「紀年論」2018.12.04

 

 倉西祐子氏の『日本書紀の真実-紀年論を解く』(講談社選書メチエ270・2003年・P.21)から、彼女の「紀年論」の定義を抜粋すると、「『書紀』の編年の構造を解明し、史実に基づいた紀年と実年代との関係を再構築していこうとする学問領域の事です。」と言われるが、『日本書紀』の「紀年」を対象とする限り、この時点で学問として成り立ちにくい。なぜなら、『日本書紀』の暦日は架空の長暦による後付であり、少なくとも、紀年の概念が乏しい雄略以前に(「古事記」の記述は、天皇の事跡に年月日は付されない)、数百年の後から、そこに暦日を付けていくと言うことは、デマに等しい年紀となる。それに付随する“天皇年紀”も同様である。

  彼女は「応神紀三年条」に書かれる百済の「阿華王」の即位記事から(「阿華王」の即位は「三国史記」等から西暦392年)、<「応神天皇三年」=「阿華王即位」=392年>という関係を想定するが、「阿華王即位」や「392年」が正しくとも、「応神天皇三年」の「三年」がデマなら、この等式は成り立たない。「記紀」の記事では、応神天皇の生誕は「神功皇后」が朝鮮半島へ出兵した年と言う。つまり、好太王碑の辛卯年の331年にあたる。もし、この辛卯年を通説に従って391年とすると、応神天皇即位元年は「胎内即位」となり、392年は、応神天皇が二歳の年となってしまう。『日本書記』の暦日や天皇年紀による「紀年論」が、如何に虚しいものかおわかりになろう。