上宮太子(聖徳太子)論  2021.12.01

            項目    (2021.12.16更新)

はじめに 

1・三経義疏(勝鬘経義疏)

2・法隆寺

3・中宮寺繍帳(天寿国繍帳) 

4・釈迦如来坐像光背銘

5・日本書紀の記述(敏達天皇~推古天皇)

6・斑鳩宮襲撃事件

 

はじめに

  人の過去やその事象は、記憶と記録の存在で、現存を失い、それを記憶する人々も亡くなればただ記録的存在のみとなります。遺物が現存しても、そこに記録が無ければ、人による過去の由来を語りません。記録には、言葉による伝承(口伝)と文字による伝承(史料)がありますが、口伝は先後が不明で、新古との校合も不可能であり、採録された時点が最古で最新となります。一方史料には、先後の見極めや新古との校合が可能であり、より客観性があり、歴史探究としては重要な材料となります。人の歴史学とは、極端に言えば残された史料の読解に始まり、読解に終わると言えるかもしれません。しかし、遠い過去は、記録的存在であるために、その記録の改竄や偽造で、あったことも無かったことに、そして無かったこともあったことに出来ます。これは残された史料の安易な否定や肯定でも起きることでしょう。

ここで扱う上宮太子とは後世に「聖徳太子」と言われる人物で、飛鳥時代早期の文明レベルの低い時期に、仏法を深く理解し、それを日常に生かそうとした人物です。『日本書紀』や『古事記』の登場人物の中でも、太子の痕跡は伝説とともに数多く残っていますが、それ故に、歴史上の事跡やその存在そのものを消す対象によく選ばれます。歴史史料を肯定するのに慎重になることは良いことですが、いざ否定となると、さしたる根拠もなく行われる事には不満があります。歴史的文献資料を安易に否定し、そこにさしたる根拠もない現代人の空想を置き換える事には、さらに不満があります。特に「聖徳太子」の名前が歴史教科書から消えそうな昨今、本当にそれで良いのか疑問とするところです。

そこで、情報源たる太子の基本史料を自分の目で確認していきたいと思います。太子の基本史料としては、年代の古さ(同時代制)から次の4点をあげたいと思います。

三経義疏(勝鬘経義疏)

中宮寺「繍帳」銘

法隆寺金堂釈迦如来坐像光背銘

日本書紀

当時の記録(散文)の文字資料は、おもに、固有の文字を持たない日本語が漢語に翻訳されて「漢語漢文」形式で残されています。必要に応じて古漢語の漢語語法によって「訳文」を付けますが、これには人により解釈の違いがありますので、できれば原文を直接当たられることを望みます。

日本側の漢語漢文は、漢字の字音を仮名として使用したり、日本語語順に変えたりするなど、中国語(古語)の漢語漢文とは少し異なり、読みづらい点もありますが、古代史関連の史料は、比較的よく整備されており、原文や解釈本が印刷物として色々と出版されています。特に最近はインターネットで電子テキスト化された原文も閲覧できます。

 *ネットの漢語字典は主に中国の漢字検索サイトの「漢典」を使用。

 

 

1・三経義疏(勝鬘経義疏)

まず太子の著作であるとされる「三経義疏」に当たってみたいと思います。時間、能力の関係で、その中でも太子に大きな影響を与えたと思われる『勝鬘経(大乗仏教経典)』の注釈書である『勝鬘経義疏』に絞り、同じ原本を祖とした同系統の「義疏」と云われ、戦後、敦煌写本群で発見された「敦煌本」(E本)との比較を通して、そこに何が見えて来るのか、探ってみることにします。

三経義疏】(さんぎょうぎしょ)

聖徳太子によって書かれたとされる『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書。

使用する原文テキストは、

【敦煌本】:藤枝晃・古泉円順 校録「E本(『勝鬘経義疏』敦煌本)」(「日本思想大系2」『聖徳太子集』・岩波書店(1975年)所収)。

 【太子本】:早島鏡正・築島裕 校注「日本思想大系2」(同書所収)

 

 

1-1・敦煌本と太子本との比較

「勝鬘経」の重要な部分である「摂受正法章」の「捨」の部分を取り上げて二つを比較します。原文を抜粋しますが、内容的にはどちらも同じ所です。

*【捨(シャ)】:仏法の修行(功徳)の為に身や金品を投げ出す。

 

「敦煌本・校録原文」P.436上段)
又分為四。第一。正捨三分義。旧釈。「捨身」謂自放為奴。「捨命」為人取死。今謂。捨身捨命。皆是死也。但立意異耳。若如投身餓虎。此意在捨身。非苟欲捨命。若義士一感。見危授命。此称也。「捨財」者。謂身外之物也。凡有七句。為一隻三雙。第一一句。直総挙三分。従「何等為三」已下是。第二雙。明捨身。初明行因。従「捨身者」已下是。「後際等」者。謂未来也。未来則无際。自无際以来。常捨身也。又以金剛心為後際。生死極於此時。自此以来。常捨身也。推後三帰。応如前釈也。後句明得果。従「離老病死」已下是。既以後際為期。故所得之果。皆常住。第三雙。明捨命。初句明行因。従「捨命者」已下是。後句明得果。従「畢竟離死」已下是。「通達一切」者。智慧為命也。第四雙。明捨財。初句明行因行。従「捨財者」已下是。後句明得果。従「得不共」已下是。言功徳法財。不如世財与五家共有也。「得一切衆生殊勝供養」者。語倒。応言得供養殊勝一切衆生。謂法財資神。勝世財也。或順文直釈。謂得人天財。殊勝供養也。

 

  ※「。」は校録者の句点。「」は『勝鬘経』本文の引用文を示す校録者の記号。

 

「太子本・校注原文」P.135-138)

 又分為四、第一正明三分義、第二従世尊如是以下、讃歎捨三分人、第三従世尊又善男子以下、明捨三分時節、第四従世尊我見.摂受正法以下、引佛為證、就第一正明捨三分中、即有二、第一直惣挙三分、何等為三、謂、身命財是、第二従捨身者以下、別出三分躰、従捨身以下、別明捨身、従捨命以下明捨命、従捨財以下、明捨財、旧釋、捨身謂、自放為奴、捨命、為人取死、今云、捨命捨身皆是死也.但建意異耳.若如投身餓虎、本在捨身、若義士見色授命、意在捨命、捨財謂身外之物、後際等者謂、未来。未来、則无際.謂、常捨明矣、又云、金剛心為後際、離老病死者謂、分段生死、无有変易者謂、変易生死也.此言得者謂、令得衆生也、功徳法財、非如世財五家共有、得一切衆生.殊勝供養者、語少倒、應言得供養殊勝一切衆生、或順文直釋、得人天殊勝供養、

 

  ※「」は校注者の句切り。「.」は底本の句点。

 

以上二つは、ざっと見ていただいても、似通った語句が並んでいることが見て取れます。漢文の原文は句読点や改行が特にありませんので、次にこの二つを、内容に沿って私見で改行し、句点や引用記号も「敦煌本・校録」にそろえて、比較しやすくしてみます。

「敦煌本」(改行文)
又分為四。
 第一。正捨三分義。
旧釈「捨身」謂自放為奴。「捨命」為人取死。今謂捨身捨命。皆是死也。但立意異耳。若如投身餓虎。此意在捨身。非苟欲捨命。若義士一感。見危授命。此称也。「捨財」者。謂身外之物也。
凡有七句。為一隻三雙。
 第一一句。直総挙三分。従「何等為三」已下是。
 第二雙。明捨身。初明行因。従「捨身者」已下是。「後際等」者。謂未来也。未来則无際。自无際以来。常捨身也。又以金剛心為後際。生死極於此時。自此以来。常捨身也。推後三帰。応如前釈也。後句明得果。従「離老病死」已下是。既以後際為期。故所得之果。皆常住。
 第三雙。明捨命。初句明行因。従「捨命者」已下是。後句明得果。従「畢竟離死」已下是。「通達一切」者。智慧為命也。
 第四雙。明捨財。初句明行因行。従「捨財者」已下是。後句明得果。従「得不共」已下是。言功徳法財。不如世財与五家共有也。
 「得一切衆生殊勝供養」者。語倒。応言得供養殊勝一切衆生。謂法財資神。勝世財也。或順文直釈。謂得人天財。殊勝供養也。

 

「太子本」(改行文)
又分為四。
 第一。正明三分義。
 第二。従「世尊如是」以下。讃歎捨三分人。
 第三。従「世尊又善男子善女子」以下。明捨三分時節。
 第四。従「世尊我見。摂受正法」以下。引佛為證。
就第一正明捨三分中。即有二。
 第一。直惣挙三分。何等為三。謂身命財是。
 第二。従「捨身者」以下。別出三分躰。
 従「捨身」以下。別明捨身。
 従「捨命」以下。明捨命。
 従「捨財」以下。明捨財。
旧釋。「捨身」謂自放為奴。「捨命」為人取死。今云捨命捨身。皆是死也。但建意異耳。若如投身餓虎。本在捨身。若義士見色授命。意在捨命。「捨財」謂身外之物。
「後際等」者。謂未来。未来則无際。謂常捨明矣。又云金剛心為後際。「離老病死」者謂分段生死。「无有変易」者謂変易生死也。此言「得」者謂令得衆生也。「功徳」法財。非如世財五家共有。「得一切衆生殊勝供養」者。語少倒。應言得供養殊勝一切衆生。或順文直釋。得人天殊勝供養。

 

改行を加えた両者を比べていただければ、その違いは一目瞭然となります。「敦煌本」は雑然とした感じですが、「太子本」はよく整理された印象となります。

 藤枝晃氏は『聖徳太子集』の解説の中で、「両者の約70%は同文である」と言い、それをもって太子本『勝鬘経義疏』はほぼ中国製で、太子自身の著作物ではないと推定していますが、「宗教経典」の注釈書は哲学書と異なり、そこに独自思想は必要ないでしょう。必要なのは「経典」をよりよく理解する為に先人の情報を収集することであり、そしてその情報をいかに整理するかが重要となるでしょう。また適切に整理されたものは、情報をよく把握している事のあかしと言えます。その点から見れば、「太子本」は「敦煌本」より、良く整理されていると思います。

 

1-2・太子本義疏の特色

編纂意図

太子の義疏の特色は何かと考えますと、先にも言いましたように、「情報の収集」とその「適切な整理」にあります。それにより「教典の理解」を深めことができ、そこに主たる意図があり、そのことに、編纂の目的がある様に思います。そのため、敦煌本と同じ系統の「物」をベースとしながらも、時には、分解し、再構成し、また、削るべき所は、「可見(経)」として削り、加えるべき所は、「一云」、「本義云」、「私云」として、理解を助ける情報を加え、各章の初めには、簡単な解説を「来意」としてのせています。よって、この義疏の中に、太子の“独創的思想”があまり見られないのは当然と思えます。

「本義云」について

次に先の「本義云」について、ふれてみたいと思っています。

太子本の「義疏本文」の後半部分に多く引用される「本義云」の「本義」とは何を指すのか色々と言われていましたが、「敦煌本」の発見の前後では見解が大きく変わりました。

以前は、「義疏本文」は編纂者(太子)の独自のもので、参考文献として、編纂者(太子)が中国南朝梁の三大法師僧旻に拠るものを「本義」として引用したと言われていました(花山信勝氏)。

以後は、「本書(伝太子義疏)は「本義」の一つの改修本である」(藤枝氏)と言う見解です。しかし、たとえ「本文」が、太子の独自的著述文ではなく、「本義の改修文」であったと仮定しても、その内容は、先の改行を施した「敦煌本」との比較からわかるように、もはや大幅に改修され「本義の原本」からも大きく離れていると思われます。

※尚、敦煌本は、節略を主とした、「本義」に忠実な「節略本」との指摘あり(藤枝氏)。

太子の内面

太子の内面を探るとき、三経義疏は欠かせないものと思います。それが太子の著述物であろうがなかろうが、当時読んだ仏典であることには間違いないものと思うからです。これらは、太子の足跡と一族の行く末にも呼応しているように感じます。政治の中心地である飛鳥を離れ、田舎の斑鳩に移り住んだのも、「三教義疏」などの影響かもしれません。またその中で「勝鬘経」は小編ですが、大乗仏教の在家における信仰の道を示し、特に大きな影響を太子に与えた経典ではないかと思います。最後に「伝太子勝鬘経義疏」(総説)の一文を抜き出し、「三経義疏について」を結びます。

「・・・説法非但当時獲利、遠及末代皆同令福。」

<法をとくは、ただ現在の利を獲ることのみに非(あら)ず、遠く末代に及び、皆同じく福(ふく)させることなり。>

 

 

2・法隆寺について

  法隆寺史料

聖徳太子と言えば「法隆寺」と言われるほど有名ですが、現存する『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』は基本史料から除きました。「法隆寺」は、『日本書紀』によれば、「天智九年・夏四月癸卯朔壬申(三十日)、夜半之後、災法隆寺。一屋無余。」(天智天皇紀)とあり、『上宮聖徳太子傳補闕記』にも「斑鳩寺被災之後、衆人不得定寺地。」とあって、おそらく、本尊を初めとして、ほとんどの史資料は、天智九年(670)の火災により灰燼に帰したものと思われます。今残るのは、「元・法隆寺」跡とされる「若草伽藍跡」だけです。ここには、「伝・塔心礎石」が置かれています。石田茂作氏らにより、この周辺の発掘調査(昭和十四年)の結果、そこには四天王寺式伽藍配置の寺院跡が確認されました。これが「元・法隆寺」ではないかと思います。どちらにしろ、「現・法隆寺」は、太子やその一族が世を去り、あの被災後に作られた「思い出寺」としての「再建寺」であり、太子とは直接には関係のないものです。一部に「非再建説」がありますが、根拠に乏しく、多くの史料は「再建」を示しています。

 

 現・法隆寺(再建法隆寺)

「現・法隆寺」の再建への来歴は、各史料に散見できます。
1)『上宮聖徳太子傳補闕記』
「斑鳩寺被災之後。衆人不得定寺地。故百済入師率衆人。令造葛野蜂岡寺。令造川内高井寺。百済聞師、圓明師、下氷君雑物等三人。合造三井寺。」

これには各地を遍歴した後、「百済聞師、圓明師、下氷君雑物」の三人が、「三井寺」に合わせて(似せて)「現・法隆寺」を再建したと解釈できます。この三人についての詳細はわかりませんが、この「三井寺」とは、法名「法林寺」で、現在の斑鳩の「法輪寺」です。

「法輪寺」については、『聖誉抄』所収「法林寺流記」に「右寺斯。奉為小治田宮御宇天皇御代。(歳次壬午)上宮太子起居不安。于時太子願平復。即令山背大兄王並由義王等。始立此寺。」<右の寺、これは、小治田宮御宇天皇(推古天皇)の御代、上宮太子の起居が安からず。時に太子の平復を願う御為(奉為)に、即ち山背大兄王ならびに由義王等に始めてこの寺を立てしむ。>  (*【起居】キキョ安否。日常の生活。)とあり、この法林寺(法輪寺)は「太子」の為の寺と言えます。よって、再建法隆寺は、父用命天皇と聖徳太子を合わせた「思い出寺」へと姿をかえたのかも知れません。そのため、本尊を納める金堂には、用命天皇の為の「薬師如来座像」と太子のための「釈迦如来座像」の二体が安置され、伽藍配置は「元・法隆寺」の伽藍配置では無く、「法輪寺」式伽藍配置を模したと思われます。尚、後で触れますが、「現・法隆寺」金堂に安置されている「釈迦如来座像」は「復刻仏」でもなく、火災に被災した跡もない飛鳥時代の仏像ですので、おそらく「法輪寺」から再建時に譲り受けたものではないかと個人的に推測しています。

また『古今目録抄』には「法林寺事・・・建立之様、似法隆寺。」と、法林寺が法隆寺に似せたとありますが、これは逆ではないかと思います。考古学的年代からも「現・法隆寺」より「法輪寺」の方が古い痕跡があると言われます(上原和著『聖徳太子』講談社学術文庫)。

2)『七大寺年表』(名古屋の真福寺の古鈔本)
  「和銅元年戊申、依詔造太宰府観世音寺又作法隆寺。」
3
)『伊呂波字類抄巻二・保の部』  
  「法隆寺七大寺内、和銅年中造立。」
4
)『南都北郷常住家年代記』
  「和銅元年戊申、建法隆寺。」
5
)『東寺王代記』
  「和銅三年藤公建興福寺或記云法隆寺同比年建立。」

 

法隆寺本尊

「現・法隆寺」の本尊の一つの「薬師如来坐像」は、「復刻像」でありますが、天智九年の火災で焼失する前の「元・本尊」はいかなるものだったでしょうか。本来なら、隣の釈迦像のように、飛鳥仏の特徴とも言える、大きな光背に三尊像を配置する「一光三尊像」形式ではなかったかと思います。日本最初の伽藍である飛鳥寺の本尊も「一光三尊像」と推定され、また日本最古の仏像と云われる善光寺本尊もこの形式とされます。この善光寺の仏像は、敏達天皇十四年に堀江に捨てられた仏像で、信濃の国の住人本田善光がそこから見つけ、拾い出し、信州に持ち帰ったと云われます。詳しくは石田茂作著『飛鳥随想』に載っていますが、現在は「阿弥陀仏」とされ、秘仏とされ公開はされていないようです。しかし、石田氏は、鎌倉時代の模刻像等から推測するに、あれは「釈迦像」ではないかと指摘しています。「元・法隆寺本尊」もまた然りかと想像されます。
 

法隆寺中門の柱

現在の法隆寺中門には、真ん中に柱が一本たち、それにより入口を東西の二つに分ける特異な姿となっています。この理由については、太子の怨霊封じとか色々云われていますが、いままでの再建の経過から推測すれば、現在の法隆寺は、再建時、火災前の「元法隆寺(若草伽藍)」式伽藍配置を取らず、「法輪寺」式伽藍配置を模しています。これにより、寺を用明天皇の御為として従来の法隆寺領の田畑などの財産を相続し、併せて太子の為の仏像を安置し、思い出寺と言う二面性を持たせるために、中門の真ん中に柱を一本立て、入口を「太子」と「用明天皇」の二つに分けたのかもしれません。ちなみに「現・法隆寺」の東西南北の廻廊の長さは「法輪寺」より1.5倍程度長いと言われますが、1辺が約1.5倍なら面積は約2倍になり、面積的にはちょうど二人分と言えましょう。

 

 

 

3・中宮寺「繍帳」(天寿国繍帳)

 3-1 繍帳復原文

天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵する、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品。天寿国曼荼羅繡帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)とも呼ばれる。銘文によれば、聖徳太子の死去を悼む妃の一人である橘大郎女が、推古天皇に願い出て、勅命によって作られたと言う。

ここでは、飯田瑞穂著『聖徳太子の研究』(吉川弘文館・2000年)による銘文の復原文を借用し、その後で、話を進めたいと思っています。            

                            

「天寿国繍帳銘」(復原文)同書P.452
斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意 斯波留支 
比里爾波 乃彌己等 娶巷奇大 臣名伊奈 米足尼女 
名吉多斯 比彌乃彌 己等為大 后生名多 至波奈等 
已比乃彌 己等妹名 等已彌居 加斯支移 比彌乃彌 
己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 彌己等為 后生名孔 
部間人公 主斯帰斯 麻天皇之 子名奈 久羅乃布 
等多麻斯 支乃彌己 等娶庶妹 名等已彌 居加斯支 
移比彌乃 彌己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名 
尾治王多 至波奈等 已比乃彌 己等娶庶 妹名孔部 
間人公主 為大后坐 邊宮治 天下生名 等已刀彌 
彌乃彌己 等娶尾治 大王之女 名多至波 奈大女郎 
為后歳在 辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母 
王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩 于時多至 
波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天 皇前曰啓 之雖恐懐 
心難止使 我大王与 母王如期 従遊痛酷 无比我大 
王所告世 間虚仮唯 佛是真玩 味其法謂 我大王應 
生於天壽 國之中而 彼國之形 眼所看 像 
欲観大王 住生之状 天皇聞之 悽然告曰 有一我子 
所啓誠以 為然勅諸 采女等造 繍帷二張 画者東漢 
末賢高麗 加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻

復元文は四文字単位でまとめられていますが、これは現物の文字が図中に描かれた100匹の亀の背に、四文字ずつ刺繍されていますのでそれに沿ったものです。しかし、これでは読みにくいので、内容にしたがって、語句や文の切れ続きを明らかにさせるために句読点をほどこし、改行を加え、個人名には下線をつけた「編集文」を次に示し、その後に私見の「訳注」を併せます。

尚、銘文は基本的に「漢語語法(主語+述語+目的語又は補語)」にしたがっていますが、倭語(日本語)の名前は、漢字の字音を利用して表し、日本語の助詞や、それに相当する漢語の介詞(前置詞)などはほとんど省略されていますので、それを補って読みます。文の切れ続きは、古代の祝詞文の様に、語句の切れ目は多いですが、文としての切れ目が長い様式です。

 

「天寿国繍帳銘」(編集文)
〔系譜部分〕

斯帰斯麻宮、治天下天皇、名、阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等(欽明天皇)、娶巷奇大臣(蘇我大臣)、名、伊奈米足尼(稲目宿禰)女、名、吉多斯比彌乃彌己等(堅塩姫)、為大后、生、名、多至波奈等已比乃彌己等(用明天皇・聖徳太子の父)、妹、名、等已彌居加斯支移比彌乃彌己等(推古天皇)。

復娶大后弟、名、乎阿尼乃彌己等(小姉命)、為后、生、名、孔部間人公主(聖徳太子の母)。

斯帰斯麻天皇之子、名、奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等(敏達天皇)、娶庶妹、名、等已彌居加斯支移比彌乃彌己等(推古天皇)、為大后、坐乎沙多宮、治天下、生、名、尾治王(聖徳太子の妃の橘大郎女の父)。

多至波奈等已比乃彌己等(用明天皇)、娶庶妹、名、孔部間人(穴穂部間人)公主、為大后、坐宮、治天下、生、名、等已刀彌彌乃彌己等(聖徳太子)。

尾治大王之女、名、多至波奈大女郎(橘大郎女)、為后。

 

〔本文部分〕

歳在辛巳十二月廿一癸酉日入、孔部間人母王崩。

明年二月廿二日甲戌夜半、太子崩。

于時多至波奈大女郎、悲哀嘆息、白畏天皇前曰「啓之雖恐、懐心難止。使我大王与母王如期従遊、痛酷无比。我大王所告、世間虚仮唯佛是真。玩味其法謂、我大王應生於天壽國之中。而彼國之形眼所看。像欲観大王住生之状」

天皇聞之悽然告曰「有一我子、所啓誠以為然」

勅諸采女等、造繍帷二張。画者東漢末賢高麗加西溢、又漢奴加己利

令者椋部秦久麻

 

「訳文」1

〔系譜部分〕

しきしまの宮で、天下を治めし天皇で、名はあめくにおしはるきひろにはのみことが、そが(蘇我)の大臣で、名はいなめのすくねで、その娘で、名は、きたしひめのみことを娶り、大后(オホキサキ)と為して、名はたちばなとよひのみことと、妹で、名はとよみけかしきやひめのみことを生む。

また、大后の腹違いの弟(おと=妹)の、名はをあねのみことを娶り、后(きさき)となして、名はあなほべのはしひとの公主(みこ)を生む。

しきしま天皇の子で、名はぬなくらのふとたましきのみことは、腹違いの妹で、名はとよみけかしきやひめのみことを娶り、大后と為して、をさたの宮に坐して、天下を治め、名はをはり(尾張)の王(みこ)を生む。

たちばなとよひのみことは、腹違いの妹で、名はあなほべのはしひとの公主を娶り、大后と

為して、いけのべの宮に坐して、天下を治め、名はとよとみみのみことを生む。

とよとみみのみことは)をはり(尾張)の大王(きみ)の女(むすめ)で、名はたちばな

大郎女(おほいらつめ)を娶り、后と為す。

 

「語注」1

【しきしまの宮】:師木嶋大宮(古事記)。「磯城嶋金刺宮」(日本書記)。

【天皇】:日本では「天皇」と「天王」は同音、同義。詳細は下文の「天皇号」参照。

【あめくにおしはるきひろにはのみこと】:欽明天王。天國押波流岐廣庭命(古事記)。天國排開廣庭尊(日本書紀)。

【そが】:宗賀(古事記)。蘇我(日本書紀)

【いなめのすくね】:稲目宿禰(記紀同じ)

【きたしひめのみこと】:岐多斯比賣命(古事記)。堅塩媛(日本書紀)

【たちばなとよひのみこと】:用明天皇。橘之豊日命(古事記)。橘豊日尊(日本書紀)

【とよみけかしきやひめのみこと】:推古天皇。豊御気炊屋比賣命(古事記)。豊御気炊屋姫尊

(日本書紀)

【生】:生む。男系社会では「子種」は男子が持ち、「子」は男子から生まれ、女子は男子の子種を体内で養育して出産するという概念があった。だから子孫は男子だけが残せて、女子は残せないと思われていた。今でも母は「畑」や「大地」にたとえられるのはその名残であろう。

【弟】:おと(おとうと)。同族の年下にたいする呼称で、男に女にも使い、ここでは妹。

【をあねのみこと】:小兄比賣命(古事記)。小姉君(日本書紀)。「古事記」では堅塩姫の姨(おば=妻の妹)と表記。

【あなほべのはしひとの公主】:間人穴太部王(古事記)。泥部穴穂部皇女(日本書紀)。「公主」とは「皇女」で「ひめみこ(姫御子)」。「公主;[princess] 帝王、諸侯之女的稱號(周稱王、戰國始稱公主<周の時代には王姫と言い、戦国時代には公主と言い始める>)」(漢典)

【天皇之子】:「古事記」では性別に関係なく「御子、王」と表記し、「日本書紀」では男子を「皇子」、女子を「皇女」と表記。読み方はどれも「みこ」であろう。「子」は「子息。」(廣韻)。ちなみに「兒(児)」は「本義:幼兒。古時男稱兒,女稱嬰,後來孩童都稱兒<本義は幼児。古代、男は児と、女は嬰と言われ、後に子供は皆児と言われる>」(漢典)

【ぬなくらのふとたましきのみこと】:敏達天皇。沼名倉太玉敷命(古事記)。譯語田渟中倉太珠敷尊(日本書紀)

【とよとみみのみこと】:上宮厩戸豊聡耳命(古事記)。厩戸豊聡耳皇子(推古天皇即位前紀)

 

「訳文」2

〔本文部分〕

歳(ほし)が辛巳(しんし)にある十二月二十一日癸酉(きゆう)の日の入り(日没)に、孔部間人の母王(ははみこ)が崩ずる。

明年二月二十二日甲戌(こうじゅつ)の夜半(真夜中)に、太子(上宮太子)が崩ずる。

時に、たちばなの大女郎が悲しみ嘆いて、かしこし天皇の前にもうして、曰わく「これをもうすに恐れありと雖も、懐かしむ心止みがたし。(使)我が大王(きみ)が母王(ははみこ)と、期すが如く浄土への旅路に従ったことは痛酷无比(ツウコクムヒ)なり。我が大王(キミ)の告げるところは、世間は虚仮で仏のみが真なりと。その法を玩味(ガンミ)すると、我が大王(キミ)は、天壽國の中にまさに生まれると思う。しかし、彼の國の形は、眼で看ることができない所。こいねがわくは、図像によって、大王(きみ)の往生の姿を観たい」と。

天皇はこれを聞き、悽然(セイゼン)として告げて曰わく「(我にも)一人の(夭折した)我が子あり、もうすところは、誠に以て然り」と。

勅して、もろもろの采女(うねめ)等に繍帷二張を作らせる。絵描きは、東漢末賢・高麗加西溢・漢奴加己利、おさ(長)は、椋部秦久麻なり。

 

「語注」2

【歳】:歳星(木星)。ほぼ12年周期の木星軌道を規準にした紀年。

【歳在辛巳十二月廿一癸酉】:西暦621年(推古二十九年十二月二十一日)。

【崩(ホウ)】:くずれる(死亡する)。「律令制」以降、「崩」は、天皇のみに使われる。「天子死曰崩、諸侯曰薨。」(禮記·曲禮下)。

【明年二月廿二日甲戌】:西暦622年(推古三十年二月二十二日)。『日本書紀』では、推古二十九年(621年)二月五日とする。ここに日付の相違がある。『日本書紀』は、天皇や皇族関係者及び史官関係者以外には原則「非公開」であり、それが公開され始めるのは嵯峨天皇時代の弘仁三年(812年)からで、聖徳太子没年の日付は、この時代を境目にして、これ以前の史料は622222日とし、それ以後の史料は『日本書紀』の62125日に準じる傾向がある。

【于】:~に。時間を示す前置詞(助字)

【白】:もうす。「告白」の「白」

【畏天皇前】:かしこし天皇の前

【啓】:もうす。「拝啓」の「啓」

【懐心(カイシン)】:懐かしむ心。

【使】:ここでの用法が不明。

【大王】:「日本書紀」の傍訓は「きみ」。漢語では「大王;古代君主或諸侯王的尊稱<古代の君主や諸侯王の尊称>」(漢典)で、天子より下位。

【期(キす)】:時と場所を約束して会う。

【從遊(ジュウユウ)】:旅に従う(浄土への旅路に従う)。*検討要。

痛酷(ツウコク)无比(ムヒ)】:「痛酷」は痛みの甚だしいこと。「无比」は比べるものが無い。訳文が難しいので「痛酷无比」の四文字熟語として読んだ。

【虚仮(コケ)】:真実でない。

【謂】:思う。

【應(応)】:まさに・・・。

【而】:しかし。「而;然而、但是、表転折之意。」(漢典)。

(ハ)】:不可を示す。

(キ)】:こいねがう。同義語は「希」。

【圖(ズ)】:新字体は「図」。

【状】:すがた。

【悽然(セイゼン)】:いたましいさま。

【為】:「是 [be]」(漢典)

【令】:おさ(長)。責任者。

 

 

3-2 繍帳銘文への疑義の検証

「繍帳」の真贋についての疑義がいくつかありますので、それらについて検証してみます。
 1)「干支紀日」について
 「繍帳」銘文の中で、孔部間人王忌日の辛巳年十二月二十一日の「干支紀日」が「癸酉」となっているが、「元嘉暦(平朔)」による推算値は「甲戌」で、そこに一日のずれがある。これは持統朝以降の「儀鳳暦(定朔)」での推算値に合い、よって制作年代は、持統朝、もしくは文武朝以降とする疑義があります。
そもそも「元嘉暦」と「儀鳳暦」とは、ともに持統天皇以降に使用され始めたとされる暦法です。

*『日本書紀』持統四年六九〇十一月

奉勅始行元嘉暦與儀鳳暦。」<勅を奉じ、元嘉暦と儀鳳暦を始めて行う。>
この疑義は、推古天皇の時代に「元嘉暦」を使用していたと言うことが前提ですが、これには根拠がなく、当時いかなる実施暦を使用していたかは今のところ不明です。それに疑義の中で使用した「儀鳳暦(定朔)」より求めた「干支紀日」はあくまでも計算上の「推定値」です。「推定値」と「現実の値(繍帳の干支紀日)」とのどちらを取るかと言うと、「現実の値」が優先されるでしょう。ですから当時(推古朝)の実施暦が不明の現在は、この疑義は特に問題になりません。

 

<余談;暦日について>

『日本書紀』(720年)は中国暦による暦日(日付)で、記事内容を整理していますが、それより前に編纂された『古事記』(712年)は、歴代の天皇ごとに記事が整理されて、暦日はほとんど記載されません。日本での中国暦による暦日の使用は、『隋書・倭国伝』に「無文字唯刻木、結縄・・・於百済求得仏経始有文字」とありますように、仏教伝来以降と思われます。その暦日の使用は、主に仏教関係者の間で使用され、社会制度的に始まるのは律令制が整う持統天皇時代からでしょう。古代史研究の分野に「日本書紀の紀年論」と言う分野がありますが、そもそも『日本書紀』の紀年(日付)は、後付け(長暦)であり、そのことを明らかにしたのは、小川清彦著「日本書紀の暦日に就いて」(昭和21年)や内田正男著『日本書紀暦日原典』(昭和53年)です。元々の記録に日付がなければ、その日付を精確に復原することは不可能です。『日本書紀』で、一番取り扱いに注意が必要なのが暦日で、本来なら「日本書紀の紀年論」は、学問的に成り立たない分野と思います。


 2)「上代特殊仮名遣い」について
 銘文の中で「・・・布等(ふと・太)多麻斯支乃弥己等」とあり、この中の「等(と)」は「乙類のトの仮名」。しかし、「ふと・太」の本来の仮名遣いは「甲類のト」。ここに「上代特殊仮名遣いの乱れ」があるとして、後世の作とする疑義があります。
 これについても、「と」の仮名遣いについては、丸山林平著『日本語-上代から現代まで』の中でも指摘していますが、古事記でも「甲・乙」の併用が散見でき、確たる根拠とは今のところなり得ないと思います。

 

3「称号問題」について

銘文にある「等已弥居加斯支移比弥(とよみけかしきやひめ)」等の名称は、死後贈られる「国風諡号」であるとし、それを使用するのは後世(文武朝以降)の事とする疑義があります。
  *【諡】{名詞}おくりな。功績をたたえて、死んだ人につける名。
 この疑義は、『日本書紀』が記述する「豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)」などの歴代天皇の「国風名称」が、死後に付けられた「諡号」であることが前提になっています。しかし『日本書紀』でのその名称が「尊号」か「諡号」か、定かではない中で、さも確定したと見なし、それを根拠に、他を確定させるとは・・・。安易な判断は慎むべきと思います。
「諡」の概念が正式に導入されるのは、「大宝令」以降ということが、『令集解』に所収する「大宝令」の注釈文であると言われる「古記」から知ることができます。

*『令集解』「公式令」(平出条「天皇諡」)
「古記云。問。天皇諡、未知諡。答。天皇崩後拠其行迹、文武備者、称大行之類。一云。上宮太子称聖徳王之類。」

  <古記に云う。天皇の諡を問う。諡いまだ知らず。答。天皇の崩の後その行迹に拠る。文武

われば、大行を称する類(たぐい)なり。ある人曰わく、上宮太子は聖徳王と称される類なりと。>

(ここから「上宮太子」は生前の名で、「聖徳王」は死後の名称と言えます。)

この問答は、恐らく「大宝令」施行直後の次の様な場でのものではないかと推測します。
 *『続日本紀』大宝元年(七〇一)四月庚戌(七日)。
 「始講新令。親王諸臣百官人等就而習之。」
そしてこの法令により、「諡」が最初に贈られたのが持統天皇です。
 *『続日本紀』大宝三年(七〇三)十二月癸酉(十七)
 「奉誄太上天皇(持統天皇)、謚曰大倭根子天之廣野日女尊。」
尚、生前の名は、「高天原廣野姫天皇」(持統天皇紀)です。
個人的に推測すれば、『日本書記』に記述される、俗に天皇の「国風諡号」と言われている名称は、天皇に即位した時に使われた生前の「尊号」であろうと思います。よく「国風諡号」論の根拠として「神功皇后紀」の「葬狭城盾列陵。是日、追尊皇太后、曰気長足姫尊」の記事をあげる人もいますが、神功皇后はそもそも天皇ではなく皇太后であり、摂政位で生前に多大な功績があったからこそ、それを称える意味で、死後に天皇に準じた尊号が追号されたものと思います。

また、繍帳銘文の中で、「宮の地の号」が冠せられないのは推古天皇だけであり、これは最終的「宮の地」が確定していない事をしめし、在位中の出来事であることを裏付けるものと思います。

 

4「天皇」号について

天皇号が光背に刻まれた法隆寺本尊の薬師像は、後世のレプリカ仏であり、「繍帳」残存文字にしても「皇」の字のみのため、推古朝の金石文及びその類に、天皇号が残された遺物はないようです。しかし、史料的には、「元興寺丈六光背銘」の写し(「元興寺伽藍縁起并資材帳」所収)が初出であり、それに次ぐ物がこの「繍帳」の写し(「上宮聖徳法王帝説」所収)と思います。「天皇」とは、『日本書紀』に「天王」とも書かれるように、その意味は「天子」と言う意味です。

 *「大倭侍“天王”。」(雄略天皇紀五年・百済新撰)

 *「神日本磐余彦“天王”(神武天皇のこと)」(「日本書紀私記(丙本)神武」)

*「天王:[emperor(皇帝)]天子。春秋經中尊稱周天子為“天王”。」(漢典)

 

『隋書・倭國傳』に記録される当時の倭国(推古朝)の「国書」に「日出處天子、致書日没處天子無恙」(大業三年)とあるように、「天子」号を使っていた事が確認されます。しかし、隋帝には、「帝覧之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」と言われ、隋國側には評判がよろしくなかった。このため、二度目の国書(返書)には「東“天皇”敬白西皇帝」(「日本書紀」推古紀16年)と「天子」を「天皇(もしくは天王)」に改めたと考えられます。

「天皇」の読み方は、当初は当て字ではない漢語は主に漢字音のまま「テン(ム)ワン(ム)」と読まれたと思います。法隆寺本尊の薬師如来像光背銘に「大王天皇」と言う表記が見られるが、この読み方は訓・音混じりの「キミのテンワン」でしょう。

倭語の「きみ」は、『日本書紀』で「君」や「王」、「大王」、「天」、「皇」、「陛下」、「人主」、「元首」、「人君」、「王者」、「天子」、「帝」などの傍訓に当てられるほど使用範囲が広い称号であります。固有の文字を持たない当時の倭語は、まだ語彙が少なく同音異義が多い言葉であり、漢語ほど区別言葉も多くないので、広く上位の尊称として「きみ」が使われたものでしょう。実際上は、言葉ではなく、その場の状況や処遇で上下関係が区別されたと思われます。また、散文と異なり、音調を整える必要がある歌などの韻文には、「おほ・きみ」と四音節で使われることも多い。そして、「天皇」の世俗的呼び方(訓読みによる呼び方)であった「すめらみこと」が後に一般化した事が次の「令集解・古記」で読み取れます。

 *「「君(きみ)者、指一人、天皇是也。俗云、須賣良美己止(すめらみこと)。」

(「令集解・喪葬令・古記」)

 

5「制作年代」について

「制作年代」については諸説ありますが、「繍帳」銘文の使用文字には、「奇(が)」、「已(よ)」、「移(や)」、「里(ろ)」、「居(け)」、「至(ち)」などの奈良朝以後にはあまり見られない「漢字字音仮名」が使用されていて、これらの一部は、比較的時代の古い「稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘」などにも見られる「文字使い」です。

「文様式」で見れば、日本語の特徴である助詞は「乃」だけの使用で、漢語の「助字」の使用は、「之」、「而」、「与」、「等」、「者」などが使われていますが、中でも「之」が多く使われています。「勅許」によって作られた漢語文としては、素朴な感じを受けます。これは、文書化が一般化し、漢字漢語文が洗練されてくる奈良朝以後には、あまり見られません。

制作年代は、助詞の少なさや漢文の素朴さから見ても飛鳥時代(推古朝)の制作と思えます。

この部分の終わりに、「月中の兔」が「繍帳」に描かれていますが、これについて『法苑珠林』から抜粋します。  

「依西国伝云。過去有兔。行菩薩行。天帝試之。索肉欲食。捨身火中。天帝愍(あわれむ)之。取其焦兔。置月内<西国伝に云うには、過去に兔あり。(兔が)菩薩行を行う。天帝これを試す。肉をもとめ食する事を欲す。(兔はみずから)火中に身を捨てる(捨身)。天帝、これをあわれみ、その焦げた兔をとり、月の内に置く>」

太子も同じ菩薩行(捨身)を実践したと思わせます。

*【菩薩行】自ら悟りを求めて修行するとともに、他の物を救いに導こうと努める修行。

 

 

4 釈迦如来坐像光背銘

 

上宮太子が創建した法隆寺(若草伽藍址)は、天智天皇紀九年(670年)四月に「災法隆寺、一屋無餘」と全焼しました。現法隆寺は、仏教信者達による私的な再建寺であり、その本尊の「薬師如来座像」も復原仏と言われます。「薬師如来座像」は、飛鳥時代の仏像に似せてはいますが、飛鳥文化(7世紀全般)と言うより、白鳳文化(7世紀後半から8世紀初頭)のふっくらとした印象を見る人に与えます。一方、「釈迦如来座像」は、現法隆寺金堂に先の薬師如来座像とともに本尊として安置されていますが、本来は別な寺に安置され、火災を免れた仏像と思われます。この仏像の光背には、作られた由来や年代及び制作者が刻印されています。古代を知るための数少ない「金石文」としても一級品の資料と言えるでしょう。ここでは、その銘文の「釈文」から原文の「訳注」を試みます。

*【金石文(キンセキブン)】:金文と石文。金属や石に刻まれた文字・文章。

*【釈文(シャクブン)】:金石文に使われている文字を現在の文字に書きなお

 すこと。
 

<釈文>釈迦如来坐像光背銘

興元丗一年歳次辛巳十二月鬼

前太后崩明年正月廿二日上宮法

皇枕病弗悆干食王后仍労疾並

著於床時王后王子等及与諸臣深

懐愁毒共相発願仰依三宝当造釈

像尺寸王身蒙此願力転病延寿安

住世間若是定業以背世者往登浄

土早昇妙果二月廿一日癸酉王后

即世翌日法皇登遐癸未年三月中

如願敬造釈迦尊像竝俠侍及荘厳

具竟乗斯微福信道知識現在安隠

出生入死随奉三主紹隆三宝遂共

彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁

同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造

 

内容の概略は次のとおりです。

□太子の母である鬼前太后(穴穂部間人皇女)が辛巳(六二一)十二月に死去。

翌年の一月二二日に、太子が病で寝込み、太子妃の一人も心労により床につく。

太子の王后、王子等が病気平癒を願い、太子の等身大の釈迦像を作ることを発願。

翌月の二月二一日、床についていた王后死去。

その翌日(二月二十二日)、太子死去。

後の部分は、施主の願文部分。

 

  訳注の試み

読みやすくするために、「私見」で「釈文」に句読点と改行をほどこした「編集文」を「訳注」の「原文」とします。

 

「原文」

法興元丗一年、歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。

明年正月廿二日、上宮法皇枕病、悆干食。

王后仍以労疾並著於床。

時、王后・王子等及与諸臣深懐愁毒、共相発願、仰依三宝。

当造釈像尺寸王身、蒙此願力、転病、延寿、安住世間。

若是定業以背世者、往登浄土、早昇妙果

二月廿一日癸酉王后即世、翌日、法皇登遐。

癸未年三月中、如願敬造釈迦尊像竝俠侍及荘厳具竟。

乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死、随奉三主、紹隆三宝、遂共彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、同趣菩提。

使司馬鞍首止利仏師造。

 

「訳文」

法(仏法)の興りの元より三十一年。歳(ほし=歳星)が辛巳にやどる十二月に、キサキの太后(用明天皇の妻で太子の母)崩じる(死亡)。

明くる年の正月二十二日、上宮法皇は病に枕(まくら)して(病で寝込むこと)、食を取ることを楽しまず(食欲減退)。

(一人の)王后(太子の妻)が、さらに労疾で同時に床につく(寝込む)。

時に、王后や王子たちと諸臣ともに、深く愁毒をいだき、ともにあい発願し、三宝(仏教)に仰ぎ依る。

まさに、釈像(釈迦像)の寸法を王身に造り、この願力を蒙り、病を延寿や世間安住に転じさせるべし。

もし是の定業をもって(もし定業、是をもって)、亡くなれば、浄土に登り往って、妙果に早く昇らん。

癸未年(623年)三月中、願いの如く、釈迦尊像ならびに挟持を敬造して、荘厳に具えいたりておわる。

乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死、随奉三主、紹隆三宝、遂共彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、同趣菩提。

司馬鞍首止利仏師を使って造らしむ。

 

「語注」

法興元丗一年】:法(仏法)が興った元より31年。何をもって仏法の元とするかわからないが、法興元年は西暦591年(辛亥)にあたる。「日本書紀」で見れば、崇峻天皇元年の是歳条の「始作法興寺<法興寺を作り始める>」(推古天皇四年完成)このことを指すか。「法興元年」は、仏教信者にしてみれば、記念すべき年であろう。日本での公的年号は、「大宝」が初めとなり現在まで途切れることは無い。令制によって「公文書」は、年月日を書くように規定され、その「年」には「凡公文応記者、皆用“年号”」(「令義解・儀制令」)とされた。これ以前の年号は、「大化」を含めて特に規定が無い「私年号」の類い。所謂「年号」は主に仏教関係者によって使われ始めたと思われるが、日本では「私年号」を規制する規則は見られない。誰でも作れて、公年号との違いは、私年号はその直後に「干支年」が併記されるが、公年号は「干支年」を省略することができる。「干支年」は三国(日本、朝鮮、中国)の標準年紀。

【歳次辛巳】:辛巳年。西暦621年。推古天皇二十九年。

鬼前太后(きさきのタイコウ)】:『日本書紀』では「“母皇后”、曰穴穗部間人皇女」(推古天皇紀)と書かれる。「鬼前(きさき)」は「皇后」の仮名表記。「太后」は漢語表記で母親の尊称を意味する。「太后;封建時代帝王母親的尊稱<封建時代の帝王の母親の尊称>」(中国のネット字書「漢典」)。 用明天皇の皇后(きさき)で上宮太子の母親である穴穂部間人皇女を指す。「キサキ」の称号は夫である天皇没後も残る終身的称号。例えば、推古天皇は夫の敏達天皇が没した後でも『日本書紀』に「皇后(きさき)即天皇位」と書かれ、「皇后(きさき)」でもあり、「天皇(きみ)」でもある。「鬼前」の読みには『聖誉鈔下巻・法隆寺金堂中尊光後銘文云』に「きさき」の傍訓がある。

上宮法皇(ジョウグウホウオウ】:訓読みで「かみつみやノのりノきみ」。上宮太子(聖徳太子)。「法」の訓読みは「のり」で仏法を指す。「皇」の訓読みは「王」と同じで「みこ」か「きみ」。「用明天皇紀元年条」に「法主王(のりノうしノおほきみ)」とあるが、『古事記』以前の「王」の読み方は、主に「みこ」か「きみ」であろう。「古事記」で「王」と書かれる部分は、「日本書紀」で「皇子」と書き替えているが、傍訓は「みこ」。「上宮」とは『日本書紀』「用明天皇元年条」に「是皇子初居上宮(かみつみや)、後移斑鳩」とある(推古天皇紀九年に斑鳩に移ると言う)。

【枕】:まくらする(動詞)。「曲肱而枕之<肘を曲げてこれに枕(まくら)する>」(論語・述而)。*(日本の漢和辞典では「まくら“と”する」と訳しているものもあるが、「と」を付けたら「枕」が動詞にならない)。日本思想体系(岩波書店)『聖徳太子』の「上宮聖徳法王帝説」の解釈部分で「枕」を「沈」の誤字とするが、これはこの金石文ではあり得ない。また同書で「図書寮本舒明紀永治点」の例もあげるが、現物で釈文すべきであろう。

【弗(フツ)】:否定詞「ず」。直後の「悆」を否定。「不(フ)」は類義語。

【悆(ヨ)】:喜ぶ。豫(余)と同音。「周書曰:“有疾不悆”悆,喜也。」(説文解字)

【干食(カンジキ)】:「干」は、求める。求め取る。「干;求、求取 [seek for]」(漢典)。「食(ジキ)」は、たべもの。食事。「干食」を人名と解釈されることがあるが、多くの妃や王子がいる中で、一人だけ、光背銘に特定個人名を刻むことはないであろう。この銘文で個人名が刻まれているのは、上宮太子と仏像製作者の二人のみ。よって「干食」は漢語語法的にも「悆」の「目的語(補語句)」が妥当。『聖誉鈔』でも「干食を弗悆」と読む。

【王后(オウコウ)】:訓読みで「きさき(王の妻)」。上宮太子の妻は、45人いたと言われる。日本では「王」と「皇」は同音同義(*詳細は「天寿國繍帳」の所参照。)で、『日本書紀』で「皇后」の傍訓は「きさき」。上宮太子の名は『古事記・用明天皇段』で、用明天皇の御子として「上宮厩戸豊聡耳“命”」と書かれる。他の御子の尊号は「王」だが、太子だけは「命」と天皇に準じた尊号が使われる。公文書での「文字使い」が整理されるのは、「大宝律令」以降と思える。

【仍(ジョウ)】:さらに。そのうえ。「仍;接續、連續 [continue]」(漢典)

【労疾(ろうしつ)】:二字で「やまい」。「労」と「疾」は共に「病」。日本語の古語で「いたつき(労き、病き)」。心労による病を感じさせる。

【並(ヘイ)】:同時に。

【懐(カイ)】:(心に)いだく。

【愁毒(ショウドク】:悲しみや恨み。漢語で「愁毒」は「愁苦怨恨」(漢典)

【共“相”発願】:この中の「相」は、日本語で動詞の前に付く接頭語の「あひ」で、日本語的用法と思われる。

【三宝】:俗に「仏・法・僧」と言われるが、「仏と法」はわかるが「僧」はピンキリであろう。ここでは、「仏教」の尊称としたい。

【発願(ハツガン)】:神仏に願いをたてること。

【当】:まさに・・・べし。

【釈像(シャクゾウ)】:釈迦の像。

【尺寸(シャクスン)】:寸法。尺度。俗に「尺寸王身」とつなげる人もいるが、これでは意味不明となる。「釈像尺寸(を)、王身(に)」で、「尺寸」は被修飾語で「釈像」が修飾語となる。

【王身(オウシン)】:太子の身長。

【転病・・・】:ここの「転」は他動詞で「病」と「延寿・安住世間」はその目的語。「転病」で切る解釈もあるが、これでは「病」を「何」に転じるか意味不明となる。

【定業(ジョウゴウ)】:生き物に定まった業(ゴウ)。生まれ死ぬこと。生者必滅。「是定業以」とあるが、漢語語法的には「定業是以」が正しいかもしれない。

【背世(ハイセ)】:亡くなること。「死亡的婉辭<死の婉曲表現>」(漢典)

【妙果(ミョウカ)】:善根功徳によって得られるすぐれた果報。仏果。

【即世(ソクセイ)】:亡くなる。世を去る。

【登遐(トウカ)】:亡くなること。「登遐;常見於文言文。本意謂死者昇天而去<つねに文語文に見られ、本意は死者が天に昇り去ることを言う>」(漢典)

癸未(キビ)】:干支。みずのとひつじ。「癸未年」は西暦623年(推古天皇三十一年)。

【挟持(キョウジ)】:釈迦像を挟んで立つ脇侍仏を指す。この釈迦像の名は「釈迦三尊像」とも言う。

【及(キュウ)】:いたる(動詞)。「及;至也。」(廣雅)

【具】:そなえる(動詞)。

【竟(キョウ)】:おわる。

【乗斯微福~同趣菩提】:この部分は、仏教経典のような四文字語句が並ぶ。最後の「同趣菩提」は「同じく菩提に趣かん」。

【使(シ)】:使役動詞。

【鞍首止利(くらのおびととり)】:飛鳥寺(元興寺)釈迦如来像と同じ仏師。朝鮮半島から渡来した人であろう。「推古天皇十四年五月」に「勅、鞍作鳥・・・」と載る。

  

 聖徳太子はいなかったが厩戸皇子はいた」説について

1)「大山誠一説の矛盾」

大山誠一氏のこの説には、根本的な矛盾があります。「聖徳太子」と言うのは諡号であり、幼名は厩戸皇子であり、成人してからは上宮太子です。「諡号」とは、生前のその人の行迹を、生きている人が評価して付ける号です。ですから、もし「聖徳太子」が存在しなければ、その評価対象の「厩戸皇子(上宮太子)」も存在しません。

人は亡くなって、その実存を失えば、記録や記憶の中での存在でしかありません。さらに記憶している人も亡くなれば、もう記録上の存在のみです。そして、その記録さえも消えれば、その人は全ての存在を失い、いなかったことになります。逆に、偽書を造り、記録を偽造すれば、存在しなかった人も、存在したことになります。このように、歴史事象の生き証人がいなくなった歴史事情は、きわめて危うい存在で、残された史料の取り扱いは最も重要になります。その取り扱いの中で、「偽書、誤字、脱字、衍字、竄入等の選別」と「史料読解」の二点が特に重要となるでしょう。極端に言えば、歴史研究は、史料読解に始まり、読解に終わると思います。

日本最古の史書は、『古事記』と『日本書紀』ですが(二つ併せて「記紀」とも呼ばれます)、『古事記』は、「雄略天皇記」を堺にして、系譜記事が主な内容となり、推古天皇の時代を知るには、「釈迦如来坐像光背銘」などの金石文を除けば、『日本書紀』と『隋書・倭国伝』の二つが重要な史料となるでしょう。

また、大山誠一氏は『日本書紀』で聖徳太子が誕生したと言いますが、それはあり得ないのです。なぜなら『日本書紀』は、天皇や史官など関係者以外には非公開で、その内容を世間で知ることはできません。

 *『日本書紀』の関係者以外への「講書会」は、「弘仁三年」(『日本後紀』)から始まる。『日本国見在書目録』や『外記勘申』にのる「養老五年の講書」については、その内容を知る記録はありませ。つまり、『日本書紀』の完成直後の「講書会」は、発注者である太上天皇(元明)や元正天皇など関係者だけで行われたと思われる。*詳細は『弘仁私記・序』参照。

所謂「史書」とは、世間から多くの情報(情報源)収集し、それを取捨選択して成立します。彼の言い分のその逆です。

次に「記紀」の実態に少しふれます。

 

2)「記紀(古事記と日本書紀)」の実態。

「史書」は、過去の実見や再現化できない一回性の歴史事象を扱いますので、その元情報(記録)が無いと編纂できません。中国では紀元前より天子に史官がついて、天子の言動を「起居注」などで記録してきましたが、令制以前の日本の王家には史官が無く、その役割を果たしてきたのが、王家に奉仕してきた氏族達の記録でしょう(身分制度下では、先祖の王家への功績が最重要となります)。だから「古事記序文」で「諸家之所齎帝紀及本辞<諸家がもたらす帝紀と本辞>」と言います。同書序文で、天武天皇は、自ら諸家の伝承を取捨選択して、新たに「系譜や古事」の編纂を(稗田阿礼の記憶能力を使って)、古来の「口伝承形式」で試みたとされます。しかし『日本書紀』では、天武十年に「文書形式」での編纂を目指したとされますので、「口伝承形式」の編纂は途中で放棄されたと思われます。放棄されるまでの記憶は、稗田阿礼の頭の中に残されたままですが、後に、これは、元明天皇の勅を受けて、和銅五年(712年)に、太安万侶の筆録により、『古事記』として完成します。天武天皇が目指した「文書形式」の「史書」も『日本紀』(日本書紀)として、養老四年(720年)に完成します(詳細は「弘仁私記序」を参照)。「六国史」と言われる勅撰史書で『日本書紀』は最古ですが、一番出来が良くないと言えましょう。なぜなら、文章に必要以上の華美を求め過ぎたため、漢籍や仏典の借用文が多くなり、全体の文体もバラバラです。その中で一番の欠点は、暦法による暦日が無い時代の情報にも架空の暦法で架空の暦日を付けたことでしょう(神武東征の始まりを「是年太歳甲寅」と記します)。公的記録に架空の日付を付けることは、かりに体裁を整えるためであったとしても、公文書改竄に当たるでしょう。

「記紀」など所謂「史書」は、基本的に非公開で(そもそも「史書」とは「百王之亀鑑」と言われる帝王学の書です)、その中で『日本書紀』は、嵯峨天皇の英断に依って、人を限って、部外者に、初めて公開され、それが弘仁三年(812年)と言われます(「弘仁私記序」に、当時、怪しい民間の「年代記(歴史書)」の類いが数多くあったと言う)。しかし、明治になるまで、『古事記』や「六国史」などを使った「国史教育」は、公的教育機関で行われません。「記紀」を国民へのプロパガンダとして利用し始めたのは明治政府が最初でしょう。

中国でも官学で「国内史」を取り入れたのは「唐(玄宗皇帝)」の頃からと言います。

*「經籍、國之典也。國之利器、不可以示人。(中略)侍中裴光庭等曰・・・混一車書、文軌大同、斯可使也。上曰、善。乃以經書賜與之。」(唐会要開元十九年(731))

【混一(コンイツ)】:ひとまとめにする(動詞)。【文軌(ブンキ)】:文と軌(わだち)

 

3)『隋書・倭国伝』について

中国の勅使が倭国に来訪し、国状を実見したのは、隋使の前では「魏志倭人伝」の魏使しかいません。隋使達は、この「魏志倭人伝」を予備知識として「倭国」に向かったと思われます。『隋書・倭国伝』の冒頭部分は、魏使記録の検証にもなっています。

『隋書・倭国伝』の内容は、倭王が「天子」号を使ったことや、「皇后が天子(きみ)」で、「太子」がいて、天子の務を代行(摂政)していた事も記載し、『日本書紀』など日本側史料と大きな矛盾はありません。

次に大山誠一氏が『隋書・倭国伝』で誤解している部分の抄訳を下記に載せます。

 

    倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」<倭王の姓はアマ、字(あざな)はタリシヒコ、号はアヘキミ>

大山氏は、ここで「阿輩雞彌」を俗説のまま「おほきみ」と読んでいますが、「阿輩」は「おほ」とは読めません。上文で「阿毎」の「阿」が「あ」であれば、「阿輩」の「阿」も「あ」です。「輩」は「背」と同音(正韻)で、倭語の「へ」に相当し、「あへ・きみ」となります。これを日本側の漢字表記にしますと「“食”天皇(あへ・きみ)」となり、当時、この「号」を持てるのは「豊御“食”炊屋比賣命(推古天皇)」しか該当しません。

 *「あへ」:食や饗。安倍とも表記される。『日本書紀』景行天皇十八年三月の条に「依獻大御食而其族會之」とあり、ここの「大御食」の傍訓に「おほ・み・あへ」とある。

 *「君(きみ)者、指一人、天皇是也」(「令集解・喪葬令・古記」)

また、日本の王家に「姓」や「字(あざな)」の習慣はありませんので、現地の通訳が王家の家系の称号を「姓」と「字」に分解したと思われます。「阿毎・多利思比孤」は「あまたりしひこ」で、この倭語の「漢字音」表記を日本側の「漢字」表記に戻せば「天帯(又は足)日子」となります。『古事記』の「孝昭天皇記」に「天押帯日子命」や「大倭帯日子国押人命」などがあります。「日子(ひこ)」は「孫」(倭名類聚抄)ですので、通して言えば、「天よりたれてきた孫」で、王家の家系が「天孫」系統である事を意味するものでしょう。

 

    「倭王以天爲兄、以日爲弟」<倭王は天を兄とし、日を弟となす>

大山氏は、高祖が「おおいに義理なし(太無義理)」と批判した所は、ここだと言いますが、この部分は異国の宗教的観念であり、中国でも「天子父事天、母事地、兄事日、姉事月<天子は天に父事し、地に母事し、日に兄事し、月に姉事する>」(『獨斷』)と言いますので、特に問題にするところではありません。この後の日出便停“理務”、云委我弟<(倭王は)日の出に理務を止め、(あとは)我が弟に委ねよと言う>」が「此太無“義理”。於是訓令改之<此れでは、おおいに義理無し。それで訓令して改めさせる>」ということでしょう。ここでの「義理」は実務的な意味と思います。ただ、「我が弟に委ねよ」の文言で、当時の政治は、「日本書紀」が言う「摂政的政治形態」であったことがうかがえます。

 *【理務(リム)】:政務の仕事。「處理政務<政務を処理すること>」(漢典)。

*【義理(ギリ)】:「・・・吏以文法教訓辨告、勿笞辱。(注)師古曰;辨告者、分別“義理”以曉喩之<弁告とは、義理を分別し、もって諭すこと>」(漢書)。

 

    「王妻號雞彌,後宮有女六七百人。」<王妻はキミと号し、後宮に女(采女)を六七百人たもつ>

大山氏は、ここから倭王は男性と判断していますが、ここで性別の判断がでる文言は「“女”六七百人」の「女」だけです。この女の人数は「魏志倭人伝」の「卑弥呼・・・以婢(女)千人自侍」この記事を意識したものと思えます。

日本では「王妻」を「皇后」と書き、「きみ」は天皇と書き、「推古天皇紀」では「皇后即天皇位」と書かれます。

 *「君(きみ)者、指一人、天皇是也」(「令集解・喪葬令・古記」)

 

    「名太子為利歌彌多弗利<太子を利歌彌多弗利と名付ける>*ここの「為」は、介詞(前置詞)で助詞の「と」に訳しました。

「利歌彌多弗利」とは、太子の個人名ではなく、人々から呼ばれた社会的な名称と思いますが、このままでは意味不明です。日本の古語には、ラ行から始まる言葉は無いと言う理由から「利」を「和」に校勘するのが一般的ですが、中国の中華書局版『隋書』には校勘の対象になっていません。どちらにしても日本語古語(倭語)を漢字で音写した文言ですから、倭語としては、誤字や脱字が疑われます。ただ、漢語の「太子」の概念が、当時、倭国でも使われていたことは確認出来ます。

個人的には「利」は「和」と思いますが、他に「多」と「弗」の間に「」を補い、「和歌彌多弗利」として、「若・皇霊・振(わか・みたま・ふり)」ではないかと思います。「皇霊」とは、「景行天皇紀」に「皇霊之威(傍訓:みたまのふゆ)」とあるように、天皇の精神的権威を言い、「ふり」とは「振る舞い」を言いますので、「わか・みたま・ふり」とは「若き天皇のような振る舞い」ではないかと想像しますが、まだ確たる根拠はありません。

ちなみに、現代で「霊」と言えば、殆どが「死霊」を意味しますが、古代は逆で「生霊」を主に言い、祭祀の対象は神で、人の「死霊」を祭る概念は、帰化人を除けば、まだほとんど見られません。日本の「律令」でも中国のような先祖の死霊を祭る「廟(みたまや)」の概念はありません。

 

    「既至彼都。其王與清相見、大悦曰「・・・・」<彼の都に到達した。その王は、清と対面し、大いによろこんで曰わく・・・・と>

「語注」

【既至(キシ)】:ここの「既」は、時間的な「すでに」ではなく、旅程的に「尽くす」で「到達」。

【彼都】:「魏志倭人伝」に云う所謂「邪馬臺」の都。隋使たちは、正しくは「邪摩堆」だと主張する。「都於邪摩堆、則魏志所謂邪馬者也」(隋書・倭国伝)。この違いは、魏使と隋使の間に約350年の隔たりがあるために、漢字の音韻が変化したためと思われる。

【清】:勅使の裴世清。

【相見(ソウケン)】:対面(動詞)。対面と言うが、その位置関係の距離は言わない。互いに言葉を交わすにしても、日本語と中国語では直接対話は無理。実際は、遠く距離をとった、通訳的仲介者を通しての対話であろう。その詳細は、日本側史料の『日本書紀』を見る必要がある。そもそも日本の王は、「魏志倭人伝」にも「自為王以来、少有見者<王になってより、見える者少なし>」と言われる様に、即位すると清浄に保たれた空間に隔離される。

大山氏は、ここの文から、「倭王と裴世清は明らかに面会し、さらに饗宴をともにし、言葉も交わしているのである。その倭王が女帝であるはずがあろうか」(大和書房出版『聖徳太子の実像と幻像』所収「厩戸王の実像」)と、さも見てきた様に言われるが、史料には、「饗宴」に倭王が出た記録や、再度の対面記録もありません。

歴史研究者は、事実関係は史料に語らせ、饒舌な講釈師になってはいけないと思います。

 

5・『日本書紀』での太子の記述

 5-1・『日本書紀』とは

『日本書記』の中の太子関連記述を検討する前に、おおざっぱでありますが、『日本書紀』について、少しふれてみたいと思います。

『日本書紀』は、『日本紀』とも言われる漢語漢文形式の勅撰史書で、「六国史」の第一を為します。舎人親王らが元明天皇の勅を受けて編纂し、元正天皇の養老四年(720)に完成します。内容は、神話の時代(神代)と神武天皇~持統天皇(人代)までの天皇の事跡を中心にし、編年体で記述されます。

所謂「史書」とは、「国史既善悪必書<国史;過去の善悪は必ず書かれる>」(『貞観政要』)や「百王之亀鑑(キカン)」(『日本後紀・延暦十六年』の「続日本紀上表文」)といわれ、「帝王」が学ぶ「帝王学の書」で、基本的に関係者以外には非公開が原則です。そして、日本の「記紀(古事記と日本書紀)」や「六国史」は、中国の「帝紀」・「列伝」・「志」などを伴う「正史」と異なり、天皇家の個人情報を扱う「家伝」に近いものと言えます。その為、完成後も関係者以外に披露する事は基本にはありませんでした。

 *『日本書紀』だけは、関係者以外への「講書会」が、弘仁三年(812年)頃から始まります。(詳細は『弘仁私記序』参照)

「正史」が世に流失するのは、中国では、頻繁に起こった王朝興廃の間隙と思えます(唐朝以降は「正史」が学科として官学に設けられる)。日本では、古代から戦前まで一つの王朝が続きましたので、王朝の興廃ではなく、その権威の衰退に伴って世に流失したと思います。その結果、近世には古史研究を基本とした「国学」が誕生します。『日本書紀』の全巻が世に出版され始めるのも江戸初期と言われます(慶長15年の古活字版)。「国内史」としての「歴史教育」が公教育に採用されるのは明治以降です。

 

『日本書紀』の成立過程

次に『日本書紀』と『続日本紀』の中で編纂に関連する記事を下記に抜粋します。

   『日本書紀』天武天皇十年(六八一)三月丙戌(十七日)

 「天皇御于大極殿。以詔(担当者名省略)令記定帝紀及上古諸事。」

<(天武)天皇は大極殿に御して、詔によって(担当者名省略)らに、帝紀と上古諸事を記し定めさせる>

*この「文書形式」の「系譜と古事」編纂は、完成に至りません。恐らく同年に命じた「飛鳥浄御原令」編纂が優先されたかもしれません。しかし、この「法典(令)」の編纂も天武天皇の存命中には完成に至らず、次の持統天皇の時代に完成します。これ以前の天武天皇自身による稗田阿礼の記憶力を利用した「勅語」による「口伝形式」での「系譜と古事」(後の『古事記』)編纂も、この「文書形式」への変更で、途中で放棄されたと思われます。

  『日本書紀』持統五年(六九一)八月辛亥(十三日)

 「詔十八氏上進其祖等墓記。」

 <十八氏(有力氏族)に命じて、その先祖らの墓記(系譜記録)を上進させる>

 *令制以前には天皇の記録を残す史官はなく、神話や天皇の世継ぎや事跡は、天皇に奉仕してきた有力氏族の系譜や家伝に記録されたと思います。「古事記」の序文に「諸家之所齎帝紀及本辞」と言います。この時代の各氏族の記録は、既に「口伝形式」から「文書形式」に移っていたと思われます。

 

  『続日本紀』和銅七年(七一四)二月戊戌(十日)

 「詔從六位上紀朝臣清人・正八位下三宅臣藤麻呂、令撰國史。」

 <(元明天皇は)從六位上紀朝臣清人・正八位下三宅臣藤麻呂に命令し、国史を選ばせる>

 【撰(セン)】:えらぶ。編集。

 

   『続日本紀』養老四年(七二〇)五月癸酉(二十一日)

 「一品舍人親王奉勅、修日本紀、至是功成、奏上紀卅卷・系図一卷。」

 <一品舍人親王は勅を受けて、『日本紀』をおさめ、是に至って完成し、日本紀三十巻・系図一巻を(元正天皇に)奏上(ソウジョウ)する。>

 【修(シュウ)】:おさめる。編纂(資料を添削して編集し、すらりとした書物の形に整える)。

*『日本書記』の最初の「講書会」と言われる、所謂「養老五年の講書会」の内容は、『続日本紀』などに一切記載されませんが、この講書会は、発注者である天皇(皇室)に対してのみ行われたと思われます。尚、詳細は「弘仁私記序」を参照。

 

  『古事記』について

『日本書紀』より前に作られた『古事記』も(変則的漢文と言われるが)基本的には、漢語漢文形式での勅撰史書(全三巻)です。これは、元明天皇の命令で、稗田阿礼が記憶していた「勅語(天武天皇の言葉)」の「古語」を太安万侶が聞いて、それを漢語漢文に翻訳(翻訳できない倭語は漢字音を利用した仮名表記)して和銅五年(712)に完成します。記述範囲は、神話と神武天皇から推古天皇までです。しかし、雄略天皇より後は、系譜が主な記事となっており、途中で放棄された状態のままで(稗田阿礼が記憶している範囲で)献上されます。その序文に「上古之時言意並朴、敷文構句於字即難<上古の言葉と意味は、ともに素朴で、漢語漢文形式で文書化することは、文字に於いても難しい>」と言いますが、これは「古語」や異言語間の翻訳の難しさを言うものでしょう。

*「稗田阿礼(ひえだのあれ)」:舎人の中で、紅一点の舎人。無学で無位無冠でありながら、天皇(天武天皇や元明天皇)に近習し、勅語を直接聞くことが出来るのは、男子ではなく女子(采女)と推定できます。しかも、采女でありながら天皇の護衛的な役目もある舎人」と言われるのは、猿女(さるめ)しかいません。

*「舎人(とねり)」:「天皇・皇族などの身近に仕えて、護衛・雑役・宿直などに携わる下級の役人。」(学研古語辞典)。

*「猿女(さるめ)」は宮中で、神楽を踊る巫女的采女。その由来は「天孫降臨神話」の天宇受売命(あめのうずめのみこと)にさかのぼります。彼女は、降臨途中の天孫を猿田毘古(さるたひこ)から守り、この男神を海中に溺死させます(「古事記」に「沈溺海塩」と言う)。その結果、「是以、猿女君等、負其猿田毘古之男神名而、女呼猿女君之事、是也。<この結果、猿女の君らは、その猿田毘古の男神の名(猿)を負って、女が猿女君と呼ばれる事は是なり>」(古事記)と言い、「天宇受売命者、猿女君等之祖<あめのうずめのみことは、猿女の君らの祖(始祖)」(古事記)と言われます。つまり、天宇受売命の系譜は、男系社会の中で唯一特殊な「女系」であったと思われます。

*「采女(うねめ)」:「古代以来、天皇のそば近く仕えて食事の世話などの雑事に携わった、後宮の女官。」(学研古語辞典)

 

『古事記』本文の特色は、

1)情報源は、稗田阿礼が記憶する天武天皇の勅語の範囲で、異説は少ない。

2)各天皇の世ごとに整理し、年月日はほとんど使われない。

3)情報源が稗田阿礼が記憶した古語による「勅語」であり、その漢語への翻訳が主体ですが、文は、その「勅語」を尊重し、漢文的華美を求めず、素朴で飾りっ気が少ない。

  *「謹随詔旨(中略)然上古之時言意並朴」(「古事記序文」)

4)翻訳が難しい倭語は、画数の少ない世の通用的漢字で音写している。

5)太安万侶一人の手で文書化しているので、全体的に文体のバラツキ感はない。

以上と思います。元明天皇は『古事記』(和銅五年)の完成後に、「風土記」撰進(和銅六年)や「国史」編纂(和銅七年)を命じます。

『日本書紀』は「六国史」と比べても文に過剰な華美が見られ、画数の多い漢字を使い、漢籍や仏典の借用で文を飾る傾向も見られます。恐らく日本最初の中国風「史書」を作ると言うことで、気負いが強すぎたのかもしれません。また執筆が複数人以上によるためと雖も、各巻の文体のバラツキも目立ちます。

 

『日本書紀』の暦日(日付)について

小川清彦著『日本書紀の暦日に就いて』(内田正男編著『日本書紀暦日原典』所載・雄山閣出版・昭和五十三年・P.362の「日本書紀暦日の記載方の特徴」で、次のように言います。
 「日本書記には約900個の月朔が載っているが、その記載方には一種の特徴があることに注意される。それは或る月に何等かの記事があれば必ず先ず月朔が添記されてあることである。かような暦日の書き方は支那の漢書を初め隋書に至まで見受けぬところであり」(中略)「日本紀に月朔が一々丹念にくどいばかりに添記してある事実そのことが筆者をして、その推算結果に外ならないであろうことを推定するに十分な資料であると思わししめるのである。」

『日本書紀』の記事は「中国暦」の太陰太陽暦の「年月日」により整理され、記述されていますが、「日付」は数詞ではなく、その月の基準日としての月朔(ゲッサク・月のついたち)の「干支」と記事当日の「干支」で記されています。この方法は「中国暦」の使用のない神武天皇の時代から始まっていますので、当然ながら後付と言うことがわかると思います。もちろん日付により客観性を持たせたからと言っても、その記事の信憑性とは別な話です。

*【太陰太陽暦】その「月」の基準は月齢にしたがい、一年は太陽の周期を基準とした暦法。現在は「太陽暦」で、その「月」の始まりと月齢とは関係がありません。

*【干支】「十干十二支」の略。十干と十二支を甲子・乙丑(イッチュウ)・丙寅(ヘイイン)というように組みあわせて年・月・日・時に当てて用い、六十で一周する。

 

古代人の穢(エ・けがれ)について

『日本書紀』の太子関連のある部分には、「穢」のイメージが付加されている様に思いますので、その古代の「穢」の観念について少し触れてから、本論に移りたいと思います。
 「穢」とは古代から現代にまでつながる「死人」等に対するある種の忌避の観念で、今でも葬儀の帰りで、自宅に入る前に身体に塩をふりかける「お清め」と言う習慣に残っていますが、宗教心のより強い古代においては重要な日常的価値観であったと思います。この「穢」に相対するものが、「神事」の場に見られる「清浄」観念でしょうか。神事の前に身を清める観念は、日本だけでなく世界の各宗教に共通して見られるものと思いますが、特に日本では、やや潔癖症的なところがあると思います(後に「延喜」式に見られる「触穢」に発展します)。
 古代日本の最古の「穢」の観念は、『三国志』「魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳」(魏志倭人伝)の中でも見ることができます。
始死停喪十餘日。當時不食肉。喪主哭泣。他人就歌舞飮酒。已葬。舉家詣水中澡浴。
<始め死すれば、喪にとどまること十餘日。時に当たり、肉を食らわず。喪主は哭泣し、他の人は歌舞飮酒につく。すでに葬(ほうむ)れば、家をあげて水中に至って、澡浴す。>

これは、イザナギが「よみの国(死者の国)」から帰った後に、そこを「穢(きたなき)国」と言い、水中で「禊祓」を行った「古事記神話」に対応し、3世紀の日本には既に「死人」に対する「穢」の観念が見られると思います。また同書の「天若日子(あまのわかひこ)」の死に関する神話で、親友の「阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)」が弔いに訪れ時、姿形が似ていた為に、親族から「天若日子」が生き返ったと間違えられて、彼が激怒する場面があります。その時、「阿遅志貴高日子根神」は、「我者愛友故、弔来耳<我が愛する友ゆえに、弔い来たるのみ>」(倭文体)と言い、「何吾比穢死人云<なぜ吾を穢き死人と比べるのか>」(倭文体)と言い放ちます。ここにも同じように「死体」に対する「穢」の観念が見られます。
『延喜式』から「触穢」について一部抜粋します。
『延喜式』「神祇式 臨時祭」
凡触穢悪事応忌者。人死限卅日(自葬日始計)。産七日。

<およそ穢悪の事にふれ、忌むべきは、人の死は三十日を限りとし、お産は七日とする。>

凡弔喪。問病。及到山作所。遭三七日法事者。雖身不穢。而当日不可參入内裏。

<およそ喪を弔い、病を問い、及び山(陵墓)を作る所に到り、三七日法事にあう者は、身は穢れずとも当日は内裏に参入すべからず。>

*触穢」とは、平安時代以降に、古代の「穢」の観念を発展させたもの。

「死」だけではなく「お産」も「触穢」の対象となります。

 

5-2・敏達天皇紀での記述

上宮太子の記述はここから始まりますが、ここでは、上宮太子の正妻と思われる人の名が記載されるのみです。

 

「原文」

<敏達天皇紀五年(576年)三月>
詔立豐御食炊屋姫尊爲皇后。

是生二男五女。
其一曰菟道貝鮹皇女、更名菟道磯津貝皇女也。

是嫁於東宮聖徳。

「訳文」

詔(みことのり)して、豊御食炊屋姫尊を皇后に立てる。

これは、二男五女を産む。

その最初の子は、菟道貝鮹皇女で、またの名を菟道磯津貝皇女と言うなり。

これは、東宮聖徳(上宮太子)に嫁ぐ。

 

「語注」

【豊御食炊屋姫尊】:とよみけかしきやひめのみこと。推古天皇。父は欽明天皇。母は蘇我稲目宿禰の娘の堅塩姫(きたしひめ)。

【菟道貝鮹皇女】:うぢのかいだこのひめみこ。「古事記」には「貝蛸王」。太子の妃はおそらく四人で、そのうち唯一の皇女である彼女が正妻であろう。『日本書紀』で、上宮太子の妃の名前が書かれるのは彼女だけ。『上宮聖徳法王帝説』では、太子の妃として、膳部臣(かしわでのおみ)の娘と蘇我馬子宿禰の娘と尾治王(をはりのみこ)の娘の三人だけが書かれる。恐らく正妻との間には「子」がなく、上宮太子の子孫を述べる所では、彼女は割愛されたものと思える。そして、法隆寺の釈迦如来座像の光背銘に書かれる太子より一日先に亡くなった「王后」とは、彼女の事であろう。なぜなら他の二人の王后達は、太子没後の史料に登場し(膳部臣の娘は「法輪寺の檀越」、尾治王の娘は「天寿国繍帳の発願者」)、馬子の娘(刀自古郎女)は、山背大兄王の母である。

【菟道磯津貝皇女】:うぢのしつかいのひめみこ。「古事記」には「静貝王」。敏達天皇紀四年に、最初の皇后廣姫の産んだ子も「菟道磯津貝皇女」と書かれるが、「古事記」では、彼女が産んだ皇女は「宇遅王(うぢのみこ)」と書かれる。この皇女と間違えた可能性がある。

 

5-3・用明天皇紀での記述

太子関連では、系譜や名前が主な内容です。

太子は用明天皇を父とし、穴穗部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母として生まれた第一子です。太子の名前は「廐戸皇子(うまやどのみこ)」、「豊耳聰聖徳(とよみみとのショウトク)」、「豊聰耳法大王(とよとみみののりのきみ)」、「法主王(のりのぬしのきみ)」と四つほど記述されています。「太子」に関しては、生前、死後と色々な「名」が付けられていますが、「名」とは、対象を他と区別すると同時に、その属性を表現するものと思いますので、「名」が多くあると言うことは、王の子であり、賢い子であり、太子であり、仏教の守護者でもあるなど、多面性を持つと言うことであると思います。

又、日本語には、それを表現する固有の文字がなく、漢語の漢字を借りて表現されます。このため当初は漢字とそれに対応する日本語は一対一の関係ではなく、史料により、まちまちな使用例があります。ちなみに『元興寺伽藍縁起』所載の塔の露盤銘での太子の名の表現は、「有麻移刀等巳刀弥々乃弥己等(うまやととよとみのみこと)」です。

 

「原文」

<用明天皇元年(丙午)(586年)正月>
立穴穗部間人皇女爲皇后。

是生四男。
其一曰廐戸皇子。更名豐耳聰聖徳。或名豐聰耳法大王、或云法主王。
是皇子初居上宮。後移斑鳩。
於豐御食炊屋姫天皇世、位居東宮、總攝萬機、行天皇事。

 

「訳文」

(用明天皇は)穴穗部間人皇女を皇后に立てる。

これは四男を産む。

その最初の子は廐戸皇子。またの名は豊耳聰聖徳。(世間の)ある人々は豊聰耳法大王と名付け、ある人々は法主王と言う。

この皇子は、初め上宮に居し、後に斑鳩に移る。

豊御食炊屋姫天皇の世に、東宮に(太子として)位居(イキョ)し、国政を総摂(ソウセツ)し、天皇の事を行う。

 

「語注」

【用明天皇】:橘豊日天皇。「古事記」に「橘豊日命」。父は欽明天皇。母は蘇我稲目の娘堅塩姫。

【穴穗部間人皇女】:「古事記」に「間人穴太部王」。父は欽明天皇。母は稲目の娘小姉君。

【豊耳聰聖徳】:「廐戸皇子」と同じく上宮太子の幼名。「古事記」では「上宮廐戸豊聰耳命」。「聰(ソウ);{形容詞}さとい。耳がよくとおる。」(学研漢和大字典)

【或】:ある人々。不特定の人々を指す。「或:泛指人或事物<ひろく人や事物を指す>」(漢典)。漢語古語の代名詞は、それが複数か単数かは文意によって決まる。「複数與単数用同一形式<複数と単数は同一形式で用いられる>」(孫常叙著『文語語法・代詞』)。ここでは仏教信徒らによる呼称であろう。「隋書・倭国伝」では、「名太子為利歌彌多弗利(和歌彌多摩弗利か?)」と言う。

【上宮】:飛鳥の岡本宮(推定)。

【斑鳩】:いかるが。鵤とも書く。斑鳩の地のシンボル的寺である「法隆寺」は「法隆学問寺」とも言われる。俗世の飛鳥から少し離れた所に仏都を築いたのであろう。「凡僧尼有禅行修道、意楽寂静不交於俗<およそ僧尼は禅・修道をたもち、こころは、静寂をたのしみ、俗に交わらず>」(僧尼令)。太子は世俗の身で仏法を学び、「俗世の飛鳥」と「仏都の斑鳩」の間を直線的に設けられた「太子道」を通って行き来した。大山誠一氏は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房出版)所収の「厩戸王の実像(P320)」の中で「私はやはり、皇太子的立場で国政に参与するなら、何も遠い斑鳩に居を移す必要はなかったと考える」と言われるが、これは表層的考えである。「太子道」は考古学的に推認され、「隋書・倭国伝」にも「日出便停理務、云委我弟<(倭王は)日の出に理務を止め、(あとは)我が弟に委ねよと言う>」とあり、太子が倭王の代わりとして政務(理務)を執っていたと記される。

【東宮】:皇太子の宮殿。

【總攝(ソウセツ)】:ふさねかわる。すべてかわる。摂政。

【萬機(バンキ)】:国政。

 

 

蘇我・物部戦争(内乱)への発端

用明天皇紀では、後の蘇我・物部戦争(内乱)へと発展するその発端を次のように記述しています。

 「原文」

<用明天皇二年(丁未)(587年)四月丙午(二日)>
新甞於磐余河上。
是日天皇得病、還入於宮。
群臣侍焉。

天皇詔群臣曰;朕思欲歸三寶。卿等議之。

群臣入朝而議。
物部守屋大連與中臣勝海連違詔、議曰;何背國神、敬他神也。由來不識若斯事矣。
蘇我馬子宿禰大臣曰;可隨詔而奉助。誰生異計。
於是皇弟皇子(皇弟皇子者穴穗部皇子。即天皇庶弟)引豐國法師(闕名也)入於内裏。

物部守屋大連耶睨大怒。

 

「訳文」

新苗(にひなへ)を磐余河のほとりで奉る。

この日に、天皇は病をえて、宮殿にかえる。

 *用明天皇は七日後の九日に崩御。「古事記」は十五日と言う。

群臣らが侍らされた。

天皇は、群臣らに、命じて曰く「朕は、三宝(仏教)に帰依したいと思う。卿らはこれをはかれ」と。

群臣らは朝廷(朝議の場)に入って議論した。

物部守屋大連と中臣勝海連は、天皇の命にそむいて、あれこれと文句を言って曰く、

「どうして国神に背いて、他神を敬うのか。もとより、かくの如きことは知らんぞ。」と。

蘇我馬子宿禰大臣は曰く、「天皇の命に随い、助け奉るべし。誰が、(詔と)異なるはかりごとを生すのか」と。

ここに、皇弟皇子(皇弟皇子は穴穗部皇子。即ち天皇の腹違いの弟)が豊國法師(名を欠く)を

引きて、内裏に入る。

物部守屋大連は、(これを)拗けた目で視て、(内心)大いに怒る。

 

「語注」

【御】:たてまつる。通説では「御」を「食べる」と解釈するが、ここは「奉る」であろう。「神祭」とは、基本的に神に飲食物などを奉ることで、自分が飲食することでは無い。「御;進獻」(漢典)。「御食於君<食を君に奉る>」(禮記·曲禮上)。また「聞看(きこしめす)」も「聞見(見聞)」であって、「食べること」を意味しない。

【新甞(シンジョウ)】:にひなへ(新苗)。通説では「新嘗祭」と解釈するが、「新嘗祭」は「仲冬(11月)」の祭りで、四月の祭りではない。旧暦の四月は「孟夏(初夏)」にあたり、おそらく「神祇令」に言う「大忌祭(おほいみのまつり)」であろう。この祭りは「令義解・神祇令」に「欲令山谷水變成甘水、浸潤苗稼、得其全稔<山谷の水をして、甘水に成り変わらせ、苗稼(稲の苗)を潤い浸し、その全き稔りを得られることを望む>」と言う。季節ごとの祭祀は、その時期を逸すれば、怠慢であり、神事の懈怠は神の祟りを招くと信じられた時代にあっては、許されない事であろう。『令集解・神祇官』に「神祇者人主之所重(中略)無所不帰神祇之徳<神祇は人主(人君)が重視するもので(中略)神祇の徳に帰さざるものは無い>」という。もし、天皇親祭で天皇が出席できない場合は、「新嘗祭、神今食(じんごんじき)、無行幸之時、只宮主・采女二人於北舎、執行」(『宮主秘事口伝』)と、宮主と采女とで代行すると言う。「宮主(みやじ)」とは天皇に常時近習する神官。「采女(うねめ)」も同様に近習する女官。

【磐余河上】:いはれがはのほとり(磐余川の辺)。「磐余河」は現在の寺川か。ここの「上」は「ほとり」。「上;辺,畔 [side]」(漢典)。天武天皇以降の「大忌祭」は、「祭大忌神於廣瀬河曲」(天武天皇紀四年四月)とあり「広瀬河」で祭る。

【詔(ショウ)】:みことのり。天皇の命令。天皇のことば。

【群臣侍】:目的語が主語の位置に来ると受動文となる。

【議(ぎす)】:あれこれと、理屈や文句をつける(動詞)。前二つの「議」は、はかる。

【由來(ユライ)】:もと。もともと。

【皇弟皇子】:きみのおとみこ。天皇の弟にあたる皇子。「(皇弟皇子者穴穗部皇子。即天皇庶弟)」は編纂者の自注。

【豊國法師】:とよのくにのホウシ。豊の国とは現在の大分県あたり。後に「豊前」、「豊後」と二国に分かれる。『古事記』に「次生筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四(中略)豊国謂豊日別」と言う。

【闕(ケツ)】:かく。かける。同義語は「欠」。「(闕名也)」とは、情報源の文書に名前が載っていないと言う編纂者の注釈。

【内裏(ダイリ)】:皇居。基本的に内裏は清浄の場であり、勅許が無いと法師は入れない。『延喜式』「神祇式 臨時祭」には「凡祈年。賀茂。月次。神甞。新甞等祭前後散斎之日。僧尼及重服奪情従公之輩。不得參入内裏。<およそ祈年、賀茂、月次、神甞、新甞等、祭りの前後、散斎の日は、僧尼及び重服奪情従公の輩は内裏に参入を得ず。>」と言われる。
【耶睨(ヤゲイ)】:「耶」は、岩波書店の「日本古典文学大系新装版」では「邪」とする。「耶睨」では意味不明だが「邪睨(ジャゲイ)」だと、「拗けた目で視る」となり意味が通る。「睨;視也」(説文)。

 

 「新嘗祭(にひなめさい)」について

古代の代表的祭祀である「新嘗祭」について少し触れます。

『令義解』には、定例祭として「神嘗(シンジョウ)祭」(季秋=9月)、「相嘗際」(仲冬=11月上卯)、「大嘗(ダイジョウ)祭」(仲冬=11月下卯)の三種類の「嘗祭」を載せますが、ここに「新嘗祭」と言う文言はありません。「嘗祭」の「嘗」は漢語で「味見」と「新穀」の二つの意味があります。

*「嘗;辨別滋味<味見する>」(漢典)。「君有疾、飲藥、臣先嘗之<君に病がおこり、薬を飲むときには、臣が先にこれを味見する>」(禮記·曲禮下)

*「秋祭曰嘗<秋祭りは嘗(ジョウ)と言う>【註】嘗、新穀<嘗は新穀>」(爾雅·釋天)。 

「神嘗祭」は、本来の「嘗祭」で、「嘗」の意味は、「なめる」と言う「味見」ではなく、「新穀(新米)」で、「神嘗」は「神への新穀」と思えます。「嘗」の一字で「新穀」の意味がありますので、そこに「新」を付けることは蛇足になります。養老四年の『日本書記』に、大宝令や養老令に登場しない「新嘗」がしばしば登場しますが、これは「にいあへ(新御食)」の誤りか、または「神嘗(シンジョウ)」が同音から「新嘗(シンジョウ)」と誤用されたかと思われます。『古事記』では、「聞看大嘗之殿」(上巻)や「難波宮之時、坐大嘗」(履中天皇記)などに「大嘗」が使われますが、「新嘗」は使われません。

「相嘗祭」は「上卯、先祭調庸荷前及当年新穀於諸神<上の卯の日に、先ず調庸の荷さき(初荷)と新穀を諸神に祭る>」(「令義解」所収「貞観講書私記」)と言いますが、後に「相嘗祭」と「大嘗祭」は一緒の日に行われ、「相嘗祭」と言う言葉自体もほとんど使われなくなります。『令義解・職員令』に「大嘗;謂嘗、新穀以祭神祇。朝諸神之“相嘗祭”。夕者供新穀於至尊也<大嘗;嘗と謂うのは、新穀を以て神祇(天神と地神)を祭ること。朝に、諸神の“相嘗祭”。夕は新穀を至尊(天照大神)に供えるなり>」と言います。

 

  ※『令集解・職員令』で、「釋云嘗猶試也<釋氏は、嘗は試(ためし)のごとしなりと云う>」と言いますが、これは「味見」のことです。しかし、味見とは臣下の味見役(検食役)が行うものでしょう。どこかで「嘗」の意味の錯誤が起きたと思えます。

 

「大嘗祭」は、『令義解・神祇令』に「凡大嘗者、毎世一年、国司行事。以外毎年所司行事<およそ大嘗は、世毎の一年は国司が行事する。(それ)以外の毎年は所司(在京の所司)が行事する>」といいます。つまり天皇が即位した最初の一年の大嘗祭は国司が責任者となり、毎年の大嘗祭は在京の官吏が責任者となると言うことです。どちらの「嘗祭」にも「大」がつくのは、ともに天皇の親祭だからでしょう。後に、前者だけが「大嘗祭」と言われ、後者は「新嘗祭」と区別されて言われます。その親祭の内容は、『公事根源』に「伊勢天照大神を勧請申されて、天子みずから神饌を供ぜさせ給ふ」と言います。

  *『公事根源』:「公事根源とは一条禅閣兼良公若年の頃、足利四代将軍義量の所望に依り、撰述しておくられたもの」(関根正直著『公事根源新釋』緒言)

 

5-4・崇峻(スシュン)天皇紀での記述

  用明天皇の後を受ける崇峻天皇紀は、皇位継承問題や物部氏と蘇我氏の覇権争いなどによる内乱の時代と言えます。皇位継承問題は、後の推古天皇である炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)の命令で有力候補の「穴穂部皇子」を蘇我馬子が誅殺することから始まり、崇峻天皇の暗殺で、推古天皇が即位して一応の収束がなされます。物部氏と蘇我氏の覇権争いは、丁未の乱(ていびのらん)に崇仏派の蘇我氏が勝利して決着がつきます。この乱には、他の皇子とともに若き上宮太子も蘇我氏側について参戦し、その伝説的功績が記載されます。

雄略天皇時代に、皇族間の内部紛争で、皇家の血筋が絶えそうになり、苦労した朝廷の氏族達は、欽明天皇以降、皇子を多く作ることを目指します。その結果、欽明、敏達、用明の三代で49人の皇子(男女)が誕生しますが、今度は逆に各氏族指導の皇位争いが激しくなります。

若き聖徳太子にとって、この時期の人々が殺し合う内乱体験は、その後の思想形成に大きな影響を与えたと思います。後の推古天皇期に作られた「十七条憲法」の条文に、その内容の一端がうかがえると思います。

 *一曰。以和爲貴<一に曰わく。やわらぎを貴となし・・・>

*十曰。(中略)我必非聖、彼必非愚、共是凡夫耳。是非之理、誰能可定。相共賢愚如鐶无端。<私は必ず聖人にあらず、彼も必ず愚人にあらず、ともにこれ凡夫のみ。是非の理は誰がよく定めることができよう。賢愚を互いに共にすることは、輪に端がないのと似ている>

*十七曰。夫事不可獨斷。必與衆宜論。<十七に曰く、それ、事は独断すべからず。必ず多くの人と論ずべし。>

ここでは、崇峻天皇紀での重要な事件を時系列にそって抜粋していきます。

 

  穴穂部皇子誅殺事件

5875「原文」

大連元欲去餘皇子等、而立穴穗部皇子爲天皇、及至於今望因遊獵而謀替立(僣立)。

密使人於穴穗部皇子曰;願與皇子將馳獵於淡路。謀泄。

 

「訳文」

(物部守屋)大連(おほむらじ)は、元は他の皇子たちを捨てて、穴穂部皇子を天皇に立てることを欲していたが、今に至るに及んで、狩を利用して、(穴穂部皇子を殺害する)僭立を謀ることを望んだ。

密かに人を穴穂部皇子に使わして曰く「願わくば、皇子とともに、将に淡路で馬を走らせ狩をしたい」と。(しかし)謀りごとは、(相手に)露見した。

 *「穴穂部皇子、陰謀王天下之事」(用明天皇元年五月条)と書かれる様に、ひそかに皇位を狙っていた穴穂部皇子は、炊屋姫尊だけでなく、仏教を支持したことで、物部守屋も敵にまわすことになったと思われる。

 

「語注」

【餘(ヨ)】:他の。「其餘,其他,以外 [other]」」(漢典)

【及至於今】:用明天皇二年四月条の穴穂部皇子による「引豊國法師、入於内裏」などを指す。

【因】:利用する。「利用(動詞)」(漢典)

【遊獵(ユウリョウ)】:遊猟。かり。狩猟。

【謀(ボウ)】:はかる。日本語の「はかる」に当てられる漢字は「計」、「諮」、「図」、「測」、「量」と意味を異にして多岐にわたる。その中で「謀」は「謀議」、「謀計」、「謀殺」、「謀反(むほん)」など良い意味では使われない。『説文解字』では「慮難曰謀<考え難きは謀という」と言い、『玉篇』では「計也。」と言う。

【替立】:「替立」では意味不明である。恐らく「僭立(センリツ)」で、「替」は「僣」の誤字であろう(「僣」は「僭」の異体字)。「僭立」は「越分擅立<身分を越えて勝手に立つ>」(漢典)と言う。 皇極天皇二年十月の条に「蘇我臣入鹿、深忌上宮王達威名、振於天下、獨謀僭立<蘇我臣入鹿は、上宮の王(みこ)達の威名が、天下を賑わすことを深く嫌い、独り僭立を謀った>」と「僭立」の文言がここでも使われる。

【馳獵(チリョウ)】:馬を走らせ狩をする。

【泄(セツ)】:もれる。露見。

 

同年6「原文」

蘇我馬子宿禰等奉炊屋姫尊詔、佐伯連丹經手・土師連磐村・的臣眞噛、曰「汝等嚴兵、速往誅殺穴穗部皇子與宅部皇子」

是日夜半、佐伯連丹經手等圍穴穗部皇子宮。

於是衛士先登樓上、撃穴穗部皇子肩。

皇子落於樓下、走入偏室。

衞士等擧燭而誅。

 

「訳文」

蘇我馬子宿禰らが奉る炊屋姫尊は、佐伯連丹經手・土師連磐村・的臣眞噛に命令して曰く、「汝らは、兵を整えて、速やかに往って、穴穗部皇子と宅部皇子を誅殺せよ」と。

この日の夜半、佐伯連丹經手らは、穴穗部皇子の宮を囲む。

ここに於いて、兵士が先ず楼の上に登って、穴穂部皇子の肩を強く叩いた。

皇子は楼下に落ちて、かたわらの室に逃げ入った。

衛士らは灯火をあげて、(罪人の穴穂部皇子を)殺害した。

*物部守屋の後ろ盾を失った穴穂部皇子は、あっけなく炊屋姫尊(推古天皇)に討たれてしまった。天皇を中心とする日本の朝廷は、それを支える氏族らで保ち、その氏族らも朝廷の権威で保つ。どちらも共存関係で、その中で有力氏族の後ろ盾を失った皇族は、危ういと言うことであろう。ちなみに、「記紀神話」では、天神を祖とする天孫氏族は多くいるが、天照大神から、治天下の神勅を得たのは皇孫だけとする。

 

「語注」

【蘇我馬子宿禰等奉】:この語句は、「炊屋姫尊」を修飾する「連体修飾語」となっている。

【嚴兵(ゲンペイ)】:厳兵。兵を整える。「厳(動詞);整飭(セイチョク)、整備」(漢典)

【宅部皇子】:やたべのみこ。編纂者の注に「宅部皇子、檜隈天皇之子(宣化天皇の子)。上女王之父也。不詳。」とあり、本文には「善穴穂部皇子、故誅。」とある。

【誅殺(チュウサツ)】:罪ある者を殺す。

【衛士】:兵士。 【樓】:楼。やぐら。 【撃】:強くたたく。 【走入】:逃げ入る。

 

丁未(587年)の乱(蘇我・物部戦争)

同年7「原文」

蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣謀滅物部守屋大連。

泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀施夫・葛城臣烏那羅、倶率軍旅進討大連。

 

「訳文」

蘇我馬子宿禰大臣は、諸皇子と群臣を勧誘して、物部守屋大連を滅ぼすことを謀る。

泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀施夫・葛城臣烏那羅は、ともに軍旅(軍隊)を率いて、(物部守屋)大連を討つことに進んだ。

 *ここで、「勧」と言い、「謀」とあるのは、物部守屋の討伐は、蘇我馬子の私的な覇権争いと言いたいのであろう。下文に「時人相謂曰;蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計、而殺大連矣」とある。

 

「語注」

【勧】:すすめる。「勧誘する」(学研古語辞典)。「〔自分がよいと思うことを〕他人がするように、さそいかける。」(学研国語辞典)

泊瀬部皇子】:崇峻天皇。父は欽明天皇。母が蘇我稲目の娘の小姉君。

【竹田皇子】:推古天皇の長男だが、推古天皇紀には生前の記述は無く、恐らく崇峻天皇の時代に亡くなったと思われる。推古天皇は「葬竹田皇子之陵」と、竹田皇子の陵墓に葬られた。

 

崇峻天皇即位

同年8「原文」

炊屋姫尊與群臣、勸進天皇即天皇之位。

 

「訳文」

炊屋姫尊と群臣は、天皇(泊瀬部皇子)を勧進し、天皇の位に即かせた。

 *これは、兼語文を使った使役文か。

 

「語注」

【勸進(カンジン)】:勧進。「臣下が、帝位につくよう君主にすすめる。」(学研漢和大字典)。「指勸登帝位<帝位に登る様に勧誘することを指す>」(漢典)

 

崇峻天皇暗殺事件(崇峻天皇五年)

59211「原文」

馬子宿禰詐於羣臣曰。今日進東國之調。乃使東漢直駒弑于天皇。

是日、葬天皇于倉梯岡陵。

 

「訳文」

(蘇我)馬子宿禰は、群臣に詐って曰く「今日は東国の調を奉る」と。

乃ち、東漢直駒を使って天皇を殺させる。

この日、天皇を倉梯(くらはし)の岡の陵に葬る。

 *当日に葬る(埋める)とは尋常では無い。『日本書紀』は蘇我馬子を主犯と断定した記述だが、これ以上の追求はない。これより先の同年10月条に、「蘇我馬子宿禰、聞天皇所詔、恐嫌於己。招聚黨者、謀弑天皇<蘇我馬子の宿禰は天皇の詔(ショウ)するところを聞き、己を嫌っていることを恐れる。仲間(儻;通作黨(党))を招集して天皇を殺すことを謀る>」とある。相談した党者の中に、恐らく後に推古天皇となる炊屋姫尊も含まれているであろう。そうで無ければ、皇族以外の臣下による天皇暗殺という前代未聞の犯行は不可能と思える。

 

「語注」

【羣臣】:群臣。

【進】:たてまつる。「呈獻、奉上」(漢典)

【調(チョウ)】:みつぎ。

【東漢直駒】:本文の注に「或本云、東漢直駒、東漢直磐井子也」と言う。

【弑(シイ)】:下位が上位を殺すこと。

  

5-5・推古天皇紀での記述

推古天皇の時期は、三国の「魏」以来の中国(隋)との直接的交流(勅使の交換)が再開される時代です。そこで『隋書・倭国伝』での天皇と太子についての記述から見ておきたいと思います。

 

『隋書・倭国伝』での天皇と太子

1)「豊御食炊屋姫天皇」についての記述

「原文」①

開皇二十年、倭王(姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌)遣使詣闕。

 

「訳文」①

開皇二十年、倭王(姓はアマ。字はタリシヒコ。称号はアヘキミ)は、使者を宮城に遣わした。

 *「高祖紀・二十年」には「突厥・高麗・契丹並遣使貢方物」とあるだけで、倭国についての記載は無い。またこの使者は来朝した目的を語らず、貢ぎ物も国書も無い。推古天皇紀八年にも記載は無い。つまり、これは、正式な勅使ではなく、高麗(高句麗)の使者に宮城まで連れてきてもらっただけであろう。だから、いきなり「上令所司訪其風俗<皇帝は所司にその風俗を訪(と)わしめた>」と質問を受けた。もしかしたらこの使者は、『上宮太子菩薩伝』で言う「法華経」を求める為に使わした上宮太子の個人的使者かもしれない。

 

「語注」①

【開皇二十年】:隋の高祖文帝の年号。西暦600年。推古天皇八年。

【姓~号】:この部分は筆記者の「自注」とし、( )でくくり、本文は「倭王遣使詣闕」とした。古文中に「自注」があるのを初めに認識したのは楊樹達と言われ、その著『古書疑義挙例続補』で「古人行文中有自注。不善読書者、疑其文気不貫、実非也<古人の文章の中には自注がある。書を良く読めなければ、その文勢や文意を疑うが、実は(それは)非である>」と述べる。

【姓】:始祖の生まれた所。「姓者;統其祖考之所自出。氏者;別其子孫之所自分<姓はその遠い祖先の自出する(出る)所を統べる。氏はその子孫が自分する(分かれる)所を別ける>」(劉恕『通鑑外紀』)。つまり、「姓」は元々の始祖の生まれた所の名で、「氏」は分家したときの新たな姓。「記紀神話」では、皇祖神である天照大神は、地上で産まれたが、伊弉諾尊によって高天原に封(ほう)じられた。「詔之、汝命者、所知高天原矣」(古事記上巻)

【字】:あざな。成人後の別名。「男子二十冠而字(中略)女子許嫁而字。[]男女至而字道也<男女至って字(あざな)するのは道なり>。」(禮記・曲禮)

【号】:称号。「名号也<称号なり>」(廣韻)。

【闕(ケツ)】:宮城。天子のいる所。

 

ここで問題になるのは、「姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」の解釈です。

先ず、「姓阿毎、字多利思比孤」ですが、日本の王家に「姓」や「字(あざな)」の習慣はありませんので、これらは、国外の人へ、王の称号を言う前に、枕詞的に王家の由来を述べた言葉を、現地の通訳がそれを「姓」と「字」に分解したと思われます。「阿毎・多利思比孤」は「あま・たりしひこ」で、この倭語の「漢字音」表記を日本側の「漢字」表記に戻せば「天・帯日子」となります。『古事記』で「帯日子」の称号を使用している例を見ますと、「天押帯日子命」や「大倭帯日子国押人命(孝安天皇)」・「大帯日子淤斯呂和気命(景行天皇)」・「若帯日子命(成務天皇)」など珍しくありません。これらの「帯」の字は、太安万侶は「古事記序文」で「於名帯字、謂多羅斯<名に於ける帯の字は、タラシと謂う>」と言いますが、「タラシ」は「垂(た)る」の他動詞用法で、「隋書」の「タリシ」は自動詞用法です。『日本書紀』ではこの「帯」の部分を「足」に書き替えていますが、これでは同音異義となり意味不詳となるでしょう。「日子(ひこ)」は「孫」(倭名類聚抄)ですので、通して言えば、「天よりたれてきた孫(天降子孫)」で、王家の家系が「天孫」系統である事を意味するものと思います。

 *【孫(ソン)】:祖先の血筋を引く者(学研漢和大字典)。「孫謂祖後者<孫とは、祖の後の者を謂う>」(「禮記·雜記」注)

次に「阿輩雞彌」は、通説では「おほきみ」と読んでいますが、「阿輩」は、漢字の音韻からも「おほ」とは読めません。上文で「阿毎」の「阿」が「あ」であれば、「阿輩」の「阿」も「あ」です。「輩」は「背」と同音(正韻)で、倭語の「へ」に相当し、「あへ・きみ」となります。「あへ」に対応する漢字は「饗、食、御食」が想定され、その中で「御食」が妥当に思えます。そして、当時この「称号」で呼ばれうるのは「豊“御食”炊屋姫天皇(推古天皇)」しか該当しません。

 *「御食」は「みけ」の他に「あへ」とも読まれていたと思われ、『播磨風土記賀古郡』に「即到阿閉津、進“御食”、故号“阿閉(あへ)”村」とある。三省堂「時代別国語大辞典」には、「あへ【饗・食】(名)ごちそう。もてなしの食事」と言い、「あへ」は単なる「ケ(食)」とは異なる。

 *「君(きみ)者、指一人、天皇是也」(「令集解・喪葬令・古記」)

 

「原文」②

王妻號雞彌、後宮有女六七百人。

 

「訳文」②

王妻はキミと称され、後宮に女(采女)を六七百人たもつ。

 

通説では、ここから倭王は男性と判断していますが、ここで性別の判断がでる文言は「“女”六七百人」の「女」だけです。この女の人数は「魏志倭人伝」の「卑弥呼・・・以婢(女)千人自侍」この記事を意識したものと思えます。日本では「王妻」を「皇后」と書き、「キサキ」と読み、「キミ」は天皇と書かれます。「推古天皇紀」では「皇后即天皇位<キサキはキミの位に即く>」と書かれ、これで、終身の称号である「皇后」に、「天皇」の称号が加わったことになります。

 *「君(きみ)者、指一人、天皇是也」(「令集解・喪葬令・古記」)

 

2)「上宮太子」についての記述。

「原文」

名太子為利歌彌多弗利

 

「訳文」

太子を利歌彌多弗利と名付ける。

 

「利歌彌多弗利」とは、太子の個人名ではなく、人々から呼ばれた社会的な名称と思いますが、このままでは意味不明です。日本の古語には、ラ行から始まる言葉は無いと言う理由から「利」を「和」に校勘するのが一般的ですが、中国の中華書局版『隋書』には校勘の対象になっていません。どちらにしても日本語古語(倭語)を漢字で音写した文言ですから、倭語としては、誤字や脱字が疑われます。ただ、漢語の「太子」の概念が、当時、倭国でも使われていたことは確認出来ます。

個人的には「利」は「和」と思いますが、ほかに「多」と「弗」の間に「摩」を補い、「和歌彌多摩弗利」として、「若・皇霊・振(わか・みたま・ふり)」ではないかと思います。「皇霊」とは、「景行天皇紀」に「皇霊之威(傍訓:みたまのふゆ)」とあるように、天皇の精神的権威を言い、「ふり」とは「振る舞い」を言いますので、「わか・みたま・ふり」とは「若き天皇のような振る舞い」ではないかと想像しますが、まだ確たる根拠はありません。

  

立太子と摂政について

「原文」

天皇(崇峻天皇)爲大臣馬子宿禰見殺、嗣位既空。

群臣、請渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)之皇后額田部皇女、以將令踐祚、皇后辭譲之。

百寮上表勸進至于三、乃從之。

因以奉天皇璽印。

冬十二月壬申朔己卯(128日)、皇后即天皇位於豐浦宮。

(中略)

夏四月庚午朔己卯(410日)、立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍録揶政、以萬機悉委焉。
橘豐日天皇第二子也。母皇后、曰穴穗部間人皇女。

 

「訳文」

崇峻天皇は、大臣の馬子宿禰に殺され、継承位も既に空席なり。

群臣は、敏達天皇の皇后の額田部(ぬかたべ)皇女(炊屋姫)にお願いをして、将に(皇后を)即位させようとしたが、皇后は辞譲した。

百官が上表して勧進すること三度にいたって、(皇后は)従った。

よって(百官は)天皇の璽印(ジイン)を(皇后に)奉る。

冬十二月八日、皇后は豊浦宮で天皇位に即いた。

(中略)

(翌年の)夏四月十日、厩戸豊聰耳皇子を皇太子に立て、さらに(彼を)摂政に任用し、万機(国政)を全部(彼に)委ねる。

(彼は)橘豊日(用明)天皇の第二子なり。母の皇后は、穴穗部間人皇女という。

 

「語注」

嗣位(シイイ)】:継承位(皇太子位)。「嗣位;繼承君位<君位を継承する>」(漢典)。太子彦人皇子(父は敏達、母は広姫)や竹田皇子(父は敏達、母は炊屋姫)が既になくなっているのであろう。しかも皇位を狙っていた穴穂部皇子(父は欽明、母は小姉君)は、炊屋姫の命令によって殺害されている(崇峻天皇即位前紀)。

【請】:お願いする。「懇求・乞求」(漢典)。

【額田部皇女】:ぬかたべのひめみこ。推古天皇の即位前の名前(父は欽明、母は堅塩姫)。即位後の名前は「豊御食炊屋姫天皇」。

【以】:もって(接続詞)。接続詞(連詞)の「以」は「以之」の省略形で、上文を承ける。訳文では、上文の文末に「接続助詞」の「て」を付けた。

【将】:まさに(助動詞)。「令踐祚」を修飾。

【令踐祚】:即位させる。「令」は使役の助字。「践祚(センソ)」は即位する(動詞)。

【辭譲(ジジョウ)】:「ことわる」の謙譲的表現。

【百寮(ヒャクリョウ)】:百官(多くの役人)。

【上表(ジョウヒョウ)】:天皇(天子)への意見書。

【乃】:すなわち(接続詞)。訳文では、上文に接続助詞の「て」を付けて訳した。

【仍】:さらに。そのうえ。

【録(ロク)】:「任用」(漢典)。

【悉(シツ)】:ことごとく。全部。

【第二子】:皇后の穴穗部間人皇女の子としては長男。他に蘇我稲目の娘で石寸名郎女(いしきなのいらつめ)を母とする兄の田目皇子(古事記では多目皇子)がいる。「上宮記」では、多米王(田目皇子)は用明天皇崩御の後に「間人孔部王(穴穗部間人皇女)」を娶ると言う。

 

『日本書記』は、ここでも崇峻天皇の暗殺は、蘇我馬子が主犯と断定していますが、『日本書紀』編纂の100年以上前の事件ですので、この判断の根拠は、反蘇我氏族の情報(家伝など)などに依ったと思われます。そして即位記事の後には、大臣などの就任記事を記述するのが通常ですが、ここでは、その記載が省略されています。恐らく編纂者は書きたくなかったのでしょう。水戸光圀編纂の『大日本史』では、この即位記事の後に「大臣蘇我馬子如故<大臣は蘇我馬子、故の如し>」と追記します。ここでの「群臣」や「百寮」と言われるトップは、恐らく蘇我馬子でしょう。

上宮太子が皇太子に立たされるのは、推古天皇即位の四ヶ月後です。『上宮太子拾遺記・第三』に、「夏四月、天皇“初”聞群臣之奏(中略)即立太子為皇太子」とあります。ここでの群臣は反蘇我勢力かもしれませんが、詳細は不明です。どちらにしても当初は予定していなかったと言えるでしょう。さらに、摂政に任用され、全ての国政を任せるとまで書かれますが、実際は『隋書・倭国伝』に「(倭王)天未明時出聴政(中略)日出便停理務、云委我弟」とあるように分担していたと思われます。敢えて「万機(国政)を“全部”(彼に)委ねる」と書くことにより、重大事件である「天皇暗殺」の首謀者への処分を怠った責任や、蘇我馬子との共謀犯的イメージを、炊屋姫天皇から回避させたかった様にも思えます。この時、上宮太子は、「天皇暗殺事件」の真相をどこまで知っていたのか疑問が残ります。

 

誕生伝説

「原文」

皇后懷姙開胎之日、巡行禁中、監察諸司、至于馬官。乃當廐戸、而不勞忽産之。

生而能言。有聖智。及壯一聞十人訴。以勿失能辨。兼知未然。

且習内教於高麗僧惠慈、學外典於博士覺、並悉達矣。

父天皇愛之令居宮南上殿、故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子

 

「語注」

【内教(ナイキョウ)】:仏教。

【惠慈(エジ)】:高句麗の僧。推古天皇三年五月に来日。同二十三年十一月帰国。太子との親交が篤く、本国(高句麗)で太子の死去を知った時には嘆き悲しみ、翌年の太子の「命日(祥月命日)」に亡くなったという。このエピソードは『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』などに載るが、内容がほぼ同じでも「命日」は異なり、『日本書紀』は太子の死亡記事と同じ「二月五日」とし、「法王帝説」などは「二月二十二日」とする。

【外典(ガイテン)】:仏教以外の典籍(漢籍)。

【博士覺】:不詳・

 ここでまず問題になるのは、
「皇后懷姙開胎之日、巡行禁中、監察諸司、至于馬官。乃當廐戸、而不勞忽産之。」
この記述です。ここでは、「巡行禁中」となっており、そこで生まれたとしています。これでは、穢れを嫌う「禁中(内裏)」を「産穢」で、穢したことになります。また、この時は敏達天皇の時代であり、「穴穗部間人皇女」は皇后でもありません。その彼女が、なぜ産み月に禁中をふらつくのでしょうか。そこには必然性が感じられません。

これ以外の「生而能言」等の非現実的ともいえる逸話は、単に生まれながらに賢く、人格的に優れているということを、わかりやすくした表現の問題であり、字面で追う必要はないと思います。

 

 

憲法十七条 (「十七条憲法」の訳注は別稿)
『日本書紀』推古天皇十二年(六〇四)四月戊辰(三)
*
「皇太子親肇作憲法十七條。」

<皇太子みずからはじめて憲法十七條を作る。>

 

太子憲法への疑義
憲法を太子自ら作ったという事に関して、現在まで管見でありますが、津田左右吉氏の提出された疑義以外、目新しいものは無いように思います。その疑義とは主に次の三点です(大山誠一著『聖徳太子の誕生』の引用文を参考)。
 1)法の中で使われた「国司」の文字。

「国司は国を単位に行政的支配を行う官人」と氏は定義し、大化以前にはあり得ないと言います。しかし、行政用語は、文字は同じでも、社会状況によりその内容は変化するものであり、大化以後の定義だけ当てはめるのは恣意的で、さしたる根拠とはなり得ません。

文字で言うならば、「十七条憲法」は選択接続詞に「六朝(三國~隋統一前後)」以前に使われた「若」を使い、「隋唐」以後に使われる「或」は使っていない。この「若」と「或」の違いを洪誠著『訓詁学』に「選択接続詞、六朝以前用“如”、“若”、隋唐以後才用“或”。」と言います。

 2)法の全体が中央集権的官僚制的であり、その時代にふさわしくない。
読めばわかりますが、中央集権的な萌芽はありますが、条文内で「国司」、「国造」を並列に扱っているように(十二条)、必ずしも中央集権的官僚制を前提としていません。

 3)中国の古典から多くの語句を引用し、『日本書紀』等の文章に似ている。
こうなると印象操作でしかありません。同じように「中国の古典」を参考にし、漢語、漢字で書かれればどこか似るでしょう。

以上疑義と言ってもさしたる根拠はありません。むしろこの「憲法」は、国学者にすこぶる評判が良くありません。なぜなら、「神祇祭祀」を一切無視しているからです。大化以後は「神祇祭祀」を中心に据えた国政理念であり、太子より前の時代も同様と思います。ただ推古朝の太子の時代だけが特別であり、それを神職関係者の齋部広成撰『古語拾遺』(大同2年(807年)編纂)に次のように記されます。

「至小治田朝(推古朝)、太玉之胤、不絶如帯、天恩、興廃継絶、纔(わずかに)供其職<小治田朝(推古天皇)に至り、太玉の子孫は帯の如く絶えずといえども、天恩、興廃継絶し、その職をわずかに供す>」。

「仏教」を「外国神」としての「神」の一種では無く、明確に違う宗教と理解したのは、おそらく、あの時代では「太子」とその関係者のみかと思います。

  

三教義疏(本稿の「三教義疏参照」)

「三教義疏」については次のように記される。

「原文」

推古天皇十四年(606年)七月

天皇請皇太子令講勝鬘經。三日。説竟之。

是歳

皇太子亦講法華經於岡本宮。天皇大喜

 

「訳文」

(七月の条)

天皇は、皇太子に頼んで、勝鬘経を講義させる。三日にてこれを説きおえる。

(是歳の条)

皇太子がまた岡本宮にて法華経を講義して、天皇は大いに喜ぶ。

 

『上宮太子菩薩伝』(鑑真の弟子で中国僧の思託の著)では次の様に述べる。

「原文」

発使往南岳、取世持誦法華七巻一部。

至即作疏四巻、釈経。又作唯摩経疏三巻、勝鬘経疏一巻。

 

「訳文」

“使者”を南岳に往かせ、世に持誦される「法華七巻」一部を取り寄せる。

(法華経の)疏四巻を作り、経を解釈する。又、唯摩経疏三巻、勝鬘経疏一巻を作る。

*年代がわかりませんが、606年(推古十四年)以前に、上宮太子は、「法華経」を中国から取り寄せる為に、「使者」を派遣した様です。

  

  対随外交

推古天皇時代の対随外交を東アジアの政治状況(随と高句麗)と絡めて論じるものもありますが、日本側の尊大と外交音痴的痕跡は見られても、その政治利用の痕跡はあまり見られません。

 逆に『随書』に於ける随国側の対応においては、大業三年記事によれば、日本側国書を見て「蠻夷書有無禮者、勿復以聞<・・・二度と聞かすな>。」と言いながら、「明年、上遣文林郎裴清使於倭國」と使節を倭国に派遣するなど、前言と異なる対応が見えますので、政治的考慮がある事が伺えます。しかし、日本側としては後の多くの遣唐使が文化面に重点が有るように、この遣隋使の派遣も政治的動機はほとんど見られません。また、それは『随書』に所載される日本側使者の次の口上によっても知ることができます。
 「使者曰。聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜。兼沙門數十人來學佛法。」

<使者曰わく。海の西の菩薩天子が仏法を重く興すと聞く。ゆえに、(使者を)朝拜に遣わし、兼ねては、沙門數十人が仏法を学びに来たる。>

【菩薩】:自ら悟りを求めて修行するとともに、他の物を救いに導こうと努める者。
【重】:おもんずる。たいせつなものとして敬い扱う。

『日本書紀』での上宮太子の事跡は、隋使が帰国した頃から、この後の「片岡山飢者伝説」を除いて、ほとんど見られなくなります。「政治」から距離を置き、「内省」へと移っていったのかもしれません。推古天皇二十八年の是歳条(620年)に、所謂「修史事業」の記事がありますが、これは「皇太子・嶋大臣共議之、録天皇記及国記云々」とあって、太子と馬子の共議であって、勅命によるものではなく、また恐らく上宮太子の意志でもなく、嶋大臣(蘇我馬子)主導の私撰の事業と思われます。なぜなら、上宮太子は翌年一月に発病し、二月に亡くなりますが、この事業は「大化の改新」の端緒となった「乙巳(いっし)の変」(645年)まで蘇我氏の私邸で行われていたからです。

  

片岡山飢者伝説

「原文」

推古天皇二一年613十二月

庚午朔一日

   皇太子遊行於片岡、時飢者臥道垂。仍問姓名、而不言。

   皇太子視之與飲食、即脱衣裳覆飢者、而言安臥也。

   則歌之曰。

斯那提流。箇多烏箇夜摩爾。伊比爾惠弖。許夜勢屡。諸能多比等。阿波禮。

於夜那斯爾。那禮奈理鷄迷夜。佐須陀氣能。枳彌波夜那祗。

伊比爾惠弖。許夜勢留。諸能多比等阿波禮。

辛未(二日)

   皇太子遣使令視飢者。使者還來之曰「飢者既死」。爰皇太子大悲之。

則因以葬埋於當處、墓固封也

   數日之後、皇太子召近習先者謂之曰「先日臥于道飢者、其非凡、爲必眞人也」。

   遣使令視於是。使者還來之曰「到於墓所而視之、封埋勿動、乃開以見屍骨既空。唯衣服疊置棺上」。

   於是、皇太子復返使者令取其衣、如常且服矣。

   時人大異之曰「聖之知聖其實哉」。逾惶(いよいよかしこまる)。

 

「伝説の概要」

    太子が片岡の道のほとりで伏せる飢者を見かける。

    飲食を与え、自身の衣を脱いで着せる。

    言葉がけをし、歌を作る。

 「しなてる 片岡山に いひに飢(え)て こやせる その旅人(たひと)あはれ 

親無しに なれなりけめや さす竹の 君はや無き 

いひに飢て こやせる その旅人あはれ」

    翌日、使者を使わして、飢者の死亡を知り、大いに悲しみ、手厚く葬らす。

    数日後、「あの飢者は、きっと真人にちがいない。」と言い、墓を調べさせる。

    使いの報告によると、遺骸はなく、衣だけが、畳まれて柩(ひつぎ)の上にあった。

    太子は再びその衣を平然といつものように着た。

    時の人は、それを見て「聖の聖を知ること実なり」と言い、太子を畏敬した。

 

伝説の問題点(1)

問題点が二つあります。一つは、この伝説が「神秘的伝説」となってしまった点。そのため太子否定論者に格好の標的を提供しています。しかし、誰の目にも明らかなように概要の①~④は現実的ですが、⑤以降は非現実的です。では、何故そのような⑤以降のことが付会されたのか。ここには社会的矛盾を含んだ事情があったと私は思います。先の太子憲法の所でも少し触れましたが、あの法文自体にも同じような矛盾が包含されています。それは何かと言いますと、「仏法の平等主義」と社会秩序維持の為の「礼」による「身分別差」との矛盾です。又「身分主義」は「礼」によらずとも従来から社会秩序維持のための社会通念として存在していたことが、三世紀の「魏志倭人伝」の中でも認められます。

*「尊卑各有差序、足相臣服<尊卑は各差序あって、互いに臣服するに足る>」

仏法に於ける「平等主義」とは、仏の前では「皆凡夫」であり、徳を積むことにより誰もが「仏」になれる(成仏、往生)ということです。是は『勝鬘経義疏「第十二顛倒真実章」の中で「一切衆生、皆有真実性。」とあるように太子自身も認識していると思います。さらにまた『勝鬘経』のなかには、

「・・・若見孤独、幽繋、疾病、種種厄難、困苦衆生。終不暫捨。」(「第二・十大受章」)

<もし、孤独、幽繋、疾病、種種厄難、困苦の衆生を見れば、ついにはしばらくも捨てず>

とあります。

宗教とは単に知識情報を持つことではなく、「教えの実践」にあります。太子も是を実践したと想像します。すると、先の①~④は、当然起こりうる状況であります。しかし、太子は信徒でありながら憲法を制定した為政者でもあります。そしてそこには大きな矛盾があります。尊卑の垣根を越えて、何人とも対等に接することは、仏法では許されても、当時の社会通念的には許されません。まして為政者ではなおさらと思います。では、この矛盾を解決する為にはどうしたのか。その解決方法が、相手の飢者の正体を「真人」なり「聖人」にすることではなかったか。又大乗教に於いては「人に皆仏性有り」と言う「如来蔵」思想がありますから、当たらずとも遠からずの感であったかも知れません。

後の資料でありますが、当時の身分制度の社会的通念を推測する手だてとして『上宮聖徳太子傳補闕記』の一文をここに抜き出します。

「時大臣馬子宿禰已下王臣大夫等咸奉譏曰、殿下雖大聖而有不能之事。道頭飢是卑賤者。何以下馬與彼相語。亦賜詠歌。及其死無由厚葬。何能治大夫已下耶。」

<時に大臣馬子宿禰以下の王臣の大夫ら皆とがめ奉って、曰わく。殿下は大聖といえども、あたわず事有り。道のほとりの飢は、これ卑賤者なり。どうして、馬を下り、彼とともに語るか。

また、歌をよみ賜う。その死に及べば、厚く葬る由(よし)なし。(そんなことで)どうして大夫以下を治められんや。>

*【譏】{動詞}とがめる。問いつめる。

⑤以降の話の作り手は、おそらくは「神仙思想」を知り、太子を信奉する帰化人であったであろうと想像します。太子を信奉する人々の中には、帰化人であろうと飢者であろうと差別せずに接する太子の態度は、驚きであったかも知れません。

 

伝説の問題点(2)

二つめは、「穢」の付与の問題です。生誕譚の時にもありましたが、ここにもあります。

この伝説には二系統有り、一つは『日本書紀』に基づくもので、多くの太子伝承本はこれに入ると思います。それとは若干異にするのが『日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)』です。ここで何が問題かと言いますと、飢者に与えた衣を再び着るシーンです。先の伝説の概要では、
使いの報告によると、遺骸はなく、衣だけが、畳まれて柩(ひつぎ)の上にあった。
太子は再びその衣を平然といつものように着た。
です。太子が身につけた「衣」は、墓の「柩(ひつぎ)の上にあった」物で、当然それは「死穢」です。「死穢の衣」を『日本書紀』では太子に着せています。
 しかし、もう一つの「日本霊異記」では違います。その部分を抜粋します。
 「聖徳太子示異表縁第四」(『日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)』)
「・・・脱ぎ覆ひし衣、木の枝にかかりて、そのかたい(乞食)なし。太子、衣を取りて着る。臣あり、賤しき人に触れて穢れたる衣、何をともしみか更に着ると言う。・・・」

(訳文:「日本古典全書」朝日新聞社)
おわかりでしょうか。墓の中でも、まして棺桶の上でもありません。木の枝に掛けられた物を太子に着せています。ここにも「穢れたる衣」とありますが、しかしそれは「死穢の衣」ではありません。

 

太子の死去

(原文)
推古天皇二九年(辛巳・621年)二月五日
半夜厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。

是時諸王諸臣及天下百姓悉長老如失愛兒、而鹽酢之味在口不嘗。

少幼者如亡慈父母。

以哭泣之聲滿於行路。

乃耕夫止耜、舂女不杵。

皆曰「日月失輝、天地既崩、自今以後誰恃哉」。

「訳文」

夜半に厩戸豊聰耳皇子命は斑鳩の宮で死す。

この時、諸王、諸臣と天下の百姓の全ての長老は、愛児を失うが如くして、塩や酢の味は口にあっても味がわからない。

少幼の者は、慈父母を亡くすがごとし。

もって、泣き叫ぶ声は道に満ちた。

すなわち、耕夫(コウフ)はスキを止め、舂女(つきめ)は杵をつかず。

だれもが「日月は輝きを失い、天地は既に崩れ、今より以後は誰をたのまん」と言った。

 

「語注」

【鹽酢(エンス)】:塩や酢。

【不嘗(フジョウ)】:味がわからない。

【哭泣(コッキュウ)】:なきさけぶ。

【恃(ジ)】:たのむ。頼りにする。

 

上宮太子の没年は、『日本書紀』は推古天皇二九年(辛巳・621年)二月五日としていますが、これより当時に近い金石文等の資料の「現法隆寺釈迦像光背銘」や「中宮寺繍帳銘」などは何れも、壬午年(622年)二月二十二日としていますので、おそらくこちらが正しいと思います。
日本書紀の日付に関しては、内田正男編著『日本書紀暦日原典』及びその中に所載される小川清彦著『日本書紀の暦日に就て』などにより信頼性がうすいことがほぼ明らかであると思います。
ここでは日付の違いよりも記述内容に若干の疑問を持ちます。それは、太子の死を哀しんだのは「是時諸王諸臣及天下百姓」とありますが、ここに「天皇(推古)」と「大臣(馬子)」が抜けています。何故『日本書紀』編纂者は記述しなかったのでしょう。
 今まで『日本書紀』の太子に関しての記述を見てきましたが、編纂者の意図がわからない部分がいくつかあります。残念ですがその意図を明らかにする手がかりはありません。
しかし、ここで個人的空想をすれば、『日本書紀』編纂者は「太子」関連にふれたくなく、できれば無視したかったが、すでに「太子」伝承が無視できないほどの社会的存在であったのではないか。無視できないのであれば、逆にその伝承部分に「穢」と「大逆」のイメージを付加しようとしたのか。そうならば、そこまでにおよぶ理由は何なのか。おそらくは「斑鳩宮襲撃」と「太子一族の自死」に、ことの原因はあるのかも知れません。その事件は天智、天武天皇の母である皇極天皇の時代に起きています。そして『日本書紀』の編纂は、天智、天武の孫娘である第四四代元正天皇の時代に完成します。

 

6・斑鳩宮襲撃事件

時は皇極二年癸卯(643年)十一月十一日。
時刻は午後十時亥の刻。
月明かりを頼に粛粛と集まる集団。
身には鎧、手には武具。
目指すわ、上宮太子一族が集まる斑鳩宮。

ここから歴史は大きく展開し、「乙巳の乱」を経て「大化の改新」へと進んでいきます。

 

皇極天皇の即位記事

「原文」

元年春正月丁巳朔辛未。皇后即天皇位。以蘇我臣蝦夷爲大臣如故。大臣兒入鹿(更名鞍作)自執國政、威勝於父。

 

「訳文」

元年(642年)春正月15日。皇后は天皇位に即く。蘇我臣蝦夷を大臣とすることはもとの如し。大臣の子の入鹿(またの名は鞍作)は、自ら国政をとり、威光は父に勝る。

 

「語注」

【皇后即天皇位】:この言い回しでは、自ら好んで即位した印象を与える。その代償として我が子(中大兄皇子)の東宮位を廃止し、入鹿が推す古人大兄皇子を容認する。当時の朝廷は、天皇と氏族との共存関係で成立する。皇極天皇は、孝徳天皇を挟んで斉明天皇として二度皇位に即き、皇位に対する強い執着を見せる。この執着が「斑鳩宮襲撃事件」の遠因となっていると思われる。その子である天智天皇(中大兄)は、その母に対して何も言えない。彼はマザコン的であったかもしれない。

  

斑鳩宮襲撃事件の記述

ここで『日本書記』と『藤氏家伝』、『上宮聖徳太子傳補闕記』の三書を比較します。

 

1)『日本書紀』の記述

「原文」

[皇極天皇2年10月12日]

蘇我臣入鹿、獨謀將廢上宮王等而立古人大兄爲天皇(蘇我臣入鹿深忌上宮王等威名振於天下獨謨僣立)。

[同年11月11日]

蘇我臣入鹿遣小徳巨勢徳太臣。大仁土師娑婆連。掩山背大兄王等於斑鳩(或本云。以巨勢徳太臣。倭馬飼首爲將軍。)

 

「訳文」

(皇極天皇2年10月12日)蘇我臣入鹿は、まさに上宮王等を廃し、古人大兄を(次の)天皇に立てようと一人で謀る(蘇我臣入鹿は上宮王等の威名が天下に振るう事を深く嫌って、一人で僣立をはかる)。

(同年11月11日)。蘇我臣入鹿、小徳巨勢徳太臣と大仁土師娑婆連を遣わして、山背大兄王等を斑鳩に不意に襲わせる(ある本には、巨勢徳太臣と倭馬飼首を将軍に為すと言う)。

 *ここでは、入鹿の「獨(独りで)」が強調されるが、これは独りでできることでは無い。

 

「語注」

【11月11日】:原文は「十一月丙子朔(1日)」とあるが、これでは闇夜となるので、「補闕記」で補えば「十一月丙子朔“丙戌”(11日)」が正しいであろう。

【上宮王等】:上宮太子の王(みこ)たち。

古人大兄】:ふるひとのおほえ。舒明天皇の長男。母は蘇我馬子の娘の法提郎女媛。

巨勢徳太】:こせのとこだ。次の孝徳天皇の時代には左大臣。

【土師娑婆】:はじのさば。この時に戦死。

【掩(エン)】:不意に襲う。「襲撃」(漢典)。

【山背大兄王】:やましろのおほえのみこ。上宮太子一族の家長的存在。

 

2『藤氏家伝』の記述

「原文」

本天皇二年冬十月。宗我入鹿與諸王子共謀、欲害上宮太子之男山背大兄等曰「山背大兄吾家所生、明徳惟馨、聖化猶餘(中略)方今天子崩蕩、皇后臨朝、心必不安。焉无乱乎。不忍外甥之親、以国家之計」。諸王然諾。

 

「訳文」

後の岡本宮の天皇の二年冬十月。宗我入鹿と諸王子は共謀し、上宮太子の息子の山背大兄らを殺害することを欲して曰く「山背大兄は吾が家に生まれるも、明徳はこれ(世に)かおり、聖化はなお余りあり(中略)まさに今、天子が崩御し、皇后が朝廷で国政を執るが、(皇后の)心は全く安からず。どうして乱が無いであろうか(必ず乱れる)。外甥の親しみを忍ばずして、天皇の計画を用いる」と。諸王は承諾した。

 *ここでは、入鹿が、この計画は、天皇の意向である事を諸王に言い、諸王はそれを承諾した事を述べる。

 

「語注」

【害】:殺害する(動詞)

【男】:むすこ(息子)。

【後崗本天皇】:後岡本宮天皇(皇極天皇)

【明徳惟馨(メイトクイセイ)】:「明徳」は「りっぱな徳」。「惟(イ)」は「これ」で強調を表す。「馨(ケイ)」は「かおる」で「良い影響や評判が伝わるさま」(以上、学研漢和大字典)

【臨朝(リンチョウ)】:皇后が朝廷で国政を執ること。「特指皇室女性親臨朝廷處理政事<皇室の女性が自ら朝廷で政治を処理することを特に指す>」(漢典)。「太后臨朝稱制<太后は朝廷で天子の政務を執る>」(漢書・高后紀)

【焉(エン)】:いずくんぞ。どうして。疑問や反問を表す。

【外甥(ガイセイ)】:他家にとついだ姉妹がうんだ男子(おい)。

【国家】:抽象的概念だが、具体的には国の主権者を指し、当時の日本では天皇を指す。「名例律」に「謀犯(むほん);謂謀危“国家”。(注)不敢指斥尊号、故託云国家」と言う。

【然諾(ゼンダク)】:承諾する。

 

3上宮聖徳太子傳補闕記』の記述、

「原文」

癸卯年(皇極二年)十一月十一日丙戌亥時。宗我大臣入鹿、致奴王子兒軽王、巨勢徳太臣、大伴馬甘連公、中臣塩屋枚夫等六人、発悪逆至計、太子子孫男女廿三王無罪被害。

 *原文では「巨勢徳太臣」だが「巨勢徳太臣」であろう。同様に原文では「大臣大伴馬甘連公」とあるが「大臣」は衍字であり、「大伴馬甘連公」であろう。

 

「訳文」

癸卯年の十一月十一日丙戌の亥時(午後10時頃)。宗我大臣ならびに入鹿、致奴王子の子の軽王、巨勢徳太臣、大伴馬甘連公、中臣塩屋枚夫等の六人は、悪逆の至計をあらわし、太子子孫の男女二十三人の王(みこ)は、罪無くして害を被る。

 *ここでは、宗我(蝦夷)大臣と入鹿、軽王、巨勢徳太臣、大伴馬甘連公、中臣塩屋枚夫らの六人による計画だと言う。

 

「語注」

致奴王子】:茅渟王。皇極天皇の父親

軽王】:軽皇子(かるのみこ)。皇極天皇の後の孝徳天皇。

 

太子一族の滅亡

ここからは『日本書紀』が詳しく述べていますのでそれに沿っていきます。

斑鳩宮襲撃が成功したと思っていた蘇我入鹿に、恐れていた知らせがもたらされたのは、襲撃の数日後である。山背大兄王らは難を逃れ、膽駒山に潜伏して生きていた。それを「入鹿聞而大懼<入鹿は聞いて、おおいに恐れる>」と記します。

では入鹿は何を恐れたのか、それは、山背大兄王らに付き従った三輪文屋君の言に依れば、「請移向於深草屯倉(ふかくさのみやけ)、從茲乘馬詣東國、以乳部(みぶ)爲本(本隊)、興師還戰、其勝必矣」と、体制を整えられ、反撃されれば勝ち目が無いことを知っていたのではないか。これは、山背大兄王の側には、「王権」とは別個の信仰を中心とした求心力が、特に東国に有ったことをものがたるものと思います。

もし仮に、ここで三輪文屋君の進言通りの行動を起こしていれば、後の「壬申の乱」の様な「天皇勢力」と「王子勢力」との大乱が発生していたかもしれません。しかし、それは起こらなかった。山背大兄王は信仰心から多くの人民を巻き込む「戦乱」を回避するため、自らの身を犠牲(捨身)にすることを選択します。

『日本書紀』では、次の様に太子一族の最後を記述します。

 

「原文」

於是山背大兄王等自山還入斑鳩寺。軍將等即以兵圍寺。

於是山背大兄王使三輪文屋君謂軍將等曰「吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故不欲残害百姓。是以吾之一身賜於入鹿」。

終與子弟妃妾一時自經倶死也。

 

「訳文」

ここで、山背大兄王らは山より斑鳩寺に還り入る。軍將らは、すぐに兵をもって寺を囲む。

ここで、山背大兄王は三輪文屋君を使って軍將らに言わせて曰く「われが兵をお越し、入鹿を伐てば、その勝ちは必定なり。されど、一身の都合によって百姓を残害することを欲せず。これをもって吾が一身は入鹿に賜う」と。

終に、子弟・妃妾ともに、一時に、自ら首を吊り、ともに死す。

 

「語注」

【軍將(グンショウ)】:軍中の主將。「軍中的主將」(漢典)

【定(ジョウ)】:必定。 【残害(ザンガイ)】:傷つけて殺す。 【子弟(シテイ)】:子供や弟。 【妃妾(ヒショウ)】:妃や側室 【經(ケイ)】;「経」。首を吊る。

 

ここで上宮太子の一族は、捨身的行為で、殉教的存在となり、上宮太子は聖人となって、「聖徳太子」と呼ばれ、信仰の対象へと昇華した様に思えます。

法隆寺所蔵の国宝「玉虫厨子」には、薩埵(サッタ)太子が、飢えた虎の親子に身を投じる「捨身飼虎図(シャシンシコズ)」が描かれます。

 *【薩埵(サッタ)太子】:釈迦の前世。

 

 漢語語法に関して参考にした主な図書

遣隋使、遣唐使の時代は、中国文明による文明開化の時代で、その当時の公的記録文書は、外国語の漢語漢文に翻訳された文章と言えましょう。その為、各種史料を読み解くためには、古漢語の「漢語語法(漢語文法)」を知る必要があると考えます。

 

<邦文>

松岡栄志・吉川裕監訳『現代中国語総説(邦題)』(三省堂、2008年)

沖森卓也・蘇紅編著『日本語と中国語』―日本語ライブラリー(朝倉書店、2014年)

鳥井克之著『中国語教学文法辞典』(東方書店、2008年)

鳥井克之著『中国語文法入門』(東方書店、1988年)

洪誠著、森賀一恵・橋本秀美訳『訓詁学講義』(原題;訓詁学)アルヒーフ、2003

鮑善淳著、増田英次訳『漢文をどう読みこなすか―中国古典入門叢書X』(原題;怎様閲読古文)日中出版、1986

鈴木健一編『漢文のルール』(笠間書院、2018年)

 

<中文>

章錫琛校注『馬氏文通校注』(中華書局、1988年)

楊樹達著『高等國文法』(上海古籍出版社、2007年)

王力主編『古代漢語』(中華書局、1981年)

兪樾・楊樹達等撰『古書疑義挙例等七種』(世界書局、1992年)

孫常叙著『文言語法』(上海古籍出版社、2016年)

郭在貽著『訓詁学―高等院校教学用書』(中華書局、2005年)

南開大学中文系語言学教研組編『古代漢語読本』(人民教育出版社、1960年)

(同書の翻訳書;池田武雄訳『中国古典語読法』京都府立大学中国文学研究室

『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館、2012年)