2012.12.07

 2021.12.01補訂

弘仁私記序」訳注

 

はじめに

ここに「弘仁私記序文」の訳注を試みます。

「弘仁私記序文」とは、『本朝書籍目録』(13世紀末頃成立)に、「弘仁四年私記」とあるその序文です。「弘仁四年(813年)私記」とは、臣下に対する初めての「日本書紀講書」に関する講師サイドの私記です。この序文は、『古事記』、『日本書紀』、『新撰姓氏録』等の成立や当時の受容状況を伝える数少ない史料の一つで、各種史論にも引用されることが多い重要な史料と言えます。ただ、管見ですが、この全文を通しての「訳注」があまり見られません。そこで今回無謀にも個人的に「訳注」を試みてみようと思い立ちました。

底本は「新訂増補国史大系第八巻」(昭和七年・吉川弘文館)の「甲本」です。今回の「愚考(訳注)」では、「原文」の校勘による修正文字を[ ]で囲います(紙テキストを必ず参照されたし)。本文はゴシック体の太文字で表示し、二行割小書きの注は< >内に明朝体で表記します。私見の訳文は、清朝以降の「訓詁学」や楊樹達著『高等国文法』以降の「漢語語法(文語文)」によって文意を明らかにすることを重点に置き、日本の「学習漢文」の読み方は必ずしも取りません。また文意にしたがって「原文」に句読点(標点符号)や改行を施しますが、返り点など訓点は用いません。

尚、先の同書凡例で、諸本が「残欠零本を伝ふるに過ぎず」という状態で、「果たして旧本そのものなるかは猶ほ研究の余地あり」と言います。善本がない以上、次の点に注意が必要かと思います。

  「弘仁私記」は基本的に私家の「私記」であり、その目的は師弟間伝授用と考えられ、著作以後の新訂や増補箇所もあり得ます。

  各書写伝授の間に、本文と二行割小書注の間の移動が予想されます。

  二行割小書注は、著者自らか、後人に依るものかの判別は課題です。

  写本はどれも一点もので、細部は百本百様です。

以上のようにテキストに正誤などの問題がつきまといますが、これは「偽書」云々と別な問題です。所謂「偽書」とは、おもに「著者」や「制作年代」を偽る事を言い、その内容の正誤とは異なります。

 

 

「原文」1(首題)

日本書紀私記巻上 并序

 

「訳文」は省略。

「語注」

【日本書紀私記】:「甲本」の写本原本(水戸彰講館本)表紙の題は「日本紀私記全」。 【巻上】:「弘仁私記」は上、中、下の三巻。

 

 

「原文」2

夫日本書紀者日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑。故云日本。古者謂之倭國。伹倭意未詳。或曰、取稱我之音、漢人所名之字也。通云山跡。山謂之邪麻、跡謂之止。音登戸反。下同。夫天地剖判、泥湿[]。是以栖山徃來固[]多蹤跡。故曰邪麻止。又古語謂居住為止。住於山也。音同上。武玄之曰、東海女國也。一品舍人親王<浄御原天皇第五皇子也。>從四位下勳五等太朝臣安麻呂等<王子。神八井耳命之後也。> []所撰也。

 

「訳文」

それ日本書紀は<日本国、大唐より東に去ること一万余里なり。日は、東方より出て、扶桑の木を昇る。故に日本と云う。古くは倭国という。ただ「倭(ワ)」の意味は未詳。あるひと曰く「我(わ)という音を取り、漢人が名づけた字なり」と。世に山跡(やまと)という。山は耶麻(やま)と言い、跡は止(と)と言う。(止の)音は「登戸」の反し。下も同じ。それ天地二つにわかれたるとき、泥がしめって、未だかわかず。これをもって山にすみ、往来すれば、もとより自ずと足あと多し。故に邪麻止(やまと)という。また古語に居住を止(と)と言う。山に住むなり。(止の)音は上に同じ。武玄之曰く「東海の女国(ジョコク)なり」と。> 一品舍人親王と<御原天皇第五の皇子也。> 從四位下勳五等太朝臣安麻呂らが<王子。神八井耳命の後なり。> 天皇の命令を受けて編纂するものなり。

 

「語注」

【扶桑】:ふそう。「神話中的樹木名<神話の中の樹木の名前>」(漢典)。「湯谷上有扶桑、十日(十個の日)所浴。」(山海經·海外東經)。

【音登戸反】:ネットテキストには「反」を「及」にするものがあるが、底本は「反」で、その傍らに「シ」の送り仮名があり、これは「反(かえ)し」と読み、漢字音韻表記の「反切」。万葉仮名では「止(乙類と)」、「(乙類と)」、「戸(甲類と)」で「止」と「登」は同じ乙類で同音と言えるが、漢字の四声韻では「止(上声韻)」、「登(平声韻)」、「戸(上声韻)」で、「止」と「登」は異なる。これは「登-戸」と反切させることにより、「止」を上声韻で発音させることを示すか。

【邪麻止】:『日本書紀』に「日本。此云耶麻騰」。『古事記』に「夜麻登」。 

【武玄之】:個人名。『日本国見在書目録』に「韻詮十巻<武玄之撰>」(十小学家)、「高宗実録六十巻<武玄之撰>」(十三雑史家)と載る。『新唐書』「芸文志」にも「武元之韻銓十五卷」とあるが、「高宗実録六十巻」は載っていない。

【東海女國】:漢籍各史書に載る「女国」は「倭国」と別国。『翰苑』の魏略逸文に「自帯方至女国」とあるも『法苑珠林』の魏略逸文に「去女王国」とあり、「女国」は「女王国」の誤記か。

【一品舍人親王】:廃帝(淳仁天皇)の父で、追号は「崇道盡敬皇帝」(天平宝字三年六月詔)。「次妃新田部皇女、生舎人皇子」(『日本書紀』天武紀二年二月条)。「天渟中原瀛眞人天皇之第三皇子也」(『続日本紀』天平七年十一月卒伝)。

【淨御原天皇】:天武天皇。『日本書紀』に「天渟中原瀛眞人天皇」。「古事記序文」に「飛鳥清原大宮御大八州天皇」。

【第五皇子】:これは『日本書紀』天武紀二年二月条の皇子の記載順序。年齢の順序では、上記の『続日本紀』が記す第三皇子か。

【從四位下勳五等太朝臣安麻呂】:『古事記』の編纂者。和銅五年の「古事記序文」の署名は「正五位上勲五等万侶太朝臣安萬侶」。墓碑銘は「左京四條四坊 従四位下勲五等太朝臣安萬侶 以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」。

【王子】:「王の子」の系統で、家系が「皇別」であることを示す。

【神八井耳命之後】:『古事記』に「神八井耳命者、意冨臣・・・等之祖也」。『新撰姓氏録』に「多朝臣:出自諡神武皇子神八井耳命之後也」(左京皇別上)。

【奉勅】:天皇の命を受ける。「奉」は、「うける」。「勅」は、天皇の命令。

【所撰】:「所」は助字として他動詞を名詞化する。ここでは「もの」と訳した。「所・及物動詞具有名詞性」(「古代漢語読本」南開大学編)。「撰」は「えらぶ」。「編纂」と訳した。

 

「補足」「反切」について

「反切」は二字の音を借りて、一音を表す(一音に反る)手法で、最初の字が「声母」を、後の字が「韻母」を示すと言います。「声母」は音韻の清濁、軽重に作用しますが、漢語の「四声韻」や、和語の「上代特殊仮名遣」の「甲類」、「乙類」の別は、後字の「韻母」に作用されます。「反切」で後字が「上声韻」なら求める音韻は「上声韻」となり、これは倭語に当てはめても同じです。後字が「乙類」の音韻であれば、求める音韻は「乙類」と成ります。さきの「止」の音韻を求める「反切」が「登戸反」で、前字に乙類の「登(と)」をあて、後字に甲類の「戸(と)」をあてています。これでは、万葉仮名で乙類にあたる「止(と)」が、甲類の「と」に変化してしまう。つまり、「弘仁私記」の著者は、「上代特殊仮名遣」を認識していないと言えましょうか。しかし、「上代特殊仮名遣」の中で「と」は例外のある仮名ですので、当然これだけで、一概に決めついける事はできませんが。

 

 

「原文」4

先是、淨御原天皇御宇之日<気長帯日天皇之皇子。近江天皇同母弟也。> 有舍人。

姓稗田、名阿禮、年廿八<天鈿女命之後也。> 

為人謹恪、聞見[聡]慧。

天皇勅阿禮、使習帝王本記及先代舊事<豊御食炊屋姫天皇廿八年、上宮太子、嶋大臣共議、録天皇記及國記、臣、連、伴造、國造百八十部并公民等本記。又、自天地開闢至豐御食炊屋姫天皇謂之舊事。>

 

「訳文」

これより先、淨御原天皇(天武)の治世の日に<気長帯日天皇(舒明)の皇子。近江天皇(天智)と同母の弟なり。>(ある)舎人あり。

姓は稗田、名は阿禮、年は二十八<天鈿女命の後なり>。

人となりは、つつしみ深く、聞見(ブンケン)することに聡恵(ソウケイ)であった。

天皇、阿禮に勅して、「帝王本記」及び「先代舊事」を習わせる。

<豊御食炊屋姫天皇(推古)二十八年に、上宮太子(聖徳太子)、嶋大臣、共にはかりて、「天皇記」及び「國記」、「臣、連、伴造、國造百八十部并公民等本記」を録す。又、天地開闢(カイビャク)より豊御食炊屋姫天皇に至までを旧事という。>

 

「語注」

【御宇(ギョウ)】:治世。

【気長帯日天皇】:舒明天皇。『日本書紀』に「息長足日廣額天皇」。新撰姓氏録は「息長」を「気長」と表記。『古事記』は「足」を「帯」と表記。同序文に「帯字、謂多羅斯(たらし)」。

【舍人】:天皇・皇族などに近習して、護衛・雑役・宿直などに携わる下級役人。 「師古曰、舍人;親近左右之通稱也。」(漢書)。「舍人、師古曰舍人猶家人ト、注シタ程ニ、女ノコトゾ。又ハ内ノ者ゾ。」(『蒙求抄』第二巻34オ)。 「舍人」の言葉自体に性別はない。

【有舍人・・・先代舊事】:本文は「古事記序文」を借用か。「古事記序文」には「時有舎人。姓稗田、名阿礼、年是二十八。為人聡明、度目誦口、払耳勒心。即勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。」とある。

天鈿女命】:あめのうずめのみこと。『日本書紀』に「猿女君遠祖天鈿女命」。『古事記』に「天宇受売者、猿女君等之祖」。

【豊御食炊屋姫天皇】:推古天皇。『日本書紀』と同じ。『古事記』には「豊御食炊屋比売命」と表記。

上宮太子、嶋大臣共議・・・】:『日本書紀』に「皇太子、嶋大臣共議之、録天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部并公民等本記。」(推古紀二十八年十二月条)。

嶋大臣】:蘇我馬子。『日本書紀』に夏五月戊子朔丁未。大臣薨。仍葬于桃原墓。大臣則稻目宿禰之子也。性有武略、亦有辨才。以恭敬三寶。家於飛鳥河之傍。乃庭中開小池。仍興小嶋於池中。故時人曰“嶋大臣”。」(推古紀三十四年卒伝)

 

 

「原文」5

未令選録、世運遷代、豊國成姫天皇臨軒之年<天命開別天皇第四皇女也。軒者、榲上板也。謂御宇[]臨軒>

詔正五位上安麻呂、俾撰阿禮所誦之言。

和銅五年正月廿八日<豊國成姫天皇年号也。>

初上彼書。所謂古事記三卷者也。

 

「訳文」

(・・・先代舊事)未だ選録せしめずに、世はめぐり、代が遷り、豊国成姫天皇(元明)の治世の年<(元明は)天命開別天皇(天智)の第四皇女なり。軒は、杉の上板なり。御宇を臨軒と言う。>

正五位上安麻呂に命じて、阿禮の述べる言葉を(漢文に)編集させる。

和銅五年正月二十八日<(和銅は)豊国成姫天皇の年号なり。>に、

初めて彼の書をたてまつる。「古事記三卷」と言われるものなり。

 

「語注」

【豊國成姫天皇】:元明天皇。『続日本紀』に「日本根子天津御代豊國成姫天皇。小名阿閇皇女。天命開別天皇之第四皇女也。」。

【天命開別天皇】:天智天皇。『日本書紀』に、「天命開別天皇。息長足日廣額天皇太子也。母曰天豐財重日足姫天皇。」。

榲上板】:意味不詳であるが、「榲」は樹木の杉。

【為臨軒】:底本は「馬臨軒」だが、これでは意味をなさない。「馬」を「為」に採る。ここでの「為」は日本語助詞の「と」と訳した。「臨軒(リンケン)」は、諸橋大漢和辞典に「天子が正座に御せずに、平臺に御するをいふ。」と言うが、注では「御宇(治世)」と解釈している。

俾撰阿禮所誦之言】:「古事記序文」に「撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞。」。

和銅五年正月廿八日】:「古事記序文」と同文。

 

 

「原文」6

清足姫天皇負扆之時<淨御原天皇之孫、日下太子之子也。世号飯高天皇。扆、戸牖之間也。負斧扆者、言以其所處名之。今案天子座之後也。>、親王及安麻呂等、更撰此日本書紀三十卷、并帝王系圖一卷今見在圖書寮及民間也。>

養老四年五月廿一日<淨足姫天皇年号也。>功夫甫就、獻於有司<今圖書寮是也。>

 

「訳文」

清足姫天皇(元正)が皇位にある時に<(元正天皇は)淨御原天皇(天武)の孫の日下太子の子なり。世に飯高天皇とよぶ。「扆」は戸牖(コユウ)の間なり。「負斧扆(フフイ)」とは、そのおられる所をもって名付けたると言う。今案じるに、天子の座の後ろなり。>

親王と安麻呂らは、さらにこの日本書紀三十卷、ならびに帝王系図一卷を編纂する<今、図書寮と民間に現存する。>

養老四年五月二十一日に、<(養老は)淨足姫天皇の年号なり。>

功(コウ)、それはじめてなり、有司に献じる。<(有司とは)今の図書寮、これなり。 >

 

「語注」

【清足姫天皇】:元正天皇。『続日本紀』に「日本根子高端淨足姫天皇。諱氷高。天渟中原瀛眞人天皇之孫。日並知皇子尊之皇女也。」

【負】:天皇位であることを示す。「扆」は天子が使う「斧柄の屏風」を指す。「扆」と「依」は通用し、『荀子』に「履天子之籍、“依”而坐<天子位につけば、“依”を背にして坐す>」とある。

【日下太子】:『日本書紀』に「草壁皇子」、「皇太子草壁皇子尊」。『続日本紀』に「日並知皇子尊」、「岡宮御宇天皇(追号)」。

【飯高天皇】:皇代記(群書類従本)に「諱飯高、後改氷高。」。『帝王編年記』も同様。

【扆、戸牖之間也】:『礼儀』「士虞禮」の「註」に「戸牖之閒謂之依。」とある。「戸牖」とは「門と窓」。「戸牖;門窗。借指家<門と窓。家を指す>」(漢典)。 *ここの「注」の注釈は適切か?

【負斧扆】:斧扆」は「斧依」とも書き、「斧柄の屏風」を言う。

親王及安麻呂等・・・】:『続日本紀』に「先是、一品舍人親王奉勅、修日本紀。至是功成、奏上紀卅卷系圖一卷。」。

【今見在】:この「今」は「注」を書いている時の“今”で、「弘仁十年以降」となる。「今」という時制は、基本的に過去と未来の境界線で、そこに時間的幅は無い。1日単位であれば、「今」とは「今日(当日)」であろう。「見在」は「現存」。

養老四年五月廿一日】:『続日本紀』には「月日」の記載は無いが、「年」は同じ。

夫甫就】:「夫」は「語端辭」(正韻)。「甫」は「始也」(玉篇)。「就」は「成也」(廣韻)。

 

 

「原文」7

上起天地混淪之先、

<混、大波也。淪、小沈小波也>

下終品彙[]成之後。

<品、衆也。彙、類也。瓢、成也。>

神胤、皇裔、指掌灼然。

<中臣朝臣、忌部宿禰等為神胤也.息長真人、三國真人等為皇裔也。>

慕化、古風、舉目明白。

<東漢、西漢史及百濟氏等為慕化、高麗、新羅及東部、後部氏等為古風也。>

異端、小説、[]、力、亂、神<一書及或説、為異端、反語及諺曰、為小説也。

恠、異也。大鷦鷯天王御宇之時、白鳥陵人化為白鹿。又蝦夷叛之、堀上野田道墓、則大蛇瞋目、出自墓以咋蝦夷也。

力、多力也。天國排開天皇御宇之時、膳臣巴提便至新羅、有虎、噬兒去也。提尋至巖岫。左手摯虎舌、右手拔劔刺殺。又蜾嬴捕山雷之類也。

乱、逆也。蘇我入鹿失君臣之禮、有覬覦之心也。

神、鬼神也。大泊瀨天皇[]於葛城山、急見長人、面白、容儀相似天皇。天皇問名。答云、僕是一言主神也>

為備。多聞莫不該[]<該、備也。>

 

「訳文」

(以下『日本書紀』の記述内容の概要。)

上は、天地混淪の先におこし、

<「混(コン)」は大波(タイハ)なり。「淪(リン)」は小沈(ショウチン)、小波(ショウハ)なり。> *ここの注は適切か?

下は、(万象の)分類がなっての後に終わる。

<「品」は衆なり。「彙(イ)」は類なり。「甄(ケン)」は成なり。> 

*ここの注は適切か?

神胤(シンイン)、皇裔(コウエイ)は、わかりやすく、明瞭である。

<中臣朝臣、忌部宿禰等は神胤となすなり。息長真人、三國真人等は皇裔となすなり。>

慕化、古風は、分類項目を挙げて明白なり。

<東漢、西漢の史(ふびと)及び百濟氏等は慕化となし、高麗、新羅及び東部、後部の氏等は古風となすなり。>

異端、小説、怪、力、乱、神(の話)は、

<「一書」及び「或説」は、「異端」とし、

「反語」及び「諺曰」は、「小説」となすなり。

「怪」とは「異」なり。大鷦鷯天王(仁徳天皇)の御世の時、白鳥(ヤマトタケル陵)の陵人が化して白鹿となる。また蝦夷(えみし)そむき、上野の田道の墓を掘れば、則ち大蛇、目を瞋(いから)し、墓より出て、もって蝦夷を咋(くら)うなり。

「力」とは「多力」なり。天国排開天皇(欽明)の御世の時、膳臣巴提便(はすし)新羅にいたるに、虎あらわれて、兒(わがこ)を噬(かみ)去るなり。提、尋ねて巖(いわお)の岫(いわあな)に至る。左手で虎の舌を撃ち、右手で劔を拔きて、刺し殺す。また、蜾嬴(すがる)が山に雷を捕らえる類なり。

「乱」とは「逆」なり。蘇我入鹿、君臣の禮を失い、覬覦(キユ)の心をたもつなり。

「神」とは「鬼神」なり。大泊瀨天皇(雄略)が、葛城山に狩りをしたとき、急に長人(チョウジン)あらわれ、(その)面(メン)白くして、容儀、天皇に相似たり。天皇が名を問うに、(長人)答えて、僕はこれ一言主神なりという。>

備えを為す。多聞は該博(ガイハク)せざることなし。<「該」は「備」なり。>

 

「語注」

【混淪(コンリン)】:混沌(コントン)。「混沌,混合而不分明。」(漢典)。『日本書記』の冒頭の文は「古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子」 *「渾」と「混」は同義。

【混、大波也】:この注は、はたして適切か?

【淪、小沈小波也】:この注もはたして適切か?

【品彙(ヒンイ)】:分類。種類分け。

【甄(ケン)】:底本は[票瓦]。早稲田大学蔵書」本は「甄」で、こちらを採る。「甄(ケン),成也」『魏都賦・註』と、ここの「注」と同文がある。

【指掌灼然(シショウ・シャクゼン)】:わかりやすく、明瞭。

【東部、後部氏】:高句麗五部。『日本書紀』に「高麗遣大使後部主博阿于。」(天武紀五年)。日本後紀に「信濃国人外從六位下卦婁眞老。後部黒足。前部黒麻呂。前部佐根人。下部奈弖麻呂。前部秋足。小縣郡人无位上部豊人。下部文代。高麗家繼。高麗繼楯。前部貞麻呂。上部色布知等言。己等先高麗人也。」(延暦十八年j十二月条)

【小説】:些細なつまらない発言。「瑣屑而偏頗的言論<些細で偏った発言>」(漢典)

【反語及諺曰】:「反語」は「反語;常用於嘲弄諷刺」(漢典)。「諺曰(ゲンエツ)」は「諺語(ゲンゴ)」の事か?「諺語」は「(世間の)ことわざ」。「流傳的俗語<ひろまった諺>」(漢典)

【白鳥陵人化為白鹿】:『日本書紀』に「差白鳥陵守等死役丁。時天皇臨于役所。爰陵守目杵忽化白鹿以走。」(仁徳天皇六十年十月条)

【蝦夷叛之】:『日本書紀』に「蝦夷叛之。遣田道令撃。則爲蝦夷所敗。以死于伊寺水門。時有從者。取得田道之手纒與其妻。乃抱手纒而縊死。時人聞之流涕矣。是後蝦夷亦襲之略人民。因以掘田道墓。則有大蛇發瞋目自墓出以咋。蝦夷悉被蛇毒而多死亡。唯一二人得兔耳。故時人云。田道雖既亡遂報讎。何死人之無知耶。」(仁徳紀五五年条)

【膳臣巴提便至新羅】:『日本書紀』に「膳臣巴提便還自百濟言。臣被遣使。妻子相逐去。行至百濟濱。〈濱。海濱也。〉日晩停宿。小兒忽亡不知所之。其夜大雪。天曉始求有虎連跡。臣乃帶刀甲。尋至巖岫。拔刀曰。敬受絲綸、劬勞陸海、櫛風沐雨、藉草班荊者。爲愛其子令紹父業也。惟汝威神。愛子一也。今夜兒亡。追蹤覓至。不畏亡命。欲報故來。既而其虎進前開口欲噬。巴提便忽申左手。執其虎舌。右手刺殺。剥取皮還。」(欽明紀六年十一月条)

【蜾嬴捕山雷之類】:『日本書紀』に「天皇詔少子部連蜾嬴曰。朕欲見三諸岳神之形。〈或云。此山之神爲大物代主神也。或云。菟田墨坂神也。〉汝膂力過人。自行捉來。蜾嬴答曰。試往捉之。乃登三諸岳。捉取大蛇奉示天皇。天皇不齋戒。其雷數數。目精赫赫。天皇畏。蔽目不見却入殿中。使放於岳。仍改賜名爲雷。」(雄略紀七年七月条)

【覬覦(キユ)】:「学研漢和大辞典」に「下の者が上のことをのぞむ。身分不相応なことをのぞむこと。」 「民服事其上、而下無覬覦<民は其の上に服事して、下が覬覦すること無し>」(『春秋左氏伝・桓二』)

【急見長人】:『日本書紀』に「天皇射獵於葛城山。忽見長人。來望丹谷。面貌容儀相似天皇。天皇知是神、猶故問曰。何處公也。長人對曰。現人之神。先稱王諱。然後應言。天皇答曰。朕是幼武尊也。長人次稱曰。僕是一事主神也。」(雄略紀四年二月条)

【備】:そなえる。備えにはいろいろあるが、ここは「備;論世之事,因爲之備<世のことを論じる為の備え>」(漢典)であろう。

【多聞(タブン・タモン)】:見聞が広いこと。「見多識廣<見ることは多く、識ることは広い>」(漢典)。

【該博(ガイハク)】:「該博;學問或見識廣博<学問あるいは見識が広範囲>」(漢典)

【該、備也】:「廣韻」や『穀梁傳』「哀元年」の「注」と同じ。 *適切か

 

 

「原文」8

世有神別記十卷<天神天孫之事、具在此書>

[]明神事、最為[証拠]

[]紀夐遠、作者不詳<夐、遠視也。隳正反。>

 

「訳文」

世に「神別記十卷」あり。<天神・天孫の事、この書につぶさにあり。>

神の事をあきらかにするに、最も証拠となる。

されど、年数、はるかに遠く、作者は不詳。夐は、遠視なり。(「夐」の字音は)「隳(キ)・正(セイ)」の反しで、字音は「ケイ」となる)。>

 

「語注」

【神別記十卷】:『本朝書籍目録』の「神事」に「神別記 十卷<日本紀私記曰、天皇天孫事、具在此書。>」。 和田英松氏著『本朝書籍目録考』(昭和11年)に「今伝はらず(中略)天皇天孫は誤りにして、天神天孫を正とすべし(中略)但し今神別記と称せる写本十巻あり。天地別記、陰陽別記、根国別記、黄泉別記以下、素戔男命、大国主命の系図を記したるものなり。後人の偽作なる事は言を俟たず。」

【発明】:学研漢和大辞典に「よくわからない物事を明らかにすること」。 「発、明也」(廣韻)。「亦足以發。《註》謂發明大體也」(論語・為政)。「予觀春秋、國語、其發明五帝德。」(史記・舜帝)。「多有發明。」(続紀神護景雲三年十月二十九日条)。

【年紀】:年数。 「靖侯已來、年紀可推。自唐叔、至靖侯五世、無其年数。」(史記·晉世家)。

【夐(ケイ)】:「はるかに」と訳した。「夐、遠也」(廣韻)。「表示差別程度大<違いが大きいことを示す>」(漢典)

 

 

「原文」9

自此之外、更有帝王系圖、

<天孫之後、悉為帝王。而此書云「或到新羅高麗為國王、或在民間為帝王者」。

因茲延暦年中、下符諸國、令焚之而今猶在民間也。>

諸民雜姓記、

<或以甲後為乙胤、或以乙胤為甲後。如此之誤徃徃而在。苟以曲見、或無識之人也。>

諸蕃雜姓記。

<田邊吏、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣等祖思須美、和德兩人、大鷦鷯天皇御宇之時、自百濟國化來而言、己等祖是貴國將軍上野公竹合也者。天皇矜憐、混彼族訖。而此書云諸蕃人也。如此[]類而世也。>

 

「訳文」※本文が少ないので、注と分けます。

(本文の部分)

これより外に、更に帝王系図、諸民雜姓記、諸蕃雜姓記あり。

(注の部分)

<(帝王系図は)天孫の後は悉く帝王となす。そして、この書は「あるいは新羅、高麗、に到って国王になり、あるいは民間にて帝王になりたる者あり」と言う。

これにより、延暦年中、符(太政官符)を諸国に下し、これを焼かしめるも今なお民間にあるなり。>

<(諸民雜姓記は)あるものは甲の後をもって乙の胤となし、あるものは乙の胤をもって甲の後となす。かくの如きの誤り、往々にしてあり。いやしくも曲見(キョッケン)をもってすれば、無識の人を惑わすなり。>

<(諸蕃雜姓記は)田邊吏、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣等の祖の思須美、和德の両人は、大鷦鷯天皇(仁徳)の御世の時、百済国より帰化のために来て、おのれらが祖は、これ貴国の將軍上野公竹合なりという。天皇あわれみ、彼の族に混入させておわる。しかるにこの書には諸蕃人というなり。かくの如くの書が、類をけがして世にあり。>

 

「語注」

【帝王系圖】:不詳。『本朝書籍目録』に「帝王系圖 十巻」とあるが「神武以降至白河院、記代々君臣事」ともあるので、同名だが別本。ただし、『日本後紀』に「勅。倭漢惣歴帝譜圖。天御中主尊標爲始祖。至如魯王。呉王。高麗王。漢高祖命等。接其後裔。倭漢雜糅。敢垢天宗。愚民迷執。輙謂實録。宜諸司官人等所藏皆進。若有挾情隱匿。乖旨不進者。事覺之日。必處重科」(大同四年二月条)。

民間為帝王者】:上記の漢の高祖を言うか。

【諸民雜姓記、諸蕃雜姓記】:『本朝書籍目録』にもなく不詳。

【曲見(キョッケン)】:素直に見ないで、曲げて見ること。

【或(ワク)】:まどわす。まどう。「或;與惑通。<惑(ワク)と通じる(惑に当てて使用される)>」(康煕字典)。

【延暦年中・・・】:『日本後紀』の大同四年二月条に同じ様なことがあるが(上掲)、延暦年中は不詳。

【田邊吏、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣】:『新撰姓氏録』に「豊城入彦命五世孫多奇波世君之後也。大泊瀬幼武天皇[謚雄略]御世。努賀君男百尊。為阿女産向聟家犯夜而帰。於応神天皇御陵辺。逢騎馬人相共話語。換馬而別。明日看所換馬。是土馬也。因負姓陵辺君。百尊男徳尊。孫斯羅。謚皇極御世。賜河内山下田。以解文書。為田辺史。宝字称徳孝謙皇帝天平勝宝二年。改賜上毛野公。今上弘仁元年。改賜朝臣姓」(左京皇別下・上毛野朝臣)。『続日本紀』に「近衛將監從五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東國六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之。豊城入彦命五世孫多奇波世君之後也」(延暦十年四月条)。

和德】:『続日本紀』に「和徳史龍麻呂等卅八人。賜姓大縣史」(神亀二年六月条)。 『新撰姓氏録』に「百済国人和徳之後也」(右京諸蕃下。大縣史)。

【上野公竹合】:「上毛野君祖竹葉瀬」(仁徳紀五三年五月条)。

】:「觸;汚也」(增韻)。

類而世也】:「訳文」では「世也」を「在世」と置き換えて読んだ。

 

 

「原文」10

新撰姓氏目録者<柏原天皇御宇之時、若狹國人[]新本系事。[][]諸國獻本系、撰此書。而彼主當人等、未辨真偽、抄集誤書、施之民間。加以引神胤為上、推皇裔為方。尊卑雜亂、無由取信。伹正書目録、今在太政官。今此書者、所謂書之外。恣申新意歟。故雖迎禁[]駟、不及耳也。>

  如此之書、觸類而夥夥、多也。>

踳駮舊説、眩曜人看<踳駮、差雜貌。>

或以馬為牛、或以羊為犬。

輙假有識之號、以為述者之名<謂借古人及當代人之名。>

即知官書之外。

 

「訳文」

新撰姓氏目録は、<柏原天皇(桓武)の御世の時、若狹国の人、新本系の事を申す。これにより諸国に命じて本系をたてまつらせ、この書を撰ぶ。しかし、彼のつかさどる当人らは、未だ真偽をわきまえず、誤書を抄集し、これを民間に施す。くわえてもって神胤を引きて上となし、皇裔を推して方(かた)となす。尊卑雑乱し、信を取るによしなし。ただ正書の目録のみ、今、太政官にある。今、この書は、書の外と言われる。ほしいままに新意を申したか。ゆえに、禁中に四頭だての馬車で迎えられようとも、耳に及ばずなり(意見を曲げない)。>

  <かくの如きの書は、類をけがして、多い。 「夥」は「多い」なり。」>

旧説をまぜあわせ、人の見る目をまどわす。

<「踳駮(シュンパク)」とは「差が入り混じるさま」>

ある者は馬をもって牛となし、ある者は羊をもって犬と為す。

たやすく有識者の号をかりて、もって述べる者の名と為す。

<古人及び当代の人の名を借りることを言う。>

即ち(新撰姓氏目録は)官書の外と知る。

 

「語注」

【新撰姓氏目録者】:注の文から『新撰姓氏録』の「目録」部分と考えられる。

但し、「抄集誤書、施之民間」とあるように、この「新撰姓氏目録」は単なる別添の「目録」でなく、民間頒布用に、「完本(三十巻本)」から「抄集」された情報を含んで、単独に『新撰姓氏目録』として成書されたものであろう。

また語末の「者」は、文末の助字としては不都合であり、主語を指し示す助字であろう。

【若狹國人】:不明。

【申新本系事】:底本は「中新本系事」だが、国史大系の校合の「申」に従う。

【因茲令諸國・・・】:底本は「同茲今諸国・・・」だが、これでは意味不明。よって「同」を「因」に、「今」を「令」にあてる。

【彼主當人等】:担当者を名指していないが、恐らく新撰姓氏録の上表文に署名した萬多親王以下6名であろう。

【迎禁中駟】:底本は「迎禁駟」だが、「中」を補い「迎禁中駟」とした。

【駟(シ)】:四頭だての馬車。「四馬一乗也。」《玉篇》。

【※如此之書、觸類而夥。】:この語句は、本文前句とのつながりが悪い。これに似た文言が上文にもあり重複竄入か。もしくは小書きの注が大書きの本文に紛れ込んだか。「訳文」では注として暫定的に読む。

【夥(カ)】:「をほきなり」(倭玉編)。

【多】:「をほし」(倭玉編)。

【踳駮(シュンパク)】:「踳駮、色雜不同。」《玉篇》。

【眩曜(ゲンヨウ)】:「惑乱貌。」《楚辞注》。

【看】:「視也」《博雅》。

【或以馬為牛・・・以為述者之名。】:「新撰姓氏録」の中の各氏族の小伝(家伝類)を言うか。

【輙】:「もっぱら。たやすし。」(倭玉編)。

 

 

「補足」『新撰姓氏録』について

『新撰姓氏録』は、『日本紀略』に「先是、中務卿四品万多親王、右大臣従二位藤原朝臣園人等、奉勅撰姓氏録。至是而成」(弘仁五年六月条)とありますが、修正が加えられ、再度、上表文の日付の弘仁六年七月廿日に提出されたと言います。

しかし、「弘仁私記」の序文に「今此書者、所謂書之外」と言われるように、編纂された当時、頗る評判が悪かったらしく、数年後に、

勘本系使中務卿万多親王、中納言藤原朝臣緒嗣等奏曰、云々。伏據舊記(旧記)、判定訛謬(まちがい)者。許之。」(『日本紀略』「弘仁十年四月条」)

と、再度修正がなされた。この「弘仁十年」より修正されたものが、今、我々が見る『新撰姓氏録』の元であろうと思います(弘仁私記序文の著作当時とは異なる。)。

現存する『新撰姓氏録』(抄本)の写本は、延文年間系と建武年間系の二系統に分かれると言いますが、その建武系写本には、「新撰姓氏録序文」の首題の下に小書きされた下記の注があります。

此者第一巻之序也。不載於官書目録、而載此巻。

  又抄姓氏録文、注於此巻。是皆為備指掌、私所為也。

「訳文」

これ(新撰姓氏録序文)は、(三十巻本の)第一巻(に記載)の序なり。

「官書目録」(民間配布用「新撰姓氏録目録」)には載っていないので、

(手元の)この巻(「官書目録」)に載せる(書き入れる)。

また(三十巻本の)姓氏録の文(出自以外の伝承部分)を抄出してこの巻に書き入れる。これは皆、指掌に備えんが為(分かりやすくするため)で、私的になすところなり。

これは、当時の三十巻本の『新撰姓氏録』には、「官書目録(『新撰姓氏録目録』)」と異なり、出自以外の各氏族の小伝(家伝類)が含まれていたことを示すものでしょう。

*(当時の三十巻本『新撰姓氏録』は不明)

 

 

「原文」11

多穿鑿之人。是以官禁而令焚人惡、而不愛。

今猶遺漏、遍在民間。

多偽少真、無由刊謬。

是則不讀舊記<日本書[]、古事記、諸[]等之類>、

無置師資之所致也[播土]為師、弟子為資>。

 

「訳文」

(世に)こじつける人は多い。これをもって、官は禁止し、人悪を焼かせて惜しまず。

(しかし)今なお遺漏し、あまねく民間にある。

(それらは)偽が多く、真は少なく、誤りを正すによしなし(根拠にならない)。

これ則ち、旧記を読ませず<(旧記とは)日本書紀、古事記、諸氏等の類>、

(国史の)師や弟子を置かないことの結果なり<土に(タネを)まく人は、師であり、弟子は資(宝)である>。

 

「語注」

【穿鑿(センサク)】:こじつけ。「皆為穿鑿、失爾雅訓也。」(顔氏家訓)。

【官禁而令焚人惡】:前文の「延暦年中、下符諸國、令焚之」を指すか。

【刊謬(カンビュウ)】:学研漢和大辞典に「書物の誤りをけずってなおす。」。

【日本書紀】:底本は「日本書記」だが、早稲田大学蔵本に従う。

【諸氏】:底本は「諸民」だが、早稲田大学蔵本に従う。「諸氏」が何を指すか不詳だが、延暦年間の「新諸氏本系」ではなく、後文の「天平勝寶之前、毎一代使天下諸民各獻本系、永藏秘府」の「旧諸氏本系」類を指すか。

【師資】:「師弟」(和漢音釈書言字考節用集・人倫)。出典は『老子』の「故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。」(善行無轍迹章第二十七)。

【播土】:底本は「幡士」(はたおとこ?)だが、これでは文意に合わない。よって「播土」に置き換えた。「播」は「種也」(説文)。「其始播百穀。」(詩経)。

 

「補足」令制の学制について

律令制の「学令」には元々「史学」はなく、

「経学」(四書五経など)や「書学」(書写)、「算学」(算術・天文・暦)のみで、「史学(中国史)」が置かれるのは、

天平宝字元年757十一月」の勅によります。

勅曰・・・其須講、

經生者三經。

“傳生者三史”(中国史)。

醫生者、大素、甲乙、脉經、本草、針生者、素問、針經、明堂、脉决。

天文生者、天官書、漢晋天文志、三色薄讃、韓楊要集。

陰陽生者、周易、新撰陰陽書、黄帝金匱、五行大義。

暦算生者、漢晋律暦志、大衍暦議、九章、六章、周髀、定天論。

 

最終的に延喜式では、

凡応講説者。

禮記、左伝(大経)、各限七百七十日。

周禮、儀禮、毛詩(中経)、律、各四百八十日。

周易(小経)、三百一十日。

尚書(小経)、論語(必修)、令、各二百日。

孝経(必修)六十日。

“三史”(中国史)、文選、各准大経。

公羊、穀梁、孫子、五曹、九章、六章、綴術、各准小経。

三開、重差、周髀共准小経。

海嶋、九司亦共准小経。

となりましたが、

国史の学科が置かれることは、ついぞありません。

 

 

「原文」12

凡厥天平勝寶之前<感神天皇號也。世號法師天皇>、

毎一代使天下諸氏各獻本系<謂譜[]為本系也>。

永藏秘府、不得輙出。

今存圖書寮者是也。

<雄朝妻稚子宿禰天皇御宇之時、姓氏紛謬、尊卑難決。因坐[甘樫]丘、令探湯、定真偽。今大和國高市郡有釜是也。後世帝王見彼覆車、毎世[]獻本系、藏圖書寮也。>

 

「訳文」

およそ、その天平勝寶の前は<(天平勝宝は)感神天皇(聖武天皇)の年号なり。世に(聖武天皇を)法師天皇と号す>、

一代ごとに、天下諸氏に各の本系を献上させた<譜牒を本系と言うなり>。

永く官の書庫におさめて、たやすく出すことは出来ない。

今、図書寮に存するものがこれなり。

<雄朝妻稚子宿禰天皇(允恭)の御世の時、姓氏紛謬(フンビュウ)し、尊卑決め難し。よって甘樫丘に坐して、探湯(くかたち)を命じ、真偽を定める。今、大和国高市郡にある釜は是なり。後世の帝王は彼の覆車(フクシャ)を見て、世ごと(一代ごと)に本系をたてまつることを命じ、図書寮におさめるなり。>

 

「語注」

天平勝寶之前】:「天平勝宝」は孝謙天皇の年号で、その前は「天平」で聖武天皇の年号。

感神天皇号桓武天皇の号。続日本紀に「勝宝感神聖武天皇(追号)」。

【世號法師天皇】:『続日本紀』に「三寳〈乃〉奴(やっこ)〈止〉仕奉〈流〉天皇・・・」(天平勝宝元年四月の宣命)。同じく「是日。勅曰。太上天皇(聖武)出家歸佛。」(天平勝宝八歳五月十九日条)

【譜牒(フチョウ)】:底本は「譜講」だが、国史大系の頭注校勘、校合を参考に「講」を「牒」に置き換える。『古事類苑』の姓名部に「譜牒に纂記、系図、譜図、氏文、門文、本家帳等あり」という。

秘府】:「おもに、宮中の書庫」(「学研漢和大字典」)。

雄朝妻稚子宿禰天皇】:允恭天皇。日本書紀に「雄朝津間稚子宿禰天皇」。古事記に「男淺津間若子宿禰命」。

紛謬】:学研漢和に、「紛(フン)」は「まぎれる」、「謬(ビュウ)」は「あやまり」。 允恭紀四年九月の条に「詔曰。羣卿百寮及諸國造等皆各言。或帝皇之裔。或異之天降。然三才顯分以來。多歴萬歳。是以一氏蕃息。更爲萬姓。難知其實。故諸氏姓人等。沐浴齋戒各爲盟神探湯。則於味橿丘之辭禍戸[]。坐探湯瓮、而引諸人、令赴曰。得實則全。僞者必害。<盟神探湯。此云區訶陀智。或泥納釜、煮沸、攘手探湯泥。或燒斧火色、置于掌。>。於是諸人各著木綿手繦、而赴釜、探湯。則得實者自全。不得實者皆傷。是以故詐者愕然之。豫退無進。自是之後。氏姓自定。更無詐人。」

甘樫】:底本は「月櫓」だが、国史大系の頭注校勘文に従う。

大和國高市郡有釜是也】:この文は、前文の「今存圖書寮者是也」と比べると、漢文の乱れがあるか。

覆車(フクシャ)】:「他の失敗を自分の教訓とすることのたとえ」(「学研漢和大字典」)。ここでは「釜」を見ること。出典:「前車覆、後車戒。」(漢書・賈誼)。

 

 

「補足」弘仁私記序の図書類について

弘仁私記序にあげられる図書類を序文著者の評価で分類すると、次のようになります。

 

□信頼出来る図書

『日本書紀』官書。弘仁三年当時まで未公開。

編纂者: 舍人親王。太朝臣安麻呂

編纂年:養老四年

評価:神胤、皇裔が明らかで、多聞も備える書。

 

『古事記』官書。弘仁三年当時まで未公開。

編纂者:天武天皇(編纂)。稗田阿禮(口伝)。太朝臣安麻呂(選録)

編纂年:和銅五年

評価:旧事の書。日本書紀の先行史書。

 

神別紀十卷』民間書。

編纂者:不詳

編纂年:不詳

評価:神事の重要根拠の書。

序文の各人物の出自(天神。天孫の類別)もこれによるか。

 

旧進本系』官書。未公開(永蔵秘府)

編纂者:聖武天皇以前の歴代の天皇が各氏族に献上させる。

編纂年:不詳

評価:桓武天皇の延暦十八年の「新進本系」よりも評価が高い書。

 

□信頼できない図書

帝王系図』民間書。

編纂者:不詳

編纂年:不詳

評価:官禁の書(焚書の対象)であったが、世に残りはびこる。

 

諸民雜姓記』民間書。

編纂者:不詳

編纂年:不詳

評価:世人を惑わす書。

 

諸蕃雜姓記』民間書。

編纂者:不詳

編纂年:不詳

評価:類(系譜)を穢す書。

 

新撰姓氏録』官書。抄録の「新撰姓氏目録」のみ公開か。

編纂者:萬多親王以下六名。

編纂年:弘仁五年(初)。弘仁六年(補訂)。

評価:官書の外(官書にあるまじき書)。

 

 

「原文」13

冷然聖主、弘仁四年在祚之日<天智天皇之後、柏原天王之王子也>、

愍舊説將滅本紀合訛、

詔刑部少輔從五位下多朝臣人長<祖禰見上> 使講日本紀。

 

「訳文」

冷然聖主は弘仁四年の吉日に<天智天皇の後、柏原天王(桓武天皇)の王子なり>、

旧説がまさに消滅し、(将来的に)本紀が偽りと同化することをいたみ、

刑部少輔從五位下多朝臣人長に<(人長の)先祖のことは上文を見よ>、日本紀を講義させることを命じた。

 

「語注」

【冷然聖主】:嵯峨天皇。「冷然院」の場所は大内裏の東側と言われ、弘仁七年八月に「幸冷然院。命文人賦詩。賜侍臣禄有差。」(『類聚国史』「天皇行幸(下)」)とある。後に同所は「冷泉院」と名称が変更されたと言う。また「嵯峨院」も同年二月に「幸嵯峨別館。」とあり、両院を離宮としていたことがうかがえる。 「聖主」は、天皇の別号。続日本紀に「方今聖主照臨。」(延暦十年正月条)。 また古事類苑「帝号」で所収する『簾中抄(れんちゅうしょう)』「帝王」に、「天子、皇帝、主上、天皇、陛下、至尊、聖朝、聖上、聖主、聖皇、国家、朝廷、一人、明朝、聖代」と載る。よって、「冷然聖主」とは嵯峨天皇の天皇在位時(弘仁七年から)の号であろう。または「今上聖主」の誤記か。俗説では「弘仁十四年四月甲午、帝遷于冷然院」(『類聚国史』「太上天皇」)の記事をもって退位後の号と言うが、退位後の号は「嵯峨太上天皇覽之。」(『続日本後紀』承和五年十二月)や「日本後紀」の各巻の首題に「太上天皇<嵯峨>」とあるように「太上天皇」である。死後は、続日本後紀に「嵯峨院者先太上天皇光臨之地」と言われるように「嵯峨」である。「冷然」の号は、退位後でも、死後でもないであろう。

【弘仁四年】:弘仁四年(813)は実際の「始講」年。『日本後紀』の「是日。始令參議從四位下紀朝臣廣濱。陰陽頭正五位下阿倍朝臣眞勝等十餘人讀日本紀。散位從五位下多朝臣人長執講。」(弘仁三年(812)六月条)は、「始令」とあるように講書会の「計画年」を記すものと思われるので、そのように訳した。

【在祚之日】:「在」は介詞(前置詞)として日本語助詞の「に」を当て、「祚之日」の「祚(ソ)」は「福」や「帝位」を示すが、前者をとって「福日(吉日)」と解釈した。

【愍(ビン)】:「痛也」(説文)。「悲也。憐也。」(廣韻)。

【本紀】:『日本紀』(日本書紀)をさすか。

【合】:あわさる。同じになる(同化)。「同也。」(玉篇)。

【訛(カ)】:あやまり。「與譌同。僞也。謬也。舛也。」(玉篇)。

【刑部少輔從五位下多朝臣人長】弘仁三年時点(日本後紀)では散位だが、講書会が始まる弘仁四年二月以降に刑部少輔に補任されたか。現存する「日本後紀」は「弘仁四年二月」から「弘仁五年七月」の間が欠落し、今のところ確認のすべはない。「刑部少輔」は定員一名で、相当位は人長の位階と同じ從五位下である。

【祖禰見上】祖廟と父廟で先祖を言う。「上」とは太朝臣安麻呂のところ。

 

[補足] 弘仁三年と四年について

養老講書を除く六度の講書関連記事を「六国史」や『新国史』、『日本紀略』から下記に列記します。

 

①「弘仁の講書」

『日本後紀』弘仁三年812六月戊子《二》(計画)

是日、始令參議從四位下紀朝臣廣濱、陰陽頭正五位下阿倍朝臣眞勝等十餘人讀日本紀、散位從五位下多朝臣人長執講。

 

②「承和の講書」

『続日本後紀』承和十年(843)六月戊午朔(実施)

令知古事者散位正六位上菅野朝臣高年、於内史局、始讀日本紀。

 

③「元慶」の講書

『三代実録』元慶二年(878)二月廿五日辛卯(実施)

宜陽殿東廂、令従五位下行助教善淵朝臣愛成、始読日本紀従五位下行大外記嶋田朝臣良臣為都講。右大臣已下参議已上、聴受其説。

 

④「延喜の講書」

『新国史』逸文延喜四年(904)八月廿一日壬子。(実施)

是日、宜陽殿東廂、令初講日本紀也。(釈日本紀所引)

 

⑤「承平の講書」

『日本紀略』承平六年(936)十二月八日壬辰(実施)

宜陽殿東廂、講日本紀。

 

⑥「康保の講書」

1)『日本紀略』康保元年(964)二月廿五日壬申(計画)
今日、敕定散位正五位下橘仲遠講日本紀。

又尚復、學生、仰紀傳明經道可令差進之由、仰大學寮。
2)『日本紀略』同年三月九日乙酉(日時が決定しても実施されず。)

陰陽寮勘申。可講日本紀之日時、來月廿日乙丑、同廿八日癸酉。

又大學寮差進尚復生二人、明經十市致明。

3『日本紀略』康保二年(965)八月十三日庚戌(実施)

宜陽殿東庇、始講日本紀。以橘仲遠為博士。

 

上記から弘仁講書を除く五度の講書記事は、「始讀」、「令初講」、「講」、「始講」と書き、具体的な場所を「内史局」や「宜陽殿」と明記しています。ここから弘仁三年の「始令」の文言を使い、場所を明記しない記事は、計画段階のものと思えます。実施は弘仁私記序が、場所を明記して言う弘仁四年かもしれません。

計画から実施まで一年を要した例は、「弘仁の講書」の他に、最後の「康保の講書」があります。上記には、その過程((1)~(3))が残されていますが、弘仁講書がなぜ一年順延(仮定)したかは不詳ですが、『日本後紀』で弘仁三年六月二日以降の記事を見ますと、

同年六月四日:「賑給京中飢民。」

同月十六日:京中米貴。出官倉米、以減價、糶貧民。」

同月廿六日:「勅。甘澤不降。・・・所冀神靈垂祐、早致嘉雨。宜走幣畿内、祈於名神。」

同年七月一日:「勅。頃者疫旱並行、生民未安。・・・除此災禍。宜走幣於天下名神。」

同月二日:「御大極殿。奉幣於伊勢大神宮。爲救疫旱也。」

疫旱並行」とあるように疫病と旱害(カンガイ)の記事が載り、それが「宜走幣畿内、祈於名神」から「宜走幣於天下名神。」(天下の名神に幣を走らせるべし)と、畿内から全国へと拡大した様です。これが弘仁四年になると疫旱(エッカン)の記事は殆どなくなり、次の記事が載ります。

奉幣於名神、報豊稔也。」(日本紀略・弘仁四年十月条)

どうやら弘仁三年の末には疫旱も一応終息したようです。これら社会状況が影響したのかもしれません。

 

 

「原文」14

即、課大外記正六位上大春日朝臣穎雄、

<王子。[]帯彦國押人命之後。從五位下魚成第一男。>

民部少丞正六位上藤原朝臣菊池麻呂、

<天孫。天兒[]命之後。從五位下是人第四男也。>

兵部少丞正六位上安倍朝臣藏繼、

[王子]。大彦命之後。從四位下弟者第二男也。>

文章生從八位上滋野朝臣貞主、

<天孫。[]魂命之後。從五位上家譯第一男。>

無位嶋田臣清田、

<王子。神八井耳命之後。正六位上村田第一男。>

無位美努連清庭等、受業。

<天神。角凝[]命之後。正六位上友依第三男也。>

 

「訳文」

則ち、(※6名の官位、氏名、注を省略)らに業を受けることを課す。

6名の官位についての詳細は[補足]に記す。

 

「語注」

【課・・・受業】:ここに記される大春日朝臣穎雄以下六名は、後の「尚復学生」と言われるメンバーであろう。上文の「師資」の「資」で、「業」を授かる弟子にあたる。後に「召人」(類聚符宣抄・講書)と言われる「聴衆メンバー」の紀朝臣廣濱等(日本後紀弘仁三年記事)と異なる。

【大外記】:『令義解』の職員令に「(太政官)大外記二人。掌勘詔奏。及読申公文。勘署文案。検出出稽失」。官職秘抄に「大外記:往年多以文章生任之」。職原抄に「大政官中有三局。左右辨官、外記是也」。続日本紀に「太政官奏稱。外記之官。職務繁多・・・大外記二人、元正七位上官、今爲正六位上官。少外記二人、元從七位上官、今爲正七位上官。」(延暦二年五月十一日条)

【王子】:『新撰姓氏録』の「皇別」に相当する。その序に「天皇皇子派、謂之皇別」。

【天帯彦國押人命】:底本に「大足彦國押人命」とあるが、国史大系頭註校勘に従い「大」を「天」に置き換える。『日本書記に「天足彦國押人命」(孝昭天皇の長男)。『古事記』に「天押帯日子命」。

民部少丞】:定員二人。相当位は従六位上。

天孫】:『新撰姓氏録では、神別を「天神」、「天孫」、「地祇」に区分し、天兒屋命は「天神」に分類され、ここと異なる。上文に「世有神別記十卷。<天神天孫之事、具在此書>」とあるが、この分類項目によるか。

天兒屋命】:底本は「天兒命」。国史大系頭註校勘に従い「屋」を補う。

【兵部少丞】:定員二人。相当位は従六位上。

【王子。大彦命】:底本は「正二」だが、ここの分類から「王子」に置き換える。「大彦命」は『日本書紀』に同じ。孝元天皇の長男。『古事記』は「大毘古命」。

【文章生(もんじょうしょう)】:虎尾俊哉著『延喜式(中)』(集英社)補注に「漢文学、中国史など文章科(紀伝道)を学ぶ学生」。選抜過程は、学生→擬文章生→文章生→得業生。

【天孫。神魂命之後】:『新撰姓氏録』では「天神」に分類される。また底本は「魂命」だが、『新撰姓氏録』の「滋野宿禰:神魂命五世孫天道命之後」を参考に「神」を補う。

【神八井耳命】:『日本書紀』に同じ。神武天皇の子で、綏靖天皇の兄。

【角凝魂命】:底本は「角凝命」だが、『新撰姓氏録』の「美努連:同神(角凝魂命)四世孫天湯川田奈命之後」を参考に「魂」を補う(雄儀連と鳥取の祖に角凝命あり)。「記紀」に記載無く、「延喜神名式」に「出雲国神門郡・神魂子角魂神社」とある。

「追加語注」

【大春日朝臣】:同系統に、大春日朝臣眞野麻呂がおり、「眞野麻呂暦術獨歩。能襲祖業。相傳此道。于今五世也。」(文徳実録天安元年正月条)と言われる。

【藤原朝臣菊池麻呂】:『尊卑分脈に「菊地麿<「従五位上。治部大輔(最終官位)>」。

【從五位下是人】:菊地麿の父として『尊卑分脈』(国史大系本)には「許人麿<正五位下。右少弁>」とある。この頭注に脇坂氏本は「許作麿」に作り、前田家所蔵本、内閣文庫本は「許麿」に作るという。この弟に「是公」がいる。また「許人麿」としては「六国史」に登場しない。「是人」から「許人麿」に改名したか。

【安倍朝臣藏繼】:「蔵継」は「倉継」とも書かれる。

【從四位下弟者】:「弟者」は「弟當」の誤写か。「弟當」は『日本後紀』に「散位從四位下安倍朝臣弟當卒。・・・延暦廿年授從四位下。清慎作性。夙夜在公。不過擁門。無事資産、家風也」(大同三年六月条)。

滋野朝臣】:『公卿補任』(国史大系本)に、「(弘仁)十四年正月、與父家譯共賜朝臣姓。」(天長九年条尻付)とあり、これによると「宿禰」から「朝臣」に改姓されたのが弘仁十四年となる。彼は弘仁講書の弟子の中で唯一参議となった出世頭で、本人または後人が、序文の「宿禰」を「朝臣」に修正したか。彼の死亡日時は、公卿補任の仁寿二年条に「十二月十日卒<六十八才>。毒瘡発唇吻(シンプン・くちさき)」と記されるが、『日本文徳実録』の卒伝には「仁寿二年二月八日卒」とあり、『公卿補任』と『日本文徳実録』の日時が異なる。

正六位上村田】:嶋田臣清田の卒伝に「清田者。正六位上村作之子也・・・弘仁十四年改臣姓爲朝臣。」とあり、「村田」が「村作」に書かれる。「清田」の名が、親の一字を受けたものとすれば「村田」が正しいか。

美努(みぬ)連清庭:『類聚国史』「祥瑞上・雲」条に、「左大史正六位上御野宿祢清庭等」(天長三年(826)十二月条)とあるが、「美努連清庭」と「御野宿祢清庭」は、「カバネ」が異なるが同一人物か否か。

 

※参考;「美努岡萬連墓誌」

我祖美努萬岡連飛鳥浄御原天皇御世、甲申年正月十六日、勅賜連姓

藤原宮御宇大行天皇御世、大宝元年歳次辛丑五月、使乎唐国

平城宮治天下大行天皇御世、霊亀二年歳次丙辰正月五日、授従五位下、任主殿

寮頭

神亀五年歳次戊辰十月廿日卒、春秋六十有七

其為人小人事帝、移考為忠、忠簡帝心、能秀臣下、成功廣業、照一代之高栄、陽名顕親、遺千歳之長跡

令聞難盡、餘慶無窮仍作斯文、納置中墓

天平二年歳次庚午十月廿日

 

「補足」六名の官位について

ここで、序文に記載された多人長の弟子相当と思われる六名について、他の史料から弘仁四年開講時と序文撰時と思われる弘仁十年時の官位を推定し、序文記載の官位と照合します。令制以前の尊卑上下は、主に臣、連などの姓(かばね)が負っていたが、令制下では、『古語拾遺』に「至于浄御原朝(天武朝)、改天下万姓・・・不本天降之績。」と言い、『令義解』に「凡位有貴賤、官有高下。階貴則職高、位賤則任下。」と言われ、時の官位が重視されます。

主に使う史料は次の三種です。

.国史:『日本後紀』以降の国史(新訂増補国史大系本)

ここには、叙位叙任記事が克明に記述されます(主に五位以上)。

但し、完本は残っておらず、また史書は主に一次情報の記録文書(行政文書や日記類)から情報を抄出し、編集した二次情報と言えましょう。

.類聚書:『類聚国史(職官部・叙位)』(新訂増補国史大系本)

これは国史から情報を抄出し、編集した三次情報と言えますが、現存する国史に欠巻が多いため、その穴埋め史料として重要です。しかし必ずしも国史どおりではなく省略もあります。尚、同じく国史から情報を抄出したものに『日本紀略』がありますが、叙位叙任に関しては「授位任官云々」などと記されるだけで、その具体的記述は省略されています。

.記録的文書:『類聚符宣抄』『公卿補任』(新訂増補国史大系本)。『外記補任』(続群書類従本)

これらは国史と同じ一次情報の記録文書から抄出した二次情報と言えますが、比較的に国史より編集加工の度合いが少ない情報と言えましょう。

『類聚符宣抄』は太政官符や宣旨類の控えから抄出し類聚したと言われます。(参考:国史大系書目解題)

『公卿補任』の情報源は、蔵人によって毎年作成された「補略(ぶりゃく)」であろうと言われ、そこに初めて記載される時には、当人の略歴(この部分は尻付とよばれるとか)が記載されます。(参考:国史大系書目解題)

『外記補任』は太政官の大少外記の補任記録です。弘仁年間の部分はなぜか省略が多く不完全の様です(参考:群書解題)。

注意事項

現存する史料はどれも写本です。写本は一点物であり、権威ある書と雖も細部は伝写の間に百本百様となり、等しく校合、校勘の対象と言えましょう。また叙位記事は主に五位以上ですが、「位」を授けられる時には「元の位階」も書かれますのでそれを頼りとします。

 

大外記正六位上大春日朝臣穎雄

□弘仁四年当時の推定官職;少外記(序文と不合)

『外記補任』に記載為し。

『類聚符宣抄』の弘仁四年九月一日の請印事の条と弘仁五年二月十五日の行幸条に「少外記大春日朝臣穎雄」の署名あり。よって、弘仁四年年当時の官職は少外記と推定。

□弘仁十年当時の推定官位;大外記正六位上(序文と合か)

『外記補任』に記載為し。

『類聚国史』「叙位」の「弘仁十三年正月」条に「「正六位上・・・、正六位下紀朝臣深江、大春日朝臣穎雄・・・従五位下。」とあり、弘仁十年当時は「正六位下」と推定され、序文と異なる。しかし、同時代性のある一次情報的「私記序文」を優先させれば、この記事は「正六位上・・・大春日朝臣穎雄、正六位下紀朝臣深江・・・従五位下。」と修正すべきかと考えられ、弘仁十年当時の位階は正六位上と推定でき、「大外記」相当位となる。

『外記補任』によれば、弘仁十年に於いて、大外記では外従五位下船湊守の一人であるが、彼は九月四日に石見守に遷っており(同書)、このままでは大外記は不在と成る。定員二名の少外記では、『類聚符宣抄』に、高丘宿禰潔門(九月七日)と宮原宿禰村継(六月十九日)の二名の署名があり、既に定員を満たす。

よって、弘仁十年当時の官位は大外記正六位上と推定。

 

民部少丞正六位上藤原朝臣菊池麻呂

□弘仁四年当時の推定官位;民部少丞正六位上(序文と合)

他の史料に記載為し。

□弘仁十年当時の推定位階;従五位下か。(序文と不合か)

彼の最終官位は「従五位上。治部大輔」(尊卑分脈)。

 

兵部少丞正六位上安倍朝臣藏繼(倉継)

  弘仁四年当時の推定官位;兵部少丞正六位上(序文と合)

他の史料に記載無し。

  弘仁十年当時の推定位階;従五位下(序文と不合)

『類聚国史』「叙位」の(弘仁十年正月条に「正六位上・・・安倍朝臣倉継・・・従五位下」。

よって、従五位下と推定。

 

文章生從八位上滋野朝臣貞主

□弘仁四年当時の推定官位;文章生從八位上(序文と合か)

『日本文徳実録』の彼の卒伝(仁寿二年二月)に「大同二年奉文章生試及第。弘仁二年爲少内記。六年轉爲大内記。」とある。しかし、『公卿補任』天長九年条の貞主の略歴(尻付)に「「大同三年奉文章生試及第。弘仁二<五>年二月少内記。同六年正月、転大内記。同八年正月、蔵人<文書生>。六月大内記<二所如元>」とあり、弘仁二年の「二」に「五」と注が傍記される。記載内容が『日本文徳実録』、『公卿補任』、「私記序文」とそれぞれ異なる。よって、同時代性のある「私記序文」を優先させれば、序文通りの文章生從八位上と推定。

□弘仁十年当時の推定位階;正六位下(序文と不合)

『日本文徳実録』の彼の卒伝(仁寿二年二月)に「(弘仁)十一年、授外從五位下。兼爲因幡介」。

『類聚国史』「叙位」の(弘仁)十一年正月条に「正六位下・・・滋野宿祢貞主・・・外従五位下。」とある。

『公卿補任』の尻付も「同十一(年)正(月)七(日)外從五位下」とある。

よって、正六位下と推定。

 

無位嶋田臣清田

□弘仁四年当時の推定位階;無位(序文と合)

他の史料に記載無し

□弘仁十年当時の推定官位;少外記正七位上(序文と不合)

『日本後紀』の序に「後太上天皇(淳和)、詔副左近衛大将従三位兼守権大納言行民部卿清原真人夏野・・・従五位下行大外記島田朝臣清田等、続令修緝。」(『類聚国史』国史)と載る。

『外記補任』天長元年(天長元年は弘仁十五年正月五日改元)条に「少外記島田清田<月任(兼か)内蔵属。文章生。>」と載る。

よって、少外記で正七位上(少外記相当位)と推定。

 

無位美努連清庭

□弘仁四年年当時の推定位階;無位(序文と合)

他の史料に記載無し。

□弘仁十年当時の推定官位;従七位(守)左少史(序文と不合)

『東寶記』「第七・僧寶」所収の弘仁十四年十月十日官符に「従七位(守)左少史美努連清庭」とあるという。(太田昌二郎『上代に於ける日本書紀講究』「本邦史学史論叢・上巻」(P382)昭和14年)。

よって従七位(守)左少史と推定。

『東寶記』()杲寶著述(第1-3:佛寶、 第4-6:法寶、第7-8:僧寶)。

京都教王護国寺(東寺)寺誌。東寺所蔵本は国宝。

「続々群書類従・第十二宗教部」(P138にも次のように所収される。

太政官符治部省

真言宗伍拾人

右被右大臣宣称奉勅、件宗僧等、自今以後令住東寺、(中略)

莫令他宗僧雑住者。省宜承知。依宣行之、立為恒例、符到奉行。

参議従四位下守右大辨勳六等伴宿禰国道

従七位守左少史美努連清庭

弘仁十四年十月十日

(『東寶記』第七<僧寶上>)

「伴宿禰国道」については、『公卿補任』の弘仁十四年の尻付記事に「従四位下大伴宿禰国道<五十六><五月十四日任。即兼右大辨。勳六等(五十六歳)。>」とあり、一致する。

 

官位からの「弘仁私記序」の著者の推定

上記より、弘仁四年当時の推定官位は、大春日穎雄を除けば序文の官位と全て合うと推認でき、私記序文の著作時と思われる弘仁十年時では、大春日穎雄を除いて全て合いません。よって、著作時(弘仁十年当時)の官位を書いている者が「弘仁私記序」の著者と推認でき、それは弟子の筆頭に書かれる大春日穎雄と言えるでしょう。

 

 

「原文」15

就外記曹局而開講席。

一周之後、卷袟既竟<一[]為周>。

其第一、第二両卷義縁神代、語多古質<世質民淳。言詞異今>。

授受之人動易訛謬<訛、化也>。

故以倭音辨詞語、以丹點明軽重。

凡抄三十卷、勒為三卷。

 

「訳文」

外記曹局について講席を開く

一周の後に、(チツ)を巻き、全て終わる<一年は周なり>。

その第一、第二の二つの巻の義は、神代のことにつき、語に古質が多い。

<世は純朴で、民は情に篤い。ことばは今と異なる。>

授受の人は、動(やや)もすれば間違いやすい<訛は化なり>。

ゆえに、倭音(仮名)をもって漢語語義を分別し(振り仮名を付けること)

丹点をもって漢字の声調(四声)を明らかにした。

およそ三十巻(日本書紀)より抜き出し、三巻(三巻私記)にまとめる。

 

「語注」

【外記曹局】:外記局の曹司(役所)。「太政官中有三局。左右弁官、外記是也。」(職原抄)。

【一周】:注にあるように、ひとめぐり。一年。仏事の一周忌と同様。

【年】:底本は年の本字(他も同じ)。

【袟(チツ)】:(チツ)と同義。「帙、書衣也」(説文)。

【其第一、第二両卷】:『日本書紀』「神代」の上下二巻。

【質】底本傍訓は「スナヲニ」。

【淳(ジュン)】:底本傍訓は「アツウシテ」。「あつい;真心があつい。情が深い。まじめなさま」(学研漢和大字典)。

【訛謬(カビュウ)】:まちがい。

辨(ベン)】:分別する。「『離經、辨志(註)離経;章断・句絶也。辨志;謂別心意・所趣鄕也<離経とは、章断(章を区切ること)と句絶(句を句切りすること)なり。辨志とは、心意と趣向するところを分別することなり>」(禮記・巻十八学記)。※「別;分別也」(玉篇)。「鄕;向也」(釈明)。

【詞語(シゴ)】:漢語の単語。「辨詞語」を「漢語釈義」と解釈した。漢語漢字は、一字多義であり、文によって字義を分別しないといけない。

軽重】:漢語の声調(四声)。漢語は同じ漢字でも声調(四声)によって意味も分かれる。当時の日本人は、この声調の違いを「軽重」と感じたのであろう。※本居宣長の『字音假字用格』を参照。 大野晋氏は「『弘仁私記の序』という文章には、『以倭音弁詞語、以丹点明軽重』とある。丹点とは朱点を意味するものと思われるが、平安時代初期においては白点(胡粉)をもって返点、送り仮名(*)を記すのが一般的であって朱点を用いることは、時代が降って平安中期に至ってからのことである」(岩波書店・日本古典文学大系新装版・『日本書紀(上)』・1993年・P.3637)と言う。しかし、『日本古典籍書誌学事典』(岩波書店・1999年)には、「朱点;平安時代初期から行われたが、当時は朱色が淡く、料紙が黄色または褐色のものが多いこともあって、解読困難な資料が多い。しかし平安時代後期になると、鮮明な朱色を用いることがおおくなり・・」と言う。

 * 大野氏がここの「以倭音弁詞語、以丹点明軽重」を「返点、送り仮名」のこととするのは、

  恐らく誤読であろう。

【勒(ロク)】:まとめる。

 

 

「原文」16

夫自天常立命<倭語云、阿麻乃止己太知乃美己止>、

至畏根命<倭語曰、加之古祢乃美己止>、

八千萬億歳<日本一書有此句、但無史官。渉疑>。

是雖古記、尚。不緊切。<緊、切也>

自伊諾命<天神。是即陽神也。倭語云伊佐奈支乃美己止>、

至彦瀲尊<天孫。彦火火出見命第一男。倭語云比古那支佐乃美己止>、

史官不備、歳次不記。

但、自神倭天皇庚[]

<彦瀲尊第四男。諱狹野尊也。庚[]天皇生年>

[]然聖主弘仁十年、一千五百五十七歳。

御宇五十二帝。

庶、後賢君子留情々、察之。

云爾

 

「訳文」

それ天常立命より

<(天常立命は)倭語に阿麻乃止己太知乃美己止という>

畏根命に至るまで、

<(畏根命は)倭語に加之古祢乃美己止という>

八千萬億歳。<日本の一書にこの句があるが、ただ史官には(この書は)ない。(この句は)疑わしい>。

この句は、古記といえども、(時は)ひさしく、重要で無い<緊は切なり>。

伊諾命より、

<天神。これ(伊諾命は)即ち陽神(男神)なり。倭語に伊佐奈支乃美己止という>

彦瀲尊にいたるまでは、

<天孫。彦火火出見命の第一男(むすこ)。(彦瀲尊は)倭語に比古那支佐乃美己止という>

史官が備わらず、歳次(干支年)は記されていない。

ただ、神倭天皇の庚午年より、

<彦瀲尊の第四男。諱は狹野尊なり。庚午は(神武)天皇の生まれ年>

冷然聖主の弘仁十年にいたるまでは、一千五百五十七年であり、

(その間の)治世は五十二帝である。

こいねがわくは、後の賢君子、情々をくみとどめ、察していただきたい。

しかいう。

 

「語注」

【天常立命】:『日本書紀』(第一段・一書第六)に「天地初判、有物。若葦牙、生於空中。因此化神、號天常立尊」。 『古事記』に「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神・・・次、天之常立神」。 『先代旧事本紀』「神代本紀」に「天御中主尊<亦云天常立尊>」。

【阿麻乃止己太知乃美己止】:アマノトコタチノミコト。

【畏根命】:『日本書紀』(第二段)に「次有神。面足尊。惶根尊」。 『古事記』に「次、於母陀流神。次、妹阿夜訶志古泥(イモアヤカシコネノ)」。 先代旧事本紀の神代本紀に「妹吾屋惶城根尊(イモアヤカシコキネノミコト)」。

【加之古祢乃美己止】:カシコネノミコト。

【八千萬億歳】:この文言は「記紀」には無い。恐らく遙か昔を意味するだけであろう。 『孫氏算経』で「大數之法;萬萬曰億<大数の法で、万×万は億という>」。

【日本一書】:ここの「日本」は、唐、韓などの外国に対する「日本」。「一書」とは「あるひとつの書」。早稲田大学蔵本に「日本紀一書」と「紀」を加えているが、これでは全体の文意が通じない。よって採らない。

【渉疑】疑にわたるで、疑わしい。

【尚】:「底本」の右下に「シ」とあり、恐らく「ひさし(久し)」と読んだか。「尚者、上也。言此上代以來書、故曰尚書」(尚書序)。

【緊切(キンセツ)】:重要。「迫切、重要」(漢典)。底本の注は「緊、切也」とあり、「緊」と「切」は異字同義である事を示すか。しかし、適切な注とは思えない。

【伊諾命】:『日本書紀』に「伊弉諾尊」。古事記に「伊耶那岐神」。

伊佐奈支乃美己止】イザナギノミコト。

【彦瀲尊】:『日本書紀』(第十段)に「名兒曰彦波鸕鷀草葺不合尊」。『古事記』に「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命<訓波限云那芸佐。訓葺草云加夜>」。

彦火火出見命】:『日本書紀』に「彦火火出見尊」。古事記に「火遠理命」、「日子穂々手見命」、「山佐知毘古」。

【比古那支佐乃美己止】:ヒコナギサノミコト。

【史官】:天文・暦・記録を掌る官。 『拾芥抄』の「官位唐名」に「大外記;門下起居郎。今世号外史。内記;著作郎。起居郎。今世号柱下、又内史、又柱史」。 『通典』(巻二十一職官・史官)に「史官。肇自黄帝有之、自後顯著。夏太史終古、商太史高勢。周則曰太史、小史、内史、外史。(中略)至漢武、始置太史公、以司馬談為之。卒、其子遷嗣。卒、後宣帝以其官為令、行太史公文書。其修撰之職、以他官領之、於是太史之官、唯知占候而已。自漢以前、職在太史。具太史局。當王莽時、改置柱下五史、記疏言行、蓋效古「動則左史書之,言則右史書之」。自後漢以後、至於有隋、中間唯魏明太和中、史職隸中書、其餘悉多隸祕書。大唐武德初、因隋舊制、史官屬祕書省著作局」。

【歳次(サイジ)】:年のめぐり。歳星を規準にした干支年表記

【神倭天皇】:神武天皇。『日本書紀』に「神日本磐余彦尊」。『古事記に「神倭伊波禮毘古命」。

諱狹野尊】:ただのみ名はサノノミコト。『日本書紀』に「諱、彦火火出見」。また同書「第十一段一書第一」に「先生彦五瀬命。次稻飯命。次三毛入野命。次狹野尊。亦號神日本磐余彦尊。所稱狹野者。是年少時之號也。後撥平天下奄有八洲。故復加號曰神日本磐余彦尊」。 『先代旧事本紀』の天皇本紀に「諱、神日本磐余彦天皇。亦云彦火火出見尊。即少年時号狹野尊也。」

【庚午】:底本は「庚申」で、伝写間での誤記であろう。『日本書紀』「神武天皇即位前紀」に「及四十五歳(中略)是年太歳甲寅。其年冬十月丁巳朔辛酉。天皇親帥諸皇子舟師東征。」とあって、ここから神武天皇生誕の干支年を逆算している。

【冷然】:左傍に「嵯峨」とある。退位後の称号ではない。詳細は、「原文13」の「語注」参照。

【弘仁十年】:819年。この私記序の著作年(撰時)と思われる。

この年に、『日本後記』編纂の勅命があり、また『新撰姓氏録』の改修の勅許が下りる。

今見る『新撰姓氏録(抄本)』はこの改修後のものであろう。そのため「新撰姓氏録序文」と内容が合わなくなっている。例えば出自を神別、皇別、諸蕃の三体と言っているが、実際の内容は、皇別、神別、諸蕃の順序であり、これは私記序文で指摘した通りになっている。また「日本紀合」とか「依続日本紀」なども、批判に応える形で、改修作業で追記した文言であろうか。

【一千五百五十七歳】:「補足」に詳細を記す。

【五十二帝】:『歴運記<今名公卿記>』に「天皇五十二代<起神武天皇元年、至今生弘仁二年、歴一千四百七十一年。>男帝四十二。女帝八<二帝重治天下者>。皇后一」。

【云爾】:しかいう。文を結ぶことば。

 

「補足」一千五百五十七歳について

この神武生年から弘仁十年までの年数を示す数値は、どう計算しても合いません。別史料の『歴運記』(延喜式に添付される)には、

「惣計従天皇元年(神武)辛酉、至今上弘仁二年辛卯、合一千四百七十一年也。」

とあります。上記の内容は、神武天皇即位元年より弘仁二年までの年数は「1471年」と言うことです。この数値をもとに、神武生年から弘仁十年までの年数をあらためて計算してみますと、

神武即位元年時(辛酉)は52歳(日本書紀)ですので、この52年に8年(弘仁二年から弘仁十年までの間)を足し、『歴運記』の一千四百七十一年(1471年)に加えれば、

<52年+8年+1471年=1531年>

となります。

よって、考えられることは、私記序の一千五百五十七歳(1557年)は、元々は一千五百三十一歳(1531年)で、伝本書写の間に、「三」は「五」に、「一」は「七」に、それぞれ誤りが生じたと思えます。

「私記序」の著者に大春日朝臣穎雄が考えられますが、この大春日氏は、暦術を家業とする家柄であり、このことも考慮に入れる必要があると思います。

 

 

結語

最近、愚頭の記憶力の衰えが目立ちます。せっかく読み集めた情報が、頭から抜け落ちる不安から、急いで今回の愚考をまとめました。いたらぬところが多々あると思いますが、お許し下さい。

愚考の校勘や訳注でありましたが、全体を通して読んでみますと、本文やその注の文には、写本ならではの事情により、いろいろな変遷があるようです。注の文に関しては、自注と後人による他注が見られると思います。概ね人物の出自記事や図書類の解説は自注と思われますが、語句の注に関しましては、適切でないと思われるものがあり、これらは後人による他注ではないかと思います。

現存を失った所謂歴史事象とは、史料上の存在であり、史料の校勘や読解を経ない論説は、砂上の楼閣と考えます。全文を通して「弘仁私記序」に注釈を行ってみて、今までの『古事記』、『日本書紀』、『新撰姓氏録』に対する考え方を問い直す必要があると思い始めました。

所謂「歴史書」が、臣民や国民に対するプロパガンダになったのは明治時代以降であり、特に古代においては、「百王之亀鑑」(続日本紀上表文)と言い、「帝王学」の書であり、逆に臣民への閲覧を制限した書と言えましょう。これは史書の本場である古代中国においても同様です(唐代に解禁)。古代における日々の事実には、「天人相応」と言われる観念があって、天や神の意志が介在していると信じられていました。だから「事実」に対する姿勢が現代人と根本的に異なることに注意が必要かと思います。

最後に本居宣長の文を引用しておわりにします。

「書をよむに、ただ何となくてよむときは、いかほど委しく見んと思ひても限りあるものなるに、みづから物の注釈をもせんとこころがけて見るときには、いづれの書にても格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、それにつきて又外にも得る事の多きもの也。」(『うひ山ぶみ』「古書の注釈を作らんと云々」)