、従彼齎参於太神宮之間、

字浦田山之迫道、

死男為鳥犬被喰、

肉骨分散途中。

而忽依無遁去之道、

件御饌物〈乎〉齎撤〈天〉、

合期供進已了。

爰同年二月十三日、天皇俄御薬。

仍令卜食。

神祇官、陰陽寮勘申;

巽方太神依死触不浄之咎所祟給也者。

即下賜宣旨於国司、太神宮司、被捜糺之処。

件浦田坂死人之条、依実注申。

随則同年三月十三日、

依右大臣宣奉勅、下勅使、

且被謝遣件不浄之由、

且彼日御饌齎参豊受宮大物忌父<止>補神主川麻呂、

御炊内人神主弘美、及物忌子等、

進怠状、科大祓、解却見任了。

 

「訳文」

聖武天皇

神亀六年(729年)正月十日。

御饌の物は例によって豊受神宮で調備(チョウビ)し、

彼(豊受神宮)より太神宮に持ち参る時、

字(あざ)浦田の山のせまる道に、

死んだ男が鳥や犬のために喰われ、

(男の)肉や骨が途中に分散していた。

しかし、たちまちに遁去(トンキョ)する道なしにより、

件の御饌の物を持ち通って、

予定時刻どおり供えたてまつることすでにおわる。

ここに、同年二月十三日、天皇にわかにご病気。

よって卜食(ボクショク)を命じる。

神祇官と陰陽寮が、(占いの結果を)かんがえ申すに、

「南東の方位の太神が、死触不浄の咎により、祟りたまうところなり」と言う。

即ち宣旨を国司と太神宮司に下賜され、捜糺(ソウキュウ)されるところとなる。

件の浦田坂の死人のことは、事実によって、(朝廷に)報告された。

したがってすなわち、同年三月十三日に、

右大臣宣の奉勅により、勅使を下し、

かつは、件の不浄の由を謝りに遣わされ、

かつは、彼の日に御饌(みけ)持ち参る豊受宮の大物忌の父として補す神主川麻呂、

御炊(みかしき)の内人の神主弘美、及び物忌の子らに、

始末書をたてまつらせ、(彼らに)大祓を科し、現職を解任しておわる。

 

「語注」

【聖武天皇】:『続日本紀』に「天璽国押開豊桜彦天皇<勝宝感神聖武皇帝>」。

【神亀六年】:己巳年。西暦729年(万有こよみ百科)。天平元年(8月改元)。

【字(あざ・あざな)】:通称(人に限らない)。「名曰弥勒寺、字曰能応寺也」(霊異記下巻第三十話)。

【齎】:「齎;持也。」(廣韻)。

【浦田】:山田と宇治との境。『伊勢参宮名所図絵』に「牛谷の坂よりさし入の町なり。これより人みな宇治といふ。」(お伊勢参りの盛んな江戸時代は賑わいを見せるか)。また山田と宇治の兵乱を記す『内宮子良館記』に「浦田口をば、山田三方(外宮側の神戸)の衆、入替わり入替わり攻め戦ふといえども、かまへ吉により、ちとも働かせず。(内宮側の神戸)矢ぶすまをつくりて、散々に射かかる」とある。

【山之迫道】:山の迫る道。「迫;逼(せまる)也」(廣韻)。

【遁去(トンキョ)】:のがれさる。

【齎撤】:大系本に「もちとほり」の傍訓あり。傍訓通りなら、恐らく「撤」は「徹」の誤字であろう。徹(テツ);とおる(動詞)。

【合期(ガッキ)】:決められた時間に合わせる。「期;時也、契約也。」(玉篇)。

【同年二月十三日】:前日の十二日は「癸酉(12日)令王(長屋王)自尽。」(続日本紀)とあるが、ご病気の記事はない。

【御薬】:薬を御すで、病気。「御者、進也。凡衣服加於身、飮食適於口、妃妾接於寢、皆曰御。」(蔡邕・獨斷)

【卜食(ボクショク)】:「卜食」は「亀卜」の占いだが、広義の「占い」を言うか。『令義解』(国史大系本)の「卜食」の傍訓に「うらはめる」「うらにあへらむ」。また宮内省図書寮蔵本に「古記云、卜食、卜合也。」とあると言う。「神祇令」に「凡卜者、必先墨画亀、然後灼之、兆順食墨。是為卜食。」。但し「亀卜」は「神祇官」で行い、「陰陽寮」では筮竹による「占筮(センゼイ)」を行う。

【巽(たつみ)】:南東の方角。

【死触(シショク)】:死の穢れに触れること。

【下賜宣旨於国司太神宮司】:群本は「下賜宣旨於国司太神宮」とあるが、大系本に従い「大神宮」の後に「司」を補う。

【捜糺(ソウキュウ)】:捜し正す。

【注申(チュウシン)】:上への報告。

【随則同年】:群本、大系本、共に「随則同」だが、愚見で「年」を補い「随則同年」とした。

【右大臣】:神亀六年(天平元年)当時の右大臣は空席。その前任は、同年二月十二日に誅殺された長屋王だが、当時は左大臣に遷っている。長屋王の前任の右大臣は養老四年に亡くなった藤原不比等。

【謝遣】:あやまりに遣わすか。

【大物忌(おほものいみ)】:「大物忌」は、各種「物忌」の筆頭。「物忌」は、神職の童男童女(童男は宮守物忌と山向物忌だけ)から卜占で選ばれ、この童男童女達が、清浄を尊ぶ祭礼行事での中心的役割を担う。「大物忌父」や「物忌父」とは、その童女童男を補佐する父親(実父または義父)。

外宮(豊受宮)の「大物忌」は、「外宮儀式帳」に「他人火物不食、宮大垣内、立忌庤造、不帰後家(実家)、宮侍(中略)二所大神<乃>朝<乃>大御饌、夕<乃>大御饌<乎>日毎斎敬供奉。」と俗世を離れ、清浄な生活を保ち、役割としては、「御炊物忌」「御塩物忌」「土師物忌(内宮)」等と共に毎日の神饌をそなえる。その任期は、天明八年(1788)の『続郷談』(大日本地誌大系本)に「外宮大物忌子は、月事(初潮)なるを期として解任せしを寛延中(17481750)智彦卿(松木智彦)執印(外宮長官)の時に、十二歳を限りと定め玉ふ。十三歳は婚嫁の年なり。戸令曰、凡男十五、女年十三以上聴婚嫁。内宮の例は不聞。・・・別式あるべきか。」。

内宮の「大物忌」は、斎内親王の代役的存在。その由来は、「内宮儀式帳」に「此初太神<乎>頂奉斎倭姫内親王、朝廷還参上時<仁>、今禰宜神主公成等先祖天見通命<乃>孫川姫命、倭姫<乃>御代<仁>大物忌為<弖>、以川姫命、大神<乎>令傅奉。」と述べ、役割は「今、従斎内親王、大物忌者、於太神近傅奉。昼夜不避、迄今世最重。」と斎内親王に従って大神に近習すると言う。また同書に「以上三人物忌等<波>(大物忌・宮守物忌・地祭物忌)、宮後川(五十鈴川か)不度。若誤度時<波>、更不任用、即却。」と日常的に厳格さが求められた。 

「物忌」は『神宮雑例集』「供奉始事」に「神主<乃>女子等未夫婚<乎>物忌<爾>定。」とある。 『延喜式』には「大神宮三座;物忌九人<童男一人、童女八人、父九人>」(伊勢神宮式)とあり、他に別宮や外宮の物忌の人数もここに記される。 

【<止>補】:群本や大系本に「止補」とあるが、これでは意味不詳。鈴鹿文庫の写本には「止」が小書きされる。愚見でこれに従い「<止(と)>補」とし、「補」は「補任」の意と解し、訳文した。

御炊(みかしき)内人】:「外宮儀式帳」(延暦二十三年)に記載なし。記載される「御炊物忌父」のことか。

【子等(こら)】:大系本は「子良」。どちらも読みは「こら」であろう。

【怠状(タイジョウ)】:始末書。

【大祓(おほはらへ)】:これは例祭の「大祓」でなく、罰金刑的な「大祓」。『古事類苑』「祓禊」の条に「上古、祓を以て人に科するは、ほとんど贖罪の如きものにて、普通の罪を罰せしが、後には神事の罪穢にのみ之を用い、桓武天皇の朝には、特にその制を立て、大上中下の四等に分ちて、物を出さしめたり。」と言う。この制は、『類聚三代格』の延暦廿年五月十四日の太政官符「定准犯科祓例事」に詳細が載る。

【解却(ゲキャク)】:解任。

【見任(ケンニン)】:現職。「見;俗作現」(集韻)。

 

「原文」(17)(外宮に御饌殿設置)

其後依宣旨卜定、

豊受神宮、新建立御饌殿、

可令供奉太神宮朝夕御饌之由、

神祇官陰陽寮共卜申既了。

仍宮司千上蒙別宣旨、致不日功、

豊受宮外院、建立御饌殿一宇、瑞垣一重。

自爾以降、於件殿、供進朝夕御饌物、

今号御饌殿是也。>永停止齎参之勤。

于時宮司千上有鑑。

可被勧賞之由、公卿僉議。

而蒙宮司重任宣旨已了。

天平元年九月。

二所太神宮御神寶等具不記使右中弁、

同年九月十三日参宮。

同年九月太神宮御遷宮。

同三年任宮司従七位下村山連豊家。

件宮司前司千上同母異父之弟也。

而前司千上蒙重任宣旨之程、煩病。

因之以件宣旨、譲與於弟豊家已了。

依彼譲状、所被賞任也。

 

「訳文」

その後、宣旨によって卜い定めるに、

豊受神宮に新たに御饌殿を建立し、

太神宮の朝夕の御饌をそなえたてまつられるべき由、

神祇官と陰陽寮ともに卜い申すことすでにおわる。

よって宮司の千上は、別の宣旨を蒙り、不日の功をいたし、

(すぐに)豊受宮の外院に御饌殿一宇と瑞垣一重を建立する。

それより以降、件の殿に於いて、朝夕の御饌の物を供え奉り、

今、御饌殿と言うのはこれなり。

永く齎参(セイサン)の勤(つとめ)を停止する。

時に宮司の千上(の行為)に、鏡とすることあり。

勧賞せられるべき由、公卿が衆議す。

そして、宮司重任の宣旨を(千上が)蒙ることすでにおわる。

二所太神宮の御神寶等<具に記さず>の使いの右中弁が、

同年(天平元年)九月十三日に参宮。

同年九月、太神宮御遷宮。

同三(二か)年、宮司に従七位下村山連豊家を任ず。

件の宮司は、前司千上の同母異父の弟なり。

前司千上は、重任の宣旨を蒙るころ、病を煩う。

これにより、件の宣旨(の褒賞)をもって、

弟の豊家に譲りあたえることすでにおわる。

彼の譲状により、(千上への褒賞として豊家に)賞任せられるところなり。

 

「語釈」

【宮司千上】:『二所太神宮例文』「大宮司次第」に「<第六>高良比連千上<神亀三年三月一日任。在任五年。雖重任官旨、依所帯。>。『新撰姓氏録』「河内国神別・天神」に「中臣高良比連;津速魂命十三世孫臣狭山命之後也」。

【不日功(フジツのコウ)】:「不日」は、幾日と日をおかずに、すぐに。「経始霊臺,経之営之,庶民攻之,不日成之。」(詩・大雅・靈台)。ここでの「功」は、すぐに御饌殿を建立した功績。

【豊受宮外院・・・】:「外院」と言い、「瑞垣一重」とも言い、現在の位置とは異なるか。

【今号御饌殿是也】:群本は、この文言を本文としているが、文のつながりから大系本に従い「文中注釈文」とした。

】:「鏡也。」(廣韻)。

勧賞(カンショウ)】:褒賞。恩賞。

僉議(センギ)】:衆議。評議。「皆也。」(正韻)。

【宮司重任(グウジ・ジュウニン)】:ここは宮司職の再任。当時の任期は不定期か。 『類聚国史』には、「勅・・・今聞。神宮司等、一任終身、侮黷不敬、崇咎屡臻。宜天下諸国神宮司、神主、神長等、擇氏中清慎者、補之、六年相替。」(延暦十七年正月)とある。

天平元年九月】:この語句は、文のつながりとして不自然であり、原文はのこすも、訳文では愚見で除く。右中弁】:太政官の大中少ある左右弁官の右中弁。右の弁官は「掌管兵部、刑部、大蔵、     宮内。余同左大辨」(職員令)と言う。

【同年九月太神宮御遷宮。】:群本にこの一文はないが、大系本や『二所太神宮例文』により補う。当時の遷宮(遷御)は、常には九月の神嘗祭(16日)に行うと言う(内宮儀式帳)。

村山連豊家】:『二所太神宮例文』「大宮司次第」に「<第七>村山連豊家<天平二年八月廿四日任。在六年。兄千上譲。>」。『新撰姓氏録』「河内国神別・天神」に「村山連;中臣連同祖。」。 群本、大系本ともに「同三年(天平三年)任」とあるが、「天平三年」の段は次の後文にあり、「大宮司次第」に依れば「同二年(天平二年)任」が正しいか。

和(わ)】:助詞の「は」が「わ」に音韻変化した跡を示すか。古今の「仮名遣い」では、「わ」と発音するも「は(波)」と書く。

【而】:この「而」は、読まない方が訳文のつながりが良いか。

【程(ほど)】:ころ(頃)。

【賞任(ショウニン)】:褒賞としての任命か。「賞;賜有功也。」(説文)。

 

「原文」18

天平三年六月十六日。

御祭<仁>二見郷長石部嶋足参入神宮、而煩霍乱。

退出之間、於神宮近辺倒死亡了。

而間天皇御所物怪(恠)頻也。

即神祇官并陰陽寮等勘申云、

巽方太神之御、當有死穢事歟。

仍所祟給也者。

即皇太子俄不豫大坐<須>。

仍勅使令祈申於二宮給。

且下賜宣旨太神宮。

被尋糺死穢之事。

爰嶋足頓滅事<乎>禰宜等注申、

仍宮司上奏之。

因之度会郡大領神主乙丸、少領新家連公人丸等<和>科大祓。

太神宮禰宜神主野守、豊受神宮禰宜神主安丸等<和>科中祓<天>、

差勅使、令祈申於太神宮已了。

 

「訳文」

天平三年六月十六日。

御祭に二見の郷長石部嶋足が神宮に参入して、霍乱を煩う。

退出の間、神宮近辺で倒れ、死亡しおわる。

しかる間、天皇御所の異変、頻りなり。

即ち、神祇官ならびに陰陽寮等が、かんがえ申すに、

「東南の(伊勢の)太神の御(ギョ)に、まさに死穢の事あるか。

よって、祟りたまうところなり。」という。

即ち、皇太子、俄に不豫(フヨ)にますます。

よって、勅使に二宮を祈り申させたまう。

かつは、宣旨を太神宮(司)に下し賜り、

死穢の事を尋ね糺された。

ここに、嶋足の急死の事を禰宜等が(宮司に)報告し、

よって宮司がこれを上奏した。

これにより、度会郡大領神主乙丸と少領新家連公人丸等は大祓に科せられ、

太神宮禰宜神主野守と豊受神宮禰宜神主安丸等は中祓に科せられて、

勅使を使わされ、太神宮に祈り申さしめ、すでにおわる。

 

「語注」

【二見郷長】:「二見郷」は『倭名抄』に「度会郡;二見<布多美>」。「郷長」は、令制の「里長」。『令義解』に「凡戸以五十戸為里。毎里置長一人<掌検校戸口、課殖農蚕、禁察非違、駆賦役。>」とあるが、『出雲風土記』に「郷字者、依霊亀元年(715年)式、改里為郷」とあり、後に「里」から「郷」への名称変更がなされたと言う。

【石部嶋足】:「石部」は「磯部」とも書かれる。「石」の読みには「以之(いし)」(倭名抄)、「伊波(いは)」(古事記)、「伊曾(いそ)」(倭名抄)などが見られる。 「嶋足」は不詳。 『延喜式』に「凡斎王到国之日、取度会郡二見郷礒部氏童男、卜為戸座(へざ)。」(斎宮式)と言う記事がある。この「戸座」は、天皇や中宮、斎宮等の神事に随行する童男。「凡行幸陪従御巫、戸座給乗馬。」(践祚大嘗祭式)、「応卜貢中宮職戸座事」(類聚符宣抄)などの記録があるが詳細は不詳。採用の規定は『延喜式』に「凡戸座取七歳已上童男卜食者充之。若及婚時、申弁官充替。」(臨時祭式)とある。

【霍乱(カクラン)】:今の日射病(熱中症?)という。天平三年六月十六日は今の七月二十八日前後か(万有こよみ百科)。

【皇太子】:不詳。生後間もない男子の皇太子は、『続日本紀』に依れば、神亀五年九月十三日に没しており、娘の阿倍内親王の立太子は、天平十年正月十三日。ここはこの阿倍内親王のことを言うか。

不豫(フヨ)】:天子、尊者の病気。「維王不豫。于五日、召周公旦 朱右曾 校釈;天子有疾称不豫。」(逸周書・五権)。

【大坐<須>】:「おおいにまします」か。ここに誤字、脱字、衍字などの可能性があるか。訳文では「大」を読まないが検討を要する。

【度会郡大領神主乙丸】:「選叙令」に「凡郡司、取性識清廉、堪時務者為大領、少領。強幹聡敏、工書計者、為主政、主帳。其大領外従八位上。少領外従八位下叙之。<其大領少領、  才用同者、先取国造。>」とあり、「大領」は郡司の長。「職員令」に「大領一人<掌撫養所部、検察郡事。>」とある。任限は、「和銅六年五月己巳(7日)制。夫郡司大少領以終身為限。」(続日本紀)と言う。 「神主乙丸」は、姓が「神主」、名は「乙丸」。この人は、『二所太神宮例文』に依れば、荒木田神主首麿の子で、下記の神主野守の父親か。

【少領新家連公人丸】:「少領」は郡司の副。「職員令」に「少領一人<掌同大領>。」とある。「新家連公人丸」は、姓が「新家連」、名は「公人丸」か。「内宮儀式帳」の「初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事」に「度会<乃>山田原立屯倉<弖>、新家連阿久多督領・・・」と新家連のことがのるが、「公人丸」は不詳。

【神主野守】:内宮禰宜職で、姓が(荒木田)神主、名は野守。『二所太神宮例文』「(皇太神宮)一員禰宜補任次第」に「禰宜荒木田野守<首麿子、乙麿子也。持統天皇御代奉仕。>」とあり、野守は首麿の子の乙麿の子と言う。この「乙麿」は、上で述べた大領の「乙丸」か。「首麿」は、同書に「<黒人子。賜神主姓。斉明天皇御代奉仕>」とあるが「乙麿」は、禰宜職では名が記載されていない。『伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳』には「大初位下野守<黒人二男乙麿二男>。藤原朝廷<持統・文武・元明天皇>禰宜」ともあり、どれも時代に合わない。聖武天皇の時代の禰宜職は『二所太神宮例文』に「首名<乙麿六男。聖武天皇天平年中奉仕>」とある「首名」か。しかし、どちらも父親は乙麿であろう。

【神主安丸】:外宮禰宜職で、姓が(度会)神主、名は安丸。『二所太神宮例文』「(豊受太神宮)一員禰宜補任次第」に「安麿<龍一男。聖武天皇神亀五年任。在任(空欄)。」とあり、この「安麿」が「安丸」であろう。こちらは時代も合う。

 

「原文」19

而太神宮禰宜野守陳状云;

當宮禰宜等不可科祓也。

何者、禰宜職是連日長番之上、

全守六色之禁忌、

縦件死人雖有御前、非宮中祭庭之外、

可輙口入穢気之事乎。

加之、嶋足死去之所<和>外宮近辺字山里川原云々。

須郡司、嶋足之所由、令取棄(弃)死屍、

且令祓清也。

而郡司早不申行者。

彼宮禰宜并郡司等可勤仕件祓事也。

即国宮共注此由、上奏畢。

 

「訳文」

しかし、太神宮禰宜野守の陳状に、

「当宮(内宮)禰宜等は祓に科すべからざるなり。

なぜならば、禰宜職は、これ連日宿直(神宮内隔離)のうえ、

六種の禁忌を完全に守り、

たとえ、件の死人が(神宮の)御前にあるといえども

宮中(外院)や祭庭(内院)でないほかは、

たやすく穢気の事を(常勤の禰宜が)口に入られるや。

(反語で、口に入れられない事を言う)

しかのみならず、嶋足死去の所は、

外宮近辺の字(あざ)山里川原云々。

すべからく郡司が、嶋足のよるところは、

(嶋足の)死屍(しかばね)を取り棄てさせ、

かつ、(そこの所を)祓い清めさせるべきなり。

それなのに、郡司はすみやかに申し行わなかった。」という。

彼の宮(外宮)の禰宜ならびに郡司等が、件の祓いを勤仕すべき事なり。

すなわち国司と宮司が共に、この由を報告し、(天皇に)上奏されおわる。

 

「語注」

【何者】:大系本傍訓に「いかんとなれば」。

【長番】:宿直常駐。「神宮式」に「凡二所太神宮者、禰宜<長番>。大内人毎旬率物忌父并小内人戸人等分番宿直。」。この時は、禰宜の人数が内宮外宮共に一人であるが故の長番。

【全】:群本は「企」だが、大系本に従い「全」とした。

【六色之禁忌】:六種のタブー(禁じられた行為)。「神祇令」に「不得弔喪、問病、食宍。亦不判刑殺、不決罰罪人、不作音楽。」とあり、延暦廿年の太政官符に「犯弔喪、問病等六色之禁忌者、宜科上祓。」とある。

【縦】:大系本傍訓に「たとひ」。

【輙】:たやすく。大系本に、小字で「く」と送り仮名が付けられ、『倭玉編』の読みに「たやすし」とある。

【加之】:大系本傍訓に「しかのみならず」。

【山里川原】:不詳。

【国宮】:国司と宮司か。

 

 

「原文」20(太神宮政印)

天平十一年十二月廿三日。

太神宮政印一面被始置已畢<方二寸>。

依神祇官解、所被鋳下也。

自爾以来、太神宮司印伝来也。

而大神宮印者、

彼宮禰宜従五位下神主石門執行之時、

依本宮解状、賜宣旨、所被鋳下也。

抑宮司家主之以前、

代々宮司以神宮印公文雑務之時、

禰宜共執捺之例也。

 

「訳文」

天平十一年(739年)十二月廿三日。

太神宮政印一面、始めておかれることすでにおわる<印面の寸法は方二寸>。

神祇官の解状により、鋳下せられる所なり。

それより以来、太神宮司印が伝来するなり。

しかして、大神宮印は、

彼の宮(内宮)の禰宜従五位下神主石門執行の時(天智天皇の時)、

本宮(内宮)の解状により、宣旨を賜い、鋳下せられる所なり。

そもそも宮司家がこれを(宮司印)つかさどる以前は、

代々の宮司が、神宮印(内宮印)を公文、雑務にもちいる時、

禰宜が共に(一緒に)執り捺す例(慣例)であった。

 

「語注」

【太神宮政印】:宮司の印。

【方二寸】:印面の寸法。「公式令」に依れば、天子の内印は方三寸。太政官の外印は方二寸半。諸国の印は方二寸。

【依神祇官解】:神祇官の「解」は恐らく間違い。神祇官の上は天皇であり、この場合は上奏か。「解(ゲ)」とは解状で、「公式令」の「解式」に「八省以下内外諸司、上太政官及所管並為解。」とあり、太政官や所管の役所に上げる文書を言う。

【太神宮司印】:上文の太神宮政印。

【大神宮印】:内宮の印。 下文に依れば、天智天皇の時代に下賜されたか。

『神宮雑例集』に載せる「内宮政印;天平十一年十二月二十三日被始置也<但方二寸>。」の記事は「宮司政印」の間違いであろう。また同書に「宮司政印事」の項目が別にあって、斉衡二年の太政官符の記事を載せているが、これは宝亀三年正月の宮司宿館の火事で焼失した「宮司政印」の再鋳下記事であろう。(原文39参照)

【従五位下神主石門】:神主石門は『二所太神宮例文』に「天智天皇御代奉仕」とある。

【執行(シュギョウ)】:事務、行事を統括する責任者。

【宮司家主之以前】:群本は「宮司家出之以前」だが、大系本により「出」を「主」に修正する。

【以】:もちいる。「用也。」(説文)。

 

 

「原文」21(東大寺の建立計画)

天平十四年<辛巳>十一月三日。

右大臣橘朝臣諸兄卿参入於伊勢太神宮。

其故<波>、天皇御願寺可被建立之由、

依宣旨所被祈申也。

而勅使帰参之後、

以同十一月十一日夜中、令示現給<布>。

天皇之御前<仁>玉女坐。

即放金色光<天>宣、

本朝<和>神国也。

可奉欽仰神明給也、

而日輪者大日如来也。

本地者盧舎那仏也。

衆生者悟之、當帰依仏法。

御夢覺之後、道心彌発給<天>、

件御願寺事<於>始企給<倍利>。

 

「訳文」

天平十四年<辛巳>(742)十一月三日。

右大臣橘朝臣諸兄卿、伊勢太神宮に参入。

その故は、天皇の御願寺、建立せられるべき由を、

宣旨により、祈り申されるところなり。

そして、勅使帰参の後、

同十一月十一日の夜中に、示現(ジゲン)せしめたまう。

天皇の御前に玉女ましまします。

すなわち、金色の光を放って、

「本朝は神国なり。

神明をうやまい仰ぎ奉りたまうべきなりが、

日輪(ニチリン)は大日如来なり。

本地(ホンジ)は盧舎那仏(ルシャナブツ)なり。

衆生(シュジョウ)はこれを悟り、まさに仏法に帰依すべし。」

と、のたまう。

御夢にこれを覚った後、道心、いよいよ起こりたまいて、

件の御願寺の事を始めて企てたまえり。

 

「語注」

【天平十四年<辛巳>】:西暦742年。

【右大臣橘朝臣諸兄】:葛城王。光明皇后の兄(異父)。『公卿補任』に「天平八年;参議従三位橘宿祢諸兄<改葛城王為橘諸兄。>」とあり、『続日本紀』の天平八年十一月条に、臣籍降下を願い出た長文の上表文がのる。右大臣に就任するのは天平十年で、同十五年に左大臣に遷る。天平十四年当時はまだ「宿祢」で、「朝臣」となるのは天平勝宝二年(750年)。「(天平勝宝二年)正月乙巳(16日)・・・左大臣正一位橘宿祢諸兄賜朝臣姓。」(続日本紀)。

【御願寺】:ここの「御願寺」は東大寺をさすか。『東大寺要録』は、「神宮禰宜延平日記云」と、「神宮雑事」のこの天平十四年の記述部分を抄出して、「(御願寺は)謂東大寺是也<已上証記文>」と主張する。聖武天皇治世の天平年間の前半には、社会的災害の頻発や幼い皇太子の病死、藤原広嗣の乱などがある。そのためか、聖武天皇は、仏教に傾注し、そこに社会の安定とご自身の安心を求め、最終的に仏弟子となる。『続日本紀』の天平勝宝元年(749)四月甲午の記事に「天皇幸東大寺・・・白佛。三寳〈乃〉奴〈止〉仕奉〈流〉天皇〈羅我〉命盧舍那佛像〈能〉大前〈仁〉奏賜〈部止〉奏〈久〉。」と、ご自身(聖武)を三宝(仏・法・僧)に仕える奴(やつこ)と言い、同年五月癸丑(20)の詔に「因發御願曰・・・所冀*太上天皇沙弥勝滿、諸佛擁護・・・」と、「沙弥勝滿(法名)」とも名のる(*「太上天皇」は見解の相違もあるが聖武天皇のことであろう。)。

【玉女】:天照大神に擬すか。「恵公即位二年、淫色暴慢、身好玉女。」(呂氏春秋·貴直)、「玉女、美女也。」(高誘 注)。

【日輪】:太陽。「日初出、大如車輪。」(列子)。

【大日如来】:盧舎那仏の漢語訳。真言密教の教主仏。『類従名物考』に「大乗揄迦十鉢文殊大教王経」を引き「毘盧遮那・・・旧訳云光明遍照、新翻為大日如来」と言う。「大日如来」と「盧舎那仏」は、同じ梵語の漢語翻訳と漢字音写の違いであると言う。ここの文は検討を要する。

【本地】:姿を変えて俗世に出現した仏の本来の地、本来の姿。「本地垂迹説」による考え方。

【盧舎那仏】:毘盧舎那仏とも言う。『華厳経』や『大日経』などでの教主仏。梵語の漢字による音写という。

【御夢】:聖武天皇の夢。夢の玉女の言葉に、衆生や帰依など仏教用語が出てきており、天皇の日頃の願望が夢に出たのであろう。

【<於>】:「於」は「お」と読むが、ここは対象を指し示す格助詞の「乎(を)」であろう。「を」と「お」が同音化したことを示すが、仮名遣いが乱れているか。 鎌倉時代以降の五十音図のア行は「あいうえを」と乱れ、江戸時代に、本居宣長が『字音仮字用格』で「あいうえお」と正した。これは「オ・ヲの所属を始めて(鎌倉時代以降で)、明らかにしたる点に於いては画期的な大研究である。」(小島好治著『国語学史』)という。

【発】:大系本に「おこり」の傍訓あり。

 

 

「原文」22

天平十九年九月。

太神宮御遷宮。

即下野国金上分令進給<倍利>。

同十二月諸別宮同奉遷<天>、

廿年一度御遷宮長例宣旨了。

 

「訳文」

天平十九年九月。

太神宮御遷宮。

即ち下野国の金の上分(ジョウブン)をさしだされたまえり。

同年十二月、諸別宮も同じく遷したてまつって、

二十年に一度、(別宮の)御遷宮の長例の宣旨のことおわる。

 

「語注」

【太神宮御遷宮】:『二所太神宮例文』に「天平十九年<丁亥(747)>。内宮遷宮。自(天平)元年及十九年。」とある。外宮の遷宮は同じく同書に「天平勝宝元年<*庚寅>」とある(*庚寅年は天平勝宝二年(750)にあたり、どこかに誤りがあるか。)。

【下野国】:鎌倉時代初期の神領を記した『神宮雑令集』に、「上野国」はのせるが「下野国」は無い(南北朝時代の『神鳳抄』には記載あり)。 『倭名抄』に「下野<之毛豆介乃(しもつけの)>」。『先代旧事』の「国造本紀」に「下毛野国造;難波高津朝(仁徳天皇)御世、元毛野国分為上下、豊城命四世孫奈良別、初定賜国造。」。後世に、上野国を上州と言い、下野国を野州とも言う。

【金】:金の初めての国内産出例は、後文の天平廿一年の条にあり、ここの金の記事は不可解。 『東大寺要録』にも、この「神宮雑事」の異本と言う(群書解題)「神宮禰宜延平日記」のこの「下野国の金」を引用しているが、その内容は、ここと大きく異なり、石山寺の縁起に関連させる記事となっている。

【上分(ジョウブン)】:不詳。諸辞書には「神仏への上納分」、後に神仏を離れ「うわまえ」などと解説する。南北朝時代の神領を記した『神鳳抄』に「下野国;梁田御厨<内宮上分絹五疋、*口入九十三疋・・・>」などと散見する(*口入は口入(仲介)神主(後の御師など)の取り分か)。『神鳳抄』の時代の神領は著しく増大するが、「その実収は、多くは土地の豪族や口入神主の手に帰していたのである。」(群書解題)と言う。

【別宮】:別宮は「別宮とは本宮に対する称号にして、大神宮に次で、最も尊重崇敬せらるる所」(古事類苑)と言われ、「内宮儀式帳」に「荒祭宮」、「月読宮」、「伊雑宮」、「滝原宮・並宮」が記載される。後世に「伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮」(貞観九年)、「風日祈宮」(鎌倉時代元寇時の功績により「社」号から「宮」号となる)、「月読荒御魂宮」(明治六年)、「倭姫宮」(大正十一年)と暫時増加する。

 

「原文」23

天平廿年。

任宮司従五位下津嶋朝臣小松。

件小松以去十五年正月廿三日、

度会郡城田郷字石鴨村新築固池一處既畢。

依件成功、叙従五位下之後、拝任宮司也。

 

「訳文」

天平二十年。

宮司に従五位下津嶋朝臣小松を任じる。

件の小松は、去(天平)十五年正月廿三日をもって、

度会郡城田郷字(あざ)石鴨村に、

新たに池一所を築き固めること既におえる。

件の成功により、従五位下に叙されたのち、

宮司を拝任するなり。

 

「語注」

【津嶋朝臣小松】:『二所太神宮例文』の「大宮司次第」に「<第十一>津嶋朝臣子松<天平廿年五月九日任。在任九年。>」とある。「津嶋朝臣」は『新撰姓氏録』「摂津国神別:天神」に「津島朝臣;大中臣朝臣同祖。津速魂命三世孫天児屋根命之後也」とある。

【城田】:現在の玉城町や度会町などを含む広い地域。倭名抄に「度会郡;宇治、田部<多乃倍>、城田<木多(きた)、(後略)>」とある。後の『神鳳抄』には、「外城田郷、内城田郷」とあるも、「田部郷」の名がなく、城田郷に併合されたか。

【石鴨村】:不詳。 「内宮儀式帳」の「管度会郡神社行事」に「鴨社一處<来田(城田)郷山神村在>。称大水上児、石己呂和居(いしころわけ)命。形石坐。同(倭)内親王定祝。」とあり、現在も玉城町山神に「鴨神社」がある。「石鴨村」とはこのあたりの地域を言ったか。

【池】:人工の沼(貯水池)。倭名抄に「蓄水也<和名以介>。」

 

「原文」24

天平廿一年四月日。

従陸奥国金進官。

是奉為公家重宝也。

仍以同年七月二日、改天平勝宝元年<己丑>。

當唐天宝八年。

件出来之由、二所太神宮<仁>、令申給<倍利>。

即太神宮禰宜外八位上神主首名叙外従五位下。

 

「訳文」

天平二十一年四月(空白)日。

陸奥の国より金を官にたてまつる。

これは朝廷の御為に重要な宝なり。

よって同年七月二日をもって、天平勝宝元年(749年)と改める。

まさに唐の天宝八年にあたる。

件の産金のことを、二所太神宮に、申させたまえり。

即ち太神宮禰宜外八位上神主首名は外従五位下に叙される。

 

「語注」

【陸奥国】:主に太平洋側の東北地方。倭名抄に「陸奥;三知乃於久(みちのおく)」、「陸奥国;国府在宮城郡。鎮守府在胆沢郡(岩手県南部)。」。 産金の記事は、『続日本紀』の「天平勝宝元年749二月丁巳(22)」の条に「陸奧國始貢黄金。於是、奉幣以告畿内七道諸社。」とのり、同年四月甲午朔の詔に「此大倭國者天地開闢以來〈尓〉黄金〈波〉人國〈用理〉獻言〈波〉有〈登毛〉。斯地者無物〈止〉念〈部流仁〉。聞看食國中〈能〉東方陸奧國守從五位上百濟王敬福〈伊〉部内少田郡〈仁〉黄金出在奏〈弖〉獻。」と国内初めての産出と言い、場所は陸奥国少田郡と言う。具体的な場所は「神名式」に「東山道;陸奥国;小田(をだ)郡黄金(こかね)神社」とのるこの神社周辺(宮城県)か、と言われる。

【進官】:「進」は『倭玉篇』に「たてまつる」の訓あり。「官」は太政官であろう。

【奉為】:大系本傍訓に、二字で「おほんため」。

【天平勝宝】:同年四月十四日に産金によて「天平感応」と既に改元しているが、孝謙天皇の即位をうけての更なる改元。これは一年に二回の改元となる。

【<己丑>】:西暦749年(万有こよみ百科)。

【天宝】:中国唐朝玄宗帝の年号。「天寶元年春正月丁未朔、大赦天下、改元。」(旧唐書玄宗皇帝紀)。

【件出来之由】:産金の報告。 この産金は『続日本紀』に「盧舍那佛〈乃〉慈賜〈比〉福〈波陪〉賜物〈尓〉有〈止〉念〈閇〉受賜〈里〉。」(天平勝宝元年四月甲午朔)と、盧舍那佛の賜物とあり、同書天平勝宝元年(749)四月戊戌(5)条の記事に「詔授從五位下中臣朝臣益人從五位上、正六位上忌部宿祢鳥麻呂從五位下、伊勢大神宮禰宜從七位下神主首名外從五位下。因遣民部卿正四位上紀朝臣麻路、神祇大副從五位上中臣朝臣益人、少副從五位下忌部宿祢鳥麻呂等、奉幣帛於伊勢大神宮。」と神主首名への叙位や勅使派遣の記事がある。

【神主首名】:荒木田氏の内宮禰宜。『二所太神宮例文』「一員禰宜補任次第」に「首名<乙麿六男。聖武天皇天平年中奉仕>。」。

 

「原文」25

高野女帝皇

天平勝宝元年<己丑>八月十一日。

豊受宮物忌父神主世真<加>神館一宇焼亡。

仍宮司小松朝臣申上本官、随亦上奏。

世真科中祓。

清供奉之間、彼子等死去。

因之又世真解任了。

 

「訳文」

高野女帝皇(標題)。

天平勝宝元年<749年>八月十一日。

豊受宮(外宮)の物忌父の神主世真の神館一棟焼亡。

よって、宮司の小松朝臣が本官(神祇官)に報告し、

したがって(神祇官が)上奏。

世真は中祓に科される。

(その後)清めて供奉する間、彼の子等(物忌)が死去。

これにより、また世真、解任されおわる。

 

「語注」

【高野女帝皇】:聖武天皇の女。『続日本紀』に「宝字称徳孝謙皇帝<出家帰仏。更不奉諡。因取宝字二年、百官所上尊号、称之。>」。『帝王編年紀』に「孝謙天皇<諱阿閉、或高野>。聖武天皇大女(あねむすめ)也。母光明皇后[淡海公第二女]也。」。 「退位後の孝謙上皇および重祚後の称徳天皇について「高野天皇」と記す。」(新日本古典文学大系「続日本紀」の脚注)。「高野」は山陵(墓所)のある地名からとも言われる。「葬高野天皇於大和國添下郡佐貴郷高野山陵。」(続日本紀宝亀元年八月)。

【物忌父神主世真】:「物忌父」は役職、「神主」は姓、「世真」は名。

【神館】:外宮斎館院内の物忌父小内人等の宿館屋か。「外宮儀式帳」に「斎館一院;御饌炊殿一間、大内人三人宿館屋三間、物忌五人宿館屋五間、斎火炊屋五間、物忌父小内人等宿館屋五間・・・」とある。

【小松朝臣】:津嶋朝臣小松。原文23の「語注」参照。

【子等(こら)】:大物忌(童女)か。「外宮儀式帳」の「職掌禰宜内人物忌事」に「大物忌、御炊物忌、御塩焼物忌、菅裁物忌、根倉物忌」の五人(童女)の物忌を載せる。

【解任】:「物忌父死者、其子(物忌)解任。子死者、亦父解任。」(延喜式・伊勢太神宮)。

 

 

「原文」26

天平勝宝六年六月廿六日夜、

豊受宮御稲御倉之放棟<天>、

盗取御稲十八束畢。

仍番直内人等付跡尋求之處、

彼御炊内人神主元継之私宅捜出<多利>。

件元継者継橋郷美乃々村住人也。

即元継夫婦相共搦進於司庁。

仍宮司略問之處、

無同類、被迫飢渇、

元継一人盗取之由弁申<世利>。

仍且令進過状、且申上本官、随即上奏。

被下宣旨、元継科大祓、解任職。

番直内人五人<波>科中祓。

至于貢御稲<波>、宮司以他稲祓清、令進替既畢。

 

「訳文」

天平勝宝六年(754)六月二十六日の夜に、

豊受宮御稲の御倉の屋根をこわして、

御稲十八束を盗み取られる。

よって、宿直当番の内人等が跡をつけて、尋ね求めたところ、

彼の御炊内人神主元継の私宅を捜しだしたり。

件の元継は継橋郷、美乃の村の住人なり。

すなわち、元継夫婦を相共に搦めて役所(神宮司)に連行した。

よって、宮司が略問すると、

(頼る)仲間もなく、貧窮に迫られ、

元継一人が盗み取った由(よし)を弁明せり。

よって、且は罪を認める書状を奉らせ、

且は本官(神祇官)に申し上げ、

随って即ち(天皇に)上奏される。

宣旨を下され、元継は大祓に科され、職を解任される。

宿直当番の内人五人は中祓に科される。

貢の御稲(盗まれた稲)にいたっては、

宮司が他の稲をもって祓い清め、

替えを(御倉に)奉らせること既におわる。

 

「語注」

【放棟】:『倭玉篇』に「放;はなつ」とあり、「日本書記」神代上第七段(本文)には「毀、此云波那豆(はなつ)」とある。「古事記」の「須佐之男命の勝さび」段には「穿其服屋之頂(むね)」とここと同じ様な状況を記す。ここの「放棟」は、屋根の頂上部分を毀したと言うことか。

【御稲御倉】:稲を納める倉。「外宮儀式帳」に「御倉一院;倉三宇。一宇、納正殿賓殿御鎰(かぎ)。一宇、納懸税并御田刈稲。一宇、納鋪設。」と三棟の倉が記される。

【稲十八束】:重さにすると「18束×【約6kg/束】=約108kg」か。米の量にすると「18束×【5/束(令制枡)】×【0.405升(現在枡比)】=36.45升(約55kg)」か。*計算に使用した換算値(【】内)は「束稲舂得米五升」(田令)、その他は「日本史資料総覧の度量衡表」による。

【畢】:おわる。事が終了したことを示すが、それとわかれば、以後訳文では読まない。

【番直内人】:宿直の当番にあたっていた内人。内外宮の禰宜や大内人、物忌父、各内人には専門の業務の他に「毎月十箇日為一番、宮守護宿直仕奉。」(儀式帳)と、毎月、十日間の守衛のための宿直当番業務がある。

【御炊内人神主元継】:「御炊内人」は職名。「神主」は姓。「元継」は名。

【継橋郷】:「倭名抄」に「度会郡;継橋<都木波之>(つぎはし)」。『伊勢参宮名所図絵』に「継橋;【和名抄】に継橋郷とありて古き名なり(中略)外宮の一の鳥居より、岡本町の入り口迄を中道といふ。その中途に此の継橋有。」とのる。

【美乃々村】:不詳。

【司庁(シチョウ)】:神宮司の役所。

【飢渇(キカツ)】:うえとかわき。貧窮。

【弁】:わきまえ。『倭玉篇』に「わ(は)きまふ」。訳文では「弁申」を「弁明」とした。

【過状(カジョウ)】:罪を認める書状

 

 

「原文」27

大炊天皇

天平宝字二年九月。

御祭使祭主清麻呂卿参宮之間、

度会川之浮橋船乱解<天>、

忌部随身之上馬一疋、自船放流斃亡已畢。

爰上下向之間者、路次国司差祗承、

迎送調備供給、進夫馬、

令修造道橋之例也。

 

「訳文」

大炊天皇(標題)

天平宝字二年(758年)九月、

御祭使と祭主の清麻呂卿が参宮のおり、

度会川の浮橋の船が乱れ解けて。

(供の)忌部の随身の乗用馬一頭が船よりながされてうしなう。

爰に上下向の間は、路次の国司が祗承(シゾウ)を使わし、

迎送、調備、供給し、役夫や馬をたてまつり、

道や橋を修造せしめることが恒例なり。

 

「語注」

【大炊天皇】:天平宝字二年(758年)八月一日即位。『続日本紀』は「廃帝」と記載する。『帝王編年記』には「淡路廃帝<諱大炊>。天武天皇孫。一品舎人親王<諡号崇道尽敬天皇>第七子也」とある。 「古事類苑」所収の『憲法類編』に「庚午(明治三年)七月廿四日、御布告。廃帝。淳仁天皇。右之通(中略)御諡被為奉候ニ付、此旨相達候事。」とあり、明治になって「廃帝」に「淳仁天皇」の諡号が送られた。

【祭使】:祭の勅使。 『続日本紀』「天平宝字二年(758年)八月戊午(19日)」の条に「遣攝津大夫從三位池田王、告齋王事于伊勢太神宮。又遣左大舍人頭從五位下河内王、散位從八位下中臣朝臣池守、大初位上忌部宿祢人成等、奉幣帛於同太神宮。及天下諸國神社等、遣使奉幣。以皇太子即位故也。」とある。前者の池田王は、齋王が決定したことを告げる使で、後者の河内王は、即位の奉幣使か。 祭使について「神祇令」に「凡常祀之外、須向諸社供幣帛者、皆取五位以上卜食者、充。唯伊勢神宮常祀亦同。」とあり、『続日本紀』 に「制。奉幣伊勢太神宮者、卜食五位已上充使、不須六位以下。」とある。「延喜伊勢太神宮式」には、「凡神嘗祭幣帛使、取王五位已上卜食者、充之。其年中四度祭、祭主供之。若有故者、取官并諸司官人及散位中臣氏五位已上卜食、充之。五位以上有故障、六位亦得<斎王初参之時、必用五位已上>。」とあり、年中四度祭には祭主が勅使の供に加わる。また伊勢神宮の勅使には、「王氏(皇族)、中臣、斎部、卜部ノ四氏、これに随ひ」(古事類苑「大神宮臨時奉幣」)と、四氏の者も供に加わると言う。

【祭主】:伊勢神宮神官の長。「延喜伊勢神宮式」に「以神祇官五位以上中臣任祭主」とある。『官職秘抄』に「神祇官;副<大少。有権。>。以大中臣、卜部等氏、任之。中臣依可補祭主者也。卜部歴宮主。神祇官重職者無過宮主。」と言う。『新任弁官抄』で伊勢神宮神官を「祭主。宮司。正禰宜。権禰宜。大内人。玉串。宮掌。番検。内人。祝。已上神官如此。」と記載する。ここの祭主だけが在京職である。 「祭主」には祭祀の責任者としての意味と、伊勢神宮祭祀責任者の二つの意味があり、前者は神祇官長官の伯にあたるが、神宮神官職に「祭主」がもうけられてから後者の意味が主流になったようである。『祭主補任』の裏書きに「抑祭主者、総官。宮司、次官也。禰宜者随宮司之下知、奉行神宮之雑務。」と言い、『職原抄』には「朝廷被置官以後、神祇官伯<昔為祭主頭>、伊勢神宮祭主又各別。」と言う。

【清麻呂】:大中臣朝臣清麻呂。 『二所太神宮例文』の「祭主次第」に「(9代目)清麿<天平十二年任>。(10代目)益人<十代大副><天平十九年正月任。在任一年。遷任相模守>。(11代目)清麿<右大臣正二位伯><意美麿七男。祭官国子五代孫。中臣朝臣大字ヲ別テ給。天平勝宝元年三月任。延暦七年七月廿八日薨。八十七。」とあり、二度祭主に就任したことを記載する。 『続日本紀』の延暦七年七月二十八日条の薨伝には「前右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂薨。曾祖國子小治田朝小徳冠。父意美麻呂中納言正四位上。清麻呂天平末授從五位下、補神祇大副。歴左中弁文部大輔尾張守。寳字中、至從四位上參議左大弁兼神祇伯。歴居顯要。見稱勤恪。神護元年、仲滿平後、加勳四等。其年十一月、高野天皇更行大甞之事、清麻呂時爲神祇伯、供奉其事。天皇嘉其累任神祇官。清愼自守、特授從三位。景雲二年拜中納言、優詔賜姓大中臣。天宗高紹天皇踐祚、授正三位、轉大納言兼東宮傅。寳龜二年拜右大臣、授從二位、尋加正二位。清麻呂歴事數朝、爲國舊老、朝儀國典多所諳練、在位視事。雖年老而精勤匪怠。年及七十上表致仕、優詔弗許。今上即位、重乞骸骨、詔許之。薨時年八十七。」とある。

【卿】:令制八省の長官や大納言以下参議以上の朝臣(位は四位以上)。『職原抄』に「太政大臣一人・左大臣一人・右大臣一人;已上謂之三公。(中略)大納言・中納言・中納言・参議八人;以上号見任公卿」。 歴代の公卿補任記録である『公卿補任』に、「清麻呂」が初めて記載されるのは、天平宝字六年の参議。そこには「天平十五年五月癸卯日授従五位下。六月丁酉任神祇大副。十九年五月丙子日任尾張守。天平勝宝三年(751)正月戊戌従五位上。六年四月庚午復神祇大副。七月丙午為左中弁。歴文部大輔。九年五月丁卯正五位下。天平宝字三年六月庚戌正五位上。六年正月日従四位下。十二月一日任三木(参議)、兼左大弁、神祇伯。」とある。ここの「天平宝字二年」当時はまだ「卿」ではないであろう。

【度会川】:宮川。『伊勢参宮名所図会』に「宮川;一名度会川、豊宮川、斎宮川、禁川と云。」

【浮橋】:川幅に固定した船を並べ、その上に板を渡した簡便な橋。

【上馬】:乗用の馬。大系本の傍訓に「のりむま」とある。

【疋(ひき)】:数助詞。匹や頭と同じ。

【斃(ヘイ)】:たおれる、やぶれる。「斃亡」二字で、「うしなう」と解した。

【祗承(シゾウ・シジョウ)】:貴人に近習し世話をする役(人)。 「検案内、奉伊勢大神宮九月十一日神嘗祭、并二月四日祈年、六月十二月月次祭、及臨時幣帛使等出宮城之日・・・近江、伊賀、伊勢等国毎至彼堺、目(さかん)以上一人率郡司健児等、相迎祗承。而今件等国、頃年之間、不労祗承。(中略)望請、毎遣件等祭使、依例令三国司一人祗承、并掃清穢悪。若有致怠、准闕祭事科上祓者。 右大臣宣。依請。」(「類聚三代格」貞観四年十二月五日付の太政官符)。

【夫馬】:役夫と馬。群本は「夫々馬」とあり、大系本は「人夫」と解するが、「伊勢太神宮式」に「夫馬者三箇郡司儲備<度別、夫五十人、馬八十疋。>」と言う文があり、これにならい「々」を衍字と考え「夫馬」とした。

 

 

「原文」28

於神郡者偏宮司之勤也。

而件浮橋之勤、依不有如在、

勅使随身之馬者所斃損也。

此尤宮司忍人不忠之所致也者、

宮司無為方遁陳、

且進怠状、且弁返替馬已畢。

自爾以後、勅使参宮之間、

時宮司以騎用馬以四疋奉[イ貳]

即立為恒例。

 

「訳文」

神郡においては、ひとえに宮司の勤めなり。

しかるに、件の浮き橋の勤め、ある如くにあらざるにより、

勅使随身の馬はうしなわれるなり。

これ、もっとも宮司忍人の不忠の致す所なれば、

宮司、遁陳(トンチン)にせんかたなく、

且は怠状をたてまつり、且は替え馬を弁償し、すでにおわる。

それより以後、勅使参宮のおりは、

時の宮司、乗用の馬をもちいるに、四頭(馬)をもって貸し奉る。

即ち、(これを)立てて恒例と為す。

 

「語注」

【神郡】:この当時は多気、度会の二群。後に飯野郡を加え神三郡と言う。『神宮雑例集』に「度会郡、多気郡、飯野郡。已上謂之神三郡。」とあり、『類聚三代格』の太政官符に「応以伊勢国飯野郡寄大神宮事」(寬平九年(897)九月十一日)とある。これ以前の神郡の成り立ちについては、内宮儀式帳「初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事」の条に詳細が記録されている。

【忍人】:第十二代宮司、菅原朝臣忍人。『二所太神宮例文』の「大宮司次第」に「<第十二>菅原朝臣忍人<天平宝元年六月十日任。在任三年>。」とある。「菅原氏」は『新撰姓氏録』「右京神別下」に「菅原朝臣;土師宿禰同祖。乾飯根命七世孫大保度連之後也。」とのる。

【無為方(せんかたなし)】:なすべき方法がない。群本に「無」がないが、大系本に随い「無」を補う。

【遁陳(トンチン)】:言い逃れ。

【偏】:ひとえに。

【斃損(ヘイソン)】:「うしなう」と解した。

【以騎用馬以四疋】:大系本は後者の「以」を衍字と解している。検討要。

[イ貳]】:貸(かす)か。大系本の傍訓の右側に「そへ」、左側に「まし」とある。『倭玉篇』に「モノフカス」とある。

 

 

「原文」29

天平宝字四年正月。

皇太后宮急御薬御坐。

仍令祈申於伊勢皇太神宮給之後、

早令平癒給<倍利>。

勅使祭主也。

同年十二月十三日、太神宮禰宜被叙外従五位下已了。

是已彼御薬之祈祷。

 

「訳文」

天平宝字四年(760年)正月。

皇太后の宮は、急に薬をめされおわします。

よって、伊勢皇太神宮に祈りもうせしめたまうの後、

早くに平癒させたまえり。

(この時の)勅使は祭主なり。

同年十二月十三日に、

太神宮禰宜は外従五位下に叙された。

是は、かのご病気の祈祷をもってなり。

 

「語注」

【皇太后】:光明皇太后(聖武天皇の后)。同年六月七日に崩御。 『続日本紀』に「詔曰、比來、皇太后御體不豫。宜祭天神地祇、諸祝部等各祈其社、欲令聖體安穩平復。是以、自太神宮禰宜内人物忌、至諸社祝部、賜爵一級、普告令知之。授外從五位上神主首名外正五位下、外正六位上神主枚人外從五位下。」(四年三月十三日条)とある。

その崩伝に「六月乙丑、天平應眞仁正皇太后崩。姓藤原氏。近江朝大織冠内大臣鎌足之孫、平城朝贈正一位太政大臣不比等之女也。母曰贈正一位縣犬養橘宿祢三千代。皇太后幼而聡惠、早播聲譽。勝寳感神聖武皇帝儲貳之日、納以爲妃。時年十六。接引衆御、皆盡其歡、雅閑禮訓、敦崇佛道。神龜元年、聖武皇帝即位、授正一位、爲大夫人。生高野天皇及皇太子。其皇太子者、誕而三月立爲皇太子。神龜五年、天而薨焉。時年二。天平元年、尊大夫人爲皇后。湯沐之外、更加別封一千戸、及高野天皇東宮封一千戸。太后仁慈、志在救物。創建東大寺及天下國分寺者、本太后之所勸也。又設悲田・施藥兩院、以療養夭下飢病之徒也。勝寳元年高野天皇受禪、改皇后宮職曰紫微中臺。妙選勲賢、並列臺司。寳字二年、上尊号曰天平應眞仁正皇太后。改中臺曰坤宮官。崩時春秋六十。」(六月七日条)とある。

早令平癒】:ここで「早くに平癒」と言うが、光明皇太后は同年六月七日に崩御。

【太神宮禰宜】:内宮禰宜と外宮禰宜。実際の叙位は、上記『続日本紀』三月十三日条の記事の通りであろう。ただし外宮禰宜と思われる「神主枚人」は不詳。神宮側史料では、この当時の外宮禰宜は「忍人」(二所太神宮例文、豊受太神宮補任次第)とある。

外従五位下】:この位階は外宮禰宜であろう。内宮禰宜は「外正五位下」。

【是已】:是以。「已」と「以」は通用し合う。

 

「原文」30

天平宝字六年九月十九。

洪水五十鈴川洗岸流<爪>。

而間度会郡司依例<天>、

太神宮御前<乃>御川、

黒木御橋一道奉造、渡之程、

郡司俄落入於御川<天>、

鹿海之前字砥鹿淵<乃>木根<仁>流懸<天>、

僅存身命<世利>。

流下之程五十余町許<仁>、

不溺死事尤奇怪事也。

而人々問之處、

郡司云以去八月晦、食用宍之故也者。

故知、自今以後神郡司不可食用宍也。

 

「訳文」

天平宝字六年(762年)九月十九。

洪水が五十鈴川の岸を洗い流しつ。

しかる間、度会の郡司が恒例によって、

太神宮御前の御川に、

黒木の御橋一道を造り奉り、これを渡るほどに、

郡司、俄に御川に落ちて、

鹿海(かのみ)の前の字(アザ)砥鹿淵(とかのふち)の木の根に流れかかって、

わずかに身命を存せり。

流れ下るほどは五十余町ばかりに、

(しかも)溺死しないことは、もっとも奇怪(不思議)の事なり。

そして、人々が問うところ、

郡司は「さる八月の晦日に、宍肉を食用とした故なり」と言う。

殊更に、自今以後、神郡の郡司は宍肉を食用とすべからずなりと知る。

 

「語注」

【御川】:五十鈴川。「内宮儀式帳」の「供奉朝大御饌朝大御饌行事用物事」に「御贄清供奉。御橋一處<長十丈。弘二尺。高八尺>。石疊一處<方四尺>。太神宮正南御門在伊鈴御河。」とある。

【黒木御橋】:上記の「御贄清供奉 御橋」にあたる。「黒木」は皮をつけたままの材木で、それで三節の祭り毎に造る仮の橋。「内宮儀式帳」の同所に「御橋者、度会郡司以黒木造奉。三節祭別。禁封其橋、人度不往還。」とある。

【鹿海(かのみ)】:現在の鹿海町にあたるか。『伊勢参宮名所図会』に「鹿海(かのみの)社<西鹿海村田中に有>。所祭稲依比女命<大歳神の児>一座。内宮の摂社十五所の内なり。」とある。

【砥鹿淵(とかのふち)】:大系本の傍訓に「とかのふち」とある。

【五十余町】:「町」は令制では田の面積の単位語であるが、ここでは距離の単位語として使われている。「1町=60歩」とすると、<50町×60/町>で約3000余歩となり、<3000歩×6/歩×約0.3m/尺>で約5400m以上となるか(換算値は『日本史資料総覧』による)。これを地図で内宮から五十鈴川の流れに沿ってざっと測れば、現在の鹿海町あたりにあたるか。

【許】:大系本の傍訓に「ばかり」とある。「ばかり」は「時期・時刻・場所・数量・大きさなどのおおよその範囲を示す。」(学研古語辞典)と言う。

【宍(しし)】:けものの肉。

【故】:大系本の傍訓に「ことさらに」とある。

 

 

「余談」<4>「距離単位の町について」

成文化された日本の度量衡制度は、唐の制度を受容した律令制から始まる。しかし必ずしも同じではなく、時代を経る毎にその違いは大きくなる。里程と言われる距離の単位である「里」も、近世に到って中国、朝鮮の「里」と約9倍近く異なる。また度量衡制度の基準単位である「尺」の導入にあたっては日本側に誤解も見られる。秦漢時代の尺はほぼ24cm25cm程度の長さを保っていたが、隋唐の時代には、大尺と少尺の二種類に分かれた。大尺は日常社会の通用尺であり、小尺は、古典に記述される秦漢時代の伝統尺といえる。ここの大尺の長さは約小尺の1.2倍と言う。日本が「尺」を社会制度として取り入れたのは恐らく隋唐時代に入ってからであろう。このため、これ以前の尺の経緯が日本側で充分理解されず、それが誤解を生む原因となったか。

さて、ここで、「原文」30で距離の単位として使われている「町」について整理したいと思う。

先ず、基準となる「度」は「謂、度者、分・寸・尺・丈・引也」(令義解)と言う。

「雑令第三十」に、【長さ】は「凡度、十分為寸。十寸為尺<一尺二寸為大尺一寸>。十尺為丈。」とし、【距離】は「凡度地、五尺為歩、三百歩為里」とある。これら項目は唐令に倣ったものだが、和銅六年に、【距離】に関しての「五尺為歩」は、「六尺為歩」(5尺×1.2=6尺)に早くも変更される。

『令集解』に「和銅六年二月十九日格、其度地、以六尺為歩」(田令)とあり、「延喜雑式」に「凡度量権衡、官私悉用大。但測打景(キケイ;日のかげ)、合湯薬則用小尺。其度以六尺為歩。以外如令。」とある。どちらも「六尺為歩」とすると言うが、「里」に関しては言及していない。しかし「以外如令」とあるように、この時の「里」も(「300歩×1.2=360歩」)「三百六十歩為里」となったか。

次に「面積」の発見は「正方形」の発見につながる。正方形の面積は、その一辺の長さの自乗数で表される。これは今も同じである。例えば36㎡とは、<(1m×1m)×36>のことであり、一辺1mの正方形が36個あることである。また面積は広さだけを言い、対象の個別形状は言わない。

古代中国では、面積を言う場合、「方○○里(歩)」と表記するが、これは「一方(辺)○○里」の正方形の概念である。面積はその<○○里>の自乗数となる。面積が正方形で表記された原因は、一辺の長さだけで表記出来、具体的広さもイメージしやすいためか。しかし、これには数学的「開方」の知識が必要であり、それも普及していた事も裏付ける。この「開方」の技術は、漢の時代の数学書と言われる『九章算術』に次のように載る。

<開方術曰、置積為實。借一算歩之、超一等。議所得、以一乘所借一算為法、而以除。>

ここでの基本知識は、「1×1=1、2×2=4・・・9×9=81、10×10=100」の10個の自乗数である。これだけで概算の平方根は求められ、「方○○余里」と「余」を付けて表記出来る。

例えば、面積7200里は「72里×10×10」と置き、「72」より小さい自乗数は「9×9」の一つ下の「8×8」である。よって概算の平方根は「8余里×10」となり「方八十余里」となる。不確かな地域の面積は、縮尺図形の重さからも求められ、そのような概算ならこれで充分であろう。

さて「令制」の面積を「田令」で見れば、

「凡田、長三十歩、広十二歩為段。十段為町。」

とあり、面積の単位文字に「段」、「町」が使われ、これは唐令とは少し異なる。伊藤東涯はその著『制度通』で「唐の歩畝頃、本朝の歩段町に準ず。」と言う。

「段」(後に反とも言う)は<12歩×30歩=360歩>となり、

「町」は<10段×360/段=3600歩>となる。

この「田令」の段、町の数値は大化の改新当時と同じであり、その間に、「以二百五十歩為段」の時代もあったという(令集解田令)。

どちらにしてもこの規定は「条里制」の「半折型地割」を基本にしたものであり、横に5段、縦に2段の計10段が正方形の「町」となり、これを「一町方格」と言い、条理制地割で田の所在を言う「坪」にあたる。この「坪」は一の坪、二の坪と言い、田の所在だけを言う。現在の「1間(6尺)×1間」を「一坪」と言うのは面積であり、条里制の「坪」とは異なる。

条里制地割には、先の「半折型地割」の他に「長地型地割(6歩×60歩の段で横に10段)」の二種類があるという。しかし、この条里制の詳細は、令や格・式に載らず、その起源は大化の改心以前にさかのぼるとも言う。またその起源は殷周時代の井田法や阡陌法にあるとも言われるが定かではない。「日本書紀」の初見は成務天皇紀の「随阡陌以定邑里。」(邑里の二字でむら)と言われる。

「条里制」の詳細は令や格・式に載らないが、その遺構は「その北限を秋田市郊外とする日本全体にみられ」(国史大辞典)と言う。『拾芥抄』にはある程度まとまった規定の記述があるので、次にそれを個条書きに記す(主に「長地型地割」か)。

凡田以方六尺為一歩。

三十六歩為一段頭。(一段の頭とは、[6歩×6]で、段は[6歩×6]×10

一段為一町頭。(一町の頭は[6歩×60]で、町は[6歩×60]×10

十段為一町積。(積は面積)

三十六町為一里。(36町とは6町×6町で一町方格地が36個)

三十六里為條(条)。(里と条で正方形の碁盤の目をなす。)

條、起従北、行於南<限三十六條>。(条とは南北方向の呼び名)

里、起西、行於東<限三十六里>。(里とは東西方向の呼び名)

やや長くなりましたが、「条里制」の普及で、「町」(面積3600歩)の「一辺60歩」が距離の単位としての機能をもち、それにつれ「雑令」の「里」よりも、身近な「条里制」の「里」が距離の単位となり、「60歩=町」、「6町=1里」、「360歩(60/町×6/里)=1里」となったと思える。

後世の「36町=1里」(60/町×36/里×6/歩×0.303m/尺=3927m(約4.0Km))は、面積が開方されずに、面積であるはずの数値がそのまま距離とされたものか。これによって、中国、朝鮮の「里」と約9倍近くの開きが出来ることになる。

 

 

「原文」31

同年同月廿二日。

依大風洪水之難、

瀧原宮祭使太神宮大内人神主世安并彼宮内人等不堪参宮<志天>、

於字倶留万川之頭、悠記御膳御祭直会等之勤奉仕。

以同廿七日、祭使随身御調絹等<天>、

引率内人等、参宮。

開正殿奉納了也。

但、前例禰宜之封奉付於正殿也。

而今度<和>祭使大内人世安奉付封已畢。

 

「訳文」

同年同(九)月二十二日。

大風洪水の難により、

瀧原宮の祭使の太神宮大内人神主世安

ならびに彼の宮(内宮)の内人等、参宮にたえずして、

字(あざ)倶留万(くるま)川のほとりで、

悠記(ゆき)の御膳、御祭、直会等の勤(つとめ)を奉仕する。

同月二十七日に、祭使は御調の絹等を身に随いて、

内人等を引率し、参宮する。

正殿(の扉)を開き、(御調の絹等を)納め奉りおわるなり。

但し、前例は禰宜の封を正殿に付け奉るなり。

しかし、この度は、祭使の大内人の世安が封を付け奉りおえた。

 

 

「語注」

【瀧原宮】:内宮の別宮。天照太神の遠宮と言われるが、由来は不明。同所に「竝宮一院」が附属し、これを「瀧原竝宮」とも言う。「内宮儀式帳」の「管神宮肆(四)院行事」に「瀧原宮一院<伊勢志摩両国堺大山中。在太神宮以西。相去九十二里。>。称天照太神遙宮(とほつみや)。御形鏡坐。」という。別の「瀧祭神」とは異なる。

【神主世安】:役職は大内人。姓は神主。名は世安。

【倶留万川】:不詳。大系本の傍訓に「くるまがは」とある。現在の三重県の地名に多気郡多気町車川(くるまがわ)がある。

【悠記御膳】:三節祭に供する特別な神饌(夕と朝の二度)。「由貴大御饌」とも言う。ここは瀧原宮の神饌。大系本の傍訓に「ゆきのみけ」とある。内宮儀式帳には「湯貴(ゆき)」と書かれ、特に時刻の規定は無い。また同書に、瀧原宮の九月(神嘗祭)の祭日は「以廿三日、瀧原宮祭供奉」と言う。 『古事類苑』には、「神殿を装飾し、神饌を調理して、亥時(午後10時前後)に夕の御饌を供じ、丑時(午前2時前後)に朝の御饌供ず。之を斎忌(ゆき)の御饌と云ふ」(神宮月次祭)。

【直会(なほらい)】:直会を行って祭の解斎となる。「直会とは、祭りの終了後に、神前に供えた御饌御酒(みけ・みき)を神職をはじめ参列者の方々で戴くことをいいます。」(神社本庁)。内宮儀式帳の「六月例」には「(祭の後)以同日夜、御食・奈保良比。禰宜、大内人、并諸物忌内人等、及物忌父母等、戸人男女等、皆悉参集侍。然即奈保良比御歌仕奉、其歌<波>(中略)次舞歌令仕奉、其歌<波>(中略)供奉舞自禰宜始、内人、物忌父等。」とあり、飲食の他に、関係者による歌や舞が披露されると言う。

【御調絹(みつきのきぬ)】:神戸などより貢納された絹。

【封(フウ)】:神殿の扉に付ける管理上の封印であろう。

 

「原文」32

天平宝字七年四月廿七日。

 依右大臣宣奉勅、

 豊受宮御炊内人神主元継、復任本職已畢。

 神祇官依同年二月十五日奏状被下宣旨也。

 但以正月廿八日、豊受宮禰宜言上司廰。

 随則宮司以同二月二日、言上於本官也。

 事発彼御稲盗穢<天>、科大祓、

 解任之後、依度々会赦也。

 其解状云、方今按物情、寔元継雖重科之坐、

 度々赦之後、盍蒙裁許哉。

 会赦者罪科、豈拘其身哉。

 就中神宮大小内人物忌等雖有員数、

 御炊内人<彼>奉備朝夕御饌之職也。

 假令雖蒙重科、至神鑑、尤可有恐畏歟。

 望請被官奏、以件元継被復任本職者。

 右大臣宣、奉勅、応復任。国宮宜承知、依宣行之者。

 件元継以同年五月五日、祓清、始令従神事畢。

 

 「訳文」

 天平宝字七年(763)四月二十七日。

 右大臣の宣(のたま)う奉勅により、

 豊受宮の御炊内人神主元継、

 本職に復任すること既におわる。

 (これは)

 神祇官の同年二月十五日の奏状によって、宣旨(センジ)を下されるなり。

 但し、(これ以前)

 正月二十八日に、豊受宮の禰宜が司廰(宮司)に言上し、

したがって則ち、宮司が同年二月二日に、本官(神祇官)に言上するなり。

ことのおこりは、かの御稲が盗に穢れて、(元継が)大祓を科され、

 解任の後に、度々赦にあうによってなり。

その解状(豊受宮禰宜言上)に、

 「まさに今、物情を案じるに、まことに元継は、重科のつみと雖も

度々ゆるされたあとも、なんぞ(復職の)裁許をこうむられずや。

 赦にあう者の罪科は、あにその身にとらわれるや。

なかんずく、神宮の大小の内人物忌等に、人数あると雖も

御炊内人は、朝夕の御饌を備え奉る職なり。

たとえ重科をこうむると雖も、神鑑(シンカン)にいたっては、

もっとも恐畏(キョウイ:畏恐)あるべきか。

 官奏(神祇官の奏聞)せられ、

 件の元継をもって本職に復任せられることを望み請う。」という。

 右大臣の宣に「勅を奉るのに、まさに復任すべし。国司、宮司よろしく承知し、宣に依って行え。」と言う。

 

「語注」

【右大臣】:右大臣は、天平宝字元年に当時の右大臣藤原朝臣豊成が橘奈良麻呂の事件の影響で、任を解かれ、その後天平宝字八年九月に復任するまで空席。

 【神主元継】:「原文」26の「語注」参照。

 【豊受宮禰宜】:神主忍人。「安麿三男。天平廿年任。在任十九年。」(二所太神宮例文)。

 【宮司】:十四代宮司[木習]宜朝臣山守。「天平宝字六年七月八日任。在任二年。」(二所太神宮例文)。これは「中臣習宜(すげ)朝臣」か。『続日本紀』の天平神護元年正月の条に、中臣習宜朝臣山守が正六位上から従五位下に叙される記事がある。中臣習宜朝臣は、『新撰姓氏録』の「右京神別上・天神」に「同神(神饒速日命)孫味瓊杵田命之後也。」とある。

 【事発】:大系本の傍訓に「事のおこりは」とある。

 【御稲盗穢】:「原文」26参照。

 【寔】:まことに。

 【重科之坐】:ここの「坐」は、大系本の傍訓に「つみ」とある。

 【盍】:「なんぞ…ざる」。「盍、何不也。」(玉篇)。

 【豈―哉】:「あに―かな(や)」。「文頭や述部のはじめについて、反問の語気をあらわすことば。どうして…であろうか。多くは文末に、乎・哉などの助辞をそえる。」(藤堂漢和辞典)。「豈、非然之辭。」(増韻)。

 【員数】:職員の人数。

 【<彼>】:郡本は本文の文字とするが、大系本に随い送りかなとした。

 【假令】:大系本の傍訓に「たとひ」とある。

【神鑑(シンカン)】:神のお世話をする神職を言うのであろう。

 【依宣】:群本に「任宣」とあるが、大系本により「依宣」とした。

 

「原文」33

高野女天皇更位。

 天平神護二年九月。太神宮御遷宮。

 同七月十一日格云、

 右大臣宣奉勅、天照坐伊勢皇太神宮禰宜、自今以後応令把笏也者。

 同年十二月十八日夜子時、

 宮司神館五間萱葺二宇<仁>、火飛来、

 既以焼亡畢。

 件焼亡間、日本紀二部、神代本記二巻、

 當年以往記文及雑公文焼失畢。

 爰神宮印一面其形不見火所、

 因之禰宜内人等愁歎、而三ヶ日之間、且祈申太神宮、且觸宮司之程、

 禰宜夢中被仰云、件印地底二尺許入<天>在也。早可捜覓也者。

 禰宜夢覚之後、驚恐<天>文殿之所掘求<禮波>、

 以宛如御示現<爾>有。

 専無破損也。具有別記文。

 

 「訳文」

 高野女天皇更位。

 天平神護二年(766年)九月。太神宮御遷宮。

 同年七月十一日格に

「右大臣宣の奉勅に、天照坐伊勢皇太神宮の禰宜は、

 自今以後、宜しく把笏(ハシャク)せしむべしなり」と言う。

 同年十二月十八日、夜の子(ね)の時(午前0時前後)、

 宮司の神館五間の萱葺二棟に、火が飛来し、

 ことごとく焼亡をもっておわる。

 件の焼亡で、日本紀二部、神代本記二巻、

 当年以前の昔の記文及び色々な公文書が焼失した。

ここに、神宮印一面、その形が焼けたところに見えず。

これによって、禰宜、内人等が愁い嘆きて、

 三日の間、かつは太神宮に祈り申し、かつは宮司にたよるほどに、

 禰宜の夢の中で仰せられるに、

 「件の印は地の底の二尺(約60㎝)ばかり入ってあるなり。

 早く探し求めるべきなり」と言う。

 禰宜が夢から覚めた後、驚き恐れて、文殿の所を掘り求めれば、

もってあたかも御示現の如くにあり。

もっぱら破損無し。つぶさには別の記文にあり。

 

「語注」

【高野女天皇】:『続日本紀』には「高野天皇」。「原文」25の「語注」参照。 『続日本紀』の天平宝字八年(764)九月壬子《18日》条に「軍士石村村主石楯斬押勝傳首京師。押勝(仲麻呂)者、近江朝内大臣藤原朝臣鎌足曾孫、平城朝贈太政大臣武智麻呂之第二子也。」と藤原朝臣仲麻呂を誅殺し、同書同年十月九日の太上(高野)天皇の宣命に「故是以帝位〈乎方〉退賜〈天〉親王〈乃〉位賜〈天〉淡路國〈乃〉公〈止〉退賜〈止〉勅御命〈乎〉聞食〈止〉宣。事畢、將公及其母、到小子門、庸道路鞍馬騎之。右兵衛督藤原朝臣藏下麻呂、衛送配所、幽于一院。」と、現天皇(廃帝)を廃し淡路に幽閉したことを記す。『帝王編年記』に「四十七代・称徳天皇<孝謙重祚名也>;天平宝字九年乙巳正月一日即位。年四十八。同十一月、更行大嘗會。」とある。

 【更位】:重祚(復祚)。ここの「更」の意味は「更、復也。」(玉篇)で、「位に復す」の意。即位の日は『続日本紀』に無いが、同書の天平神護元年(765)十一月癸酉(16日)の条には「先是、廢帝既遷淡路、天皇重臨万機。於是、更(また)行大甞之事。以美濃國、爲由機(ゆき)、越前國爲須伎(すき)。」とある。

 【天平神護】:『続日本紀』天平神護元年(765)正月己亥(7日)に「改元天平神護。」。

 【太神宮御遷宮】:『二所太神宮例文』には「天平神護二年<丙午>内宮遷宮<称徳天皇御宇>。自天平十九年及廿年。」。

 【同七月十一日格】:内宮禰宜に「把笏(ハシャク・ハサク)」を始めて命じる勅命(格)だが、これはこの「神宮雑事」のみに残る史料か。「笏」の規定は「衣服令」の「朝服」の条に「一品以下。五位以上。並皀羅頭巾。衣色同礼服。牙笏。(中略)初位。浅縹衣。並皀縵頭巾。木笏<謂職事>。」とあり、五位以上は牙笏で初位以上は「木笏」とある。『禮記』「玉藻」には「<材質>笏、天子以球玉、諸侯以象、大夫以魚須文竹、士以竹本象可也。<用途>凡有指畫于君前用笏、造受命于君前則書于笏。<寸法>笏度(ながさ)二尺有六寸、其中博(ひろさ)三寸、其殺(註:殺、猶杼也)六分而去一。」。また「笏、忽也、備忽忘也。」(釋名)、「笏、一名手版、品官所執。」(廣韻)と云う。

 【右大臣】:藤原朝臣永手。『公卿補任』に「藤原朝臣永手<五十三>;正月七日任右大臣。同十六日任左大臣。」とあるが、永手が左大臣に遷ったのは『続日本紀』で「同年十月二十日」とする。こちらが正しいであろう。後任の右大臣は吉備朝臣真備。『公卿補任』に「吉備朝臣真吉備<七十二>;正月八日任中納言。三月十三日丁卯任大納言。十月廿日任右大臣。」とある。

 【天照坐伊勢皇太神宮禰宜】:内宮の正式名称は「伊勢」が付かず「天照坐皇太神宮」。内宮儀式帳に「天照坐皇太神宮儀式」とある。この読みは、荒木田神主経雅はその著『大神宮儀式解』で「あまてらしまします すめおほみかみのみや」と主張する。この時の内宮の禰宜は首名。『伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳』に「首名;(中略)以天平神護元年正月七日、依恵美仲麿謀反事平、叙禰宜内人等一階、依此叙外正五位下。」とあり、『続日本紀』天平神護元年(765)正月己亥(7日)の条には、改元のことにつづいて「其諸国神祝、宜各加位一階。」とある。

 【宮司神館】:「原文」14に、「和銅二年<己酉>。於太神宮外院之乾方、始立宮司神館。五間二面、萱葺屋二宇。」とある。この時の宮司は菅生朝臣水通。『二所太神宮例文』「大宮司次第」に「第十六代菅生朝臣水通<天平神護二年二月十七日任。在任五年。今年(天平神護二年)十二月神館焼亡畢。」

 【既】:ことごとく(『日本大玉篇』)。

 【日本紀二部】:『日本書紀』であろう。

 【神代本記二巻】:不詳。「弘仁私記序」では、神事の根拠となる重要な書として、民間の『神別紀十巻』をあげ、その他にも諸本が流布していたことを言う。

 【雑公文】:くさぐさ(色々)の公文書類。

 【神宮印】:内宮の政印。「原文」20参照。

 【觸】:「たよる」(拠り所)とした。「觸、據(拠)也。」(玉篇)

 【<禮波>】:群本にないが、大系本に依って補う。

 【以宛】:大系本の傍訓に「以てあたかも」とある。

 

「原文」34

天平神護三年<丁未>七月七日。

 自午時迄于未二點<仁>五色雲立<天>、

 天照坐皇太神宮<乃>鎮坐<須>、

 即宇治五十鈴河上<乃>宇治山之峰頂<仁>懸<連利>。

 即禰宜内人等注具状、申於宮司。

 即宮司水通録子細、言上神祇官、随即官奏。

 仍神祇官陰陽寮等勘申云、

 奉為公家、又為天下甚最嘉之瑞相也者。

 即依彼嘉瑞之雲、可被改元之由被下宣旨、

 以同年八月廿日、改神護慶雲元年<丁未>。

 件嘉雲之由被祈申於二所太神宮勅使中納言従三位藤原卿。

 令奉二宮種々神宝等給。<具不記>。

 又禰宜等叙正五位下畢。

 

 「訳文」

 天平神護三年<767年>七月七日。

 正午から午後の2時頃までに、五色の雲が立って、

 天照坐皇太神宮の鎮まり坐す、

 即ち、宇治五十鈴河上の宇治山の峰の頂きにかかれり。

 即ち、禰宜と内人等が詳細に書きとめ、宮司に申す。

 即ち、宮司の水通が子細をしるし、神祇官に申し上げ、

したがって即ち、神祇官が上奏した。

よって、神祇官と陰陽寮等がかんがえもうすに、

 「皇家の御為、また天下の為に、はなはだ最嘉の瑞相なり」という。

 即ち、彼の嘉瑞の雲によって、改元せられるべき由の宣旨を下され、

 同年八月二十日をもって、神護慶雲元年に改める<767年>。

 件の嘉雲の由を二所太神宮に祈り申される勅使は、

 中納言従三位藤原卿なり。

 二宮(内宮と外宮)に色々な神宝等を奉らせ給う。

 <つぶさに記さず>。

また禰宜等は正五位下に叙された。

 

「語注」

【<丁未>】:西暦767年(万有こよみ百科)

【自午時迄于未二點】:午(うま)時は昼の11時~1時。未(ひつじ)時は午後の1時~3時で、「二点(點)」とは、一時を四等分した二つ目で、午後の2時頃か。当時の時刻制度は「延喜式・陰陽寮」を見ると「日出、辰(たつ)一刻二分。日入、申(さる)四刻六分」と言う記事等があり、一昼夜の時間に十二支を等分にあてた定時法による十二時制である。またさらに一時を四等分した「刻」と、その「刻」を十等分した「分」の単位が使われている。ここに「二點(点)」とあるが、これは「二刻」のことであろう。 時間単位の「點(点)」は、中国で夜の時間を5等分した単位の「更」(不定時法)で使われ、その「更」をさらに五等分した単位であり、「更点法は朝鮮でも行われたが、日本古代には更点法もその他の不定時法もいっさい行われなかった。ただ近世・江戸時代になって暮れ六ツから翌日の明け六ツまでを6等分(5等分ではない)する不定時法が初めて行われた。」(斉藤国治著『古代の時刻制度』)と言われる。

【五色雲】:『続日本紀』の「神護景雲元年八月癸巳(16日)」の宣命には「今年〈乃〉六月十六日申時〈仁〉東南之角〈尓〉當〈天〉甚奇〈久〉異〈尓〉麗〈岐〉雲七色相交〈天〉立登〈天〉在。此〈乎〉朕自〈毛〉見行〈之〉又侍諸人等〈毛〉共見〈天〉怪〈備〉喜 〈備都都〉在間〈仁〉伊勢國守從五位下阿倍朝臣東人等〈我〉奏〈久〉。六月十七日〈尓〉 度會郡〈乃〉等由氣〈乃〉宮〈乃〉上〈仁〉當〈天〉五色瑞雲起覆〈天〉在。依此〈天〉彼形〈乎〉書寫以進〈止〉奏〈利〉。復陰陽寮〈毛〉七月十五日〈尓〉西北角〈仁〉美異雲立〈天〉在。同月廿三日〈仁〉東南角〈仁〉有雲本朱末黄稍具五色〈止〉奏〈利〉。」と、場所、月日を異にして、天皇自らや伊勢神宮、陰陽寮で目撃されたとある。

【宮司水通】:菅生朝臣水通。大系本に、「水通」に「みとほし」の傍訓がある。「原文」33「語注」参照。

【奉為】:大系本の傍訓に「おほんため」とある。

【以同年八月廿日】:『続日本紀』の同年八月十六日の宣命に「是以改天平神護三年、爲神護景雲元年」とある。

【中納言従三位藤原卿】:不詳。この時の從三位の藤原氏として藤原朝臣宿奈麻呂や藤原朝臣清河、藤原朝臣蔵下麿らがいる。『二所太神宮例文』「伊勢公卿勅使」に「神護景雲元年;中納言従三位藤原」とあるが名を記さない。『公卿補任』で見ると、この時の中納言は正三位弓削清人(弓削御淨朝臣淨人)の一人だけである。またこの時期は、道鏡禅師が太政大臣位から法皇位になっており、縁故の弓削氏が重用された。

【叙正五位下】:『続日本紀』の同年八月十六日の宣命に「大神宮禰宜外從五位下神主首名外正五位下。等由氣宮禰宜外正六位下神主忍人外從五位下。」とあり、「外位」であることを記す。 内宮禰宜の『伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳』には「外正五位上首名;神護景雲元年、依太神宮上見五色雲、八月十六日叙禰宜内人諸社祝等二階、依此授外正五位上」と位階の異なる記述がある。 外宮禰宜の『豊受太神宮禰宜補任次第』には、この瑞雲の件には全くふれず、「禰宜外正五位下神主忍人;天平神護元年正月七日、叙外正五位下。称徳天皇代始賞。」と、ここも異なる位階を記す。この年に忍人は五月麻呂と交代し、同書に「五月麿<在任三十六年>。右神主忍人養子也。・・・神護景雲元年<丁未>任。八月十六日二所太神宮禰宜賜一階之時、五月麿依八月以降任、不賜一階。」とある。

 

「原文」35

同年十月三日。

逢鹿瀬寺永可為太神宮寺之由被下宣旨既畢。

同年十二月、月次祭使差副別勅使、

以逢鹿瀬寺永可為太神宮寺之由、被祈申皇太神宮畢。

宣命状具也。

神護慶雲二年九月豊受太神宮遷宮。

 

「訳文」

同年(神護慶雲元年)十月三日。

逢鹿瀬寺は、永く太神宮寺となすべし由、宣旨を下されることすでにおわる。

同年十二月、月次祭の使に、別の勅使をさしそえて、

逢鹿瀬寺をもって、永く太神宮寺となすべし由、皇太神宮に祈り申された。

宣命の書状につぶさにあり。

神護慶雲二年九月、豊受太神宮遷宮。

 

「語注」

【逢鹿瀬寺】:大系本傍訓に「をふかせでら」とある。詳細は不詳。吉田東伍の『増補大日本地名辞典』に「逢鹿瀬寺址;相鹿瀬の字広といふ所にあり。今も往々古瓦を掘出す事ありとぞ。(補)今西外城田村大字逢鹿瀬。」という。相鹿瀬とは同書に「宮川の中游北岸に在り・・・今多気郡に入り、西外城田村に改む。」。

【太神宮寺】:伊勢神宮の神宮寺。次の光仁天皇の時代に廃止される。『続日本紀』に「天平神護二年(七六六)七月丙子《廿三》遣使造丈六佛像於伊勢大神宮寺。」とこれより先に載る。 「神宮寺」は藤原武智麻呂による越前の気比社の神宮寺が史料上(藤氏家伝)の初見とされるが、起源は不詳。『古事類苑』に「神宮寺とは、神社に附属せる寺院の称なり。故に又称して神宮院と云ひ、宮寺と云ひ、或は又之を神願寺、神護寺、神供寺などとも云へり。」と言う。

【月次祭】三大例祭(三節祭)の一つで、六月と十二月に行われる。伊勢神宮には朝廷から幣帛使が派遣される(延喜の伊勢太神宮式)。

【豊受太神宮遷宮】:『二所太神宮例文』に、「神護景雲二年<戊申>外宮遷宮。自内宮遷宮隔中一年。」とある。

 

「原文」36

光仁天皇。

宝亀元年十二月廿一日、

瀧原宮装束色目如本数、替進既了。

事発、

以去年九月廿六日、宮司進神祇官解状称、(A

皇太神宮禰宜解状称、(B

別宮瀧原宮当月御祭使当宮大内人神主世増解状称、(C

彼宮物忌父石部千妙申文云、

昇殿次奉拝見御所、御体并御装束等、湿損御也者。(C-c)

検故実、正宮別宮如是非常湿損之時、公家被奉替例多者。(B-b

任本数被新替進件装束矣者。(A-a

 *引用文を示す「称・・・者」の関係を( )内に英字の大小の文字で示す。

 

「訳文」

光仁天皇。(標題)

宝亀元年十二月二十一日に、

瀧原宮の装束の色目を本の数の如く、

替えたてまつること既に終わる。

(この)ことのおこりは、

去年九月二十六日に、宮司が神祇官に解状をたてまつり、(A

(その中の)皇太神宮禰宜の解状にいわく、(B

(またその中の)別宮瀧原宮の当月御祭使の当宮(内宮)の大内人神主世増の解状にいわく、(C

彼宮(瀧原宮)の物忌父石部千妙が申す文に、

昇殿のついでに室内を拝見たてまつるに、

ご神体ならびに御装束等が湿り損じおわしますと言う也と(大内人が)言い、(C-c)

故実をしらべるに、正宮・別宮かくのごとく非常の湿損の時、

公家の替えたてまつられる例が多いと(禰宜が)言い、(B-b

本の数にまかせて、件の装束を新たに替えたてまつられんことをと(宮司が)言う。(A-a

 

「語注」

【光仁天皇】:天智天皇の孫。『続日本紀』に「天皇諱白壁王。近江大津宮御宇天命開別(天智)天皇之孫。田原天皇(志紀親王、「日本書紀」には施基皇子と表記、追号は春日宮天皇、田原は陵名による。)第六之皇子也。母曰紀朝臣橡姫。贈太政大臣正一位諸人之女也。」。

【宝亀元年】:西暦770年(神護景雲四年十月に改める)。『続日本紀』に「寳龜元年八月四日癸巳、高野天皇崩、群臣受遺、即日立諱(白壁王)爲皇太子。寳龜元年冬十月己丑朔、即天皇位於大極殿。改元寳龜。」。

【瀧原宮】:内宮の別宮。「原文」31「語注」参照。

【色目(しきもく)】:物品などの種類、種目。

【事発】:ことのおこりは(大系本傍訓)。

【去年九月廿六日】:神護景雲三年

【宮司】:太神宮司。第十六代大宮司、管生朝臣水通。「天平神護二年二月十七日任。在任五年。」(二所太神宮例文「大宮司次第」)

【解状】:解文。「解」は下から上に上げる公文書の書式。「公式令」に「解式;右八省以下内外諸司、上太政官及所管並為解。」

【(解状)称・・・者】:「称」と「者」の間の文は、公文書で添付される文書などからの引用文を指す。「令制」時代は文書主義で、証言の証拠も各種文書が基本となる。「称・・・者」の訓は「いはく・・・てへり(と言へり)」。 『玉勝間』の「者(てへれば)という事」に「云々者・・・云々(しかじか)てへりとよむこと也。てへりはといへりといふことなり。」とある。ここの文書の流れは、<物忌父石部千妙申文>→<大内人神主世増解状(C)>→<(内宮)禰宜解状(B)>→<宮司解状(A)>→<神祇官>となる。

【皇太神宮禰宜】:内宮禰宜。荒木田磯守か。「磯守;乙麿七男。光仁天皇宝亀。」(二所太神宮例文「一員禰宜補任次第」)。

【大内人神主世増】:「大内人」は役職、「神主」は姓、「世増」が名。

【物忌父石部千妙】:瀧原宮専属の物忌か。「物忌父」は役職、「石部(いそべ)」は姓、「千妙」が名。 延喜の「太神宮式」に、「所摂六宮廿五人<宮別内人二人、物忌一人、物忌父一人、>」とある。

【申文】:上司への報告を文書にしたもの。

【昇殿次】:大系本の傍訓に「昇殿のついでに」とある。

【御所】:室内。

【御体】:ご神体。「内宮儀式帳」に「瀧原宮一院;称天照太神遙宮。御形鏡坐」とある。

【公家】:皇家。朝廷。(江戸時代以降は武家に対して朝廷貴族をも言う。)

【被】:群本に「彼」とあるが、大系本にしたがい「被」と改めた。

【矣】:間投助詞の「を」か。

 

 

「原文」37

而神祇官勘申云、

物忌父千妙陳状云、

当宮祭使随身太神宮禰宜之封、奉納幣物之後、付封御鎰櫃之例也。

仍内人物忌等御祭昇殿之日、従供奉、拝見御殿内之外、敢無奉開也者。

所陳申尤不当也。

何者、大風霖雨之時、致其恐。

触案内太神宮神主、申請神宮使、相共可開封也。

而不致其用意。

忝奉湿損御装束物等。

既千妙之怠也者。

千妙無方陳申、進怠状。

即科大祓、解任了。

 

「訳文」

しかし、神祇官の(朝廷への)勘申に、

「物忌父千妙が陳べる書状に、

『当宮祭使は身に太神宮禰宜の封を随い、幣物を奉納の後、(その)封を鍵や櫃(ひつ)に付けることが通例なり。よって内人や物忌等は御祭昇殿の日に、供奉に従い、御殿内を拝見するほか、敢えて開け奉ることはなきことなり』と言う。

(千妙の)陳べ申す所はもっとも不当なり。

なぜ不当かと言えば、大風や長雨の時には、湿損の恐れがある。

(その時には)取り次ぎを太神宮神主に告げ、神宮使を申し願って、

(神宮使と)相共に封を開けるべきなり。

しかるに、(千妙は)その用意を致さず。

忝(かたじけなく)も御装束の物らを湿損させ奉る。

即ち(これは)千妙のおこたりなり」と言う。

千妙に道なく、陳べ申すも、怠状(始末書)を提出する。

即ち(千妙は)大祓を科され、解任させられて終わる。

 

「語注」

【神祇官】:ジンギカン。加美豆加佐(倭名抄)。『古事類苑』に「神祇官は、天神地祇を祭祀し、諸国の官社を総管し、祝部神戸の名籍等を掌る所なり」、「本官の職員は、長官を伯と云ひ、次官を大副小副と云ひ、判官を大祐少祐と云ひ、主典を大史少史と云ふ。」、「当官の所属に、中臣、忌部、神戸、宮主、亀卜長上、卜部、神琴師、神琴生、神笛生、御巫、猿女、戸座、御火炬、炊女等あり。」と言う。

この時の神祇伯は大中臣朝臣清麻呂か。『二所太神宮例文』の「祭主次第」で清麿の次の祭主は、その次子の子老だが、補任は「宝亀四年十月任」とあり、清麻呂は祭主も兼任していたか。

【勘申(カンシン)】:案件を審査して上へ申し上げること。

【陳状】:情況を詳しく書いて伝える文書。

【鎰(イツ)】:かぎ。鑰(かぎ)の俗字(倭玉編)。通常「鎰」は金の重さの単位。

【櫃(キ)】:ひつ。「篋(はこ)也。亦作匱。」(唐韻)。

【何者】:前述の理由の説明を引き出すことば。大系本の傍訓に「いかんとなれば」とある。

【霖雨(リンウ)】:長雨。「霖;雨三日已往。」(説文)。「霖;雨不止也。」(玉篇)。

【触】:「のる(告)。」(倭玉編)

【案内】:「案内<あんない>;さきへ報ずる也」(和漢通用)。ここは「先(朝廷)への取り次ぎ」の意味か。

【太神宮神主】:ここの「神主」は役職。内宮神官の禰宜や宮司を指すか。

【神宮使】:朝廷からの臨時の伊勢使か。

【無方】:大系本の傍訓に「みち(方)無く」とある。

 

「原文」38

宝亀二年九月廿二日、大風洪水。

仍瀧原宮祭使、并内人物忌等不堪参宮<天>、

於逢鹿瀬西小野、彼御幣、祭<乃>悠基御膳、次第御神態、直会勤奉仕了。

同年十二月廿三日四日、惣三箇日之間、大雪降<天>往還不通。

因之伊雑宮祭使不参<志天>、

太神宮<乃>一殿<任志天>彼宮悠基御膳、次第御神態、直会等勤依例勤仕。

至于官幣者、以後日奉納了。

方今検旧例、去白雉二年九月、

依洪水之難、瀧原伊雑両宮御祭事、便所<仁志天>遙拝勤仕。

至于官幣者、追以進納由、具于記文也。

 

「訳文」

宝亀二年(771)九月二十二日、大風洪水。

よって、瀧原宮祭使ならびに内人物忌等は参宮に堪えずして、

逢鹿瀬の西小野にて、かの御幣、祭の悠基の御膳、次第の御神態、直会の勤め仕えたてまつった。

同年十二月二十三日、二十四日、そうじて三日の間、大雪降って往還不通。

これによって伊雑宮の祭使は参らずして、

太神宮の一殿(五丈殿)にして、彼の宮の悠基(ゆき)の御膳、次第の御神態、直会の勤め仕えたてまつる。

官幣に至っては、後日をもって納めたてまつった。

まさに今、旧例を検するに、去る白雉二年(652)九月に、

洪水の難によって、瀧原、伊雑両宮の御祭事は、便所にして遙拝し勤仕す。

官幣に至っては、追ってもって納めたてまつる由、記文(記録文書)につぶさなり。

 

「語注」

【悠基御膳】:「原文」31【悠記御膳】参照。 「悠基」は「ゆき」と読まれ、悠記、由貴、湯貴とも表記されるが、漢字表記はどれも当て字であろう。「御膳」は大系本では「御饌」で、こちらが正しいか。祭は神嘗祭。

【直会】:「原文」31【直会】参照。

【廿三日四日】:二十三四日(23日と24日)か。十二月は月次祭。

【惣三箇日之間】:そうじて三が日の間(三日間全て)。

【伊雑宮】:内宮の別宮。「内宮儀式帳」の「管神宮肆(四)院行事」の一つ。同書に「伊雑宮一院;<在志摩国答志郡伊雑村。太神宮相去八十三里>称天照太神遙宮。御形鏡坐。」とある。

【一殿】:内宮の「直会殿一院」の中の五丈殿(他に「内宮儀式帳」に九丈殿、四丈殿を記す)。『大神宮儀式解』に「五丈殿・・・又一之殿ともいふ。<直会殿院の中、此殿には祭使、寮頭着くなり。仍院内第一の殿といふところなり。」とあり、後文に、ここの記事を引用する。『伊勢参宮名所図絵』にも「一殿;此殿は勅使の直会殿也。一殿とは直会院の第一殿といふ事なり。」とある。

【官幣】:朝廷(神祇官)からの神に捧げる幣帛(麻布や絹布)。

【便所】:都合のよい所。「便」は「順也、利也、宜也。」(廣韻)、「安也。」(説文)。

【具】:大系本の傍訓に「つぶさ」とある。

 

「原文」39

宝亀三年正月四日夜、

宮司比登宿館焼亡之次、

太神宮司印并代々公文焼亡了。

同四年十月十三日、

志摩守目代、三河介伴良雄與彼国書生惣判官代酒見文正、

伊雑神戸検田程、為狩<志天>、

伊雑宮之近辺、射伏猪鹿已了。

爰宮人等雖加制止、専不承諾。

仍内人等訴申於本宮。

随則太神宮申上宮司。

依宮司解神祇官奏聞於公家。

即被下官使、召對伴良雄等離宮院、各科大祓。

又国司科中祓、祓清已了。

 

「訳文」

宝亀三年正月四日夜、

宮司比登の宿館焼亡のついでに、

太神宮司印ならびに代々の公文が焼失した。

同四年十月十三日、

志摩守の目代、三河介の伴良雄と

彼の国(志摩)の書生の惣判官代酒見文正が、

伊雑(宮)の神戸の検田のほどに、狩をなして、

伊雑宮の近辺にて、猪鹿を射伏し已におわる。

ここに(伊雑宮の)宮人等、制止を加えると雖も、

まったく(彼らは)承諾せず。

よって、内人等が本宮(内宮)に訴え申す。

随って則ち大神宮(内宮禰宜)は宮司に申し上げる。

宮司の解(状)によって、神祇官が朝廷に奏聞。

即ち官使を下され、伴良雄等を離宮院に召對し、各々大祓を科す。

また国司には中祓を科し、祓い清め已におわる。

 

「語注」

【宮司比登】:第十七代大宮司、中臣比登。『二所太神宮例文』に「<第十七此宮司以後不任他姓>。祭主廣見(中臣意美麿の三男)七男也。宝亀元年十二月任。在任四年。同三年正月司家司官炎上畢。」とある。

【宿館焼亡之次】;宿館は上記の「神宮例文」に言う「司家司官」か。「類従本」は「宿館焼亡也。次・・・」としているが、大系本により「也」を「之」として「宿館焼亡之次、」とした。後文の斉衡三年記事にも「宮司比登館焼亡次。」とある。

【次】:「大系本」の傍訓に「ついでに」とある。

【太神宮司印】:宮司政印。「原文」20参照。

【志摩守目代】:「守」は地方官(国司)四等官制の長官。唐名は「刺史、使君、宰使、牧宰、国宰、太守」(職原称)など。志摩国の国守は他国と異なり、「志摩以高橋氏任之」(官職秘抄)と言う。高橋氏は、元「膳臣」氏で、代々朝廷の料理等の職を担当した。「纏向朝廷(景行天皇)歳次癸亥。始奉貴詔勅、所賜膳臣姓、天都御食<乎>伊波<比>由麻波理<天>供奉来」(高橋氏文)。天武紀十三年の「更改諸氏之族姓、作八色之姓」で「膳臣」に「朝臣」を賜う記事がある。 「目代」は国守の秘書官。または代官。「不論貴賤、唯以堪能人、可為目代」(朝野群載)とあって、「始めは、国守の傍に居て、書類を認め、国印を押しなどして秘書官の如き勤務」(関根正直著「有職故実辞典」)と言い、「中古皇政時代、地方官の代官の称」(関根正直著「有職故実辞典」)とも言う。

【三河介】:「介」は四等官制の二番目で次官。これは恐らく現職ではなく、旧職を言うか。

【伴良雄】:「伴」姓は元「大伴」。時の天皇の諱にふれ、「大伴」から「伴」に改姓するのは、淳和天皇(諱大伴皇子)の即位年の弘仁十四年。「改大伴宿祢宿祢、為伴宿祢。触諱也。」(『類聚国史』二八天皇避諱・『日本紀略』「弘仁十四年(823)四月壬子(28)」)。

【書生】:下級の書記官。「律令制下の下級書記である史生の補助的な役割を果たした下級職員。」(ネット版世界大百科事典代2版)。

【惣判官代】:国府の目代に付く下級在庁官人。

【離宮院】:『大神宮儀式解』に「度会郡離宮は、多気斎宮より、大神宮に参りたまふ間、この宮に御し、又時時勅使此所に著く。もと神庤とて雑神政を行ふ所あり、それを御厨とも、大神宮司ともいふ。」、『新任弁官抄』に「離宮院;駅家(うまや)也。勅使著之。斎王参宮同御此處。」と言う。『神宮雑例集』に「離宮院;延暦十六年丁丑八月三日官符、従度会郡沼木郷高川原、移造於同郡湯田郷宇羽根西村(現在の伊勢市小俣町)畢」とある。

【祓清】:大系本にて「祓」を補う。

 

 

「原文」40

同四年九月廿三日。

瀧原宮内人石部綱継、物忌父同乙仁等参宮間、

逢鹿瀬寺少綱僧海圓、従寺出来成口論之間、

陵件内人等之後、

自寺家政所注内人綱継等所為之由、牒送司廳。

仍召対綱継等、令申沙汰之處、綱継乙仁等伏弁、怠状畢也。

 

「訳文」

同(宝亀)四年九月二十三日。

瀧原宮内人石部(いそべ)綱継や物忌父同(石部)乙仁等の(瀧原宮への)参宮のとき、

逢鹿瀬寺の少綱僧海円、寺よりでてきて口論をなすとき、

件の内人等を陵(リョウ)した後に、

寺家の政所より内人綱継等の所為の由を書状に書き、司廳(国司)に牒送する。

よって(国司が)綱継等を召対し、沙汰を申せしめたところ、綱継、乙仁等が伏して弁明するも、始末書をだしておわる。

 

「語注」

【九月廿三日】:この「二十三日」は毎月の六斎日にあたるか。「凡月六斎日、公私皆断殺生<謂、六斎、八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日。>」(雑令)。

【逢鹿瀬寺】:太神宮寺。「原文」35参照。

【少綱僧】:不詳。「網僧」とは、僧に網を張ることで、僧の管理監督職にあたるか。「令」に載るものには京内の「僧網」と地方の各寺に置く「三網」とがあり、これらを治部省(玄蕃寮)が管理する。「僧綱者、僧正、僧都、律師也。」(令義解「僧尼令」)。「三綱者、上座、寺主、都維那也」(令義解「僧尼令」)。「凡僧尼自還俗者、三綱録其貫属、京経僧綱、自余経国司、並申省(治部省)除附。」(令義解「僧尼令」)。

「僧」とは俗世を離脱した者で、俗世の義務を負わない。このため俗官による直接的管理を避けたものが僧綱三綱制度であろう。これは僧侶による僧の管理監督機関で、僧侶による傷害事件を受けて、推古天皇32年に始められたと言う。「詔曰。夫道人尚犯法、何以誨俗人。故自今已後任僧正僧都、仍應検校僧尼。」(推古紀三二年(624)十月癸卯朔)。天武天皇紀にも「天武天皇十二年(683)三月己丑《二》;任僧正、僧都、律師。因以勅曰、統領僧尼如法云々。」とある。

また「三綱」は「古昔の寺院は官衙の如き者にて、三綱の寺院に於けるは国司の如し。」(古事類苑「僧職一」)と言われるが、時代とともに変化し、諸説ある。

【陵】:しのぐ。力をこめてむりに相手の上に出る。大系本は「凌轢(リョウレキ)」とする。「陵;犯也」(玉篇)、「陵;侮也,侵也」(廣韻)。

【牒】:「牒」は「公式令」に載る役所間の公文書形式で、「移」と同じだが、主に俗官と僧官とのやり取りで、「移」の様式の「牒」が使われた。「其僧綱与諸司相報答、亦准此式。以移代牒。暑名準省。三綱亦同。」(令義解「公式令」)。「牒ははじめ副次的機能とされた僧綱、三綱と役所との応答に専ら用いられ、さらに進んで官制上、上下支配関係の明らかでない役所の間にも用いられるようになった。」(佐藤進一著「古文書学入門」P69)。 

【司廳】:司庁(役所)。ここでは国司(伊勢)をさすか。

 

「原文」41(神宮寺の停止)

同六年六月五日。

神民石部楯桙、同吉見、私安良等、字逢鹿瀬<仁志天>漁鮎之間、逢鹿瀬寺<ノ>小法師三人自寺出来、恣<ニ>打陵楯桙等已了。

仍楯桙等訴申司廳。

申文云、二所太神宮朝夕御膳料漁進依有例役、

各隋身網鉤等行臨逢鹿瀬川為漁之程、

件寺法師三人并別當安泰之童子二人等出来、

且打穢所取御贄、且陵礫神民等也者。

隋則以同七年二月三日、訴申神祇官。

仍奏聞公家、隋則左大臣宣、

奉勅、永可停止神宮寺、飯高郡可被越。

宣旨已了。官使左史小野宿禰也。

 

「訳文」

(宝亀)六年(775)六月五日。

神民の石部楯桙、同(石部)吉見、私安良等、

字(あざ)逢鹿瀬にして、鮎をとっているとき、

逢鹿瀬寺の小法師三人が寺より出てきて、ほしいままに楯桙等を打ちのめしておわった。

よって楯桙等は国司に訴え申す。

(その)申し文に「二所太神宮の朝夕の御膳の材料をとりたてまつることは恒例の役目によって、各々網やつりばり等を身に随えて行き、逢鹿瀬川に臨み漁(リョウ)をなすほどに、件の寺法師三人ならびに別當安泰の童子二人等が出てきて、かつは取るところの御贄を打ち穢し、かつは神民等を陵轢(リョウレキ)するなり」と云う。

随って則ち宝亀七年(776)二月三日に、(宮司が)神祇官に訴え申す。

よって(神祇官が)朝廷に奏聞。

随って則ち左大臣が「勅を奉るに、神宮寺を永く停止すべし。飯高郡に越されるべし。」とのる。

宣旨已におわる。

(宣旨伝達の)官使は(太政官)左史の小野宿禰(名は欠)なり。

 

「語注」

【神民】:神戸の民。神戸は「原文」1参照。「群本」に「神祇民」とあるが、「祇」の傍注に「衍歟()」とある。 「神戸」や「僧」は国司の管理。「(国)守一人。掌祠社戸口・・・及寺僧尼名籍。」(令義解「職員令」)。「凡戸籍六年一造。起十一月上旬。依式勘造。里別為巻。惣写三通・・・五月三十日内訖。二通申送太政官、一通留国。<其雑戸陵戸籍、則更写一通、各送本司。>。釋云神戸籍亦同也。」(令集解「戸令」)。伊勢の神郡(度会、多気、寬平年間に飯野郡が加わる)の民政については後年紆余曲折をたどる。

【私安良】:大系本の「私」部分に「キサイチノ」と傍訓があり、「私」は姓で、名は「安良」。

【<仁志天>】:「群本」に<ヲ志天>とあるが大系本にしたがい「仁志天」とした。

【打陵(ダリョウ)】:適切な訳が思いつかないが「打ちのめした」とした。恐らく寺の近辺は殺生禁止との思いが寺僧側にあったのであろう。

【司廳】:司庁(国司)。訴えの結果は不明。

【鉤】:つりばり。

【別當】:寺の僧官(三綱)の長官。「又諸寺以別當為長官。以三綱為任用。」(『三代実録』貞観十二年(870)十二月廿五日壬寅)。

【童子】(ドウジ):雑用を務める少年。

【陵礫】:陵轢(リョウレキ)であろう。「力ずくで侵入しふみにじる。」(藤堂漢和大字典)

【訴申神祇官】:宮司から神祇官への訴え(神戸が直接神祇官に訴えることは越権行為)。この訴えのきっかけは先の暴行事件の様に記述されるが、この事件は管轄外のため、訴えた名目は異なるであろう。ここと年月を異にするが『続日本紀』に「宝亀三年(771)八月甲寅《己酉朔六》。是日異常風雨、拔樹發屋。卜之、伊勢月讀神爲祟。於是、毎年九月、准荒祭神奉馬。又荒御玉命、伊佐奈伎命、伊佐奈美命入於官社。又徙度會郡神宮寺於飯高郡度瀬山房(傍か)。」とあり、祟りに関係させた内容となっている。そして「又」以降の神宮寺の件は月読神の祟りとは恐らく別件であろう。ここでは主に月読神の他に荒御玉命、伊佐奈伎命、伊佐奈美命が官社に入った事を陳べるが、この「雑事記」にはその記載がない。「内宮儀式帳」の「管神宮肆(四)院行事」には「月読宮一院<在太神宮以北相去三里>正殿四区之中此一称伊弉諾尊、次称伊弉册尊、以上奈良朝庭御世定祝。次称月読命・・・次称荒魂。」とある。

【停止神宮寺】:『続日本紀』に「神祇官言。伊勢大神宮寺、先爲有祟遷建他處。而今近神郡、其祟未止。除飯野郡之外移造便地者。許之。」(宝亀十一年(780)二月丙申朔)とあって、神宮側史料は「停止」とするが、『続日本紀』では移しただけである。また神祇官が、祟りが止まないので更に別な場所に移すことを奏聞しているが、この祟りの内容は不明。神宮寺を移す件に関する神宮側の史料はこの他に、延長七年(929)の「伊勢国飯野庄大神宮勘注」(『平安遺文』第一巻233所収)があり、そこに「依大政官去亀宝五年七月廿三日符旨、多気度会両郡堺内所在仏地、依明神御祟、祓清為神地已了。」とある。各史料に年月や内容の差異がある。

【飯高郡】:東の海岸部は飯野郡と接し、西の山間部は多気郡と接する。「大系本」は「続日本紀」宝亀十一年の記事を根拠に「飯高」は「飯野」の誤りとするが、最終的に移った地を記述したとみれば、訂正する事はないであろう。

【左史】:「職員令」太政官に「左大史二人、右大史二人。左少史二人、右少史二人。左史生十人、右史生十人。左官掌二人。<掌通傳訴人、検校使部、守當官府、廳事鋪設。>。右官掌二人<掌同左官掌>。」とある。

 

 

「原文」42(初の正殿炎上)

宝亀十年八月五日夜丑時、

太神宮正殿、東西宝殿及外院殿舎悉焼亡畢。

于時御正躰并左右相殿御躰、併錦御衾中被纏裹御、

乍従猛火中飛出御<天>、御前松樹<乃>上懸御<世利>。

仍宮司忽造假殿、奉安鎭御躰。

以同七日言上本官。隋則上奏。

因之以同月十日、被差下勅使神祇大副右大史及官掌等。

先御焼亡之由来并所焼亡種々神宝殿装束物等、色目一一勘記<天>、上奏早了。

随亦被下官符於伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河五箇国<天>、

仰正殿、東西宝殿及重々御垣、門、外院殿舎等早速可奉造之由也。

其官符状称、以当年正税官物、応造進也。

仍件五箇国司等各進参神宮、励不日之功奉造。

即修理職大工物部建麻呂、小工長上并五百余人、各急速<仁>奉造既了。

抑件御焼亡之由来、以彼夜戌時許、宮司廣成為成私祈祷、参拝神宮、

及于亥刻、退出之間、其炬自然落散出来火也。

 

「訳文」

宝亀十年(779)八月五日夜丑時、

太神宮正殿、東西宝殿(内院)及び外院殿舎、悉く焼亡した。

時に、御正躰ならびに左右相殿御躰、併せて錦のみふすまの中にまとめて包まれまして、たちまち、猛火の中より飛び出しまして、御前の松の木の上に懸かりましませり。

よって、宮司がたちまちに仮殿を造り、御躰を安らかに鎮め奉る。

同月七日、本官にことあげ(報告)。

したがって則ち(朝廷に)上奏される。

これにより、同月十日に、(朝廷は)勅使に神祇大副右大史及び官掌等をさし下す。

先ず、御焼亡の由来、ならびに焼亡するところのさまざまな神宝、殿の装束物等、色目を一つ一つかんがえ記して、上奏すみやかにおわる。

したがってまた、官符を伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河の五箇国に下されて、

正殿、東西宝殿及び重々の御垣、門、外院の殿舎等をすみやかに造り奉るべしとの由仰せるなり。

その官符の状にいわく、「当年の正税、官物をもって、造りたてまつるべしなり」と。

よって、件の五箇の国司等がそれぞれ神宮に進み参り、不日の功に励み、造り奉る。

即ち、修理職大工の物部建麻呂、小工の長上ならびに五百余人、それぞれに急速に造り奉り、既におわる。

そもそも、件の御焼亡の由来は、彼の夜の戌時ばかりに、宮司廣成が私祈祷をなさんが為に、神宮を参拝し、亥刻に及び、退出するとき、その炬(かがりび)が自然と落ち散って出来た火なり。

*(この宝亀十年の火災による臨時遷宮は「二所太神宮例文」や他の史料に見られない。しかし、初の神宮全焼の原因が、時の宮司の私祈祷によるものという情報で、この「雑事記」に記される。)

 

「語注」

【丑時】:午前1~午前3時の2時間。

【外院殿舎】:「原文」(12)、(14)の語注参照。

【御正躰】:天照大神のご神体(鏡)。「天照坐皇太神<所称天照意保比流賣命。>」(内宮儀式帳)

【左右相殿御躰】:正殿内で天照大神の左右に坐すご神体。「内宮儀式帳」に「同殿坐神二柱<坐左方、称天手力男神。霊御形弓坐。坐右方称萬幡豊秋津姫命。此皇孫之母。霊御形劔坐。>。」とあるが、延喜の神宮式では「天照大神一座。相殿神二座。」とあるだけで、その神名を記さない。由来も不明。「霊御形弓坐」の読み方は「たま(霊)のみ形、弓にてまします。」か。「霊御形劔坐」も同じく「たま(霊)のみ形、劔にてまします。」か。

【衾】:「ふすま。ねるときにかぶる大きい夜着。」(藤堂漢和大字典)。「寝衣為小被、則衾是大被。」(説文段注)。

【纏】:まとめる。

【裹】:つつむ。

【御】:大系本の傍訓に「おはしまし」とある。

【乍】:たちまち。大系本の傍訓に「たちまち」とある。

【従猛火中飛出御】:現実的に、ご神体の鏡や弓、刀が自動的に飛ぶことはない。考えられる事は二つだけであろう。一つはその場にいた宮司達が救出した。この場はその場にいたことを隠す意図があると思われる。もう一つは、ご神体が焼失し、やむを得ず他の物にすり替えられたかであろう。

【宮司】:当時の宮司は後文にあるように中臣朝臣廣成。「二所太神宮例文」に「第十八代 中臣朝臣廣成<宮司馬養一男。宝亀五年二月廿一日任。在任六年。>」とある。

【本官】:神祇官。

【神祇大副】:神祇官の次官。「伯一人・・・大副一人<掌同伯>」(職員令)。

【右大史】:太政官の右大史。

【官掌】:太政官の官吏。「左官掌二人<掌通傳訴人、検校使部、守當官府、廳事鋪設。>。右官掌二人<掌同左官掌。>」(職員令)

【不日(フジツ)】:僅かな日数。

【大工】:工事の長。「木工寮にて其の工事を管掌し、大工、権大工、小工、権小工等の職を置きたり。」(関根正直等の「改訂有識故実辞典」)

【長上】:常勤の勤務形態の職。(「番上」は当番制勤務形態の職)。

【戌時】:午後七~九時。

【亥刻】:午後九時から一一時の間。

【私祈祷】:私的な神宮参拝。私祈祷は、神宮の性格からして慣習的に行われなかったと思われるが、これ以降延暦の「儀式帳」に「禁断幣帛。王臣家并諸民之不令進幣帛。重禁断。若以欺事幣帛進人<遠波>准流罪勘給之。」と私幣禁断が成文化された。延喜式の「伊勢神宮式」にも「凡王臣以下、不得輙供太神幣帛。其三后皇太子若有応供者、臨時奏聞」と載せる。

 

「原文」43

同十一年<庚申>正月廿日格云、

二所太神宮禰宜應叙内位也。

同年九月十日、被進種々神寶、色々御装束物等。

同月廿六日、依宣旨、宮司廣成并番直大内人三人、小内人七人各科大祓、解任。

但禰宜神主首名陳申之旨依無怠、科上祓、不解任也。

大工建麻呂叙外従五位下、小工長上皆預勅禄已了。

同年十二月二日、任太神宮司従七位下中臣朝臣継成。

同十二年辛酉正月一日、改元天應元年。

 

「訳文」

同(宝亀)十一年<庚申(780)>正月二十日の格に、

「二所太神宮禰宜は内位に叙すべしなり」と言う。

同年九月十日、種々の神寶、色々の御装束物等をたてまつられる。

(焼失物の復元、奉納)

同(九)月二十六日、宣旨により、宮司廣成ならびに番直の大内人三人、小内人七人は各々大祓を科され、解任。

(焼失の処分)

但し、禰宜神主首名は陳べ申す内容に怠り無しに依り、上祓を科されるも、解任せられずなり。

大工建麻呂は外従五位下に叙され、小工長上は皆勅禄にあずかった。

同年十二月二日、太神宮司に従七位下中臣朝臣継成を任ず。

同(宝亀)十二年辛酉(781)正月一日、天応元年に改元。

 

「語注」

【<庚申>】:西暦780年(万有こよみ百科)

【格】:勅令による法令(律令の追加、変更)。『令集解』「官位令第一」に「格者、蓋量時立制、或破律令而出矣。或助律令出矣。・・・其式者、補法令闕、拾法令遺。」とある。

【内位】:内階。外位(外階)に対する内位で、実際に表記されるのは「外位」の「外」のみ。主に五位以下に内外の差あって、元は内官(京官)と外官(地方官)との差異か。「凡得外位人者、郡司并帳内資人等。」(令集解・官位令)。 この宝亀十一年格で二所太神宮(内宮・外宮)禰宜を内位に叙すべしとあるが、別の神宮史料の『皇字沙汰文』に「抑本宮(内宮)禰宜者、去貞観年中叙内位以降、外宮神主(禰宜)者、代々難成所望、古来終以不許也。而窃掠取内階位記之條、科條惟重。」とあり、『三代実録』にも「貞観七年(865)十二月九日丙辰、授伊勢大神宮禰宜外正五位下神主繼長從五位下」とあって格の通りに内位に叙されたのは85年後の貞観七年で、これは今回の正殿焼失が影響したものか。 また『豊受太神宮禰宜補任次第』に「(外宮)神主真水・・・同(貞観)七年十二月四日叙外従五位下。同日内宮禰宜継長、考宝亀格文、所叙内階也。而当宮禰宜同時依不上奏、叙外階也」とあって、文中の「宝亀格文」とはここの「格」を指すと思われるが、外宮禰宜は手続き上の手違いで内位に叙されず、外位のまま据え置かれた様である。

【番直】:宿直当番。

【大工建麻呂叙外従五位下】:大系本にしたがい位階に「外」を補う。後文の延暦十年の記事に「大工物部宿禰建麻呂叙内階。」とある。

【中臣朝臣継成】:『二所太神宮例文』に「<第十九>二門東人孫也。宝亀十一年十二月二日任。在任六年」とある。

【辛酉】:西暦781年。大系本は小字二行で載せる。

【天應元年】:『続日本紀』に「天應元年春正月辛酉朔。詔曰。・・・伊勢齋宮所見美雲。正合大瑞。彼神宮者國家所鎭。自天應之。吉無不利。抑是朕之不徳。非獨臻茲。方知凡百之寮。相諧攸感。・・・可大赦天下、改元曰天應。」とあり、伊勢の斎宮に瑞雲が見られたことが契機とする。

 

 

「原文」44

桓武天皇

延暦四年九月、太神宮御遷宮也。

而依大風洪水水難、以十八日所奉遷也。

即齋内親王参仕、件以十九日離宮豊明奉仕、卽日御帰畢。

延暦六年<丁卯>九月、豊受神宮御遷宮。

 

「訳文」

桓武天皇。

延暦四年(785)九月、太神宮の御遷宮なり。

しかし、大風洪水の水難により、十八日に遷し奉るところなり。

即ち斎内親王は、参り仕え、件の十九日には、離宮に豊明を仕え奉り、即日に帰りましておわる。

延暦六年<丁卯(787)>九月、豊受神宮の御遷宮。

 

「語注」

【桓武天皇】:光仁天皇の長子。諱は「山部」。『続日本紀』の巻首に「今皇帝」と記され、『日本後紀』の巻首には「皇統彌照天皇<桓武天皇>」と記す。

【延暦四年】:西暦785年。『二所太神宮例文』に「延暦四年<乙丑>内宮遷宮<桓武天皇御宇>。自天平神護二年及廿年」とあり、宝亀十年(779)の火災による臨時遷宮は省かれている。この宝亀十年からだと七年をかぞえる。

【以十八日】:通常は神嘗祭の期日(916日)に行われる。「内宮儀式帳」の「皇太神宮御形神宮遷奉時儀式行事」に「以十六日・・・以亥時(午後10時)始」とある。

【齋内親王】:朝原内親王(当時七歳)。『続日本紀』に「(延暦四年)八月丙戌《廿四》。天皇行幸平城宮。先是。朝原内親王齋居平城。至是齋期既竟。將向伊勢神宮。故車駕親臨發入。・・・九月己亥《七》。齋内親王向伊勢太神宮。百官陪從。至大和國堺而還。」とあり、遷宮にあわせた派遣。『二所太神宮例文』に「朝原内親王<桓武皇女。在任十二年。延暦元年>」とあるが、「延暦元年」ではなく延暦四年であろう。

【豊明】:大系本の傍注に「とよのあかり」とある。大嘗祭、新嘗祭の後の宴会。神宮は神嘗祭と言い、この祭の後の宴会であろう。関根正直の『有識故実辞典』に「豊は美称、明は酒のみて酔顔の赤らむ由にて、明は借字なり。」と言う。

【延暦六年・・・】:この記事は群本になく、大系本(益本)により追記した。

 

 

「原文」45(再度正殿炎上)

延暦十年八月五日夜子時、

太神宮御正殿、東西寶殿并重々御垣御門及外院殿舎等併掃地焼亡。

爰御正躰并左右相殿御躰、同以従猛火之中、飛出御<天>、

御前<乃>黒山頂放光明、懸御<世利>。

錦綾色々御装束、幣物<乃>辛櫃八合、調絹千四百疋、同糸四百六十絇、太刀六百九十腰、弓箭楯鉾御鏡、種々神寶物等、千万併焼亡畢。

仍宮司且急造假殿、奉鎮御躰、且注其由、言上於神祇官、随則上奏。

仍以同月十三日、

被差下勅使神祇少副一人、左少史等也。

勘記焼亡根元并神寶物等色目、上奏。

(仍以同月十三日、被下官符於伊賀伊勢美濃尾張参河國等、以當年)正税官物、如本奉始正殿<天>、内外殿舎等被令造進<天>、

以八月十四日<天>、其由令祈申給<布>。

勅使参議右大弁正四位上行左近衛中将春宮大夫大和守紀朝臣古左美、

中臣祭主参議神祇伯従四位下兼行左兵衛督式部大輔近江守大中臣諸魚、

忌部外従五位下行神祇少副齋部宿禰人上、

卜部長上従八位上直宿禰宗守等<於>差使、令祈申非常御焼亡之由給<倍利>。

被差下造宮、大工外従五位下物部建麻呂、少工三百人等也。

 

「訳文」

延暦十年(791)八月五日夜子(深夜0時前後)の時、

太神宮御正殿、東西宝殿ならびに重々の御垣、御門及び外院殿舎等、あわせて地を掃き焼亡す。

ここに、御正体ならびに左右相殿の御体、同じくもって猛火の中より飛び出しまして、

み前の黒山の頂に光明を放ち、かかりませり。

錦、綾色々な御装束、幣物の唐櫃八合、調の絹千四百疋、同糸四百六十絇、太刀六百九十腰、弓箭、楯鉾、御鏡、種々の神宝物等、千万あわせて焼亡した。

よって宮司、かつは假殿を急造し、御躰を鎮め奉り、かつはその由を記し、神祇官に言上げし、(神祇官は)したがって則ち(朝廷に)上奏す。

よって同月十三日に、勅使の神祇少副一人、左少史等を差し下されるなり。

焼亡の根元ならびに神宝物等の色目を調べ記し、上奏す。

(よって同月十三日に、官符を伊賀、伊勢、美濃、尾張、参河國等へ下され、当年の)正税、官物をもって、本の如く正殿に始め奉りて、内外殿舎等を造り進めさせて、

八月十四日にその由を祈り申させたまう。

勅使の参議右大弁正四位上行左近衛中将春宮大夫大和守紀朝臣古左美、

中臣の祭主参議神祇伯従四位下兼行左兵衛督式部大輔近江守大中臣諸魚、

忌部の外従五位下行神祇少副齋部宿禰人上、

卜部の長上の従八位上直宿禰宗守等をさしつかわし、

非常の焼亡の由を祈り申さしめたまえり。

造宮に差し下されるは、大工の外従五位下物部建麻呂、少工の三百人等なり。

 

「語注」

【延暦十年八月五日】:この日の事件は『続日本紀』に、「八月辛夘(三日)夜有盜。燒伊勢太神宮正殿一宇、財殿二宇、御門三間、瑞籬一重。」と載せるが、事件発生は三日とする。

【飛出御<天>】:宝亀十年の火災でも同じ様な記述がある。前回の火災では出火の当事者である宮司達が運び出したとも解釈が出きるが、今回の原因は盗賊による出火であり、救い出し得たとは思えない。恐らくここで古来の御神体(鏡)は完全に焼失したと思われる。

【辛櫃八合】:「辛櫃」は唐櫃(からひつ)。「合」は「ふたのあるいれ物を数える助数詞」。

【調絹千四百疋】:「調絹(つきのきぬ)」は令制の貢納品。賦役令に「凡調絹」の条あり。「疋(ひき)」は「特に絹織物を数える数助詞」。賦役令の一疋は「長五丈一尺、広二尺二寸」。

【四百六十絇】:「絇(く)」は、糸の重の数助詞。賦役令に「謂、糸十六両曰絇。」(令義解)。

【千万】:センマン(センバン)。数の多いこと。

【宮司】:時の宮司は、『二所太神宮例文』に「<第二十>野守。延暦十年八月、太神宮焼亡事、依科怠被解却。東人孫、山守男(むすこ)。延暦五年三月任。此時始任限定六年。在任六年。」とある。

【(仍以同月十三日・・・以當年)】:この部分は群本になく、大系本により補う。

【以八月十四日】:『続日本紀』に「(八月)壬寅(十四日)。詔遣參議左大弁正四位上兼春宮大夫中衛中將大和守紀朝臣古佐美、參議神祇伯從四位下兼式部大輔左兵衛督近江守大中臣朝臣諸魚、神祇少副外從五位下忌部宿祢人上於伊勢太神宮、奉幣帛。以謝神宮被焚焉。又遣使修造之。」とある。

【造宮】:『二所外神宮例文』の「二所太神宮正遷宮臨時并假殿遷宮次第」に「延暦十一年<壬申>内宮臨時遷宮。依炎上也。自延暦四年至八年。」と載る。

 

「原文」46(出火の原因)

同年九月二日官符、推問使祭主諸魚卿、左大史船木宿禰一麻呂、右少史良峯朝臣佐比雄等到来。

任宣旨推問宮司禰宜度會郡司等、言上畢。

件<ノ>御焼亡之発者、

以彼夜子時、數多盗人参入於東寶殿、盗賜調糸等也。

而件盗人之炬、落遺於殿内<天>所出来也。

 

「訳文」

同年九月二日官符の推問使の祭主諸魚卿、左大史船木宿禰一麻呂、右少史良峯朝臣佐比雄等が到来。

宣旨にそって宮司、禰宜、度會郡司等を推問し、(これを)言上げした。

件の御焼亡のおこりは、

彼の夜の子の時に、数多の盗人が東宝殿に参入し、賜る調の糸等を盗むなり。

そして、件の盗人のともしび、殿内に落ち遣りて(火災が)出で来るなり。

 

「語注」

【發】:大系本の傍訓に「おこり」。

【數多】:大系本の傍訓に「あまた」。

【炬】:大系本の傍訓に「ともしび」。

【落】:群本に「發」とあるが、大系本に依り「落」とした。

 

 

「原文」47(出火の処分)

同年十月五日。

依宣旨、大内人三人、度會郡司等、科大祓解任。

番小内人五人、同前科祓解任。

宮司野守科中祓、禰宜科上祓、祓清供奉。

大工物部宿禰建麻呂叙内階。

少工番長等、差勅使賜勅祿已畢。

 

「訳文」

同年十月五日。

宣旨によって、大内人三人、度会郡司等、大祓に科されて解任。

番の小内人五人、同前の祓(大祓)を科されて解任。

宮司の野守は中祓に科され、禰宜は上祓に科され、祓い清めて供奉。

大工の物部宿禰建麻呂は内階に叙される。

少工の番長等は勅使をつかわされ勅祿を賜れておわる。

 

「語注」

【番】:当番。ここでは守衛の宿直当番。

【番長】:ばんのおさ。当番長。

 

 

注)「原文」45(再度正殿炎上)の再考

出火の原因である窃盗事件を再考するに、本文に「數多盗人参入於東寶殿、盗賜調糸等也。」とあって、盗人の目的は神寶物類ではなく、「調糸等」とある。これは、調の「絹や糸」が換金しやすいためであろう。この窃盗事件は、神職による犯行だった仮定すると、延暦十年八月五日の豊受宮の御稲窃盗事件と似たものかもしれない。(「原文」26参照)

宿番の小内人達神職が関係していたとすれば、この小内人達が出火時に、ご神体を救出し、

自らの犯行(窃盗)を隠すために、「御正躰并左右相殿御躰、同以従猛火之中、飛出御<天>、」と証言したと言えなくもないか。そうであれば、古来からのご神体(鏡)は無事だったと言える。

 

「原文」48

延暦廿年正月十三日。

太神宮大物忌父磯部鰺丸并内人同田丸等神館焼亡。

仍當番直大内人三人、小内人六人、科上祓畢。

件鰺丸等二人、又同前也。

同年四月十四日格云、

太神宮事異於諸社、雖有餘剰、非改減之限矣者。

 

「訳文」

延暦二十年(801)正月十三日。

太神宮大物忌父磯部鰺丸、並びに内人の同(磯部)田丸等の神館焼亡す。

よって、当番直の大内人三人、小内人六人を上祓に科した。

件の鰺丸等二人もまた同前なり。

同年(801)四月十四日の格に、

太神宮の事は諸社と異なり、余剰あるといえども改減の限りにあらずなりと云う。

 

「語注」

【鰺】:大系本に「さば」、「うを」と傍訓が二つある。今の日本語では、鰺は「アジ」であり、サバは「鯖」。漢語で、鰺;「字之譌。」(字彙)、鱢;「鮏臭也。」(説文)。

【同年四月十四日各云】:これは『続日本紀』「養老七年五月己卯(十五日)」条に「己卯、制、神戸当造籍、戸无増減、依本為定。若有増益即減之」とある格に対するものであろう。 この延暦二十年の格は、『類聚三代格』「不可割取伊勢大神宮神戸百姓事」(貞観2119日官符(860))に、「・・・養老七年格云。神戸増益即減之。死損即加之者。・・・延暦廿年四月十四日格偁、大神宮封戸非改減之限。・・・望請、件大神宮封戸丁、雖有余剰永無減省以供神宮。謹請官裁者。右大臣宣、奉勅、凡大神宮事異於諸社。宜下依延暦廿年四月十四日格、永無改減。若有乖忤科違勅罪。」と引用される。

 

「原文」49

奈良天皇。

大同二年九月十七日夜中。

荒祭宮御前方<仁>黒斑文牛一頭倒亡斃畢。

仍同十八日、彼宮御祭直會行事、於太神宮主神司殿奉仕。

但宮司代以大中臣氏安、令供奉畢。

被宣旨云、宮司補任之間、以氏安可勤仕神主者。

爰件牛斃事、禰宜司代共申上本官。

因之彼宿直内人三人、科中祓畢。

同三年九月四日。

大原内親王参着於斎宮。

但本院相副令下坐給。

故号本院宮也。

 

「訳文」

奈良天皇。

大同二年九月十七日夜中。

荒祭宮の御前方に黒まだら文の牛一頭が倒れ死んだ。

よって同月十八日、彼の宮の御祭、直會の行事を、太神宮主神司殿にて仕え奉る。

但し、宮司代(宮司の代理)は、大中臣氏安をもって、供奉させた。

受けた宣旨に「(正式に)宮司を補任するまで、氏安をもって神主を勤仕すべし」と言う。

爰に件の牛斃(ギュウヘイ)の事は、禰宜と(宮)司代が共に本官(神祇官)に上申した。

これによって、彼(荒祭宮)の宿直の内人三人は、中祓に科された。

同(大同)三年九月四日。

大原内親王が斎宮に参着。

但し、本院(平城天皇)の退位にともない(内親王を)解任せしめ給う。

故に(大原内親王を)本院の宮とよぶなり。

 

「語注」

【奈良天皇】:平城天皇。桓武天皇の長男。延暦廿五年(806)五月十八日即位。 『日本後紀』に「日本根子天推國高彦天皇<平城天皇>:天皇諱安殿<アテ(傍訓)>。皇統彌<桓武(傍注)>照天皇之長子。母曰藤原贈大皇大后。寶亀五年生於平城。」と載る。

【夜中】:夜半;子の刻(夜の0時頃)。

【大同二年】:西暦807年。 延暦廿五年五月に延暦二十五年を「大同元年」に改元(桓武天皇崩御は延暦二十五年三月)。

【九月十七日】:神嘗祭;十六日夕大御饌、十七日朝大御饌。

【荒祭宮】:内宮別宮の一つ。「内宮儀式帳」の「管神宮肆(四)院行事」に「造奉荒祭宮一院<在太神宮以北。相去廿四丈>。稱太神宮荒魂宮。御形代鏡坐。」とある。鎮座の由来は諸説あるが不明。

【黒斑】:大系本の傍訓に「くろまだら」とある。

【倒亡斃】:大系本の傍訓に「たふれなほり」とある。「なほり」とは神宮の「死」を忌む詞で、「内宮儀式帳」に「死<乎>奈保利物<止>云」とある。斃は、弊と同じ(《釋文》斃,亦作弊)。「弊」は「壞也、敗也」(玉篇)、「倒斃;死亡。」(漢典)。

【主神司殿】:大系本により「主」の字を補う。内宮直会殿一院の中の「四丈殿」。『神宮典略』「殿舎考三」に「四丈殿:此殿をかく主神司殿ともいひ<寮(齋宮寮)の主神司中臣、また忌部卜部の着座の故なり>」と言う。

【大中臣氏安】:姓は大中臣、名が氏安。当時の宮司は「二所太神宮例文・大宮司次第」に「中臣朝臣真継<延暦廿二年五月二日任。大同二年卒。在任四年・>」とあり、「真継」と 思われるが、死亡に拠る欠員でこの「氏安」が代行を務めたか。

【大原内親王】:平城天皇の三女(帝王編年記)。ここでは「同(大同)三年九月四日。大原内親王参着於斎宮。」と言っているが、『日本後紀』では、「九月癸未(四日)。齋内親王向伊勢。」とある。

【本院】:退位し上皇となった平城天皇。 『日本後紀』大同四年(809)四月丙子朔の条に「天皇自從去春寢膳不安。遂禪位於皇大弟(嵯峨天皇)。」

【下坐】:解任。 『類聚国史』に「大同四年(809)六月甲申(十)、令摂津國造頓宮、以伊勢齋内親王帰京也。八月甲申(十一)、定仁子内親王為伊勢斎。」

 

 

「原文」50

嵯峨天皇

弘仁元年九月。太神宮御遷宮。

同年十二月十九日夜。

太神宮大内人外少初位上宇治土公石部小縄神館一宇焼亡。

又山向内人無位神主乙公館同焼亡畢。

仍禰宜従七位下神主公成申上宮司。

上奏之日被下宣旨、件二人科大祓、解任了也。

 

「訳文」

嵯峨天皇。

弘仁元年九月。太神宮御遷宮。

同年十二月十九日夜。

太神宮大内人外少初位上宇治土公石部の小縄の神館一棟が焼亡。

また山向内人の無位神主乙公の館も同じく焼亡した。

よって禰宜の従七位下神主公成は(このことを)宮司に上申。

(報告の流れ:禰宜→宮司→神祇官→天皇)

上奏した当日に宣旨を下され、

件の二人は大祓に科され、解任しておわるなり。

 

「語注」

【嵯峨天皇】:桓武天皇の二男。平城天皇の弟。 『日本紀略』に「天皇諱賀美能、桓武天皇第二子、平城天皇之同母弟也。延暦五年、生於長岡宮。(中略)大同四年四月戊子。皇太弟受禅、即位大極殿。」と載る。即位後すぐに太上(平城)天皇との間で権力闘争の「薬子(くすこ)の変」が起こる。

【弘仁元年】:西暦810年。大同五年九月十九日改元。「宜改大同五年爲弘仁元年。」(『日本後紀』)。 「薬子の変」は同年912日に太上(平城)天皇の「剃髪入道(出家)」と「藤原朝臣薬子自殺」(日本後紀)で収束していた。

【太神宮御遷宮】:『二所太神宮例文』に「弘仁元年<庚寅>内宮遷宮<嵯峨天皇御宇>。自延暦四年及廿六年。同十一年自臨時御遷宮者至十九年。」と記す。

【宇治土公石部小縄】:延暦廿三年の「内宮儀式帳」に「宇治大内人;無位宇治土公磯部小紲」とあるが同一人物か。

【山向内人】:「山向」は大系本の傍訓に「やまげ」とある。延暦廿三年の「内宮儀式帳」には「山向物忌」の子と父を載せるが、「山向内人」の記載は無い。『神宮典略』に「古年中行事」、「古行事記」、「建久遷宮記」、「寬正遷宮記」などを引用し「此童男(山向物忌)を介扶(たすけ)る職」と言う。

【神主乙公】:不詳。神主は姓。名が乙公。

【神主公成】:延暦廿三年の「内宮儀式帳」に「禰宜;大初位上神主公成」とある。『二所太神宮例文』の「一員禰宜補任次第」には「公成;田長二男。嵯峨天皇弘仁。」と記載される。この田長とは、同書に元明天皇和銅年間の禰宜という。

 

「原文」51

同三年九月、豊受神宮遷宮。

抑件御遷宮<仁>、須祭主可供奉也。

而依有當日暇日、不供奉。

仍宮司一人供奉。

件祭主者、致仕大臣一男、故阿波守正五位下大中臣朝臣宿奈麻呂之三男也。

而彼阿波守以九月十五日卒去。

仍不供奉歟。

 

「訳文」

同(弘仁)三年九月、豊受神宮遷宮。

そもそも件の御遷宮に、すべからく祭主は供奉すべしなり。

しかして(祭主に)当日、暇日あるに依って、供奉せず。

よって宮司一人で供奉する。

件の祭主は、右大臣清麿の長男で、

故阿波守正五位下大中臣朝臣宿奈麻呂の三男なり。

しかるに、彼の阿波守(宿奈麻呂)は、(弘仁三年)九月十五日を以て卒去。

よって(祭主は)供奉せずか。

 

「語注」

【豊受神宮遷宮】:『二所太神宮例文』に「弘仁三年<壬申>外宮遷宮。自内宮遷宮隔中一年。」と載る。

【須】:すべからく。大系本の送り仮名に「須<ク>」とある。漢文訓読では「須」一字で「すばからく・・・べし」と復読するが、ここの文では「須(すべからく)・・・可(べし)」 とある。又は「須」を「まつ」と動詞に読み、「祭主をまって、供奉すべきなり。」か。

【祭主】:「原文」27「語注」参照。この時の祭主は神祇大副大中臣諸人。『二所太神宮例文』に「<大副>諸人。<清麿一男宿根麿三男。弘仁元年七月任。在任四年>。」とある。

【暇日】:喪中で職を離れている事を言う。

【宮司】:この時は第二十五代浄持。(寶亀元年補任の第十七代中臣比登より「不任他姓」で、その後中臣姓が宮司を務める)。『二所太神宮例文』に「<第廿五>浄持。<弘仁三年二月七日任。在任三(年)。行弘事依神事違例、解任。(弘仁五年?)三月宣旨。」とある。

【致仕大臣一男】:「致仕」は辞職(退官)。老齢で退官が許された右大臣清麿(延暦七年七月に死去)の長男。

 

 

「原文」(出産事件)52

弘仁四年九月十六日。

豊受宮大内人神主真房妻、参詣於彼宮御祭<天>、

祇候玉垣下之間、件女乍坐産生畢。

即赤子掻入袖<天>、退出也。

仍宮司註具之由、上奏早畢。

因之以同月廿九日、被祈申件非常産穢之由。

勅使王散位従五位下節職王、中臣正五位下行主税頭大中臣朝臣淵魚、忌部等也。

件真房夫婦共科大祓、解見任已畢。

自今以後、姙胎女不参入於鳥居内也。

即起請被下宣旨又了。

 

「訳文」

弘仁四(813)年九月十六日。

豊受宮大内人神主真房の妻が彼の宮の御祭に参詣し、

玉垣のもとで祇候(シコウ)している間に、

件の女が、坐しながら子を生んでしまった。

すぐに、(女は)赤子を袖にかきいれて、退出するなり。

よって、宮司はこの由を注具し、(朝廷への)上奏は早く終えた。

これにより、同月廿九日をもって、

件の非常の産穢の由を祈り申される。

(この時の)勅使は、王は散位従五位下節職王、中臣は正五位下行主税頭大中臣朝臣淵魚、忌部(忌部の詳細は不明)等なり。

件の真房夫婦は、共に大祓を科し、現任を解き、既に終わる。

自今以後、妊胎(ニンタイ)の女は、鳥居内に参入せずなり。

即ち(この)起請に宣旨下されまた終わった。

 

「語注」

【九月十六日】:外宮の神嘗の祭日。この日は、夜の明けぬ午前二時頃(丑時)の神饌の提供と、夜が開けた後の朝の奉幣との二つの行事がある。今回の事件は、事が出産なので、恐らく前者の時か(不詳)。神饌の提供は宮司以下の神職で行われるが、後者は齋内親王や勅使が列席する。

【祇候】(シコウ):つつしみ控える。

【玉垣】:一番内側は瑞垣(みずがき)で、その次の外側の垣根。

【乍坐産生】:大系本傍訓に「ざしながらこうみ」とある。

【産穢】(サンエ):出産の穢れ。

【見任】:現任。

【起請】(キショウ):「ある物事を発議し、それが実行されるように政府や主君に請い願うこと。」(学研古語辞典)。

 

 

「原文」53

弘仁五年甲午。

六月御祭<仁>齋宮寮依例参宮。

而太神宮御祭夜直会三獻之間、

寮頭藤原朝臣尚世與禰宜公成俄成口論。

爰御遊之後不賜禰宜之祿物。

齋王令還向給已了。

仍任禰宜解状宮司上奏又了。

以同七月廿三日、被下官使、

被對問寮頭尚世與禰宜公成之處、

寮頭陳申之旨不分明也。

禰宜弁申之旨無過怠。

因之寮頭官人共状弁怠状了。

其後以同八月十五日、

従齋宮大盤所、召禰宜公成、賜恩言、被物御衣一襲給畢。

為禰宜面目在了。

 

「訳文」

弘仁五年甲午。

六月の御祭に齋宮寮が例により参宮。

しかるに、太神宮御祭の夜の直会三獻の間、

寮頭藤原朝臣尚世と禰宜公成がにわかに口論をなす。

ここに、御遊の後、禰宜だけに祿物を賜らず。

齋王、還向せしめ給い、既に終わる。

よって、禰宜の解状にまかせて、

宮司の(朝廷に)上奏もまたおわる。

同年七月二十三日、(朝廷は)官使を下され、

寮頭尚世と禰宜公成を対問するところ、

寮頭の陳べ申す旨は分明ならず。

禰宜の弁じ申す旨に過怠(カタイ)無し。

これにより、寮頭、官人共に、状(事実)を弁じ、怠状(を出して)おわる。

その後、同年八月十五日に、

齋宮の大盤所より、禰宜公成を召して、恩言を賜い、被物御衣一かさねを給わった。

禰宜のために面目あっておわる。(この部分は再考要)

 

「語注」

【弘仁五年甲午】:西暦814年(歴史読本「万有こよみ百科」)

【六月御祭】:神宮三時祭の一つの六月の月次祭。

【三獻】(サンコン):酒礼。「昔、正式の酒宴の礼法で、酒肴を出し、酒を三杯のませて膳を下げることを一献といい、これを三回くり返すこと。」(学研国語辞典)。

【齋宮寮】:非常設の令外官。齋王の斎宮在住中の政所(まんどころ)。大宝元年に旧斎宮司を令制の「寮」に準える。『続日本紀』に「太政官處分。(中略)又齋宮司准寮、屬官准長上焉。」(大宝元年(七〇一)八月甲辰《四》。)。「神宮雑事」ではここが「斎宮寮」の初出。旧斎宮司も律令制以降の創設であろう。(詳細は「余談」<5>参照)。

【寮頭】:神亀五年(727)七月廿一日の勅で、斎宮寮の官位相当と定員が定められ、「頭(かみ)」は従五位官(狩野文庫本類聚三代格所収太政官符)。この前年に斎宮寮の任官の記事が『続日本紀』にあるが、この時(神亀四年)の官位や人員を基に、翌年(神亀五年)に 法令化したか。

【藤原朝臣尚世】:不詳。

【禰宜公成】:荒木田公成。『二所太神宮例文』に「公成:田長二男。嵯峨天皇弘仁。」とある。

【御遊】:祭の最後の舞のことであろう。下記参照。

【禰宜之祿物】:祭の直会(なおらい)の後の宴会の最後に、神職達に祿を与えてお開きとなる。内宮儀式帳年中行事の「六月例」に、「(前略)即倭舞仕奉。先太神宮司。次禰宜。次大内人。次斎宮主神司。諸司官人等<其舞畢、人別直会酒、采女二人侍。御用柏盛給。>然男官舞畢。即禰宜大内人等妻舞、次斎宮女孺等畢。即禰宜、内人、物忌等<爾>祿給<弖>、即内親王離宮還坐。」とある。

【還向】:げこう(下向)。帰ること。

【大盤所】:台盤所とも言う。齋王に仕える女官の詰め所。

【恩言】:「恩」は「いつくしみ」。「言」は言葉で、「慈しみの言葉」か。

【襲】(かさね):「{単位詞}上下がそろった衣服を一セットとして数えるときのことば。」(学研国語辞典)。

 

「余談」<5>「斎宮と斎宮寮」

ここで「余談」として「斎宮」と「斎宮寮」の変遷過程を「天照大神祭祀」の創始から整理してみる。

 

使用する主な史料。

[朝廷側史料]

『日本書紀』(以下【紀】と略す)

『古事記』(以下【記】と略す)

『古語拾遺』

「律令関係史料」

[伊勢神宮側史料]

『皇太神宮儀式帳』(以下【内宮式】と略す)。書の末に延暦二十三年の日付あり。

『止由気宮儀式帳』(以下【外宮式】と略す)。日付は同上。

『太神宮諸雑事記』(以下【雑事】と略す)。平安中期以降編纂で伊勢神宮最古の歴史書。

『二所太神宮例文』(以下【例文】と略す)。鎌倉時代の編纂で遷宮や齋内親王以下神職達の補任記録。

 

先ず上記史料から「伊勢神宮創始」に関するものを時系列的に挙げる。

(1)天照太神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女栲幡千千姫、生天津彦彦火瓊瓊杵尊(実際に降臨する天孫)。(神代紀下第九段)

(2)故天照大神(中略)因勅皇孫曰、「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。」(神代紀下第九段一書第一)

(3)是時天照大神手持寶鏡、授天忍穗耳尊而祝之曰、「吾兒視此寶鏡、當猶視吾、可與同床共殿以爲齋鏡。」 復勅天兒屋命(中臣)・太玉命(忌部)、「惟爾二神亦同侍殿内、善爲防護。」(神代紀下第九段一書第二)

(4)副賜其遠岐斯<此三字以音>、八尺勾璁、鏡及草那芸釼、亦常世思金神、手力男神、天石門別神。而詔者、「此之鏡者、専為我御魂而如拝吾前、伊都岐奉。次、思金神者、取持前事為政。」(記上巻「天孫降臨」段」)

(5)天照大神。倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢共住不安。故以天照大神。託豐鍬入姫命。祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。〈神籬。此云比莽呂岐。〉 亦以日本(倭)大國魂神、託渟名城入姫命令祭。然渟名城入姫命髮落體痩而不能祭。(崇神天皇紀六年)

 *【磯城】:「紀」の原文は「磯堅城」だが、『古語拾遺』に「磯城神籬」とあり、これに依った。「紀」の「堅」は「磯城」の傍注が本文に紛れ込んだか。現存する写本の諸本は「磯堅城」とするが、これは卜部本系であり、これと系を異にする古本系は、この巻の巻五は現存しないという。またここの「磯城」は地名ではなく、「神籬」を修飾する詞で、地名は、前置詞「於」で示される「倭笠縫邑」であろう。そもそも「磯」は「いそ」であり、「磯」に「し」の字音も字訓もない。「紀」が「磯城」と表記するところは、「記」では「師木(しき)」とする。恐らく「山背(やましろ)」に「山城」の字をあてた後、「城」に「しろ」の訓が生まれたように、「師木」に「磯城」の字をあてた後に、「磯」に「し」の訓がうまれたか?

*【神籬】(ひもろき):「神」に「ひ」、「籬」に「もろき」が対応するか。「もろ」は通説では「森(もり)」と同根の言葉とされるが、恐らく意味は「守(もる。名詞形は「もり」)」であろう。ここでは神の依り代の「樹」ではなく、神の形代の「鏡」が対象である。「万葉歌2657」に「神名火尓  紐呂寸(ひもろき)立而  雖忌  人心者  間守不敢物(ま・もり・あえぬ・もの)」とあり、ここで「紐呂寸」(神)と「間守」(人心)が「もろ」と「もり」で対になっているか。

(6)三月丁亥朔丙申(十日)。離天照大神於豐耜入姫命、託干倭姫命。爰倭姫命求鎭坐大神之處、而詣莵田筱幡。〈筱此云佐佐。〉 更還之入近江國。東廻美濃到伊勢國。時天照大神誨倭姫命日、「是神風伊勢國。則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。」 故隨大神教、其祠立於伊勢國。因興齋宮干五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之處也。(垂仁天皇紀二十五年)

(7)一云。天皇以倭姫命爲御杖。貢奉於天照太神。是以倭姫命以天照太神。鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後隨神誨。取丁巳年冬十月甲子。遷干伊勢國渡遇宮。(垂仁天皇紀二十五年)

(8)磯城嶋瑞垣宮御宇御間城天皇(崇神天皇)御世以往、天皇同殿御坐。而同天皇御世<爾>、以豊耜入姫命為御杖代、出奉<支>(中略)纏向珠城宮御宇、活目天皇御世<爾>、倭姫内親王<遠>為御杖代、齋奉<支>。美和<乃>御諸原<爾>造斎宮、出奉<天>齋始<メ>奉<支>。(以後諸国遍歴) 次百船<乎>渡會國、佐古久志呂宇治家田田上宮坐<支>。爾時、宇治大内人仕奉宇治土公等遠祖太田命(中略)是川名佐古久志留伊須々<乃>川<止>申。是川上好大宮地在申。即所見好大宮地定賜<比支>(中略) 爾時太神宮禰宜氏、荒木田神主等遠祖國摩大鹿嶋命孫天見通命<乎>禰宜定<弖>、倭姫内親王、朝庭<爾>参上坐<支>。従是時始<弖>禰宜氏無絶事<弖>職掌供奉。(内宮式・前文)

(9)至于磯城瑞垣朝、漸畏神威、同殿不安。故更令齋部率石凝姥神裔天目一筒神裔二氏、更鑄鏡造釼。以爲護御璽。(是今踐祚之日、所獻神璽鏡釼也。) 仍就於倭笠縫邑、殊立磯城神籬 奉遷天照大神及草薙釼 令皇女豐秋鍬入姫命奉齋焉。(古語拾遺)

 

1・天照大神祭祀の創始について

イ)天照大神祭祀は、天孫の中でも皇家の先祖だけが、天照大神より「地上の王たる」神勅を受けたという神話伝承を元にして始まる。[史料(1)、(2)]

後に天照大神祭祀は、皇家と雖も、皇家の長たる天皇の許可無く祭る事は禁止された(延喜伊勢太神宮式)。

ロ)祭祀対象は天孫降臨の時、天照大神より形代(かたしろ)としてもらったとされる神勅の「宝鏡」。「宝鏡」が伊勢に移った時に、「天照大神」も天から天降りしたとされ、伊勢での祭祀対象は「宝鏡」と「天照大神」の二柱となる。

ハ)祭祀形態は「同床共殿」により、神勅の「宝鏡」を神の形代として、そこに大神が常にいますが如くに齋(いつ)き祭る天皇親祭。[史料(3)、(4)]

「天照大神」が天降ったとされる「伊勢」では、彼女への日常的な朝夕の神饌供奉が中心となる。

 ニ)天照大神祭祀は、天皇が「齋王」とし、天皇宮殿(皇居)が「斎宮」として始まり、この「同床共殿」形態は、崇神天皇まで続いていたことが史料(5)、(8)、(9)に記述される。

 

2・天照大神の遷祀(伊勢神宮の創始)

イ)天照大神の遷祀は、崇神天皇から垂仁天皇の時期に始まり、最終的に畿内より国外に出され、傍国の伊勢に至って、伊勢神宮の創始となる。この遷祀により、天照大神祭祀は、「皇居」と「伊勢」の二つの「斎宮」に分離される(後者が所謂「斎宮」)。[史料(5)~(9)]

ロ)遷祀の原因は、史料(5)と(9)で、天皇が天照大神の神勢や神威を畏れたと言うが、そもそも神威あってこその神祭りであろう。皇家が守ってきた神話のロジックを毀してまでも、何を二人の天皇(崇神と垂仁)は畏れたのか、今となってはわからない。しかし、皇家は伝来の宝鏡(神鏡)を外部に出しても、史料(9)でその模造品を新たに造り、それを神鏡とした天皇親祭の同床共殿祭祀は、この後も続けられる(天武天皇の時期に再考、再整備か)。宇多天皇のころに至って、同殿から同じ内裏の溫明殿に移したと、『古事類苑』所収の『撰集抄』は言う。また『古今著聞集』(神祇)には「内侍所は、むかしは清涼殿にさだめまいらせられけるを(中略)温名殿にうつされにけり。此事いづれの御時のことにかおぼつかなし。」と言う。『江家次第』(内侍所御神楽事)にも「内侍所者、神鏡也。本與主上御堂殿<内侍所は、神鏡なり。本は主上(天皇)の御堂殿とともにする>」と言う。

ハ)遷祀・分離の事変の影響は、初代神武天皇から第十代崇神天皇の間の八人の天皇の事跡が、記紀共にほとんど欠け(俗に「欠史八代」と言われる)、また天孫降臨の時、従者として一緒に地上に降りたはずの「思金神」や「手力男神」の子孫達の消息記録も欠ける。ついでに言えば、崇神天皇や垂仁天皇と時代を同じくするであろう『三国志』「魏志倭人伝」が記述する倭の女王の「ヒミコ」や「トヨ」等の記録も日本側史料に欠損する。 *個人的感想であるが、皇家の内部記録文書である「記紀」が、共に遷祀についてあ まりふれないのは、負の記憶故か。

 

3・伊勢斎宮の変遷

イ) 伊勢斎宮の創置

  当初は「天照大神」と「神鏡」は「伊勢斎宮」にあっても、神勅の通り、内親王(倭姫命など)が「同床共殿」で祭っていたであろう。その具体的場所は不明であるが、史料(6)に「興齋宮干五十鈴川上。是謂磯宮<斎宮を五十鈴川のほとりに興す。是は磯宮という>」と言い、史料(7)では「遷干伊勢國渡遇宮。」と云う。史料(6)は「磯宮」と言い、史料(7)は「渡遇宮」と言うが、前者は川の磯石を多く使った宮と言うことであり(現在の神宮も敷石には宮川の石が使われ、海の石は使われないと言う)、後者は地名に依る呼び方で同一であろう。尚、「渡遇」は「度会」のことであるが、内宮式の「初神郡度會多気飯野三箇郡本記行事」によれば、孝徳天皇の大化の前まで、度会・多気・飯野の地は神郡(度会)と言われていたようである。

 

ロ)「磯宮」から「多気宮」への遷宮

  この時期は、参考程度の史料しかないが、『倭姫命世記』(鎌倉時代頃の作)に、「大足彦忍代別(景行天皇)天皇廿年(中略)多気宮造奉<天>、齋慎<美>令侍給<支>」とある。また『伊勢参宮名所図絵』(江戸時代の作)に、「斎宮村<旧名鳥墓村旧名は鳥墓村>昔斎宮ありし故に号く。斎宮旧跡<即斎宮村なり>(中略)竹の宮ともいひて一郡を多気の都と云。太古には斎宮と機殿と相ならびて、神路山に有し時は磯の宮と称せり。」と言う。(*「神路山」は現在の神宮の背後に広がる山々)

 

ハ)倭姫命の帰京

史料(8)の神宮側史料では「爾時太神宮禰宜氏、荒木田神主等遠祖國摩大鹿嶋命孫天見通命<乎>禰宜定<弖>、倭姫内親王、朝庭<爾>参上坐<支>。」と、倭姫内親王は神の世話をする禰宜を定めた後に、朝廷に還ったと言う。その時期は不明。但し朝廷側の史料には帰京記録は無い。

倭姫内親王帰京後の伊勢斎宮は、現地の禰宜や宇治大内人や大物忌等の神職達で運営されることになる。この中で特に「大物忌(神職の少女)」の役割は重要で、斎王(内親王)の代役を務める。内宮式の「職掌雑任四十三人」に、「大物忌(中略)此初太神<乎>頂奉齋倭姫内親王、朝廷還参上時<仁>、今禰宜神主公成等先祖天見通命<乃>孫川姫命、倭姫<乃>御代<仁>大物忌為<弖>、以川姫命大神<乎>傅奉=訳文;大物忌(中略)ここに初めて太神を頂き奉り斎(いつき)の倭姫の内親王は、朝廷に帰り参上した時に、今の禰宜神主公成等の先祖の天見通命の孫の川姫命が、倭姫のみ代わりに大物忌となって、川姫命をもって天照大神を傅奉(フホウ)する。」とある。*傅(フ)】:おもり役としてそばに付き添う。「傅;輔助。」(漢典)。

倭姫命の帰京後の内親王不在の時期は長い。景行紀廿年に「遣五百野皇女、令祭天照大神」とあるが、これは「遣」とあって「侍」ではなく、祭の臨時勅使の派遣であろう。

 

ニ)斎王(内親王)派遣の再開

雄略天皇紀元年条に「稚足姫皇女<更名栲幡姫皇女>是皇女侍伊勢大神祠」と斎王派遣再開の記事がある。しかしこの派遣は、雄略紀三年の条に記述される様に、皇女への中傷的懐妊疑惑により、皇女が神鏡を持って逃走し、自死すると言う悲劇に終わる。

この時期に、斎王派遣が再開された理由や、それが現地の要請か朝廷側の発意かなどは不明だが、外宮式「等由気太神宮院事」に「大長谷天皇(雄略天皇)御夢<爾>誨覚賜<久>(中略)吾一所耳坐<波>甚苦。加以大御饌<毛>安不聞食坐。」と、天照大神が雄略天皇の夢で、「一人では甚だ苦しい」と言ったという話しがのる。この夢での神託は、外宮の豊受神勧請の話しへとつながるが、長い間の斎王不在をも意味するものであろう。その後も断続的に斎王は派遣されるが、安定的に派遣されたのは平安時代となる。

 

ホ)神宮司の創置(斎宮政所の分離)

孝徳天皇の時、斎宮(神宮)より政所が分離され「神宮司」となる。この時、斎宮に斎王の派遣はない。

(「斎王」のいない「斎宮」は、単に「神宮」とよぶのが正しいと思うが、今は便宜上「斎宮(神宮)」とする。)

この分離は、封建的地方自治体制から中央集権体制への大化の改新にそったものである。公地公民の理念で、地方行政は一旦地域の有力氏族等から切り離され、国郡制に基づき、地域の実情に沿って、中央の意向により再構成される(紀の大化二年条に「今以汝等、使仕状者、改去旧職、新設百官」という)。官制は官・省・台・府・坊・職・寮・司となり、国は国司と郡司に整理され、国司は中央から派遣し、郡司は地元の有力氏族が任命された。

倭姫命が自ら築いた斎宮(神宮)の独立的財源(各地の神領)もその影響を受け、神領の運営管理は郡司と神宮司に分かれ、郡司は国司に、神宮司は神祇官にそれぞれに編入される。

初代の神宮司は「例文」の「第九大宮司次第」に「<第一・中臣>香積連須氣;河内國錦織郡人。孝徳天皇御代。在任四十年。」とあり、この人は神祇に関係する氏族の中臣氏だが、伊勢以外から任命された。

倭姫命が自ら築いた斎宮(神宮)の独立的財源(各地の神領)もその影響を受け、神領の運営官管理は郡司と神宮司に分かれ、郡司は国司に、神宮司は神祇官にそれぞれに編入される。

初代の神宮司は「例文」の「第九大宮司次第」に「第一中臣中臣香積連須氣;河内國錦織部郡人也。孝徳天皇御代任。在任四十年」とあり、この人は神祇に関係する氏族の中臣氏だが、伊勢以外から任命された。

恐らく神宮司の創置に関する古い史料は、内宮式に所収されるものだけであろう。その全文を「史料(10)」として、「群書類従本」より「その1」から「その4」に分けて以下にのせる。

史料(10) ※本文注の( )内は私注。「原文」の改行、句読点は私見で行った。

「原文」その1

「初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事」

右従纒向珠城朝廷(垂仁天皇)以来、至于難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇(孝徳天皇)御世、有爾鳥墓村造神庤<弖>、為雑神政所仕奉<支>

「訳文」その1

「初めの神郡;度会・多気・飯野の三ヶ所の郡の本記と行事。」

右の垂仁天皇の朝廷より以来孝徳天皇の御世に至るまで、「有爾(うに)」の鳥墓村(とつかむら)に神司(かみのつかさ)を造って、もろもろの神の政所(まんどころ)と為して仕え奉りき。

*「右」は、事書きの「初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事」をさす。

*「神庤」は、後文が言う政所の役割であるならば、本来は「神寺」であろう。「寺」は「廣韻」に「寺者、司也」と言う。しかし、神宮で「寺」は忌み詞であり、それを避けて「庤」としたか。ちなみに庤は「玉篇」に「儲也、具也」と言う。

   *「鳥墓村」は斎宮の所在地と同じ。

 

「原文」その2

而難波朝廷(孝徳天皇)天下立評給時<仁>、以十郷分<弖>、度会乃山田原立屯倉<弖>、新家連阿久多督領、礒連牟良助督仕奉<支>。以十郷分、竹村立屯倉、麻続連広背督領、磯部真夜手助督仕奉<支>

「訳文」その2

しかれど、孝徳天皇の朝廷は、天下に評(郡)を立て給う時に、(神郡から)十郷を分けて、度会の山田原に屯倉を立てて、新家連阿久多督領と礒連牟良助督が仕え奉りき。(さらに)十郷を分けて、竹(多気)村に屯倉を立て、麻続連広背督領と磯部真夜手助督が仕え奉りき。

*「評」は大宝令前の「郡」の表記。倭訓はどちらも「こほり」。

*「屯倉」は朝廷の「公領」を示し、一旦「神領」と切り離された事を示す。ここは後に郡となるので、役割的には郡衙であろう。「督領」、「助督」は役所の長官と副官を指す。

   *ここで、神郡(度会)が度会郡と多気郡に分かれる。

 

「原文」その3

同朝庭(孝徳天皇)御時<仁>、初太神宮司所稱神庤司、中臣香積連須氣仕奉<支>。是人時<仁>、度會山田原造御厨<弖>改神庤<止>云。名<弖>号御厨。即号大神宮司<支>

「訳文」その3

同朝廷の御時に、はじめ、太神宮司は、神庤司と言われ、中臣香積連須氣が仕え奉りき。この人の時に度会の山田原に御厨(みくりや)造って、神庤を改めたと云う。名づけて御厨と言い、すぐに大神宮司と言った。

*「度會山田原」は外宮の所在地と同じで、孝徳天皇の時に、この地に大神宮司が立てられた。

      *「中臣香積連須氣」(河内の人)は、初代大宮司(例文)。

 

「原文」その4

近江大津朝廷天命開別天皇(天智天皇)御世<仁>、以甲子年(天智三年)、小乙中久米勝麿<仁>多氣郡四箇郷申割<弖>立飯野髙宮村屯倉<弖>、評督領仕奉<支>、即爲公郡之。

右元三箇郡攝一處、太神宮仕奉<支>

所割分由顕如件。

「訳文」その4

天智天皇の御世に、甲子年をもって、小乙中久米勝麿に、多気郡から四ヶ処の郷を申し割って、飯野の高宮村に屯倉を立てて、評(郡)の督領に仕え奉らせ、すぐに、これを公郡とした。

右の元の三ヶ処の郡(度会・多気・飯野)は、一処に摂し、太神宮に仕え奉っていた。

*ここで、多気郡から、飯野郡が分かれる。

*「小乙中」は天智朝の冠位。

*「公郡」は、飯野地区が神宮の神領から切り離されたことを示す。

以上。(この史料は地元民の禰宜の視点で書かれている)。

 

へ)「斎宮」と「神宮」の分離(神宮の創置)

『続日本紀』の文武二年(698)十二月二十九日条に、「遷多氣大神宮于度會郡」と載る。これは斎宮から「神鏡(宝鏡)」だけが分離され、度会の地に「神宮」が創置された事を意味する。その「神宮」には、内親王の宮室はなく、現在の神宮の姿と同じ。今まで斎王の派遣が断続的に続いたと雖も不在の時期も長く、斎宮に斎王がいなければ、実質的に、そこは既に単に「神宮」であったであろう。

「神宮」の度会への分離遷宮により、禰宜以下神職達も度会の「神宮」へ移り、「神の宮」としての性格が明確化される。残された「斎宮」は、形式化し、やや俗化する事になる。斎宮の建物は、行宮(アングウ)的施設となり、斎王の派遣や帰京時に興廃が繰り返される。斎王の天照大神祭祀への参加も、通常は年三度(6月、12月の月次祭と9月の神嘗祭)だけとなり、禰宜や神職達が斎宮へ行くことも、通常は正月三日の年一度になる(内宮式「年中行事并月記事」)。

「神宮」の度会への遷宮に先立ち、『続日本紀』の文武二年九月十日条に「遣當耆皇女侍于伊勢齋宮」と載るが、これは遷宮の準備や立ち会いを兼ねたものであろう。當耆皇女とは天武天皇の皇女であり、多紀皇女とも書かれ、嘗て朱鳥元年(686)四月に伊勢神宮へ派遣された経験がある。

俗説に「遷多氣大神宮于度會郡」の記事は、「神宮司」の事ではないかと言う人もいるが、「神宮司」は「史料(10)」で書かれるように、既に初代宮司の時に、多気から度会に移っている(孝徳天皇の頃か)。ちなみに第二代宮司は、「例文」の「大宮司次第」に、「大朽連馬養;朱雀二年持統天皇御代任。在任十七年。或十五年」と載り、第三代は同書に、「村山連糠麿;大宝二年正月任。在任十六年」と載る。また「神宮寺」と言う説は論外であろう。「続日本紀」の当該記事は、『類聚国史』「神祇部・伊勢太神」の項でも抄出され、『日本紀略』や『政治要略』でも同様である。

 

ト)斎宮寮の創置

文武二年(698)に、斎宮から神鏡が遷祀されれば、同床共殿の祭祀形態は崩れ、実質的に、残された斎王は俗世的「王」となり、「斎宮」は「王宮」となる。地元の神職は「神宮」に移り、「斎宮」に残る職員は、斎王と共に京より伊勢に下向してきた官吏達となる。

史料的には、『続日本紀』「大宝元年(701)八月甲辰(四)」条に、「齋宮司准寮<斎宮司は寮に准じる>」とあり、これにより「斎宮寮」が創置されれる。これからその前身は「斎宮司」であったこともわかるが、この創置は不明である。恐らく、文武二年の「當耆(多紀)皇女」の伊勢斎宮への派遣が、神宮遷祀を前提としたものなら、その時、皇女の為の家政組織としての「斎宮司」も派遣されたであろう。

「司」は、「国司」や「郡司」、「宮司」など京外官に使われるが、「京内官」では、「寮」より下のランクである。どちらを取っても「司」から「寮」への変更は、俗世の官吏組織としては昇格であろう。

天平二年(730)七月癸亥(十一)に「詔曰。供給齋宮年料。自今以後皆用官物。不得依舊充用神戸庸調等物。」(続日本紀)と詔がだされ、「斎宮」は財政面でも「神宮」から切り離され俗化し、形式化され、斎王派遣は宮廷行事の一部となる。平安時代に、伊勢へ向かう斎王群行は華やかさのピークを迎えると言うが、同床共殿祭祀の実態を失った斎宮は、中央集権体制(律令体制)の終焉と共に衰退と廃絶の道をたどる。

 

チ)「斎宮寮」の人員構成

詳細は神亀五年(728)七月廿一日の勅(「類従三代格」巻四)にある。直木孝次郎氏が「律令制と伊勢神宮」(『直木孝次郎 古代を語る4』所収P49)の中で、「斎宮寮と後宮(職員令)の間には(中略)多くの類似点がみられる」と言う。「後宮」とは天皇の日常空間であり、後宮職員はそこに務める官吏である。これも、斎王が天照大神から引き離され、斎王の名称は引き継ぐも、実態は俗世の王に準じた現れであろう。

俗化した後の斎宮については、延喜の斎宮式に載る。そこには天照大神祭祀とは関係ない年中行事も多くある。斎宮内の祭祀は斎宮寮の「神主司」が担当する。

 

ヌ)結語

伊勢神宮の問題は、その創始に関係する史料を見誤ると、空想世界に迷走する事になる。

基本的に伊勢神宮の歴史は、その「遷祀」の歴史であり、その根本原因は崇神天皇紀の「畏其神勢、共住不安」から始まり、この負の記憶が現在まで人々を惑わす。今となっては、崇神天皇や垂仁天皇が、前天皇が同床共殿で祭っていた天照大神に対して、何をそんなに畏れたのか、当事者や関係者の証言である当該史料が無い以上これを知る術はない。

古代の天皇に、記録を担当する史官はなく、天皇の事跡は、『古事記』序文に、「諸家之所齎帝紀及本辞」とあるように、臣下の家伝によりもたらされたと言う。古代に於いて最も重要な臣下は、天孫降臨に付き添い、「次思金神者、取持前事、為政」(『古事記』)と神勅を受けた思金神の子孫達であろう。「取持前事為政」とは、後の大臣(おほまえつぎみ)にあたると思われるが、彼の子孫達は史料上で行方不明なのである。恐らく遷祀に関する重要な情報は、彼らの家伝にあったと思える。*(思金神の子孫達の事は、一部『先代旧事本紀(旧事紀)』「国造本紀」などにあるが、この書は、明らかな偽書なので参考としない。偽書の独自情報は、偽書の本丸と言える部分で、注意が必要であろう)

また皇家の女系王(女王)の部分を担ったのは、伊勢で斎王となった内親王の系譜と言える。これをさかのぼれば、倭姫命→臺与(トヨ)→卑弥呼へとつながり、「伊勢神宮」は「魏志倭人伝」が言う「女王国」の残影かもしれない。

 

最後に諸氏諸説の史料上の誤認と思われるものをいくつか挙げる。

1)崇神天皇の時の遷祀の原因に「国内多疾疫」をあげるが(所功氏他)、原文は「先是」とあり、遷祀は疫病が流行し、国内が混乱する前のことであろう。もし、疫病等が原因での遷祀なら「先是」ではなく、「以是」で無いと理に合わない。

 

2)文武天皇二年(698年)の「遷多氣大神宮于度會郡<多氣の大神宮を度会郡に遷す>」この記事の「大神宮」を「太神宮司」とする(田中卓氏他)見解があるが、これには根拠が全くない。

彼らが傍証としてあげるのは、『太神宮諸雑事記』の「和銅二年<己酉>。於太神宮外院之乾(北西)方、始立宮司神館」と記載されるこの記事であるが、これは和銅二年(709年)であるし、外院に立てられた「宮司神館」は、同書の寶亀三年に「宿館」と書かれ、恐らく、神事における臨時の「宮司の宿館」であろう。この宮司の外院神館は、度々火災を起こし、延暦二十三年(804年)の「内宮儀式帳」編纂時には、この宮司神館の記載は無くなっている。特に、寶亀十年(779年)八月五日に、宮司は個人的な祈祷での火の不始末により、内宮正殿を全焼させる火災をおこしている。これは、記録上、神宮創始以来、初めての全焼となる。

 

3)上記の2)の文武二年の記事で、「多氣大神宮」は「外宮」の事とする解釈もあるが(直木孝次郎氏他)、これも諸史料を無視した空想でしかない。

『太神宮諸雑事記』には、「(雄略天皇)即位廿一年(477年)天照坐伊勢太神宮乃御託宣称、我御食津神<波>坐丹後国与謝郡真井原<須>。早奉迎彼神(中略)伊勢国度会郡沼木郷山田原宮<仁>奉鎮給<倍利>)」とあり、外宮(豊受神宮)は勧請当初から度会郡に位置する。『公事根源』にも「外宮は内宮鎮座の後四百八十四年を経て、雄略天皇の御宇に跡を垂れさせたまふ。養老五年九月十一日に、始めて官幣を奉らる」と言い、朝廷からの官幣を受けるのは、養老五年(721年)がはじめてだと言う。『官曹事類』(「政治要略」所収)には、「養老五年九月十一日(中略)伊勢大神宮幣附(忌部)呰麻呂、渡會神宮幣附無位中臣朝臣古麻呂」とあり、内宮は「大神宮」だが、外宮は「神宮」とあり、まだ「大神宮」ではない。